精霊の森に魅入られて

丸井竹

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63.未熟な二人の第一歩

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ロタ村にあるアルノの家には、クシールとゼインの姿があった。

二人の間には、アルノが森で宣誓液を作っている間にクシールが急ぎ取り寄せた、アーダン国に関する極秘の書類が置かれている。

「これは……大変な事態だ。アーダン国の王太子妃候補のうち、条件を満たせた候補者は一人だけしかいなかった」

クシールは人差し指で、書類の上をとんとんと叩いた。
それはアーダン国の王太子妃候補者の名簿で、クシールの指し示している場所には、確かにアルノの名前が記載されていた。

「つまりアルノ一人が、正式にユアンジール王太子の婚約者に選ばれたということか?」

他の女性達の名前の欄には、脱落の印が押されている。
それなのになぜ戻ってきたのかと不可解な顔で、ゼインは書類から目を背ける。

「優しそうな男に見えたのに、彼女を山に放り込むとは、あまりにも非情だ」

憤りを見せるゼインに、クシールは冷笑した。

「精霊とは慈悲深い存在ではないぞ。森の中では常に弱肉強食の戦いが繰り広げられている。
そうした残酷な戦いを、精霊たちは冷やかに眺めている。その中で生き抜く覚悟無しには加護を得ることは出来ない。
ユアンジール王太子は伝統を重んじる王と聞いている。
しかし、時代だろうな。そうした過酷な風習はすたれていくものだ。
贅沢に慣れた貴族の姫君たちには難しい試練だっただろう。その中で、アルノは簡単に試練を乗り越えた」

「そうだろうな。アルノは森に入れば死なないと確信している」

面白くもなさそうにゼインは言って、背もたれに逃げて腕組みをした。
クシールはテーブルの書類を折り畳み、席を立つと、あっさり暖炉の中に放り込んだ。
書類が燃え尽きたのを見届け、再び席に戻る。

「アーダン国で精霊に最も愛されていると認められたアルノが、罰を受けることはないが、王太子妃として子供を生むことを強く望まれている」

子供が苦手なゼインには、あまり考えたくない話だった。

「子供が欲しければ、その王太子の子供を身ごもればいいじゃないか」

「それが出来なかったから、戻ってきたのだろう。猶予は一年だ」

「一年?」

早くその理由を話せと、促すようにゼインが顎をあげる。

「ユアンジール様は、祖国に戻りたいと訴えたアルノに条件を出した。一年以内に、彼女がお前の子供をみごもれば、アーダン国に戻って来なくても良いという条件だ。つまり、お前の子供を身ごもることが出来なければ、彼女はまたアーダン国に戻らなければならなくなる」

「なぜ?そんなことに……」

優雅な仕草で、クシールは顎に指を添えた。

「一国の王太子が妻にするつもりで連れて帰った女性を、無条件に返すわけにはいかない。恐らくアルノから帰りたい事情を聞き、急ぎの求婚だったことを考慮し、妻になるかどうかを決めるための猶予をくれたのだ。
アルノの恋が成就すれば、その時は潔く諦めると約束したらしい。恋が成就しなければ、アーダン国に戻るとアルノも約束した。しかし、彼女はここに戻りたがっている」

「だからといって子供は……クシール、お前は?お前は彼女を手放したくはなかったはずだ」

「問題をすり替えるつもりか?アルノが欲しいのはお前だ。ゼイン、彼女はお前の子供が欲しいから戻ってきた。やはりというか、アルノはまだまだ子供だ。
人に助けを求められるようになっただけでも、ましになったと言える。
アーダン国で子供を産めば、乳母が付くだろうが、あんなに堂々と子育てを人に任せようとする王太子妃では、あっという間にぼろがでる。
他国の王太子を失望させることになるだろうな。まだここでお前の子供を産んだ方がましだ。
ここでなら、彼女の未熟な部分を補ってやることができる」

ゼインはふてくされた態度で横を向く。

「俺達は……」

「待て。お前まで子供に戻るつもりか?」

淡々とした表情も穏やかな口調もやめ、クシールは内なる刃を剥き出しにしてゼインを射るように見た。

「過去の話を蒸し返すのはよせ。ゼイン、これはお前の問題だ。俺も、もうお前を甘やかすのは止めるぞ」

語尾を荒げ、椅子を立ったクシールは、断固とした態度で外套を取り上げる。

「お前の背中があったから、俺はここまでたどり着けた。お前は俺達の希望であり、あの地獄を生き抜いた英雄だ。だけど、今のお前は初めて出会った時のアルノと同じだ。子供は二人もいらない」

