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60.夢のような未来
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馬車に乗せられたアルノは、窓から外を一度も見ることなく祖国であるトレイア国を後にした。
隣には神秘的な美貌を持つユアンジールが座っており、その手はアルノの手を優しく包み込んでいる。
身に着けている豪華なドレスを見下ろし、アルノは夢のようなその状況を理解しようとしたが、途中であきらめた。
煌びやかな内装の馬車内にいると、現実か夢なのか確かめる術さえない気がしてくる。
「アルノ、退屈ではないか?」
ユアンジールの優しい声に、アルノは顔をあげ、またぽやんとその美貌に見惚れた。
まさにユアンジールの姿そのものが一番現実からかけ離れている。
「アーダン国の人たちは、その、ユアンジール様のように美しい方ばかりなのですか?」
周りが美形だらけだったとしたら、アルノは完全に浮いてしまう。
普通の容姿の人も多めに配置してもらわなければ、あまりにも惨めな状況になりそうだ。
アルノにとっては切実な質問だったが、ユアンジールは小さく噴き出した。
「それだけたっぷり精霊の加護を受けていながら、君は外見を気にするのか?君は精霊師達の目からは金色に輝いて見えるだろう。そして、私の目からはもっと純粋な心が見えている」
善人ではないと自覚のあるアルノは、心を隠すかのように、宝石の粒が散りばめられた無駄に豪華なショールの胸元をぐっと引き寄せた。
「確かに、生身にも少し関心はある」
ユアンジールの視線がちらりと女性らしい膨らんだ胸に向くと、アルノは少しほっとした。
生身の男らしさを全く感じないユアンジールと、本当に男女の仲になれるのか心配だったのだ。
「ユアンジール様は……口づけをしたことがありますか?」
「毒の口づけならね」
その目には暗い刃のような光が宿る。
国を奪われ、取り返したユアンジールは、勇敢な戦士でもある。
トレイア国に侵攻していたガルバン国を背後から襲い、ガルバン国に味方したアーダン国の裏切者をその手で排除したのだ。
冷酷さを垣間見せたユアンジールの姿に、アルノは緊張を解いた。
完全な善人なんて胡散臭いだけだ。
「ユアンジール様……。私は……世間知らずの子供だと言われたことがあります。甘えていて、いつも自分の不幸の責任を押し付ける相手を探して怒っている……。
その通りかもしれない。でも、それ以外の生き方を知らないし、自分がどうしたらいいのかわからない」
ユアンジールの優しい雰囲気にのまれたのか、自分のことを全く知らない他人故の気安さなのか、アルノは自分でも不思議なほど、素直に心の内を吐き出していた。
大粒の涙を浮かべるアルノを、ユアンジールは優しく引き寄せ、見た目からは想像も出来ないような強い力でアルノをひょいっと持ち上げ、膝に乗せた。
「なぜ、他人の辛さとあなたの辛さを比べる必要がある?誰と比べてなんて、考える必要はない。君の辛さは君だけのものだ。君の痛みは、他人の痛みと比べられ、無視されるべきものではない。癒されるべきだ」
あふれるアルノの涙を指で拭いユアンジールは優しく語り掛けた。
「子供時代をやり直してもいいし、ずっと子供のままでいてもいい。私は、今の君のままで何の不満もない」
全てを受け入れてくれる優しすぎる言葉に、アルノはすっかり感動し、ついにぼろぼろ泣き出した。
ユアンジールに背中を撫でられながら、アルノは憧れてきたロタ村の光景を思い出した。
転んだ子供を助けあげる誰かの手、抱きしめ、大丈夫だとあやす母親の声。
そんな温かな光景に自分も入れるとずっと信じていた。
ニルドがアルノに向けてくれた真っすぐな眼差しと、垣根のない笑顔は、そんな希望をアルノに抱かせたのだ。
だけど、そんな日は訪れることなく大人になり、遥か昔に抱いた夢は、砂のように指の間をこぼれ落ちていってしまった。
「私なら、君を甘やかし、癒してあげられる」
それなのに、異国からやってきた王太子が、諦めかけていた世界にアルノを引き上げてくれたのだ。
