精霊の森に魅入られて

丸井竹

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49.不安の正体

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一度目の熱を発散し終えたゼインを見上げ、アルノは洞にいた美貌の男のことを思い出していた。

ゼインは整った顔立ちだが、男性であることは一目瞭然だ。しかしあの男は性別すら感じさせず、とにかく神秘的な存在といった印象だった。

例えば、窓に張り付く霜の模様や、葉を滑り落ちてくる朝露の落ちる寸前の形、それから滝壺に出来る美しい円模様、計り知れない時間をかけて、雨が削った岩の丸み、自然が生み出す奇跡ともいえる美が、あの男にも宿っているような気がしたのだ。
ついに精霊が姿を現したのではないかとさえ思った。
話してみれば確かに、普通の男だとも思ったが、黙っていれば精霊王でも通用するだろう。

しかし実際問題、もし精霊だと言われてしまったら、それもそれで気まずい話だとアルノは考えた。
なにせ、これまで散々精霊に対しても悪態をついてきたし、「ニルドの馬鹿」は精霊語で誉め言葉じゃないのかまで思った気がする。

もしかすると、契約師を辞めたがっているアルノに嫌がらせのつもりで、精霊たちはマカの実を見つけるように仕向けているのかもしれない。

「アルノ?」

突然嫌な顔になったアルノを見て、ゼインが怪訝な顔つきで手を振った。

ゼインはまだアルノの上に馬乗りになっており、二度目の行為に及ぼうとしている最中だった。
突然妙な顔になったアルノに、もうやる気はないのかと不満そうに口元を歪めている。

我に返り、アルノは夫の前で他の男のことを考えていたことを一瞬だけ反省した。

「どうした?」

「な、なんでもない」

アルノは急いで笑顔を作り、うっとりと夫の顔を見上げた。

洞にいた男のことをアルノは誰にも話す気はなかった。
敵であったとしたら、アルノは反逆者になるだろうし、契約紙を一枚ただで作ったとばれたら、クシールに小言を言われるに決まっている。さらに金貨五十枚の借金が増えるかもしれない。
どちらにしろ、厄介なことにしかならない。

ゼインはひらりと寝台から下りると、水差しを取り上げ、グラスに水を注いだ。
一気にあおり喉を潤すと、また注いでアルノに差し出す。
体を起こし、アルノはグラスを受け取った。

月明りの中に立つゼインは、ぎらついた目をしてアルノが飲み終わるのを待っている。
アルノが水を飲み干すと、ゼインがすぐにグラスを取り上げ、テーブルに戻した。

「もう一度するか?」

問いかけながら、ゼインは獣のようにアルノに襲い掛かった。
ゼインの唇がアルノの発情している乳房をついばみ、固く尖っている部分を舌で舐める。

「んっ……」

仰向けに倒されたアルノは、片手を伸ばし夫の顔に触れる。

「きれいね……」

「君にはあまり魅力を感じてもらえなかったようだが?」

確かに、最初はゼインに見惚れることはあっても、なかなか体を重ねる気にはなれなかった。
ニルドに未練があったし、純潔にもこだわりがあった。
しかし一番の理由は、警戒心が先に立ち、どうやって身を任せたらいいいのかわからなかったせいだ。

こんな美形の男が自分を好きになるわけがないと思っていた。
本当のゼインの姿を見て、警戒心は消えたが、なぜ自分が妻に選ばれたのか、その疑問は消えてはいない。

とはいえ、自分のどこが好きなのか、うっかり聞いてしまい、がっかりするのも怖い。
どうせろくな答えは返ってこない。

「ねぇ、クシールが話していたけど……この国は戦争をしているの?」

淫らな欲求に流されかけていたアルノは、不意に今夜の目的を思い出した。
いつも、体を重ねるばかりで会話をする暇がない。
商売のことや、クレンとカーラのこと、クシールに対する文句なんかは時々、体を重ねる合間にしてきたが、二人の話となると、全くゼインにその気がなく、それよりも抱き合おうとさすがの手腕でアルノを黙らせてしまう。

それでも、今日はどうしても夫婦の話をしたいと、アルノは考えていた。

結婚した時は、この幸せが一生続くのだとなぜか、そう思い込んでいた。
しかし日常は続き、結婚で得た幸せは持続しないものなのだとわかってきた。
結婚前に戻りたいとは思わないが、この幸せを強固なものにするためには、何かまた大きな幸せがきっと必要なのだ。
あるいは、心の底に溜まってきた不満を一つ一つすくいあげる必要があるのかもしれない。

とにかく、心に積み重なってきた正体不明の漠然とした不安を解消しようと、アルノはついにゼインと話し合うことに決めたのだ。

なんとなく会話が始まりやすい雰囲気を作ろうと試みたが、ゼインは途端に不機嫌に立ち上がり、アルノの裸身に上掛けをかけた。

「君が心配することではない。バルトバ国とは昔から仲が悪い。小競り合いはいつものことだし、今年は特にひどいということだけだ。それに……。アーダン国に新しい王が立った」