扉に手をかけたクシールが、ぴたりと動きを止める。

「ゼイン、お前は聖騎士としても世話人としても優秀だ。しかし一人の男としては、アルノと良い勝負だ。いい加減、乗り越えろ」

鋭く吐き捨て、クシールはさっさと家を出た。


一人になったゼインは、重いため息をつき、テーブルに置いた自分の握りこぶしに視線を移した。
鍛えられ、分厚くなったその拳にも、たくさんの小さな傷が残っている。

その手に幼い頃の自分の拳が重なった。
ベッドの上を何度もたたきつけ、逃げようともがいた地獄のような日々を思い出す。

もし、自分にそっくりな子供が生まれたら、自分の幼少時代を思い出さずにいられるだろうか。
もうどうやっても助けられない自分の姿と重なって見えてしまえば、生きながら殺されていく自分を、ただ見ていなければならなくなる。

何度復讐しても満たされることのない飢えを、沸き上がる血の衝動を、どうやって抑えていけばいいのかわからない。
過去の自分を消してしまいたい衝動のままに、自分の子供を殺してしまうかもしれない。

アルノもきっと、生まれてきた子供を見るたびに、竹鞭で叩かれ、泣いていた自分を思い出すに違いない。
生まれた子が、周囲の人たちに愛され、大切に育てられでもすれば、救ってもらえなかった幼少時代の恨みを思い出し、子供に嫉妬するかもしれない。

竹鞭はまだこの部屋に残っている。
なぜ捨てないのか、ゼインにはわからないが、アルノがそれを見て悲しそうな顔をしたことはない。
怒りと憎しみが悲しみを凌駕しているからだ。

それなのに、なぜ子供を欲しがるのか。

表の扉が鳴った。
クシールが戻ってきたのかと顔をあげ、さっと顔色を変える。

夕闇に染まった空を背景に、アルノが立っていた。

「俺は少し見回りに行くよ」

アルノの後ろからニルドの声がして、足音が遠ざかる。
さっきまでニルドと二人でいたのだと思うと、ゼインの心が小さくざわめいた。

椅子に座った姿勢のまま、ゼインは完全に表情を消し、アルノと目を合わせた。
友好的とは言い難いゼインの態度にひるむことなくアルノは家に入ると、静かに扉を閉めた。

外套を脱ぎ、それを丁寧に壁のフックにかける。
それから、ゼインの向かいの席に座った。

「ゼイン、私と寝たい?」

真っすぐな眼差しに、ゼインが怯んだ。

「今はそういう話では……」

アルノが立ち上がり、テーブルに置かれたゼインの拳に右手を重ねた。

「私はゼインと寝たい。ゼインは?」

複雑な事情も感情も関係なく、ただ単純な問いを投げかけてくるアルノの目を見て、ゼインは妙な気持ちを覚えた。
その目は、なぜか人の事情も知らず、自由気ままにやってくる雪狼のそれと重なって見えた。

不意に現れ、去っていく雪狼は、孤高の存在だ。
敵対もしないが味方でもない。

ただそこにいることを認めてくれるだけの存在だ。

アルノもまた、そんな目をしている。

なぜアルノが精霊に愛されているのか。
精霊は本当にいるのか、いくら考えても、その答は出ない。
同じように、いくら考えても、自分が父親になれるのかどうかもわからない。

答の出ない問に、何年も苦しめられるぐらいなら、試してみるしかないのかもしれない。
精霊がいるかどうかはどうやっても確かめられないが、父親になれるかどうかは、試してみることが出来る。

クシールの言葉が頭に過った。

――ここでなら、彼女の未熟な部分を補ってやることが出来る……

それはゼインにも言えることだ。
父親として未熟な部分を、誰かが補ってくれる。
そう信じることが出来るならば、一歩踏み出せるのかもしれない。

人を信じられない者同士だったのに、アルノは人に頭を下げた。

それを思い出し、ゼインは立ち上がった。

「ユアンジール様に、君との関係を聞かれた時、契約結婚だったと答えたのは……君の幸せを考えたからだ。俺は普通の幸せを知らない人間だ。まともな夫にはなれない。ユアンジール様と一緒に行った方が、君が幸せになれると思った」