優しいユアンジールの腕に身をゆだね、思う存分涙を流しながら、アルノはとんでもないことになったと考えた。
願い続けてきた夢が、本当に全てかなってしまったのだ。
仕事もしなくても良いし、お金にも困らない。
自分を甘やかしてくれる王子様がいて、将来の不安も消えた。
ノーラ山を逃げ出してやろうと思ってきたのに、誰に叱られることなく異国の地にまで来てしまった。
窓の外にはもう見たことがない景色が広がっている。
ノーラ山にいた時は、誰にも会いたくなかったのに、不思議と親しくもなかった人たちの顔が頭に浮かび始めた。
強姦魔だったニルドの屈託ない少年の顔。
爆発するほどの怒りを抱え、苦痛に顔を歪めながら獣のようにアルノを抱いていたゼインの汗に濡れた顔。
嫌味なぐらい淡々としたクシールの嘘臭い微笑み。
意地悪なのに、時折歪んで見えたハンナの顔。
家族の命を背負い、仕事を奪われまいと真摯に働いていた元ロタ村の住人達。
それから、残忍さと無邪気さを併せ持つクレンとカーラ。
ひねくれた手に負えない少年に見えたが、背中にカーラを庇って立ったクレンはもう男の顔だった。
カーラもまた、言葉を失うほどの経験をしたのに、少しずつ明るい笑顔を取り戻していた。
もしアルノが引き取らなければ、クレンとカーラもゼインとクシールのように地獄のような道を突き進んだのかもしれない。
子供時代もなく大人になったゼインとクシールは、今もその道で戦い続けている。
手を血で染め、信念を貫き、自分で道を切り開いたのだ。
思い浮かぶ顔はたくさんあるのに、結局、アルノは誰のことも砂粒ほども信じたことはなかった。
好きだったニルドも愛があると思ったゼインも、引き取ったクレンとカーラのことさえ、いつかは自分から去っていく人だと思っていたし、心が繋がる相手とは思えなかったのだ。
このまま誰とも会えなくなっても、後悔はしないかもしれない。
アルノはノーラ山で過ごしてきた一人ぼっちの日々を思い出した。
耳まで凍えそうな冷たい風の中、かじかむ指で雪を掘り、クスリの実を探す。
冷え切った石うすを回し、指が汚れるのも構わずマカの実を潰す。
仕上がる寸前の契約紙に、間違って宣誓液が垂れてしまった時の絶望感。
飢えや寒さと戦い、死を覚悟しながら森の中をさまよい歩く日々。
子供時代を取り上げられ、愛もなく、押し付けられてきた大嫌いな仕事。
それなのに、繰り返されてきた森での日々がもう二度と戻らないのだと思うと、本当にそれで良いのか、わからなくなってくる。
「ユアンジール様……」
「うん?」
優しいその声に心まで奪われそうになりながら、アルノは涙を拭い、甘えるようにその胸に顔を埋めた。
――
澄み切った空に、細切れの雲が流れて行く。
手を伸ばせば届きそうなその空を眩しそうに見上げ、アルノは大きく白い息を吐き出した。
アーダン国の森は見た目以上に険しく、森も深かったため、山頂に到達するまでに二か月もかかった。
後ろを振り返っても、ふもとはおろか抜けてきた森さえも見えない。
「さすがに空気も薄いのね……」
精霊大国であるアーダン国も甘いだけの世界ではなかった。
王族に入るには、必ず乗り越えなければならない試練があった。
精霊に愛されていることが婚姻の条件であり、姿の見えない精霊に愛されていると証明するために精霊の山と呼ばれる聖なる山に一人で入り、山頂にある精霊の木の雫を汲んで来なければならなかったのだ。
あっさり目的の物を手に入れたアルノだったが、岩の上に腰を下ろし、物言わぬ景色を眺めていると、やはり本当に精霊なんてものがいるのだろうかと考えてしまう。
精霊の木とはいえ、それは岩陰に隠れるように生えている小さな植物であり、ちょっと珍しい銀色の葉っぱに露を滴らせているだけのものだった。
それを小瓶に入れてしまえば試練は終了だ。
こんなに簡単に王族と結婚出来てしまっていいのだろうかとアルノは考えた。
森には多くの命が息づいており、食べるものはあるし、罠をしかければ獣も取れる。
子供の頃から鞭で叩かれ、口に入るものなら何でも食べてきた人ならば、こんな試練は楽勝だ。
