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56.疲れた女
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目を覚ますと、アルノは大きな雪狼の尻尾に包まれていた。
頭上には朝靄が下りてきている。
そこは宣誓液を作る仕事場の洞の中で、家を飛び出したアルノは、ここで眠りについたのだ。
反対側の壁際には、アルノについてきたニルドが、剣を抱えて眠っている。
さすがに戦いになれた騎士らしく、必要な時には息を潜め、彫刻のように動かない。
アルノは温かな雪狼の尻尾を抱きしめ、涙をにじませた。
逃げても問題は解決しない。
浮気一つで離縁すると騒いでいたハンナを思い出し、憂鬱な気分になる。
「離縁すると、どうなるのかな……」
「世話人がかわるだけだろう?」
ニルドの声に、アルノは驚いて目を向けた。
眠っていると思ったのに、ニルドはさきほどと同じ姿勢のまま、薄く目を開けている。
「気配で目が覚める」
ニルドが驚いているアルノに教える。
ゼインも似たようなことを言っていたことをアルノは思い出した。
「彼は本物の夫よ。契約してお金を払っているわけじゃないもの」
「でも、別れても次が雇えるんだろう?」
「お金がないのに、簡単に言わないで。それに……ゼインはお金じゃ買えないんだから」
なぜニルドが専属世話人の制度のことを知っているのか考え、アルノはぞっとした。
結婚前から、契約のことを知っていたとしたら、ずっとゼインが契約の恋人だとわかっていたということだ。
お金を出さないと誰にも相手にされない女だと、憐れまれ、同情されていたことになる。
雪狼の尻尾の中に顔を隠すと、突然雪狼が立ちあがった。
「あっ、もう行くの?」
雪狼のふさふさの尻尾が左右に触れながら外に消えて行くと、洞の中にはニルドとアルノが残された。
壁際には宣誓液を作るための道具が並んでいる。
「アルノ、俺は浮気をしたことはないが……。貴族社会では当たり前だと教えられた。結婚をしていても、愛人をたくさん持てる」
「私は貴族じゃないし、普通のどこにでもいる孤児よ……」
どれだけ他の世界に馴染んでいるように見せかけても、生まれ落ちた世界を出ることは出来ない。
仕事で成功しても、結婚しても、誰にも愛されず守られなかった子供時代に植え付けられた孤独は、どこにいっても消えたりしないのだ。
「過去は変えられない……。いつまで経っても、私は捨てられた孤児で、一人ぼっちなのよ」
「君が……そう思っているだけだ。一度、聖騎士達と合同訓練をしたことがある。ゼイン様はすごく強かった。組に分かれて模擬戦をしたが、連携も取れていたし、仲間達とうまく話しが出来ているように見えた。つまり……」
「ゼインとクシールは同じ世界で生まれ育った仲間よ。私には周りに、私と似た境遇の人はいなかった」
「クレンとカーラは?君が引き取ったのは、同じような境遇だったからじゃないのか?彼らの方が……」
クレンとカーラはまだ子供なのに、路上で体を売っていたのだ。
確かにアルノより悪い環境で育ったと言えるが、孤独かどうかでいえば張り合う対象にもならない。
「私が……まだ幸せなところにいると言いたいのでしょう。だけど、私と彼らは違う。二人には信じられる相手がいるじゃない……」
「俺は……君の友達だと思っている」
「強姦魔のくせに」
「そうだけど……。子供の頃のことじゃないか。ここで起きたことは結婚前のことだし、浮気じゃないからゼイン様には言う必要はない」
言われるまでもないと、アルノはニルドを睨みつける。
「俺の両親は王都に居るんだ。商才のある兄がさ、すごく優秀で、他の兄たちも頭が良くて、俺は一番駄目だった。
家族の中にいても、空気みたいに誰にも見てもらえなかった。
いつも一人でいられる君に憧れた。一人でも平気な様子で、怖いばあさんに殴られても泣きっぱなしでもないし、君の背中がすごく頼もしかった」
怒っていたアルノは、少しだけ驚いた。
それから、ニルドの家族について、今まで気にかけてきたことがないことに気が付いた。
