精霊の森に魅入られて

丸井竹

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51.衝撃の事実

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気づくと、アルノはロタ村を見下ろす斜面の途中にいて、横に張り出した木の枝に座っていた。

子供の頃はもっと太く、少し怖く感じるぐらいの高さだったが、今は少し高いベンチぐらいの感覚で、足も地上から指一本分ぐらいの高さで浮いている。
これなら落ちたとしても、たいしたことにはならない。

頭上にかかった小枝には、ランタンが吊り下げられ、揺れる足元をぼんやりと照らしている。
そんなことをした覚えはないが、アルノしかいないのだから、自分がしたのだろうとアルノは考えた。

足をぶらぶら揺らしながら、心を落ち着けようとするが、どうしても寝室の窓から覗き見た衝撃的な光景が蘇って来てしまう。

クシールが下で、ゼインが上だった。
交代する時もあるのだろうかといらないことを想像し、またどばどばと涙を垂れ流す。

男同士でも浮気には違いない。
また訓練だったとでも言われてしまうのだろうかと考え、鼻をすすりながらむせび泣く。

「はぁ……」

どうせ愛のない結婚だったのだと考えそうになり、アルノはなんとかその絶望的な思考を遠ざけた。
結婚する時は好きだと言われたのだし、夫婦として過ごした幸せな時間の全てが嘘だったとは思いたくない。

せっかく手に入れた夫も結婚生活も手放したくはない。

それにしても、結婚したのだから、心でクシールを想っていたとしても、踏みとどまるべきではないだろうか。
アルノだって、ニルドのことを思い出すことはあっても、夫はゼインなのだと言い聞かせてきたし、夫の許可があっても、部屋にだって泊めたことはない。

何もかも夢だったらいいのにとアルノは考えた。

「アルノ?」

不意に聞こえた声に、アルノは慌てて暗がりに逃げようとお尻を左にずらした。
その動作を、隣に座って良いとの合図に受け取ったニルドが、枝を揺らしながら近づいてきた。

「何をしている?仕事中じゃないだろう?」

なぜこんな時にやってくるのかと悪態をつきたくなる気持ちを堪え、アルノは急いで涙を袖で拭った。
ニルドは隣に座り、地面についた足をわざと持ち上げて枝を揺らした。
バランスを崩しそうになり、アルノは急いで腕を下ろし、両手を木の表面に置いて体を支える。

「こんなに低かったんだな。子供の頃は、足をぶらぶらさせて遊んでいたのに、今は足が地面に着いてしまう。まだぶら下げることは出来るが、腿を高くあげないといけない」

こんなところにやってきて、わざわざ隣に座り、さらにくだらない話を始めたニルドを横目でちらりと睨み、アルノは小さな仕返しをした。

普通に座った状態で、足をこれ見よがしに揺らして見せたのだ。
ニルドはそんなアルノの小さな悪意に気づいた様子もなく、うれしそうな声をあげた。

「お、アルノはまだぶらぶらできるな。良かったな!」

何も良いことがないアルノは、憮然とした顔になったが、ニルドにその顔を覗き込まれそうになり、慌てて暗がりにお尻一つ分ずらして逃げた。

「見ないでよ!」

「見えないから、見ようとしたんだよ。ランタンの灯りが届くところまで来いよ」

「嫌よ!私は見られたくないの!」

「そうか……」

アルノの言葉に従い、ニルドは正面を向いた。
遥か遠くで、町の灯が星のように闇の中に瞬いている。

「昔のことを思い出すな……」

「思い出さない」

今はそれどころじゃないのだ。
ゼインの浮気をどう問い詰めるべきか考えなければならない。

だいたい、問い詰めて良いことなのかどうかもわからない。
浮気なのか、訓練なのか、それとも本当にクシールを愛しているのか。
考えてみれば、結婚前にあったクシールとゼインの肉体関係が、結婚後に終わったのかどうか確かめたことがない。

もしかしたら、子供の時からの習慣として続いている可能性もある。
となれば、妻とはゼインにとってどんな存在なのか。

クシールは昔からの友達、そしてアルノは新しくできた友達だ。
その後、契約の恋人になり、突然本物の妻になった。
ゼインにとってクシールとアルノ、どちらが必要な存在かと考えれば、当然クシールだ。

重いため息が自然とこみ上げてくる。

アルノが何に頭を悩ませているのか、知る由もないニルドは、こちらもまた深刻な表情で少しだけアルノの方に腰をずらして近づいた。
アルノは素早く右上にかかっていたランタンの灯りを消した。

すぐにニルドの表情が暗がりに隠れた。ニルドが持ってきたランタンはニルドの向こう側にあり、その灯りはアルノのところまで届かない。

「俺は……その……君にずっと謝りたいことがあった」

暗がりから聞こえてきたニルドのやや沈んだ声に、アルノはまた密かにため息をついた。
先ほど穴ウサギの串焼きを食べた時にも、なんとなく面倒なことを聞かされそうになり、逃げて来たばかりだ。
さすがに二度は逃げられない。