もちろん、精霊に受け入れられたとしても、王族から求婚されなければ王族にはなれないが、既にユアンジールから求婚されている身だ。
それなのに、結婚するよりここに居た方が幸せなのではないかと考えてしまう。
「もう、このままここに住んじゃおうかな……」
アルノはごつごつした岩の上で仰向けになり、空を見上げた。
アーダン国にやってきてすぐに、聖なる山の試練について聞かされたアルノは、その日のうちに山に入った。
大勢の人々に歓迎されたが、アルノには居心地が悪かったのだ。
こんなに人に対し不信感いっぱいの性格になった全ての原因は、ニルドのせいだとアルノは思った。
片思いが成就していれば、アルノの気持ちは満たされ、不満ばかりの人生にはならなかったはずだ。
強姦までしておいて、逃げるなんてあんまりだ。
しかも、そんな告白をしておきながら、今は好きじゃないなどとのたまうのだ。
吹き付けてくる風に向かって、アルノは大きなため息をついた。
それなのに、不思議とニルドを恨む気にはなれない。
良くも悪くも嘘の付けない性格であるから、ニルドに悪意があったとはやはり思えない。
子供だったという一言では片づけられない複雑な心境ではあるが、思い出すのはアルノに向けられる真っすぐな笑顔ばかりだ。前のような恋愛感情はとても抱けないが、嫌いにはなれない。
ゼインのことはどうなのかと考えると、それもまた整理しきれない感情が待ち受けている。
ニルドの次に好きになった人とも言えなくもないが、その始まりはあまりにも打算的なものだった。
ゼインの目的は契約師に仕事をさせることであり、アルノの目的は周囲に対して見栄を張ることだった。
さらに妄想で高めた性欲を満たすためでもあった。そこだけはゼインと気が合った点だと思えるが、二人の間に愛があったのかどうかはわからない。
お互いに人間不信であり、幼少時代の辛い経験のせいでひねくれていた。
獣のような衝動を隠し持つゼインは、悪魔のように残忍な一面を持つ。
アルノは誰かと親しくなりかけた途端、相手を信じられず心を閉ざしてしまう。
似た者同士とも言えなくもないが、互いになれ合いを恐れているのだから簡単にくっつける相手でもない。
そうなると、アルノの周りで一番ましな男といえばクシールだけだ。
いつも変わらぬ態度でアルノに接してくれた、意地悪な僧侶であり、アルノを利用することしか考えていなかった。
感情を隠し、胡散臭い笑みばかり浮かべていたが、目的が明確なところは嫌いではなかった。
結局、わざと親しくなろうとしてこないところが、アルノには心地よかったのだ。
それを言うなら、ロタ村の人たちとの関係も、それほど悪くはなかった。
利用し、利用される関係だと割り切れていたから、仲良くなる必要もなく気楽なものだった。
「うーん……」
アルノは空を睨みつけた。
考えれば考えるほど、自分が求めてきたものがわからなくなる。
ロタ村で見た愛の営みや、幸せな家族の光景、のどかな暮らし、そんなものに憧れてきたが、孤独であることに困ったことは一度もない。
自分が本当にいたい場所はどこなのか。
選べるとしたら、自分は何をしたかったのか。
誰かの辛さと自分の辛さを比べる必要はないとユアンジールは言った。
だとしたら、幸せだって比べられるものではないのかもしれない。
当たり前に幸せだとされていることが、自分にとって幸せだとは限らないのだとしたら、自分の幸せは自分で探すしかない。
「私が欲しいもの……」
ゼインが結婚生活に不満を抱いていることに気づけなかったのは、アルノが身勝手な理想にしがみついていたからだ。
ユアンジールとだったらうまくいくのかと考えてみると、それも違う気がする。
全てを受けとめると言ってはくれたが、アルノが精霊の加護を得ていなければ、そんな話にはならなかっただろう。結局は条件付きの結婚だ。
それでも、今までの生活よりはきっとずっと良くなる。
贅沢もし放題だし、小言も言われないし、浮気の心配もいらないし喧嘩もない。
時折、ふらりと現れる大きな雪狼のことが頭に過った。
名前も知らず、顔を合わせて、ただ少し一緒にいて、何の約束もせずに別れる。
この世界で一番、一緒にいて心地良い相手だ。
性行為がしたいかどうかはまた別だが、その距離感は心底心地よかった。