どうせ自分より幸せな境遇なのだから、知りたくもないと思ってきたからだ。
傷ついた少年のような顔で、ニルドは目を伏せている。
「連絡はとっていないの?騎士団に入ったなんて、すごいことじゃない」
「そうかな……。野蛮な仕事にしかつけないと馬鹿にされてきたからな……。俺は、家族が自慢できるような息子じゃないんだ」
力無く微笑むニルドに、アルノの胸がちくりと痛んだ。
困っているニルドを見ると助けたくなる。
だからニルドと婚約者のために城まで建てた。
それは、もしかしたら同情し憐れむ立場に自分もなりたいと思っていたからではないだろうか。
「私って最低」
膝を抱え、アルノはそこに顔を埋めて涙を隠した。
「そんなこと」
ごそごそと音がして、温かく大きな腕がアルノを包み込んだ。
子供のころとは違うニルドの大きな体に包まれた途端、アルノは声を殺して泣いていた。
子供のころは、互いによく抱き合っていた。
恋心はなく、ただ、なんとなくそうしていると心地よかったからだった。
「完璧に強い人間なんていない。俺だって、戦場に行く騎士達にだって弱さはある。ゼイン様にも、見えないだけで弱さはあると思う」
「浮気されたら辛いのね……」
ハンナとビリーが離縁するかもしれないと思った時、単に参考になるとしか思わなかったが、それはアルノが人を見ていなかったからだ。自分ばかりが不幸だという幼稚な想いに囚われ、相手の痛みを理解しようとしなかった。
だけど、どうすればその幼稚な心が消せるのかもわからない。
「人は変わるよ。ゼイン様と話し合ったらどうだ?俺も……熟睡中の女の子と無理矢理するのは良くないと学んだし……」
「それ、もう忘れてくれる?」
低い声で短く告げる。
アルノを包み込むニルドの身体が頷いたように揺れた。
一片の雪が目の前に舞い落ちてきた。
折れた大木の上部から、雪が降ってくる。
人差し指と親指を丸めたぐらいの穴を頭上に見て、アルノは子供の頃に見上げた空を思い出していた。
――
ロタ村のアルノの家の敷地に、部屋が一つ増えた。
それはクシールが来た時に泊まるための部屋であり、それがゼインの最大限の譲歩であるらしかった。
ゼインとアルノの寝室として増設された石造りの部屋にあったベッドは、そのクシールの部屋に運ばれ、現役で使われることになった。
納得できる結末ではなかったが、アルノには、クシールとゼインを引き離すことは出来なかった。
二人は辛い子供時代を共に乗り越えてきた仲間であり、体を重ねることも、彼らにとっては単にその絆を確かめ合っているだけのことであり、習慣のようなものなのかもしれないと思ったからだ。
子供の頃に培われた価値観は、そう簡単に捨てられるものではない。
クレンとカーラが、躊躇いもなく体を売ろうとしてしまうのも、育った環境のせいだ。
アルノはロタ村の人たちの様子を見て育ち、それがこの世界の常識だと思い込んだ。
だから、単に浮気はだめだとか、子供が体を売るなんていけないことだと思ってしまったのだ。
だけど大人になれば、価値観は一つでないことがわかってくる。
人は生まれ落ちる場所を選べないように、生きる世界も選べない。
アルノの世界には最初からアルノしかいなかった。
だけど、ロタ村の人たちの世界がすぐ傍にあり、自分の生きている場所といつか一つになる時がくるのではないかと思ってしまったのだ。
なぜならば、ロタ村のニルドが一緒に遊んでくれたからだ。
憧れを抱いたまま、いつまでたっても、誰の世界にも行けず、アルノはまだ一人ぼっちの世界にいる。
どれだけ周りに人が増えても、アルノの世界が外の世界と交わることは決してない。
頑張ってきたことが徒労に終わった気がして、アルノの中で何かがぷちんと切れた。
絶望とか、悲しみとか、そうした感情すら抱くのが面倒になった。
アルノは仕方なく、最初の生活に戻った。
与えられた環境で生きていくことにしたのだ。
竹鞭で殴られ、無理やりさせられてきたように、仕事だけをすることにした。
不思議なことに、誰ともうまくやれなくても良いと思った途端、孤独は感じなくなった。
