精霊の森に魅入られて

丸井竹

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48.過酷な一日

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ひんやりとした空気の中、アルノは薄暗くなってきた森の中をいつもの洞に向かっていた。

方向も考えず歩き続け、木々の合間を抜けると、不意に見慣れた空き地が現れた。
契約師であれば、何も考えずとも辿り着ける場所だが、そうでなければ道は覚える必要がある。

適当に歩いても目的地に辿り着いてしまうことを不思議に思うこともなく、アルノは空き地を横切り、その裏側にある折れた大木の方へ向かった。

少し下ったところにあるその上部が折れた木は、かなりの太さで、深い森を背景に、地面に見事な根を張っている。
既に朽ちているはずだが、その立派な太い根はまだ地面をしっかりと捉え、洞の周りを囲み、さらに地中にも深く刺さっている。

それ故、洞の形は崩れることなく保たれていた。

夕暮れ間近の空の下、アルノは洞の前に四つん這いになり、中を覗き込んだ。
外よりも暗い内部は、完全に闇に沈んでいる。
中央部まで行けば、淡い光が天井から降り注いでいるが、そこまでは手探りで進まなければならない。

ちょうど階段のようになっている、絡まり合った根に足をかけたアルノは、ふと動きを止めた。

土と樹皮で囲まれた、その暗い空間に目を凝らす。
危険な感じはしないが、もう既に誰かがいるような、不思議な圧迫感がある。

とはいえ、このまま帰ることも出来ない。
この洞は契約師の神聖な仕事場なのだ。
何かあるなら排除しなければならない。

「誰?何かいるの?」

声をかけながら、アルノは荷物の中をさぐりランタンを取り出した。
普段は自然の光を使うため、滅多に火は使わない。

警戒するような獣の鼻息が聞こえ、アルノはすぐにランタンを下ろした。

「あなたなの?」

不意に奥にあった影が動き、夕闇の中、白銀の毛をまとった、ふわふわの大きな頭が現れた。

ほっとして、アルノは雪狼の首に抱き着いた。
首の下をかいてやろうと伸ばした手に、ひやりとしたものが触れた。

すぐにランタンを取り出し、首のあたりに灯りをかざす。
ふわふわの毛の一部が固まり、べったりと赤い血が付着している。

「怪我をしたの?待っていて、助けられる人がいるから」

クシールを呼びに行こうと、アルノはすぐに立ち上がろうとした。
その服の裾を、強い力が引っ張った。

振り返ると、雪狼がアルノのマントに牙をひっかけ、洞の中に向かって首を振っている。

「中に入れと言うのね?」

雪狼が洞の奥に入っていく。
それを追いかけ、アルノも慎重に洞の底におりた。
中央部分は上からの光が淡く差し込んではいるが、内部を全て照らし出せるほどの明るさではない。

奥まったところには深い影が横たわり、壁際に並んでいる器具さえも、近づかなければはっきりとは見えない。

「だ、誰かいる?」

「お前は?……」

闇の中から男の声がした。
緊張で体を強張らせ、アルノはごくりと唾を飲み込んだ。

「私は、こ、この森の……契約師よ。どうしてそこにいるの?」

「怪我をして……動けなくなっている時に、そこの雪狼にここに引きずってこられた。餌になるのかと覚悟をしていたが、そうではないらしい。ここにあった薬を飲んだ。多少は回復したが、もしまだあるなら、分けてくれ。あるいは……もっと良い物があれば良いが」