身勝手に吹き付けてくる風も、冬が終わると勝手に増えてそこら中を流れ始める雪解け水の川も、庭を荒らしに来る獣も、早朝からうるさくさえずる鳥たちも、森にある全ての命が、アルノにとって丁度よい距離にあった。
「精霊に愛されているのではなくて、たぶん、精霊たちにとって、私は邪魔にならない人間だというだけのことじゃないかしら」
相手に対し無関心と見せかけながら、拒むことなく傍にいることを許してくれる存在。
心で繋がる必要のない相手だ。
ゼインの傷ついた顔が頭に浮かんだ。
子供を欲しくないと言い切ったゼインは、ちゃんと現実を見据えていた。
一時の快楽に流され、話し合うのが面倒だからと切り捨てた言葉ではなかったのだと今になってようやくわかってきた。
アルノは誰かに自慢できるような普通の幸せが漠然と欲しかっただけだ。
それでも、ゼインと子供を持つと考えた時は、少しだけ楽しみだった。
「私って最低ね……」
人のあら捜しばかりして、いつも誰かに腹を立ててきたが、自分だって人を責められるような立派な人間じゃない。
考え無しに人の幸せを羨ましがり、自分の理想の結婚生活をゼインに押し付けようとした。
対等な夫婦でありたいと思いながら、自分が傲慢であることに気づかなかった。
当たり前の幸せを求めないとしたら、アルノにとっての幸せとは何なのか。
山にひきこもり、自堕落に暮らすことも悪くない。
あの森に戻れば、アルノはとりあえず誰にも会わずに生きていけるだろう。
そう確信できるし、何度も森から出ない選択肢についても考えた。
誰も好きじゃないし、誰も信じていない。結局、誰に対しても心を開くことは出来ない。
それなのに、なぜ宣誓液が完成するたびに家に戻ってしまったのか。
吹き付ける強い風の中に、ここにはいない誰かの声が混ざり込む。
まるでアルノを引き止めるかのように、心の中から響くその声は、アルノの名前を呼んでいた。
――アルノ……
澄み渡る青空の向こうに、その人の姿が蘇る。
見知らぬ広大な風景を瞳に写しながらも、アルノは心に浮かぶその姿をじっと見つめていた。
隣には神秘的な美貌を持つユアンジールが座っており、その手はアルノの手を優しく包み込んでいる。
身に着けている豪華なドレスを見下ろし、アルノは夢のようなその状況を理解しようとしたが、途中であきらめた。
煌びやかな内装の馬車内にいると、現実か夢なのか確かめる術さえない気がしてくる。
「アルノ、退屈ではないか?」
ユアンジールの優しい声に、アルノは顔をあげ、またぽやんとその美貌に見惚れた。
まさにユアンジールの姿そのものが一番現実からかけ離れている。
「アーダン国の人たちは、その、ユアンジール様のように美しい方ばかりなのですか?」
周りが美形だらけだったとしたら、アルノは完全に浮いてしまう。
普通の容姿の人も多めに配置してもらわなければ、あまりにも惨めな状況になりそうだ。
アルノにとっては切実な質問だったが、ユアンジールは小さく噴き出した。
「それだけたっぷり精霊の加護を受けていながら、君は外見を気にするのか?君は精霊師達の目からは金色に輝いて見えるだろう。そして、私の目からはもっと純粋な心が見えている」
善人ではないと自覚のあるアルノは、心を隠すかのように、宝石の粒が散りばめられた無駄に豪華なショールの胸元をぐっと引き寄せた。
「確かに、生身にも少し関心はある」
ユアンジールの視線がちらりと女性らしい膨らんだ胸に向くと、アルノは少しほっとした。
生身の男らしさを全く感じないユアンジールと、本当に男女の仲になれるのか心配だったのだ。
「ユアンジール様は……口づけをしたことがありますか?」
「毒の口づけならね」
その目には暗い刃のような光が宿る。
国を奪われ、取り返したユアンジールは、勇敢な戦士でもある。
トレイア国に侵攻していたガルバン国を背後から襲い、ガルバン国に味方したアーダン国の裏切者をその手で排除したのだ。
冷酷さを垣間見せたユアンジールの姿に、アルノは緊張を解いた。
完全な善人なんて胡散臭いだけだ。
「ユアンジール様……。私は……世間知らずの子供だと言われたことがあります。甘えていて、いつも自分の不幸の責任を押し付ける相手を探して怒っている……。
