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50.続かない幸福
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外観ばかり豪華な、飾り気のない城の厨房にやってきたアルノは、従業員用の食堂の椅子に座り、長テーブルの端っこに突っ伏していた。
さきほどまで、ニルドと森にいて、穴ウサギのソテーを食べていた。
何か言いたそうなニルドを、絶対に何も言うなと眼力で黙らせ、とにかく油を滴らせた肉だけ腹に詰め込んだ。
それから、さっさと逃げ出し、城の厨房にやってきたのだ。
ロタ村の家に戻らなかったのは、クシールにもゼインにも今は会いたくなかったからだ。
もし、クシールが来ていたら、契約紙についてまた文句を言われる。
仕事が遅いとか、もっと上手に出来るはずだとか、説教されることは目に見えている。
子供のことで怒らせたゼインに会うのも気が重い。
二人の子供を全力で否定されたのだ。
さすがにショックだったし、気分は激しく落ち込んでいる。
とはいえ、ゼインに子供が欲しい理由を言えなかった自分にも非があるとわかっている。
なぜ子供が欲しいのか、その理由を見つけなければ、話し合うことすら難しい。
目の前に、突然グラスが置かれた。
テーブルの反対側に、エプロン姿のハンナが立っていた。
「何?」
「お酒?それともお水?」
ハンナの問いかけに、アルノはぶすっとした顔になる。
「……お酒」
目の前に置かれたグラスが取り上げられ、ハンナが厨房の奥に去っていく。
すぐに戻ってきて、銅色のグラスをアルノの前に置いた。
仕方なく、アルノは体を起こしてグラスを手に取った。
驚いたことに、その銅色のグラスは、木の感触だった。
「木で出来ているのね。金属だと思った」
「本物を買う余裕がないから、木で作って色を塗ったの」
なるほど、安っぽいと言われるわけだとアルノは思ったが、黙ってグラスの中身を喉に流し込んだ。
甘いお酒がとろりと舌先を滑り落ちる。
その後から、ぴりりとした苦みもちゃんとくる。
「美味しい……」
「岩ベリーに蜂蜜をくわえてみた」
「へぇ……」
アルノが考えた売り方よりよっぽど良い。
「これ、性欲剤になるかも」
「そうなの?」
不審な顔で、アルノはコップの中を覗き込む。
琥珀色のお酒がちゃぷんと揺れる。
「効果が立証できないと、売り文句には使えない」
「試してみる?」
「ハンナが試したらいいじゃない。新婚でしょう?私は……式に招待されていないけど」
「招待しても来る気、無かったでしょう?」
その通りだったため、アルノは無言でまたお酒を喉に流し込んだ。
ハンナの結婚式にも、誰の結婚式にも興味はない。
クレンとカーラであれば、少し見届けたい気持ちはある。
なにせ、アルノが手に入れることが出来なかった、普通の子供時代を二人には体験させてあげたいと思ってきたからだ。
善意ではなく、ただ知りたかったのだ。
もしアルノにも子供時代に助けてくれる人がいたら、どんな人生になっていたのか。
クレンとカーラにしてあげてるようなことを、アルノにもしてくれる人がいたら、他の道を選んでいたかもしれない。契約師以外の道を選んだとしたら、どうなっていたのか、アルノには想像も出来ない。
だけど、その先はクレンとカーラが教えてくれる気がしている。
二人を引き取った理由は、別に同情や憐れみでもなく、子供を保護したいといった偽善でもない。
単純にその時の心に従っただけだ。抱きしめて母親のまねごとをする気もない。
愛とか信頼とか、友情なんてものも信じる気になれないのに、そんなことが出来るわけがない。
目に見えない愛や信頼、友情なんてものは、状況に応じて簡単に変わってしまうものだ。
お金がなくなれば、仲間面しているハンナ達だってあっという間にアルノの前から消えてしまうし、クレンとカーラは独立した途端、もう世話人のまねごとをする必要もなくなり、城に住んでいたとしても、アルノを訪ねて来ることすらやめてしまうだろう。