「薬なんて置いていないけど……」

暗がりから何かが転がり出てきた。
中央の薄明りに、岩ベリーと宣誓液が入っていた壺が浮かび上がる。

「薬になったの?」

「傷がいくらか癒えた」

どういうことなのかと、アルノは空になった壺の中を確認して首を傾けた。
クシールが検証した時には、何の効果もなかったと聞いている。

「……契約紙はないのか」

「精霊言語が使えるの?というか、どうしてここに?回復した途端、私を殺そうとしない?さっき殺されかけたばかりなのだけど?」

警戒し、少し後ろに下がる。

「殺されかけているのは私の方だ……」

確かにその声は少し弱々しい。
雪狼がアルノに体を擦り付けたかと思うと、暗がりの方に向かう。

「この子、あなたを温めたいみたいね。あなたは……契約師なの?」

「いいや……しかし似たような存在だ。君の……助けが欲しい」

「私をどこかに連れていこうとしている誘拐犯?」

契約師は命を狙われるが、誘拐もされる。
その違いは、死体が出るか、出ないかだ。

巨大な雪狼が、中央付近で座り込み、前足にのんびりと頭を置いた。
男は宣誓液を作る道具が並んでいる壁際におり、何はともあれ男をどかさない限り、仕事も出来ない。

「誘拐もしない……。俺は君に助けを求めにきた。そして、君を襲った者は、恐らく俺を追ってきた刺客だ。俺は……」

「ま、待って!余計なことは知りたくない!何も話さないで!何が……望みなの?それだけ教えて!」

厄介ごとの予感に、アルノは急いで男の話を遮った。

余計なことを知れば、また頭を悩ませなければならなくなる。
今だって、いろいろな物を背負っている。
この上、新たな問題が増えるのはご免だった。

暗闇でがさがさと音がした。

「契約紙が欲しい……。死にかけた命を繋ぎとめられるほどの威力を持つものだ」

暗がりから腕が伸びてきた。
手には丸められた紙のようなものが握られている。

それを受け取って、かすかな光にかざしてみる。
広げて見れば、やはりそれは紙だったが、この国では手にしたことがない感触であり、大きさだった。
クシールが運んでくる契約師のもとになる紙とは別のものだ。

「契約紙にするための紙に見えるけど……清められた紙?」

まるで磨かれた石のように滑らかな表面は、淡く光っている。
清められているだけではなく、特殊な素材で作られているようだった。

「これを契約紙にしてほしいのね。ならば、そこをどいて。そこに宣誓液を作る道具があるの」

「ここは、契約師の仕事場か……わかった。この獣の後ろに移動しよう」

がさがさと音がして、人影が移動する。
アルノは雪狼の左側に来て、見知らぬ男が右側にくる。
これで男の姿はアルノのいる位置からは完全に見えなくなった。

「その人を見張っていてね」

雪狼に話しかけ、アルノはさっそく手探りで壁際に置かれている道具を引き寄せ、並べ始める。
石臼や受け皿、それから火を入れて蒸留するための瓶や管、そうしたものを全て手探りで、あるべき場所に組み立て並べていく。

体に染みついた動きに従い、滞ることなく全ての行程が進んでいく。
同時に、祈りの言葉までもが勝手に口からこぼれ出る。

小さい頃から繰り返してきたことではあるが、その作業は幼少時代よりもさらに繊細に、そして正確になっていく。
同じ繰り返しのように見えて、実は少しずつ技術は向上しているのだ。

いつしかアルノは作業に没頭し、そこに雪狼が居ることも、見知らぬ男がいることも忘れていた。

洞の中に金色の光が溢れ出る。
ランタンの灯りが無くとも、光り出した宣誓液を見れば、その工程が全てうまくいったことがわかる。

一晩中、アルノは手元の作業に集中し、マカの実を金色の液体に変えていった。
白い朝靄が洞の中にまで落ちてくると、やっとアルノは宣誓液を入れた瓶に蓋をした。
それから死んだようにばったりと倒れた。
合図を受けたかのように、雪狼がふわふわの尻尾をアルノの体に寄り添わせる。

「それが君の仕事か?」

アルノに優しく寄り添う雪狼に声をかけ、壁際に隠れていた男がその背中を撫でた。

白み始めた光の中で、男は雪狼の体を迂回し、アルノの方に近づいた。

土の上に横たわっていたアルノは、その気配を感じ、薄眼を開けた。

その瞬間、がばっと飛び起きた。
朝の光に浮かび上がるその男の顔をぽかんと見上げる。

それは、徹夜明けの充血した眼をぎんぎんに目覚めさせてしまうほどの美しい顔立ちだった。

紙のように白い肌に、銀色の長い髪、瞳は金色で、髪をかき上げる指先までも美しい。
もしかすると、妖精王なのではないかと問いかけそうになり、アルノは両手で口を塞いだ。

絶対に、余計な会話をしてはだめだ。
自身に言い聞かせ、アルノは警戒するように男を睨んだ。

驚いたかと思えば、今度は睨みつけてきた表情豊かなアルノに、謎の男はこれまた国中の女性を骨抜きに出来そうな美しい微笑みを浮かべた。

「契約紙を作ってほしい」

深みのある低い声が心地よく耳に響くが、昨日より弱々しくもあった。
銀糸で刺繍を施した、立派そうな衣服にも血の染みが広がっている。

アルノは昨夜、渡された紙のことを思い出し、辺りを探した。

並べた器具の後ろに置かれた丸まった紙を見つけ、取り上げる。
作業台の上に息をふきかけ、拳の平でこすって埃を払うと、そこに紙を伸ばして置いた。

完成したばかりの宣誓液の瓶を開け、人差し指を浸す。
ペンはないが、その滴りをイメージする。

意識を集中すると、どんな文様を描くべきなのか、どんな風に始めるべきなのか心に見えてくる。
それは精霊の力を封じた宣誓液がアルノに伝えてくるのだ。

しかし、その文様は、精霊書を丸暗記した者にしか完璧に描くことが出来ない。

宣誓液に浸した指がさらさらと紙の上を走り出した。
文様の意味について詳しく学んだことはないが、なんとなく宣誓液の意思が伝わってくる。

恐らく、この文様は、自然治癒力を高める効果がある形に違いないとアルノは指を動かしながら考えた。
これに、精霊言語で治癒を意味する言葉を書くか、あるいは発言すれば、実際の効果が現れる。