これ以上の厄介ごとはごめんだが、ゼインの浮気ほどの深刻な問題ではないだろうと考え、アルノは観念してニルドの話を聞く覚悟を決めた。

「そんなこと山ほどあるでしょうね。でも謝るって一方的な行為よね。誰のための謝罪なの?自分が楽になるため?相手を想っての謝罪ってどんな場合の時に使うのか、さっぱりわからない。今更……」

ニルドが何を謝罪したいのか、アルノには心当たりがあった。
ある日、ニルドは突然姿を消したのだ。アルノになんの相談もなかった。
今更のことだが、きっとアルノを一人村に残して、自分だけ町に下りたことを謝りたいのだとアルノは思った。

とはいえ、謝ってもらったとしても、アルノの心が晴れるとは思えない。
裏切られた思いは消えないし、村の人たちに対するような恨みはないが、だからといって簡単に許せるとも言えない。

自分の執念深さに、アルノはさすがに我ながらうんざりした。

こんなことだから、ゼインに愛してもらえないのかもしれない。
どうしても問題はそこに行きつくのだ。
ゼインはアルノのどこが好きで結婚したいと思ってくれたのか。
体の関係以外で、好きなところはあるのか。

だいたい、愛があったとして、自分にその愛を信じることが出来るのかすらわからない。
自分の醜さを知っているからこそ、愛される自信もない。

「もしかしたら、私ってすごく心が狭いのかな……。良い人間ではないことはわかっているけど、私って……良いところがある?」

アルノが好きなわけではなく、たまには女を抱きたいからとか、良い契約紙を作らせるためという理由で結婚したのであれば、ゼインがクシールと別れる必要性はない。

アルノとは体だけの関係で、愛はクシールと育んでいるだけなのかもしれない。
なにせ、アルノ自身、いくら考えてもクシールに勝てる魅力があるとは思えない。

せっかく止まっていたのに、またじわりと涙が溢れ出る。
と、闇の中からニルドの声がした。

「良いところはあるよ……俺は……ずっとアルノが好きだった」

「はっ?!」

アルノは涙で濡れた顔のまま、右に座っているニルドを見上げた。
ランタンの灯りを消してしまったため、そこには大きな影しかない。

ニルドのランタンは向こう側にあり、枝の上に置いた、ニルドの右手ばかりを照らしている。

「アルノの、良いところだろう?だから……いっぱいある」

ニルドの不穏な言葉に、アルノの心臓がばくばく鳴りだした。

自分の繊細でもない心を守るため、アルノはとりあえず、クシールとゼインの衝撃の濡れ場映像を頭から追い出した。
確か、ニルドに謝りたいことがあると言われていたはずだ。
またとんでもない事態になったらどうしようかと、警戒しながらも呼吸を落ち着ける。

「ど、ど、ど、どういうこと?」

「だから……アルノのことが好きだった」

唖然とし、枝から落ちそうになったアルノは、慌てて枝にしがみつく。

「私はつまり、ニルドと両思いだと十年も勘違いし続けてきた痛い女じゃなかったということ?」

「いや……それはよくわからないけど、子供の頃だ……。俺は……その……」

今更の話であり、今は絶対聞いてはいけない話だと思ったが、ニルドの声は容赦なく耳に入って来てしまう。

「この間、というか、さっき……穴ウサギを捕まえたところ……。つまり宣誓液を作っている洞があるだろう?」

「え、ええ。一緒に雪で滑り台を作って遊んだ空き地の裏にある洞ね……」

「子供の頃……。君があそこで寝ているのを見つけた。暗い洞の中で、横たわっていたから、君が死んでいるんじゃないかと思って心配になって、中に飛び込んだんだ。そ、それで、君がよく寝ていたから……口づけをした」

「え?!」

ということは、初めての口づけはニルドとしたことになる。
どういうことなのかと、アルノが問い返すより早く、ニルドが話を続けた。

「君は本当にぐっすり寝ていて……俺はもっと触りたくなって……君を……裸にした」

「えええええっ!」

今度こそ地面に落ちそうになり、アルノは腹ばいになって枝にしがみついた。
絶対に聞きたくない話だが、もうそこまで来たら、最後まで確かめずにはいられない。

「君が……やわらかくて、良い匂いだから……。舐めてみた」

「はあああ?」

一気に全身に鳥肌が立つ。

「男とは違う場所があって……舐めて……入れたんだ……」

もう夢じゃないかと思い、アルノは枝から落ちないように気を付けて、右手で左腕をつねった。
驚き過ぎて、痛みさえ感じない。

衝撃的な展開に、息さえ止まりそうになっているのに、ニルドの話はまだ終わっていなかった。

「俺も……裸になってくっついてみた……。気持ち良くて……その……すごく、すごく気持ち良くて、止まらなかったんだ。それで……終わった時……寝ている君を見て、俺は自分がしたことにやっと気が付いた。
恐くなったんだ……。それで……逃げ出した」

「はぁ?」

これは浮気になるのかと考えそうになり、アルノはすぐにそうではないことに気が付いた。
ゼインに会うずっと前のことだし、虚しい十年にも渡る妄想の日々よりもさらに前の出来事だ。