大きなため息をつき、ハンナをじろりと睨む。
どっかに行ってよと表情で訴えてみたが、ハンナはなぜかアルノの正面に座ってしまった。
「うらやましいわ。あんな美貌の夫がいて。夜はすごいらしいじゃない。見回りの騎士達が仕事に集中できなくて、気の毒だと噂になっているのよ。声が聞こえるのですって」
意地悪な言い方に、アルノはどこかほっとした。
味方だと思うより、敵だと思っていた方が気が楽だ。
「羨ましがる必要ないでしょう?だって、もうハンナにだって夫がいるじゃない。それとも妥協して今の夫を選んだわけ?」
毒のあるアルノの言葉をハンナは平然と受け止めた。
「私は幸せよ。おかげさまでね。一日中食堂の前で客の呼び込みをしなくても良いし、自分の口に入らない野菜を育てて、市場で叩き売られることもない。
お給料はちゃんともらっているし、これ以上ないぐらい立派な屋根の下で眠ることが出来ている。
心を満たしてくれる夫も、ようやく見つけた」
子供時代の意地悪なハンナを鮮明に覚えているアルノは、不審な顔を崩さない。
「アルノは……いつも怒っているのね。まだ私達のことを怒っているの?それとも、立派な旦那様のこと?」
いつも不機嫌な顔をして、眉間に皺を寄せている。
世界中を敵に回しているかのような顔をして、いつまでも捨てられた子供のようにひねくれている。
それがハンナや他の人たちから見えるアルノの姿だった。
アルノはハンナから目を逸らし、真っ暗な窓の外を見た。
「ハンナは……どうして結婚したの?ニルドが好きだったのでしょう?」
「子供の頃はニルドに夢中だったわ」
あっさりハンナは認めた。
「それから二、三人と付き合ったけど、ビリーとは、死ぬまで一緒に居たいと思ったのよ。貧しくても、苦労をしても、この人なら傍にいてくれると信じられた。彼の愛が私の意地悪な心を溶かしてくれたの」
「意地悪だと自覚があったのね。良かった」
手元の酒をまたあおり、アルノはまた憂鬱な溜息をついた。
「子供のことは?結婚前に話し合った?」
「そうね……」
それがアルノの今の悩みなのだと察し、ハンナは少しだけ身を乗り出し、周りに人がいないか確かめた。
厨房では、明日の仕込みが始まっているし、他の人たちもまだ仕事を抱えて出払っている。
クレンとカーラは、自室で勉強をしている時間だ。
「もちろん、話し合ったわ。正直に言うとね、夢を見ていた時もあったの。経済力のある夫とましな生活をする夢。子供と夫、絵に描いたような贅沢な結婚生活。
だけど、町に下りた時に、目が覚めたように現実が見えた。未婚の女性が何百人も通りを行き交っているのだと思ったら、私にだけ奇跡が起こるわけがないとわかってしまう。
村にいたときは、目移りするようなものが何もなくて、余計なことは考えなくて済んでいたのね。
でも、妥協じゃないの。手に入らないものを一つ一つ削ぎ落していったら、ただ傍で笑って座ってくれている人が、一番心を満たしてくれることに気が付いたのよ。
この人の子供が欲しいと心から思った。でもね、究極のことを言えば子供はね、どちらでも良いと思う」
聖人にでもなったかのようなハンナをまじまじと見返し、アルノはさらに不機嫌な顔になった。
ゼインとは信頼ではなく、肉欲で繋がっている。
目を合わせれば話しをするより先に、体を重ねてしまう。
「隣に座って……笑っているだけで良いの?」
「そう」
アルノの子供時代にもそんな人がいた。
村を見下ろす斜面に張り出した大きな枝に、ニルドと並んで座っていた時、それだけで心は落ち着き、いつまでもこうしていたいと思えたのだ。
口づけもなく、体を重ねることさえなくても満足出来ていた。
だけどニルドは、もう手に入らないし、時間も巻き戻せない。
「どうやって……好きだった人を諦めたの?」
「まさか、あんな素敵な夫がいるのに、まだニルドに未練があるの?」
さすがにそれは看過できない問題だと、ハンナの表情が険しくなる。