姿の見えない精霊たちのいる森こそが、アルノの居場所であり、そこで過ごす時間こそが、一番心が穏やかでいられるのだとわかった気がした。
現実逃避ともいえるが、居心地が良い場所なのだから仕方がない。
ふらりと現れる雪狼の姿に、アルノは束の間、仲間がいるような感覚を味わう。
クレンとカーラを引き取った時も、親しくなろうと思ったわけではなかった。
ハンナとも、働きにきてくれたロタ村の元住人たちとも仲良くなりたいと思ったことはない。
仲良くしている村の人たちを羨んできたけど、恨みの方が強くその世界に混ざろうとは思えなかった。
マカの実を収穫し、折れた大木の根元に出来た洞の中で、宣誓液を作る。
ひたすらその作業に没頭し、時間を忘れ、帰る場所があることすら忘れる。
それから思い出したようにロタ村の家に戻り、出窓に面した机に向かいペンをとる。
宣誓液に導かれ、無心に契約紙を作る。
大嫌いな仕事だったが、それはもうアルノの人生の一部だった。
夫のゼインとはもう口も利かず、ベッドも共にしなくなった。
仕事が終わると、アルノは城に行き、厨房よりも外に作られた自分の部屋にこもった。
ゼインがアルノをどう思っているのか、もうわからないし、考えることもやめてしまった。
護衛に来てくれるニルドや騎士団の人達とも、必要以上に話さなくなった。
困ったことに、誰とも口をきかない日常が、アルノにはやはり心地よかった。
何かが間違った方向に行っている気もしたが、修正のしようもない。
こうしていれば、平穏な日常が続くかと思ったが、やはり変化は訪れた。
ついにアーダン国の王太子がアルノに会いに来る日が近づいてきたのだ。
城の内装工事が終わり、面会の日が迫ったとアルノに伝えたのは、クシールだった。
ロタ村の家で、契約紙を仕上げたアルノは、さっさと城の部屋に戻ろうとした。
ところが、食卓テーブルでアルノの仕事が終わるのを待っていたクシールが、すかさず声をかけた。
「忘れているかもしれませんが、アーダン国の王太子が、アルノさんに会いに来られます」
席を立ち、アルノの仕上げた契約紙をファイルにしまいながら、クシールはさりげなく扉の前に立ちはだかった。
答えるのも面倒で、アルノはクシールから目を背けた。
室内は、いつも通りきれいに整えられ、掃除も行き届いている。
食卓テーブルにはお茶のカップやお茶菓子まで置かれているところを見ると、ゼインが世話人として仕事をしているのだとわかる。
しかしゼインが、今どこにいるのかアルノは知らなかった。
「三日後です。三日以内に戻れないのであれば、森には入らないようにしてください」
「行きたくない……」
久しぶりに口をきいたアルノに、クシールはやはり淡々とした表情を向けた。
「アーダン国の王族が泊ったとなれば、城の評判も上がると、クレンやカーラがはりきっていましたよ。
お城で働いている人たちも、高貴な方々をもてなすための教育を受けたようです。
今後、あの城を宿泊施設として運営していくおつもりがあるなら、この話を断ることはお勧めできません。
それに、アルノさんが断れば、お城で働いている人たちも肩身の狭い思いをします」
どうでもいい話だと思ったが、さすがにクレンとカーラのことは考えた。
この環境を壊してしまうのは可哀そうだし、宿が成功すれば、今度こそクレンは聖職者になることを諦め、カーラと一緒に働いていく道を選ぶかもしれない。彼らはハンナ達ともうまくやれている。
そう考えてみれば、アルノもクレンやカーラのように、皆とうまくやっていく方法があったのかもしれないと思うが、もう努力することも面倒だった。
「お城の方に帰る……」
アルノはクシールを避けて、壁から上着をとった。
そのまま滑るように玄関に移動し、さっさと外に出る。
珍しく、そこには二人の騎士の姿があった。
ニルドとギライが並んでどこからか運んできたような倒木に座り、楽しそうにおしゃべりをしている。
契約師のいる森の警備は、何もなければ暇な仕事に違いない。
「アルノ、戻ったばかりなのに出かけるのか?」
屈託ない笑顔でニルドが声をかけてくる。
この能天気な男は、いつまでもこんな調子なのだ。
「お城に行くの」