あまりの衝撃的な話に、アルノは完全にパニックに陥った。
両想いどころか、それ以上のことをしていたのだ。

「俺は……頭も悪いし、力ばかりが強くて、いつか外に出て戦士になるのだと決めていた。
それしか、生きていける方法がないと思っていた。君は……ここにずっといるし、俺が戦死したら一人ぼっちになる。一緒になれないのに……こんなことはするべきじゃなかったと後悔して、村には戻らないと決めたんだ」

「い、今は……ここにいるじゃない」

「そうなんだ。不思議だよな。危険な戦場暮らしになると思ったのに、なぜか故郷に戻って、君を守る仕事についている。こんな未来があるなんて、あの時は思いもしなかった。
でも、昔のことだし……謝りたかった。これからも、友達でいてくれるだろう?」

そこまで告白しておきながら、友達なのかと、心に殺意が湧いたが、両腕で丸太を抱きかかえるように枝にしがみついているアルノには、拳一つ繰り出せない。

「さ、最後までしたの?」

町の方を見ていたニルドが、アルノの方を向いた。
枝にしがみついているアルノのところまで視線を下げ、重々しく頷いた。

薄闇に、その仕草を確かに見てしまったアルノは、今度こそ力が抜け、しがみついている姿勢のまま、ずるりと地上に落ちた。

「アルノ!大丈夫か!」

痛みはほとんど感じなかったが、アルノは地面に横向きに倒れたまま、闇の中を呆然と見ていた。

その脳裏に、純潔を失った、ゼインとの最初の行為のことが蘇る。
風呂桶の中を赤く染めたものは、なんだったのか。
痛みだってちゃんとあった。

だけど、あれはもしかしたら、純潔の血ではなかったのかもしれない。
あるいは、純潔を失い損ねた残りだったのかもしれない。

ニルドは子供だったし、あそこの物も小さかったに違いない。
大人のゼインの物は大きく、最初の行為は激しかったため、入り口が傷ついただけとも考えられる。

しかし初体験が就寝中に行われていたなんて、あんまりではないだろうか。

「アルノ?」

ランタンの灯りを掲げ、ニルドが心配そうな顔で手を差し出している。

「怒ったのか?ごめん」

ごめんの三文字で片付けられる問題なのだろうかと、アルノは怒りを通り越し、無の境地に陥りかけた。
まさか、十年間片思いしてきた男が、就寝中の少女を襲うような強姦魔だったとは思ってもいなかった。
アルノは、ぞっとしてニルドを見上げた。

「つまり……私達って肉体関係があったのね……」

「あったというか……なかったというか……その……」

アルノに意識がなかったのだから、合意があったとは言えない。
しかしどんな顔でこの男は、十年後、町に行こうとアルノを誘いに来たのかと考えると、もう少しも良い男に見えなくなってくる。

あまりにも複雑になってきた問題を一旦頭から排除し、アルノはぱっと立ち上がった。

ニルドが驚いたように立ち上がり、ランタンを持ち上げる。
そんなニルドに、アルノは険しい顔を向け、指を突き付けた。

「絶対、絶対に誰にも言わないで。というか、なんでそれを私に言うのよ!しかも今更、こんな時に、言わなきゃいけないこと?
あんたが言わなかったら、一生知らないでいられたのに!
どうせなら死ぬまで黙っていてくれたら良いじゃないの!
ニルドなんて、もう絶対に好きにならない。あんたなんて、あんたなんて、最低よ!心の底から大っ嫌い!」

枝にかかっていたランタンを勢いよく取り外し、アルノは斜面の上に向かって走り出した。
ロタ村の家には浮気中の夫がいるし、この状況でクシールとゼインと言い争う気力はない。

今知った事実を、心の中で整理しきれるかどうかも自信が無い。

十年を費やして片思いをしてきたニルドは単なる強姦魔だった。
恋に恋をしてきた十年を返してほしい。

口づけまでは許せても、それ以上はさすがに許容できない。
普通、途中でやめないだろうか。
子供時代のこととはいえ、もう最後まで出来た歳ともなれば、理性が働いて当然だ。

斜面をよじ登り、城に続く整備された道に出る手前で、アルノは足を止めた。
ニルドが追いかけてきて、アルノの肩を掴む。

その手をアルノは前を見たまま振り払った。

「静かに!」

アルノの指示に従い、ニルドは黙って後ろに控える。
目の前には、城に続く整備された道がある。

その道の下の方から、無数の灯りが近づいてきている。

「今日、お城にお客様がいるの?」

それにしても、火の数が多すぎる。
道を埋め尽くすほどの小さな灯りの点が、ずっと下まで続いている。

「一組泊っているはずだ。王都の商人との話だったが……あの灯りは客じゃない」

まるで町全体が引っ越してきたかのような膨大な数だ。

厄介ごとは時を選んできてはくれないのだ。

山を登ってくる無数の灯りを見ながら、アルノはそんな風に考えた。
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