その通りかもしれない。でも、それ以外の生き方を知らないし、自分がどうしたらいいのかわからない」
ユアンジールの優しい雰囲気にのまれたのか、自分のことを全く知らない他人故の気安さなのか、アルノは自分でも不思議なほど、素直に心の内を吐き出していた。
大粒の涙を浮かべるアルノを、ユアンジールは優しく引き寄せ、見た目からは想像も出来ないような強い力でアルノをひょいっと持ち上げ、膝に乗せた。
「なぜ、他人の辛さとあなたの辛さを比べる必要がある?誰と比べてなんて、考える必要はない。君の辛さは君だけのものだ。君の痛みは、他人の痛みと比べられ、無視されるべきものではない。癒されるべきだ」
あふれるアルノの涙を指で拭いユアンジールは優しく語り掛けた。
「子供時代をやり直してもいいし、ずっと子供のままでいてもいい。私は、今の君のままで何の不満もない」
全てを受け入れてくれる優しすぎる言葉に、アルノはすっかり感動し、ついにぼろぼろ泣き出した。
ユアンジールに背中を撫でられながら、アルノは憧れてきたロタ村の光景を思い出した。
転んだ子供を助けあげる誰かの手、抱きしめ、大丈夫だとあやす母親の声。
そんな温かな光景に自分も入れるとずっと信じていた。
ニルドがアルノに向けてくれた真っすぐな眼差しと、垣根のない笑顔は、そんな希望をアルノに抱かせたのだ。
だけど、そんな日は訪れることなく大人になり、遥か昔に抱いた夢は、砂のように指の間をこぼれ落ちていってしまった。
「私なら、君を甘やかし、癒してあげられる」
それなのに、異国からやってきた王太子が、諦めかけていた世界にアルノを引き上げてくれたのだ。
優しいユアンジールの腕に身をゆだね、思う存分涙を流しながら、アルノはとんでもないことになったと考えた。
願い続けてきた夢が、本当に全てかなってしまったのだ。
仕事もしなくても良いし、お金にも困らない。
自分を甘やかしてくれる王子様がいて、将来の不安も消えた。
ノーラ山を逃げ出してやろうと思ってきたのに、誰に叱られることなく異国の地にまで来てしまった。
窓の外にはもう見たことがない景色が広がっている。
ノーラ山にいた時は、誰にも会いたくなかったのに、不思議と親しくもなかった人たちの顔が頭に浮かび始めた。
強姦魔だったニルドの屈託ない少年の顔。
爆発するほどの怒りを抱え、苦痛に顔を歪めながら獣のようにアルノを抱いていたゼインの汗に濡れた顔。
嫌味なぐらい淡々としたクシールの嘘臭い微笑み。
意地悪なのに、時折歪んで見えたハンナの顔。
家族の命を背負い、仕事を奪われまいと真摯に働いていた元ロタ村の住人達。
それから、残忍さと無邪気さを併せ持つクレンとカーラ。
ひねくれた手に負えない少年に見えたが、背中にカーラを庇って立ったクレンはもう男の顔だった。
カーラもまた、言葉を失うほどの経験をしたのに、少しずつ明るい笑顔を取り戻していた。
もしアルノが引き取らなければ、クレンとカーラもゼインとクシールのように地獄のような道を突き進んだのかもしれない。
子供時代もなく大人になったゼインとクシールは、今もその道で戦い続けている。
手を血で染め、信念を貫き、自分で道を切り開いたのだ。
思い浮かぶ顔はたくさんあるのに、結局、アルノは誰のことも砂粒ほども信じたことはなかった。
好きだったニルドも愛があると思ったゼインも、引き取ったクレンとカーラのことさえ、いつかは自分から去っていく人だと思っていたし、心が繋がる相手とは思えなかったのだ。
このまま誰とも会えなくなっても、後悔はしないかもしれない。
アルノはノーラ山で過ごしてきた一人ぼっちの日々を思い出した。
耳まで凍えそうな冷たい風の中、かじかむ指で雪を掘り、クスリの実を探す。
冷え切った石うすを回し、指が汚れるのも構わずマカの実を潰す。
仕上がる寸前の契約紙に、間違って宣誓液が垂れてしまった時の絶望感。
飢えや寒さと戦い、死を覚悟しながら森の中をさまよい歩く日々。
子供時代を取り上げられ、愛もなく、押し付けられてきた大嫌いな仕事。