炎を意味する文様に治癒の言葉を書くより、ずっと効果が高まる。
間違えた場所に宣誓液が垂れないように、素早く指を上げ、また瓶に浸す。

文様を描き続けるのと同時に、祈りの言葉を唱え続ける。
その一方で、アルノは自分の思考の中に沈んでいく。

契約紙が完成した後、この男は自分をどうするつもりなのか。
この男は何者で、どこから来たのか。関わることなく追い出すことは出来るのか。
知らなくていいことを知らずに済む方法はあるのか。

これだけ美しい男なのだから、秘密が無いわけがない。
美しく見えるものには危険も潜んでいる。
森の中にも美しいものはたくさん存在するが、安全と言い切れるものはそう多くない。

契約師でなければ、こんな厄介なことに巻き込まれずに済んだのにと、アルノはまた心の底に沈んだ恨み言を引っ張りだす。
結婚して満たされたはずの心に、答えを出せない曖昧な問題がいくつも沈んでいる。

作業を進めながら、アルノは視界の端に男の指先を捉えた。
爪の先まで美しいこの銀髪の男が、アルノを殺そうとしていたとしても、この作業を止めるわけにはいかないだろうとアルノは思った。

なぜならば、宣誓液が描かせている文様はさらに複雑になり、その症状さえ詳細にアルノに伝えてきているからだ。
精霊たちがこの男を助けろとアルノに命じているようなものだ。

それによれば、この男は長期間に渡り、毒を受けてきているし、さらに背中を切られている。
腹部にも傷があり、生命力は残りわずかだ。
宣誓液は、その全ての症状を一気に治せるだけの複雑な文様をアルノに描かせているのだ。

全ての文様を暗記し、さらに描きなれている者でなければ心に浮かぶ文様を再現して描き切ることは出来ないだろう。

精霊たちの男を助けようとする意思が、強まっていくにつれ、アルノは自分の意思を失っていくようだった。

この男は敵国の人間かもしれないとアルノは考えた。
だとしても、国境のない精霊たちには関係のないことだ。

そして、今のアルノもまた、精霊たちの世界に所属している。
精霊の力と同化し、ただ操り人形のように文様を描かされているだけの存在だ。

一晩寝ていないというのに、夕刻近くまで作業を続け、ようやく一枚が完成した。
今度こそ倒れて寝てもいいのではないかと思い、雪狼の尻尾の上に横たわる。

その向こうから伸びてきた手が、完成した契約紙を取り上げた。

「見事な出来栄えだ……」

続いて、男が不思議な言葉を発した。
それは精霊言語であり、この国では聖職者のみが唱えることのできる言葉だった。

すぐに契約紙に文字のようなものが浮かび上がり、金色に光り溶け始める。
全身にその光を浴びた美形の男は、みるみるうちに輝くほどの生命力を取り戻していく。
美しさまで増したような、その男の姿に、本当に精霊王かもしれないとアルノは考えた。

だとしたら、この契約紙の代金を請求することは難しいだろう。
なにせ、精霊はお金を持っていない。

アルノは疲れたようにため息をついた。

「あなたが溶かしているその契約紙、この国じゃ、金貨50枚はするのよ?」

苦心して作った物が一瞬で消えていく様をぼんやりと見上げながら、アルノは文句を言った。

「いつかお礼をしよう」

嘘ばっかりとアルノは考えた。
誰も信じたことがないのに、初対面の得体の知れない男の言葉が信じられるわけがない。

「もう寝るから……その間に帰ってね。面倒ごとは、まっぴらよ」

「君は……変わっているな」

アルノは、もう完全に思考を閉じていた。

硬く目を閉じたアルノが、寝息を立て始めたのを見届け、男はすくっと立ち上がった。
その体から毒は抜け、傷跡さえ消えている。

雪狼はアルノを守るようにその尻尾を巻き付け、体を寄せている。

「君にも世話になった。ありがとう」

男は雪狼に語り掛け、その耳の後ろに口づけをすると、洞の外に出て行った。

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