歩き出したアルノの後ろで、「またな」というニルドの声が聞こえ、足音が近づいてくる。
「お友達と話していて良かったのに」
雪道には、少しずつ茶色い泥が混じり始めている。
春はまだ先だが、ひと月もすれば雪解け水の川がいくつも生まれ、森中で川音が聞こえ始める。
風も少し暖かくなった気がして、アルノは大きく息を吸い込んだ。
「内装を見たか?ものすごく豪華な城になったぞ。クシール様が、アーダン国からの客人が帰った後も、宿として使用したいと国王陛下に話をしてくださったらしい。
国王陛下も結婚式で一度来たことがあっただろう?素晴らしい設計だと感動したらしくて、王都の貴族たちの間でも評判になったらしい。
春になったら、身分の高い客がたくさん泊りにくるかもしれない。
それから……俺の家族の、つまり、成功して王都で商売をしている兄貴のところに行った家族だが、連絡があった」
坂の途中で足を止め、アルノは振り返った。
顔を赤くして、ニルドは大きな体を小さくさせて、もじもじしている。
「接待用に……君のその城を使わせてほしいらしい。評判を聞いたみたいなんだ……。その、こんな時にだけ連絡をしてくるなんて、酷い家族だよな……。俺がいることを今更思い出したみたいでさ……」
複雑な感情の全てを大きな体に閉じ込め、目を背けているニルドを見て、アルノはくるりと背を向けた。
「良かったじゃない。家族に自慢したら?少しはニルドも出資したのよ。そういえば、あの城は、私だけのお金じゃなくて、ニルドのお金も入っているのよね」
「そ、そんな、俺はほんの少しだし……内装をちょっと買ったぐらいだし」
「正式な権利書をクシールに頼んであげる。クレンとカーラのことも頼めそうだし……」
「どういう意味だ?お前はどこにも行かないだろう?」
斜面を登り切り、城に続く馬車道に出ると、アルノはその先にそびえる立派な城の尖塔を見上げた。
ニルドが追ってきて、その後ろに立つ。
ふもとから馬車が登ってくる音が聞こえてきた。
二人は道の端に寄り、城の門を目指して歩き出した。
頭上には朝靄が下りてきている。
そこは宣誓液を作る仕事場の洞の中で、家を飛び出したアルノは、ここで眠りについたのだ。
反対側の壁際には、アルノについてきたニルドが、剣を抱えて眠っている。
さすがに戦いになれた騎士らしく、必要な時には息を潜め、彫刻のように動かない。
アルノは温かな雪狼の尻尾を抱きしめ、涙をにじませた。
逃げても問題は解決しない。
浮気一つで離縁すると騒いでいたハンナを思い出し、憂鬱な気分になる。
「離縁すると、どうなるのかな……」
「世話人がかわるだけだろう?」
ニルドの声に、アルノは驚いて目を向けた。
眠っていると思ったのに、ニルドはさきほどと同じ姿勢のまま、薄く目を開けている。
「気配で目が覚める」
ニルドが驚いているアルノに教える。
ゼインも似たようなことを言っていたことをアルノは思い出した。
「彼は本物の夫よ。契約してお金を払っているわけじゃないもの」
「でも、別れても次が雇えるんだろう?」
「お金がないのに、簡単に言わないで。それに……ゼインはお金じゃ買えないんだから」
なぜニルドが専属世話人の制度のことを知っているのか考え、アルノはぞっとした。
結婚前から、契約のことを知っていたとしたら、ずっとゼインが契約の恋人だとわかっていたということだ。
お金を出さないと誰にも相手にされない女だと、憐れまれ、同情されていたことになる。
雪狼の尻尾の中に顔を隠すと、突然雪狼が立ちあがった。
「あっ、もう行くの?」
雪狼のふさふさの尻尾が左右に触れながら外に消えて行くと、洞の中にはニルドとアルノが残された。
壁際には宣誓液を作るための道具が並んでいる。
「アルノ、俺は浮気をしたことはないが……。貴族社会では当たり前だと教えられた。結婚をしていても、愛人をたくさん持てる」
「私は貴族じゃないし、普通のどこにでもいる孤児よ……」
どれだけ他の世界に馴染んでいるように見せかけても、生まれ落ちた世界を出ることは出来ない。
仕事で成功しても、結婚しても、誰にも愛されず守られなかった子供時代に植え付けられた孤独は、どこにいっても消えたりしないのだ。