それなのに、繰り返されてきた森での日々がもう二度と戻らないのだと思うと、本当にそれで良いのか、わからなくなってくる。
「ユアンジール様……」
「うん?」
優しいその声に心まで奪われそうになりながら、アルノは涙を拭い、甘えるようにその胸に顔を埋めた。
――
澄み切った空に、細切れの雲が流れて行く。
手を伸ばせば届きそうなその空を眩しそうに見上げ、アルノは大きく白い息を吐き出した。
アーダン国の森は見た目以上に険しく、森も深かったため、山頂に到達するまでに二か月もかかった。
後ろを振り返っても、ふもとはおろか抜けてきた森さえも見えない。
「さすがに空気も薄いのね……」
精霊大国であるアーダン国も甘いだけの世界ではなかった。
王族に入るには、必ず乗り越えなければならない試練があった。
精霊に愛されていることが婚姻の条件であり、姿の見えない精霊に愛されていると証明するために精霊の山と呼ばれる聖なる山に一人で入り、山頂にある精霊の木の雫を汲んで来なければならなかったのだ。
あっさり目的の物を手に入れたアルノだったが、岩の上に腰を下ろし、物言わぬ景色を眺めていると、やはり本当に精霊なんてものがいるのだろうかと考えてしまう。
精霊の木とはいえ、それは岩陰に隠れるように生えている小さな植物であり、ちょっと珍しい銀色の葉っぱに露を滴らせているだけのものだった。
それを小瓶に入れてしまえば試練は終了だ。
こんなに簡単に王族と結婚出来てしまっていいのだろうかとアルノは考えた。
森には多くの命が息づいており、食べるものはあるし、罠をしかければ獣も取れる。
子供の頃から鞭で叩かれ、口に入るものなら何でも食べてきた人ならば、こんな試練は楽勝だ。
もちろん、精霊に受け入れられたとしても、王族から求婚されなければ王族にはなれないが、既にユアンジールから求婚されている身だ。
それなのに、結婚するよりここに居た方が幸せなのではないかと考えてしまう。
「もう、このままここに住んじゃおうかな……」
アルノはごつごつした岩の上で仰向けになり、空を見上げた。
アーダン国にやってきてすぐに、聖なる山の試練について聞かされたアルノは、その日のうちに山に入った。
大勢の人々に歓迎されたが、アルノには居心地が悪かったのだ。
こんなに人に対し不信感いっぱいの性格になった全ての原因は、ニルドのせいだとアルノは思った。
片思いが成就していれば、アルノの気持ちは満たされ、不満ばかりの人生にはならなかったはずだ。
強姦までしておいて、逃げるなんてあんまりだ。
しかも、そんな告白をしておきながら、今は好きじゃないなどとのたまうのだ。
吹き付けてくる風に向かって、アルノは大きなため息をついた。
それなのに、不思議とニルドを恨む気にはなれない。
良くも悪くも嘘の付けない性格であるから、ニルドに悪意があったとはやはり思えない。
子供だったという一言では片づけられない複雑な心境ではあるが、思い出すのはアルノに向けられる真っすぐな笑顔ばかりだ。前のような恋愛感情はとても抱けないが、嫌いにはなれない。
ゼインのことはどうなのかと考えると、それもまた整理しきれない感情が待ち受けている。
ニルドの次に好きになった人とも言えなくもないが、その始まりはあまりにも打算的なものだった。
ゼインの目的は契約師に仕事をさせることであり、アルノの目的は周囲に対して見栄を張ることだった。
さらに妄想で高めた性欲を満たすためでもあった。そこだけはゼインと気が合った点だと思えるが、二人の間に愛があったのかどうかはわからない。
お互いに人間不信であり、幼少時代の辛い経験のせいでひねくれていた。
獣のような衝動を隠し持つゼインは、悪魔のように残忍な一面を持つ。
アルノは誰かと親しくなりかけた途端、相手を信じられず心を閉ざしてしまう。
似た者同士とも言えなくもないが、互いになれ合いを恐れているのだから簡単にくっつける相手でもない。
そうなると、アルノの周りで一番ましな男といえばクシールだけだ。
いつも変わらぬ態度でアルノに接してくれた、意地悪な僧侶であり、アルノを利用することしか考えていなかった。
感情を隠し、胡散臭い笑みばかり浮かべていたが、目的が明確なところは嫌いではなかった。