「違うけど……。よくわからないのよ。ゼインと一緒にいるのは楽しいし、好きだけど……」
結婚がしたかっただけなのか、それともゼインが好きだったから結婚したのか。
どちらでも問題はないように思えるが、やはりそこに生じた小さな疑問は、二人の間に、大きな溝となって横たわる。
愛があって結婚したのであれば、その先に家族があり、延長線上に子供が存在している。
だけど、性欲を満たすことを目的とした結婚には、家族という存在が見えてこない。
「子供のことを話し合って結婚すれば良かった」
「アルノは子供が欲しいのね。クレンとカーラを見ていて、自分の子供が欲しくなったのでしょう?あの子達、可愛いものね。子供時代のアルノとえらい違いよ。賢くて、素直で、ひねくれていないわ」
「ハンナも、人のこと言えないでしょう。クレンとカーラが子供時代のハンナみたいだったら、絶対に引きとったりしなかったもの」
「そりゃそうね」
ハンナは笑い、立ち上がった。
「まだ仕事が残っているから、そろそろ行くわ。もう一杯飲む?」
「もう帰る」
席を立ったアルノから、空になったグラスを取り上げ、ハンナは外をちらりと見た。
「ここに泊まったら?あんたの部屋はそのままよ」
「ここは落ち着かないのよ。狭いベッドが一番だしね」
教会の仕事を山ほど抱えているクシールは多忙だし、ゼインも役職がついて国を駆け回っている。
それ故、二人はアルノが森から戻って、契約紙を仕上げたぐらいにやってくる。
仕事が終わってひといきついた直後に現れ、クシールは厳しくアルノの仕事を確認し始め、ゼインはアルノを寝室に誘おうとするのだ。
どうやってアルノの仕事が終わる日を割り出しているのかわからないが、今回もその調子で戻ってくるのであれば、ゼインと話し合うまで、まだ考える時間はある。
早く一人になろうと、アルノは裏庭に面した厨房の扉から外に出た。
その背中を、空になったグラスを手にしたハンナが、少し心配そうに見送っていた。
残念ながら、アルノの目論見は外れた。
ロタ村が近づいてきた時、森に面した小さな家に、窓灯りが見えたのだ。
ゼインかクシール、もしかしたら二人一緒に戻ってきているのかもしれない。
アルノの足が一気に重くなる。
まだ契約紙は仕上がっていないし、ゼインと話し合うための材料も整っていない。
少し前まで、窓の明かりを見ると、心が浮き立つほどうれしかったのに、ちょっとゼインと意見の相違があっただけで、気持ちは大きく変わってしまうのだ。
最高の快感を与えてくれる、美貌の夫の何が不満なのかと思うが、どうしても心にかかった霧が晴れない。
ゼインとは将来のことについて真剣に話し合ったことがない。
子供が欲しいのか、どんな家庭を築きたいのか、あるいは、アルノとどこまでの関係になりたいと望んでいるのか。
聞いてみたいけど、聞くのが怖い質問が、心の底に沈んでいる。
足音を忍ばせ、アルノはそろそろと裏口に近づいた。
こっそり寝室に入って、顔を合わせないように、先に眠ってしまおうかと考えた。
そうすれば一晩はこの問題から逃げられる。
と、その時、薄い壁越しにゼインの声が聞こえてきた。
「今夜はもう遅い。アルノの帰りは明日になりそうだな」
「そうだな。月明かりが出ている夜は、契約師の力がもっとも強くなると言われる。今頃宣誓液を作っているだろう」
それはクシールとゼインの声だった。
ここで家に入れば、なぜこんな宣誓液を作るのに最適な日に戻って来たのかと小言を言われるかもしれない。
さらに、この時間から契約紙を作れと言われかねない。
そんなやりとりの後で、ゼインと子供のことについても話し合わなければならない。
あまりの憂鬱さに、アルノの足は鉛のように重くなり、一歩も動くことが出来なくなった。
話し合いたいのか、話し合いたくないのかさえも、よくわからなくなってくる。
と、寝室の窓に明かりが入った。
もう寝るのだろうかと、少しほっとして、足音を忍ばせそちらに向かう。
裏口を横切り、壁沿いに窓に近づいていくと、床の軋むような音が聞こえてきた。