「過去は変えられない……。いつまで経っても、私は捨てられた孤児で、一人ぼっちなのよ」
「君が……そう思っているだけだ。一度、聖騎士達と合同訓練をしたことがある。ゼイン様はすごく強かった。組に分かれて模擬戦をしたが、連携も取れていたし、仲間達とうまく話しが出来ているように見えた。つまり……」
「ゼインとクシールは同じ世界で生まれ育った仲間よ。私には周りに、私と似た境遇の人はいなかった」
「クレンとカーラは?君が引き取ったのは、同じような境遇だったからじゃないのか?彼らの方が……」
クレンとカーラはまだ子供なのに、路上で体を売っていたのだ。
確かにアルノより悪い環境で育ったと言えるが、孤独かどうかでいえば張り合う対象にもならない。
「私が……まだ幸せなところにいると言いたいのでしょう。だけど、私と彼らは違う。二人には信じられる相手がいるじゃない……」
「俺は……君の友達だと思っている」
「強姦魔のくせに」
「そうだけど……。子供の頃のことじゃないか。ここで起きたことは結婚前のことだし、浮気じゃないからゼイン様には言う必要はない」
言われるまでもないと、アルノはニルドを睨みつける。
「俺の両親は王都に居るんだ。商才のある兄がさ、すごく優秀で、他の兄たちも頭が良くて、俺は一番駄目だった。
家族の中にいても、空気みたいに誰にも見てもらえなかった。
いつも一人でいられる君に憧れた。一人でも平気な様子で、怖いばあさんに殴られても泣きっぱなしでもないし、君の背中がすごく頼もしかった」
怒っていたアルノは、少しだけ驚いた。
それから、ニルドの家族について、今まで気にかけてきたことがないことに気が付いた。
どうせ自分より幸せな境遇なのだから、知りたくもないと思ってきたからだ。
傷ついた少年のような顔で、ニルドは目を伏せている。
「連絡はとっていないの?騎士団に入ったなんて、すごいことじゃない」
「そうかな……。野蛮な仕事にしかつけないと馬鹿にされてきたからな……。俺は、家族が自慢できるような息子じゃないんだ」
力無く微笑むニルドに、アルノの胸がちくりと痛んだ。
困っているニルドを見ると助けたくなる。
だからニルドと婚約者のために城まで建てた。
それは、もしかしたら同情し憐れむ立場に自分もなりたいと思っていたからではないだろうか。
「私って最低」
膝を抱え、アルノはそこに顔を埋めて涙を隠した。
「そんなこと」
ごそごそと音がして、温かく大きな腕がアルノを包み込んだ。
子供のころとは違うニルドの大きな体に包まれた途端、アルノは声を殺して泣いていた。
子供のころは、互いによく抱き合っていた。
恋心はなく、ただ、なんとなくそうしていると心地よかったからだった。
「完璧に強い人間なんていない。俺だって、戦場に行く騎士達にだって弱さはある。ゼイン様にも、見えないだけで弱さはあると思う」
「浮気されたら辛いのね……」
ハンナとビリーが離縁するかもしれないと思った時、単に参考になるとしか思わなかったが、それはアルノが人を見ていなかったからだ。自分ばかりが不幸だという幼稚な想いに囚われ、相手の痛みを理解しようとしなかった。
だけど、どうすればその幼稚な心が消せるのかもわからない。
「人は変わるよ。ゼイン様と話し合ったらどうだ?俺も……熟睡中の女の子と無理矢理するのは良くないと学んだし……」
「それ、もう忘れてくれる?」
低い声で短く告げる。
アルノを包み込むニルドの身体が頷いたように揺れた。
一片の雪が目の前に舞い落ちてきた。
折れた大木の上部から、雪が降ってくる。
人差し指と親指を丸めたぐらいの穴を頭上に見て、アルノは子供の頃に見上げた空を思い出していた。
――
ロタ村のアルノの家の敷地に、部屋が一つ増えた。
それはクシールが来た時に泊まるための部屋であり、それがゼインの最大限の譲歩であるらしかった。
ゼインとアルノの寝室として増設された石造りの部屋にあったベッドは、そのクシールの部屋に運ばれ、現役で使われることになった。
納得できる結末ではなかったが、アルノには、クシールとゼインを引き離すことは出来なかった。