「つまり?」

「形勢逆転となるかどうかはまだわからない。そのうち収まると思うが、君の契約紙が無ければ、困ったことになる」

「私の上にあと四人もいるでしょう?その人たちにも催促しているの?私にばかり働かせていない?」

不満の声を上げるアルノを見て、さすがのゼインも咎めるような顔をした。

「君には良心が欠けている」

「良心ですって?そんなもので借金は返せないでしょう?私はいつだって仕事に追われているし、無理やり抱えさせられたもののせいで身動きだって取れないのよ」

「俺ではご褒美にならないか?」

むっとしてアルノは唇を尖らせる。
こんな美貌の夫が性欲を満たしてくれるのだから、不満があるわけがない。
そう思いたいのに、問題を解決したい気持ちを覆すことは出来ない。

「人間の欲望って際限がないのね。もう……何も欲しいものは無いはずなのに、不満はどうやっても沸いてくる」

「そんなに欲深くてよく審査会で上位に入れたものだ」

少し機嫌の戻ったゼインの様子に安堵し、アルノは両手を伸ばした。

「抱きしめてくれる?」

それを二度目の許可と受け取り、ゼインは上掛けをはぎとり、アルノの体にしゃぶりつく。
その淫らな感触に、アルノも反射的に甘い声をあげた。

そのまま流されそうになったアルノは、躊躇いがちにゼインを引きはがそうとその胸に手をかけた。
なんとか機嫌を損ねずに、もう少し話が出来ないだろうかと考える。

淡い月明かりの中で、乳房を舐める夫の額を見下ろし、アルノはついに意を決して口を開いた。

「女の子がいいな」

ぱっと顔をあげ、ゼインがアルノの唇を奪った。

「何を言っている?」

耳をしゃぶりながら、アルノの思考力を奪ってしまおうとするように、濡れた秘芯に指を滑りこませる。

「んっ……」

与えられる快感を貪りながら、アルノはゼインを抱きしめた。

「決まっている。私達は夫婦なのだから、次は子供よ」

「弟子が欲しいのか?」

「弟子じゃなくて、子供よ。結婚した時より、ずっと幸せになれる気がするの」

完全に興味を失った様子で、ゼインは起き上がって背中を向けた。
窓を向いたゼインの背中は、まるで黒い壁のようにアルノの前に立ちはだかる。
アルノは飛び起き、その背中に抱き着いた。

「ゼイン、だめなの?」

「俺がいればいいだろう?なぜ子供が欲しい」

「だって……結婚したら次は子供じゃない?」

なぜと言われても、明確な答えは出せない。
心の中に横たわる漠然とした不安を消し去る何かが欲しいのだ。

この結婚生活に足りないものを見つけ、補いたいと感じている。
今のところ、それは子供の存在しか思い当たらない。
森から眺めてきた平和でのどかな村の光景の中には、恋人達、友人、そして夫婦に家族の姿があった。

仲の良さそうな夫婦の間には、必ず子供の姿があり、そこには溢れるような笑顔があった。
満ち足りた表情で笑う家族の姿に、アルノはどうしたらそれが手に入るのだろうかと考えたのだ。

結婚は出来たのだから、当然子供も手に入るはずだ。
いつになく不機嫌な態度になったゼインに、アルノは媚びるようにその背中に口づけを繰り返す。

「それは世間一般の考え方だ。子供がいなくても幸せに暮らすことは出来る」

「そ、そうだけど……」

「それに、クレンとカーラがいる。君が引き取ると決めたのだろう?放り出すのか?」

かっとしてアルノはゼインの背中を睨んだ。

「クレンのことは、子ども扱いするなと言わなかった?それに、クレンとカーラはもうすぐ独り立ちできる。私が欲しいのは、胸に抱いてミルクをあげる赤ちゃんよ」

「絶対にいらない!」

断固とした口調で冷たく言い放ち、ゼインはアルノを押し倒すと、両手を頭の上で押さえ込んだ。

「君とこんな風に遊べなくなる。君を縛り、淫らに犯し、もうやめてほしいと懇願するまで責められなくなる。
教育されてきたからではなく、俺はこれが好きでやっている。君だって、こういうことが好きだろう?」

十年の淫らな妄想生活を思い出せば、確かにこれはアルノの求めていたものだが、どうしても納得がいかない。

なぜ夫にまでなったのに、ゼインはアルノの望みを叶えようとしてくれないのか。
夫の協力なしに子供を持つことが出来ないとしたら、ゼインを納得させるだけの理由がなければならないのだ。
結婚した時は思いもしなかった問題に直面し、アルノは自分だけが欲深いのだろうかと考えた。