「んっ……ああ……」
まさかと、心臓が凍り付く。
それは艶のあるクシールの声だった。
二人が抱き合っている場面を一度だけ見たことがあるが、それは結婚前のことだ。
「はっ……はっ……」
どう考えても、二人の男が快楽を貪っているとしか思えない物音に、かつて寝室で見た二人の姿が蘇る。
震えながらもついに寝室の窓に到達し、アルノはそこに顔を近づけた。
月明りに包まれた寝台の上で、美形の男達が体を重ねている。
全裸のクシールの上に、全裸のゼインがのしかかり、両足を持ち上げ、腰を押し付けている。
揺れる二人の陰と、ぎしぎし軋みだしたベッドの音を聞きながら、アルノはただただ溢れてくる涙で頬を濡らしていた。
驚きのあまり、悲しみも胸の痛みも感じない。
まるで走馬灯のように、結婚後のゼインとの幸せな日々が頭の中で蘇る。
新婚初夜のゼインのぬくもり。
凶暴で淫らで頼もしいその姿。
一緒にお風呂に入って互いを慰めあったこと、物欲しげに自分を見てくるゼインの眼差し。
美しいゼインを見せびらかして町を歩き、下手なダンスを踊った夜。
夫婦になってから訪れた幸せな出来事の全てが、音を立てて崩れて行く。
夢も希望も捨てたはずなのに、またすがりついたせいだ。
アルノは、それに気が付いた。
結婚して夫になったとしても、ゼインが世話人であることはかわらない。
結局、アルノは偽物の夫を自慢して歩いていたのだ。
愛されていると勘違いした哀れな契約師は、ゼインに羨望の眼差しを向けてきた女性達を前に、得意げに胸を張り、勝ち誇ったように笑い、下手なダンスを踊っていたのだ。
まさに今のアルノのように、とんだ道化者だった。
なんて馬鹿だったんだろう。
この結婚に愛があるのか、ずっと不安だった。
十年間、都合の良い妄想の世界で生きてきたように、その疑問からずっと目を背けてきた。
でも、いつか必ず現実に向き合わなければならない瞬間が訪れるのだ。
ゼインにはクシールがいる。クシールにはゼインがいる。
二人は同じ世界で生まれ、共に生きてきた仲間だ。
だけど、アルノの世界には誰もいない。
それは結婚しても夫を得ても変わらない。
凍り付きそうな孤独を胸に抱え、アルノは足音を忍ばせ、ゆっくり後ろに下がった。
それからくるりと家に背を向け、暗い森に向かって歩き出した。
さきほどまで、ニルドと森にいて、穴ウサギのソテーを食べていた。
何か言いたそうなニルドを、絶対に何も言うなと眼力で黙らせ、とにかく油を滴らせた肉だけ腹に詰め込んだ。
それから、さっさと逃げ出し、城の厨房にやってきたのだ。
ロタ村の家に戻らなかったのは、クシールにもゼインにも今は会いたくなかったからだ。
もし、クシールが来ていたら、契約紙についてまた文句を言われる。
仕事が遅いとか、もっと上手に出来るはずだとか、説教されることは目に見えている。
子供のことで怒らせたゼインに会うのも気が重い。
二人の子供を全力で否定されたのだ。
さすがにショックだったし、気分は激しく落ち込んでいる。
とはいえ、ゼインに子供が欲しい理由を言えなかった自分にも非があるとわかっている。
なぜ子供が欲しいのか、その理由を見つけなければ、話し合うことすら難しい。
目の前に、突然グラスが置かれた。
テーブルの反対側に、エプロン姿のハンナが立っていた。
「何?」
「お酒?それともお水?」
ハンナの問いかけに、アルノはぶすっとした顔になる。
「……お酒」
目の前に置かれたグラスが取り上げられ、ハンナが厨房の奥に去っていく。
すぐに戻ってきて、銅色のグラスをアルノの前に置いた。
仕方なく、アルノは体を起こしてグラスを手に取った。
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甘いお酒がとろりと舌先を滑り落ちる。
その後から、ぴりりとした苦みもちゃんとくる。
「美味しい……」
「岩ベリーに蜂蜜をくわえてみた」
「へぇ……」
アルノが考えた売り方よりよっぽど良い。