二人は辛い子供時代を共に乗り越えてきた仲間であり、体を重ねることも、彼らにとっては単にその絆を確かめ合っているだけのことであり、習慣のようなものなのかもしれないと思ったからだ。
子供の頃に培われた価値観は、そう簡単に捨てられるものではない。
クレンとカーラが、躊躇いもなく体を売ろうとしてしまうのも、育った環境のせいだ。
アルノはロタ村の人たちの様子を見て育ち、それがこの世界の常識だと思い込んだ。
だから、単に浮気はだめだとか、子供が体を売るなんていけないことだと思ってしまったのだ。
だけど大人になれば、価値観は一つでないことがわかってくる。
人は生まれ落ちる場所を選べないように、生きる世界も選べない。
アルノの世界には最初からアルノしかいなかった。
だけど、ロタ村の人たちの世界がすぐ傍にあり、自分の生きている場所といつか一つになる時がくるのではないかと思ってしまったのだ。
なぜならば、ロタ村のニルドが一緒に遊んでくれたからだ。
憧れを抱いたまま、いつまでたっても、誰の世界にも行けず、アルノはまだ一人ぼっちの世界にいる。
どれだけ周りに人が増えても、アルノの世界が外の世界と交わることは決してない。
頑張ってきたことが徒労に終わった気がして、アルノの中で何かがぷちんと切れた。
絶望とか、悲しみとか、そうした感情すら抱くのが面倒になった。
アルノは仕方なく、最初の生活に戻った。
与えられた環境で生きていくことにしたのだ。
竹鞭で殴られ、無理やりさせられてきたように、仕事だけをすることにした。
不思議なことに、誰ともうまくやれなくても良いと思った途端、孤独は感じなくなった。
姿の見えない精霊たちのいる森こそが、アルノの居場所であり、そこで過ごす時間こそが、一番心が穏やかでいられるのだとわかった気がした。
現実逃避ともいえるが、居心地が良い場所なのだから仕方がない。
ふらりと現れる雪狼の姿に、アルノは束の間、仲間がいるような感覚を味わう。
クレンとカーラを引き取った時も、親しくなろうと思ったわけではなかった。
ハンナとも、働きにきてくれたロタ村の元住人たちとも仲良くなりたいと思ったことはない。
仲良くしている村の人たちを羨んできたけど、恨みの方が強くその世界に混ざろうとは思えなかった。
マカの実を収穫し、折れた大木の根元に出来た洞の中で、宣誓液を作る。
ひたすらその作業に没頭し、時間を忘れ、帰る場所があることすら忘れる。
それから思い出したようにロタ村の家に戻り、出窓に面した机に向かいペンをとる。
宣誓液に導かれ、無心に契約紙を作る。
大嫌いな仕事だったが、それはもうアルノの人生の一部だった。
夫のゼインとはもう口も利かず、ベッドも共にしなくなった。
仕事が終わると、アルノは城に行き、厨房よりも外に作られた自分の部屋にこもった。
ゼインがアルノをどう思っているのか、もうわからないし、考えることもやめてしまった。
護衛に来てくれるニルドや騎士団の人達とも、必要以上に話さなくなった。
困ったことに、誰とも口をきかない日常が、アルノにはやはり心地よかった。
何かが間違った方向に行っている気もしたが、修正のしようもない。
こうしていれば、平穏な日常が続くかと思ったが、やはり変化は訪れた。
ついにアーダン国の王太子がアルノに会いに来る日が近づいてきたのだ。
城の内装工事が終わり、面会の日が迫ったとアルノに伝えたのは、クシールだった。
ロタ村の家で、契約紙を仕上げたアルノは、さっさと城の部屋に戻ろうとした。
ところが、食卓テーブルでアルノの仕事が終わるのを待っていたクシールが、すかさず声をかけた。
「忘れているかもしれませんが、アーダン国の王太子が、アルノさんに会いに来られます」
席を立ち、アルノの仕上げた契約紙をファイルにしまいながら、クシールはさりげなく扉の前に立ちはだかった。
答えるのも面倒で、アルノはクシールから目を背けた。
室内は、いつも通りきれいに整えられ、掃除も行き届いている。
食卓テーブルにはお茶のカップやお茶菓子まで置かれているところを見ると、ゼインが世話人として仕事をしているのだとわかる。