答が出ないまま、結局またゼインと楽しく一日を過ごしたアルノは、再びかごを持って森に入った。
マカの実はすぐに見つかり、宣誓液も順調に完成した。

作業を終え、傍の空き地で倒木に腰を下ろしたアルノは、灰色の空を見上げた。
そろそろ雪が降る季節だが、まだそこまで寒くもなっていない。

「子供……」

つい考えていることが声になって外に出た。
宣誓液を作りながら考え続けたが、ゼインを説得できるような、強い理由を思いつくことは出来なかった。
欲しくない理由であれば、すぐに上げられる。
遊べなくなるし、自分の人生が二の次になる。
夫と過ごす時間は今よりも少なくなるし、借金も増えそうだ。

落ち葉の上を何かが跳ねた。
穴ウサギが、がさがさと湿った落ち葉をかきわけ、何かを探している。

お尻を突き出し、綿毛のような尻尾を左右に振っている。

突然、耳元でひゅっと音がした。
気づけば、穴ウサギの動きがぴたりと止まり、そのお尻から尻尾とは違う、真っすぐな木の棒が突き出している。

「アルノ!今日は穴ウサギが食べられるな!」

能天気な声が聞こえ、アルノは振り返った。
ニルドが満面の笑顔で近づいてきて、落ち葉の中に頭を突っ込んでいた穴ウサギを持ち上げる。
そのお尻から胸にかけて、真っすぐに矢が刺さっている。

ニルドを見れば、背中に狩猟用の弓を背負い、腰にも矢筒を下げていた。

「狩りをしているの?」

「見回りをしながら、狩りもしている。新鮮な食材の調達だ。それに、今日は城に客が入ったらしいぞ。獲物が取れたら分けてくれとクレンに頼まれた」

「クレンに?そういえば宿はどう?何か話を聞いている?」

ニルドが持ち上げた穴ウサギの口から、ずるずると長い棘ミミズが滑り出してきて、地面に落ちた。
ぎょっとして、それを目で追っていると、棘ミミズはまだ生きていたらしく、泥だらけの落ち葉の中に、もぞもぞと消えて行く。

「穴ウサギってあんなものを食べているのね。肉食動物だったなんて驚きよ」

ニルドは切り株にウサギを置いて、もう血抜きを始めている。
器用に毛皮を剥いでいくその手もとを見ながら、アルノは小さくため息をついた。

「予約が入っている話は聞いているぞ。肉も届けている。岩ベリーが意外と売れているらしい」

「順調じゃない。でも、私の人生で順調だったことなんて一度もないから、なんだか嘘っぽい話ね」

「順調ではないな。ハンナ達は厨房でよく頭を悩ませている。食事が酷いとか、外観は豪華だけど内装が安っぽいとか、いろいろ客に注文を付けられているらしい。皆で出資し合って、家具を新調しようと話していたが、そのつてもないと困っていた」

「やっぱりね……。私に商才がないばかりに、皆にも苦労をかけるのね」

「アルノ、それでも君は幸せだろう?夫もいるし仲間もいる。友達も出来たし、クレンやカーラを引き取った。昔のことなんて、もう思い出さなくなったんじゃないか?」

さっさと焚火の準備を始めたニルドの手際のよさに感心しながら、アルノは足を組み替えた。

「夫はいるけど……仲間だと思っている人はいない。友達もいないし、クレンやカーラは放り出せないと思って引き取っただけ」

「俺のことは?友達だろう?」

驚いたようにニルドが振り返る。

妄想の中では恋人だったが、現実では十年も前にアルノに一言も無く村を出て行った男であり、あろうことか他に女を作って楽しくやっていたのだ。

「どう考えてもただの幼馴染ね。ニルドもそれ以上の関係だと思ったこともないでしょう?私のことなんて忘れていたくせに」

アルノはニルドに恋をしていたが、ニルドはアルノのことなんて何とも思っていなかった。
だとしたら、二人の関係は子供の頃、ちょっと一緒に遊んだだけの幼馴染以上にはなり得ない。
さすがのアルノも、その現実はとっくに受け入れている。

無言でニルドは前を向き、細かく切った穴ウサギの肉を枝に突き刺していく。
それが終わると、一本ずつ火があたるように角度をつけ、焚火の周りにさし始める。

突然始まった不自然な沈黙に、アルノは不審な顔をした。
ニルドは背中を向けており、その表情は見えない。

「君の幸せをずっと願っていた。君を忘れていたわけじゃない。君が幸せになるのを待っていたんだ」

「は?」

どこか含みのある言い方に、嫌な予感を覚え、アルノは警戒した。

いつも能天気で純朴な青年面をしてきたニルドが、突然、別の顔を見せ始めたようで恐怖すら感じ、アルノは耳を塞いで逃げてしまおうかと考えた。
しかし焚火の周りに並べられた穴ウサギの肉が焼け始め、食欲をそそる香りが漂い、肉からは油が滴り始めている。

これを食べずに逃げ出しては、もったいない。
肉は貴重な食料であり、滅多に食べられないご馳走だ。

美味しそうに焼けていく穴ウサギの串焼きを見ながら、アルノは村で見た平和で幸せそうな光景は、幻だったのではないだろうかと考えた。
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