「これ、性欲剤になるかも」
「そうなの?」
不審な顔で、アルノはコップの中を覗き込む。
琥珀色のお酒がちゃぷんと揺れる。
「効果が立証できないと、売り文句には使えない」
「試してみる?」
「ハンナが試したらいいじゃない。新婚でしょう?私は……式に招待されていないけど」
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その通りだったため、アルノは無言でまたお酒を喉に流し込んだ。
ハンナの結婚式にも、誰の結婚式にも興味はない。
クレンとカーラであれば、少し見届けたい気持ちはある。
なにせ、アルノが手に入れることが出来なかった、普通の子供時代を二人には体験させてあげたいと思ってきたからだ。
善意ではなく、ただ知りたかったのだ。
もしアルノにも子供時代に助けてくれる人がいたら、どんな人生になっていたのか。
クレンとカーラにしてあげてるようなことを、アルノにもしてくれる人がいたら、他の道を選んでいたかもしれない。契約師以外の道を選んだとしたら、どうなっていたのか、アルノには想像も出来ない。
だけど、その先はクレンとカーラが教えてくれる気がしている。
二人を引き取った理由は、別に同情や憐れみでもなく、子供を保護したいといった偽善でもない。
単純にその時の心に従っただけだ。抱きしめて母親のまねごとをする気もない。
愛とか信頼とか、友情なんてものも信じる気になれないのに、そんなことが出来るわけがない。
目に見えない愛や信頼、友情なんてものは、状況に応じて簡単に変わってしまうものだ。
お金がなくなれば、仲間面しているハンナ達だってあっという間にアルノの前から消えてしまうし、クレンとカーラは独立した途端、もう世話人のまねごとをする必要もなくなり、城に住んでいたとしても、アルノを訪ねて来ることすらやめてしまうだろう。
大きなため息をつき、ハンナをじろりと睨む。
どっかに行ってよと表情で訴えてみたが、ハンナはなぜかアルノの正面に座ってしまった。
「うらやましいわ。あんな美貌の夫がいて。夜はすごいらしいじゃない。見回りの騎士達が仕事に集中できなくて、気の毒だと噂になっているのよ。声が聞こえるのですって」
意地悪な言い方に、アルノはどこかほっとした。
味方だと思うより、敵だと思っていた方が気が楽だ。
「羨ましがる必要ないでしょう?だって、もうハンナにだって夫がいるじゃない。それとも妥協して今の夫を選んだわけ?」
毒のあるアルノの言葉をハンナは平然と受け止めた。
「私は幸せよ。おかげさまでね。一日中食堂の前で客の呼び込みをしなくても良いし、自分の口に入らない野菜を育てて、市場で叩き売られることもない。
お給料はちゃんともらっているし、これ以上ないぐらい立派な屋根の下で眠ることが出来ている。
心を満たしてくれる夫も、ようやく見つけた」
子供時代の意地悪なハンナを鮮明に覚えているアルノは、不審な顔を崩さない。
「アルノは……いつも怒っているのね。まだ私達のことを怒っているの?それとも、立派な旦那様のこと?」
いつも不機嫌な顔をして、眉間に皺を寄せている。
世界中を敵に回しているかのような顔をして、いつまでも捨てられた子供のようにひねくれている。
それがハンナや他の人たちから見えるアルノの姿だった。
アルノはハンナから目を逸らし、真っ暗な窓の外を見た。
「ハンナは……どうして結婚したの?ニルドが好きだったのでしょう?」
「子供の頃はニルドに夢中だったわ」
あっさりハンナは認めた。
「それから二、三人と付き合ったけど、ビリーとは、死ぬまで一緒に居たいと思ったのよ。貧しくても、苦労をしても、この人なら傍にいてくれると信じられた。彼の愛が私の意地悪な心を溶かしてくれたの」
「意地悪だと自覚があったのね。良かった」
手元の酒をまたあおり、アルノはまた憂鬱な溜息をついた。
「子供のことは?結婚前に話し合った?」
「そうね……」
それがアルノの今の悩みなのだと察し、ハンナは少しだけ身を乗り出し、周りに人がいないか確かめた。