しかしゼインが、今どこにいるのかアルノは知らなかった。
「三日後です。三日以内に戻れないのであれば、森には入らないようにしてください」
「行きたくない……」
久しぶりに口をきいたアルノに、クシールはやはり淡々とした表情を向けた。
「アーダン国の王族が泊ったとなれば、城の評判も上がると、クレンやカーラがはりきっていましたよ。
お城で働いている人たちも、高貴な方々をもてなすための教育を受けたようです。
今後、あの城を宿泊施設として運営していくおつもりがあるなら、この話を断ることはお勧めできません。
それに、アルノさんが断れば、お城で働いている人たちも肩身の狭い思いをします」
どうでもいい話だと思ったが、さすがにクレンとカーラのことは考えた。
この環境を壊してしまうのは可哀そうだし、宿が成功すれば、今度こそクレンは聖職者になることを諦め、カーラと一緒に働いていく道を選ぶかもしれない。彼らはハンナ達ともうまくやれている。
そう考えてみれば、アルノもクレンやカーラのように、皆とうまくやっていく方法があったのかもしれないと思うが、もう努力することも面倒だった。
「お城の方に帰る……」
アルノはクシールを避けて、壁から上着をとった。
そのまま滑るように玄関に移動し、さっさと外に出る。
珍しく、そこには二人の騎士の姿があった。
ニルドとギライが並んでどこからか運んできたような倒木に座り、楽しそうにおしゃべりをしている。
契約師のいる森の警備は、何もなければ暇な仕事に違いない。
「アルノ、戻ったばかりなのに出かけるのか?」
屈託ない笑顔でニルドが声をかけてくる。
この能天気な男は、いつまでもこんな調子なのだ。
「お城に行くの」
歩き出したアルノの後ろで、「またな」というニルドの声が聞こえ、足音が近づいてくる。
「お友達と話していて良かったのに」
雪道には、少しずつ茶色い泥が混じり始めている。
春はまだ先だが、ひと月もすれば雪解け水の川がいくつも生まれ、森中で川音が聞こえ始める。
風も少し暖かくなった気がして、アルノは大きく息を吸い込んだ。
「内装を見たか?ものすごく豪華な城になったぞ。クシール様が、アーダン国からの客人が帰った後も、宿として使用したいと国王陛下に話をしてくださったらしい。
国王陛下も結婚式で一度来たことがあっただろう?素晴らしい設計だと感動したらしくて、王都の貴族たちの間でも評判になったらしい。
春になったら、身分の高い客がたくさん泊りにくるかもしれない。
それから……俺の家族の、つまり、成功して王都で商売をしている兄貴のところに行った家族だが、連絡があった」
坂の途中で足を止め、アルノは振り返った。
顔を赤くして、ニルドは大きな体を小さくさせて、もじもじしている。
「接待用に……君のその城を使わせてほしいらしい。評判を聞いたみたいなんだ……。その、こんな時にだけ連絡をしてくるなんて、酷い家族だよな……。俺がいることを今更思い出したみたいでさ……」
複雑な感情の全てを大きな体に閉じ込め、目を背けているニルドを見て、アルノはくるりと背を向けた。
「良かったじゃない。家族に自慢したら?少しはニルドも出資したのよ。そういえば、あの城は、私だけのお金じゃなくて、ニルドのお金も入っているのよね」
「そ、そんな、俺はほんの少しだし……内装をちょっと買ったぐらいだし」
「正式な権利書をクシールに頼んであげる。クレンとカーラのことも頼めそうだし……」
「どういう意味だ?お前はどこにも行かないだろう?」
斜面を登り切り、城に続く馬車道に出ると、アルノはその先にそびえる立派な城の尖塔を見上げた。
ニルドが追ってきて、その後ろに立つ。
ふもとから馬車が登ってくる音が聞こえてきた。
二人は道の端に寄り、城の門を目指して歩き出した。
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夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
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