結局、わざと親しくなろうとしてこないところが、アルノには心地よかったのだ。
それを言うなら、ロタ村の人たちとの関係も、それほど悪くはなかった。
利用し、利用される関係だと割り切れていたから、仲良くなる必要もなく気楽なものだった。
「うーん……」
アルノは空を睨みつけた。
考えれば考えるほど、自分が求めてきたものがわからなくなる。
ロタ村で見た愛の営みや、幸せな家族の光景、のどかな暮らし、そんなものに憧れてきたが、孤独であることに困ったことは一度もない。
自分が本当にいたい場所はどこなのか。
選べるとしたら、自分は何をしたかったのか。
誰かの辛さと自分の辛さを比べる必要はないとユアンジールは言った。
だとしたら、幸せだって比べられるものではないのかもしれない。
当たり前に幸せだとされていることが、自分にとって幸せだとは限らないのだとしたら、自分の幸せは自分で探すしかない。
「私が欲しいもの……」
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全てを受けとめると言ってはくれたが、アルノが精霊の加護を得ていなければ、そんな話にはならなかっただろう。結局は条件付きの結婚だ。
それでも、今までの生活よりはきっとずっと良くなる。
贅沢もし放題だし、小言も言われないし、浮気の心配もいらないし喧嘩もない。
時折、ふらりと現れる大きな雪狼のことが頭に過った。
名前も知らず、顔を合わせて、ただ少し一緒にいて、何の約束もせずに別れる。
この世界で一番、一緒にいて心地良い相手だ。
性行為がしたいかどうかはまた別だが、その距離感は心底心地よかった。
身勝手に吹き付けてくる風も、冬が終わると勝手に増えてそこら中を流れ始める雪解け水の川も、庭を荒らしに来る獣も、早朝からうるさくさえずる鳥たちも、森にある全ての命が、アルノにとって丁度よい距離にあった。
「精霊に愛されているのではなくて、たぶん、精霊たちにとって、私は邪魔にならない人間だというだけのことじゃないかしら」
相手に対し無関心と見せかけながら、拒むことなく傍にいることを許してくれる存在。
心で繋がる必要のない相手だ。
ゼインの傷ついた顔が頭に浮かんだ。
子供を欲しくないと言い切ったゼインは、ちゃんと現実を見据えていた。
一時の快楽に流され、話し合うのが面倒だからと切り捨てた言葉ではなかったのだと今になってようやくわかってきた。
アルノは誰かに自慢できるような普通の幸せが漠然と欲しかっただけだ。
それでも、ゼインと子供を持つと考えた時は、少しだけ楽しみだった。
「私って最低ね……」
人のあら捜しばかりして、いつも誰かに腹を立ててきたが、自分だって人を責められるような立派な人間じゃない。
考え無しに人の幸せを羨ましがり、自分の理想の結婚生活をゼインに押し付けようとした。
対等な夫婦でありたいと思いながら、自分が傲慢であることに気づかなかった。
当たり前の幸せを求めないとしたら、アルノにとっての幸せとは何なのか。
山にひきこもり、自堕落に暮らすことも悪くない。
あの森に戻れば、アルノはとりあえず誰にも会わずに生きていけるだろう。
そう確信できるし、何度も森から出ない選択肢についても考えた。
誰も好きじゃないし、誰も信じていない。結局、誰に対しても心を開くことは出来ない。
それなのに、なぜ宣誓液が完成するたびに家に戻ってしまったのか。
吹き付ける強い風の中に、ここにはいない誰かの声が混ざり込む。
まるでアルノを引き止めるかのように、心の中から響くその声は、アルノの名前を呼んでいた。
――アルノ……
澄み渡る青空の向こうに、その人の姿が蘇る。
見知らぬ広大な風景を瞳に写しながらも、アルノは心に浮かぶその姿をじっと見つめていた。
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「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
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