厨房では、明日の仕込みが始まっているし、他の人たちもまだ仕事を抱えて出払っている。
クレンとカーラは、自室で勉強をしている時間だ。
「もちろん、話し合ったわ。正直に言うとね、夢を見ていた時もあったの。経済力のある夫とましな生活をする夢。子供と夫、絵に描いたような贅沢な結婚生活。
だけど、町に下りた時に、目が覚めたように現実が見えた。未婚の女性が何百人も通りを行き交っているのだと思ったら、私にだけ奇跡が起こるわけがないとわかってしまう。
村にいたときは、目移りするようなものが何もなくて、余計なことは考えなくて済んでいたのね。
でも、妥協じゃないの。手に入らないものを一つ一つ削ぎ落していったら、ただ傍で笑って座ってくれている人が、一番心を満たしてくれることに気が付いたのよ。
この人の子供が欲しいと心から思った。でもね、究極のことを言えば子供はね、どちらでも良いと思う」
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ゼインとは信頼ではなく、肉欲で繋がっている。
目を合わせれば話しをするより先に、体を重ねてしまう。
「隣に座って……笑っているだけで良いの?」
「そう」
アルノの子供時代にもそんな人がいた。
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口づけもなく、体を重ねることさえなくても満足出来ていた。
だけどニルドは、もう手に入らないし、時間も巻き戻せない。
「どうやって……好きだった人を諦めたの?」
「まさか、あんな素敵な夫がいるのに、まだニルドに未練があるの?」
さすがにそれは看過できない問題だと、ハンナの表情が険しくなる。
「違うけど……。よくわからないのよ。ゼインと一緒にいるのは楽しいし、好きだけど……」
結婚がしたかっただけなのか、それともゼインが好きだったから結婚したのか。
どちらでも問題はないように思えるが、やはりそこに生じた小さな疑問は、二人の間に、大きな溝となって横たわる。
愛があって結婚したのであれば、その先に家族があり、延長線上に子供が存在している。
だけど、性欲を満たすことを目的とした結婚には、家族という存在が見えてこない。
「子供のことを話し合って結婚すれば良かった」
「アルノは子供が欲しいのね。クレンとカーラを見ていて、自分の子供が欲しくなったのでしょう?あの子達、可愛いものね。子供時代のアルノとえらい違いよ。賢くて、素直で、ひねくれていないわ」
「ハンナも、人のこと言えないでしょう。クレンとカーラが子供時代のハンナみたいだったら、絶対に引きとったりしなかったもの」
「そりゃそうね」
ハンナは笑い、立ち上がった。
「まだ仕事が残っているから、そろそろ行くわ。もう一杯飲む?」
「もう帰る」
席を立ったアルノから、空になったグラスを取り上げ、ハンナは外をちらりと見た。
「ここに泊まったら?あんたの部屋はそのままよ」
「ここは落ち着かないのよ。狭いベッドが一番だしね」
教会の仕事を山ほど抱えているクシールは多忙だし、ゼインも役職がついて国を駆け回っている。
それ故、二人はアルノが森から戻って、契約紙を仕上げたぐらいにやってくる。
仕事が終わってひといきついた直後に現れ、クシールは厳しくアルノの仕事を確認し始め、ゼインはアルノを寝室に誘おうとするのだ。
どうやってアルノの仕事が終わる日を割り出しているのかわからないが、今回もその調子で戻ってくるのであれば、ゼインと話し合うまで、まだ考える時間はある。
早く一人になろうと、アルノは裏庭に面した厨房の扉から外に出た。
その背中を、空になったグラスを手にしたハンナが、少し心配そうに見送っていた。
残念ながら、アルノの目論見は外れた。
ロタ村が近づいてきた時、森に面した小さな家に、窓灯りが見えたのだ。
ゼインかクシール、もしかしたら二人一緒に戻ってきているのかもしれない。
アルノの足が一気に重くなる。