ようやく明かしたゼインの本音に、アルノはかすかに微笑んだ。

「残念ながら、私もまともじゃないの。性格も悪いし、いやらしい妄想ばかりしているし、それに、大人になる気もなくなっちゃった。そこはクシールに任せることにする」

ふっとゼインも笑った。
二人ともクシール頼みだったのだ。

どちらからともなく、二人はテーブルを回って歩み寄った。
それから手を繋ぎ、寝室の方を向いた。

男らしく、ゼインが一歩を踏み出し、その後をアルノがついて歩き出しす。
アルノが少しだけ伸びあがってゼインの耳に囁いた。

「ねぇ、その前にお風呂に入りたい。五日間も洞にいたのよ?私にだって恥じらいぐらいあるんだから」

懐かしいアルノの砕けた口調に、ゼインは頬を緩め、片手を伸ばしアルノのお尻を抱き寄せた。



一年も空白の期間があったとは思えないほど自然に、アルノは契約師としての日常に戻った。
森に通い、宣誓液を作ってはロタ村の家に戻ってきて契約紙を仕上げる。
二日ほど休息し、ゼインと愛し合うと、また森に出る。

以前と大きく変わったことはなかった。
ただ、その淡々とした日常は、ある男の気持ちにわずかな変化をもたらした。


それは冬に差し掛かるころだった。

アルノは久しぶりにロタ村を見下ろす斜面に上がり、横に張り出した枝に座って足をぶらつかせていた。
そこに、背後から足音が近づいてきた。

枝が大きく揺れ、隣に誰かが座った。
横を向くと、そこにゼインの姿があった。

少しだけ顔を赤くし、無理やり前を向いている。

「ニルドに……場所を聞いた。俺も座っても良いか?」

「もう座っているじゃない」

小さく噴き出し、アルノは隣に座ったゼインの手に、自分の手を重ねた。

アルノが戻ってきて以来、ゼインは可能な限りアルノの傍にいるようになった。
ニルドに警護を任せ、外に出ることも多かった以前のゼインとはまるで別人で、アルノを片時も放そうとしない。

家出を心配しているのか、それとも今度こそ世話人の仕事を全うしたいのか、アルノにはわからなかったが、その心理を追求しようとは思わなかった。

「ここはニルドとの思い出の場所なのよ?」

嫌がって帰るのではないかとアルノは思ったが、ゼインはまた少し距離を詰めた。

「まだ、ニルドに未練があるのか?」

「まさか。とっくに振られているし、今は、ゼインが好きだと言っているじゃない」

愛とは言わなかったアルノを見て、ゼインはお尻をずらし、またアルノに近づいた。

「アルノ、聞いてほしいことがある」

「何?」

「返事はいらない。ただ聞いてほしい」

アルノは素直に頷いた。

「俺は……君と一緒にいたい。いつか君は契約師ではなくなるかもしれない。だけど、その時は俺も世話人ではなくなる。つまり、その時は、俺は君のただの夫になる。俺達は、きっと普通の夫婦になれる」

「普通?」

アルノがゼインの方を向く。
ゼインは前を向いたまま、ゆっくり縦に頷いた。

昔は普通の幸せに憧れを抱いていたが、今は自分にはあてはまらない幸せだとわかっている。
それはゼインにとっても同じはずだ。

普通の幸せなんて、きっと望んでいない。
それでも、アルノのために普通の幸せを目指してみようとゼインは思ったのだ。

アルノは前を向き、豊かなノーラ山の景色を眺めた。
小さな集落の跡地や、ふもとに続く馬車道が、自然の中に見え隠れしている。
そこには精霊たちと共存しようとする人々の、素朴な暮らしがある。
しかし、その二つの世界は決して混ざり合うことはないのだと、アルノはもう知っていた。

ちらりと横を向くと、ゼインはまだ緊張した面持ちで意地を張っているかのように前を向いている。

その強張った頬を見上げ、アルノはくすりと笑う。

「契約師でなくなった私と仲良くしてくれる人なんて、ニルドぐらいしかいないと思っていた」

またニルドなのかと、ゼインは嫌な顔をした。

「俺に昔の仕返しをしていないか?」

疑うように目を細めるゼインを仰ぎ見て、アルノは少し意地悪な笑みを返す。
ゼインが素早く腕を伸ばし、アルノを引き寄せると、強引に唇を重ねた。
舌を軽く絡め、柔らかな感触を味わうと、そっと唇を離す。

「そんな勝ち気なところも、それから、ちょっとだけ意地悪なところも俺は気にいっている。昔のことは……すまなかった」

早口で告げたゼインを真っすぐに見上げ、アルノはただ黙って微笑んだ。
二人は手を繋ぎ、また正面を向く。

赤焼けた空が夜空に変わり、一面に星が瞬くまで、二人はそうして座っていた。


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