まだ契約紙は仕上がっていないし、ゼインと話し合うための材料も整っていない。
少し前まで、窓の明かりを見ると、心が浮き立つほどうれしかったのに、ちょっとゼインと意見の相違があっただけで、気持ちは大きく変わってしまうのだ。
最高の快感を与えてくれる、美貌の夫の何が不満なのかと思うが、どうしても心にかかった霧が晴れない。
ゼインとは将来のことについて真剣に話し合ったことがない。
子供が欲しいのか、どんな家庭を築きたいのか、あるいは、アルノとどこまでの関係になりたいと望んでいるのか。
聞いてみたいけど、聞くのが怖い質問が、心の底に沈んでいる。
足音を忍ばせ、アルノはそろそろと裏口に近づいた。
こっそり寝室に入って、顔を合わせないように、先に眠ってしまおうかと考えた。
そうすれば一晩はこの問題から逃げられる。
と、その時、薄い壁越しにゼインの声が聞こえてきた。
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「そうだな。月明かりが出ている夜は、契約師の力がもっとも強くなると言われる。今頃宣誓液を作っているだろう」
それはクシールとゼインの声だった。
ここで家に入れば、なぜこんな宣誓液を作るのに最適な日に戻って来たのかと小言を言われるかもしれない。
さらに、この時間から契約紙を作れと言われかねない。
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「んっ……ああ……」
まさかと、心臓が凍り付く。
それは艶のあるクシールの声だった。
二人が抱き合っている場面を一度だけ見たことがあるが、それは結婚前のことだ。
「はっ……はっ……」
どう考えても、二人の男が快楽を貪っているとしか思えない物音に、かつて寝室で見た二人の姿が蘇る。
震えながらもついに寝室の窓に到達し、アルノはそこに顔を近づけた。
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全裸のクシールの上に、全裸のゼインがのしかかり、両足を持ち上げ、腰を押し付けている。
揺れる二人の陰と、ぎしぎし軋みだしたベッドの音を聞きながら、アルノはただただ溢れてくる涙で頬を濡らしていた。
驚きのあまり、悲しみも胸の痛みも感じない。
まるで走馬灯のように、結婚後のゼインとの幸せな日々が頭の中で蘇る。
新婚初夜のゼインのぬくもり。
凶暴で淫らで頼もしいその姿。
一緒にお風呂に入って互いを慰めあったこと、物欲しげに自分を見てくるゼインの眼差し。
美しいゼインを見せびらかして町を歩き、下手なダンスを踊った夜。
夫婦になってから訪れた幸せな出来事の全てが、音を立てて崩れて行く。
夢も希望も捨てたはずなのに、またすがりついたせいだ。
アルノは、それに気が付いた。
結婚して夫になったとしても、ゼインが世話人であることはかわらない。
結局、アルノは偽物の夫を自慢して歩いていたのだ。
愛されていると勘違いした哀れな契約師は、ゼインに羨望の眼差しを向けてきた女性達を前に、得意げに胸を張り、勝ち誇ったように笑い、下手なダンスを踊っていたのだ。
まさに今のアルノのように、とんだ道化者だった。
なんて馬鹿だったんだろう。
この結婚に愛があるのか、ずっと不安だった。
十年間、都合の良い妄想の世界で生きてきたように、その疑問からずっと目を背けてきた。
でも、いつか必ず現実に向き合わなければならない瞬間が訪れるのだ。
ゼインにはクシールがいる。クシールにはゼインがいる。
二人は同じ世界で生まれ、共に生きてきた仲間だ。
だけど、アルノの世界には誰もいない。
それは結婚しても夫を得ても変わらない。
凍り付きそうな孤独を胸に抱え、アルノは足音を忍ばせ、ゆっくり後ろに下がった。
それからくるりと家に背を向け、暗い森に向かって歩き出した。
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