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30.望まぬ再会
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崖下に身を寄せ、焚火で体を温めながら、アルノは憂鬱な溜息をついた。
正面には大きなニルドの身体があり、大きな手で意外にも器用に、アルノの腫れた足首に長い紐状の布を巻いてくれている。
大木の上に蛙のように張り付き、お尻を突き出した姿勢で発見されたアルノは、ニルドにひょいっと持ち上げられ、斜面の上に運ばれると、小さな崖の窪みに放り込まれた。
それからニルドが火を起こすまで寝たふりをつづけ、ぱちぱちと火の爆ぜる音が聞こえてくると、もぞもぞとわざとらしく体を動かした。
全く疑う様子もなくニルドは飛んできて、狸寝入りしていたアルノの背中を支え、火の傍に引き寄せた。
「馬鹿にしているの?」
寝たふりがわからないわけがないと思い、アルノは顔を赤くして噛みつくように叫んだが、ニルドはきょとんとした顔になり大真面目に言ったのだ。
「俺が君を馬鹿にするはずがないじゃないか!むしろ、すごく尊敬している」
心底アルノの狸寝入りを信じている様子のニルドに、アルノは脱力し、痛む足を前に出した。
すぐにニルドがその腫れに気づき、乱暴に持ち上げた。
「いたいっ!」
「どうした?ひねったのか?」
「見たらわかるでしょう!」
こうして、ニルドは自分のマントを包帯のように切り裂き、アルノの足に分厚く巻き付け始めたのだ。
無言でそれを見ていたアルノは、どうやってもニルドと話しをしなければならない現状をなんとか受け入れた。
イアンに襲われかけたことや、ゼインに身を任せたことで、もうニルドと昔のように親しくすることは出来ないと深刻に考えてきたが、ニルドからしたら、アルノは恋愛対象外であり、純潔だの、汚されただのといったことを気にしているのはアルノだけだという虚しい現実にも気が付いた。
「どうしてここに?その……お城に行けばいいじゃない」
「君に挨拶もなく住むことは出来ない。城まで行ったが、ハンナに君が仕事に出ていて話は出来ないと言われて、そんなわけにはいかないと探しに来た」
「あなたのお姫様は?置いてきたの?」
「あっ……。忘れていた……。でも豪華な馬車に乗っていたし、一足早く城に入っているかもしれない」
「そう……」
悲しいことに、ニルドが婚約者を置き去りにして、アルノに会いに来てくれたことに喜びを感じてしまう。
とっくに諦めた恋なのに、まだ残っていたのかと、アルノは自分にがっかりした。
この鈍感な男のどこが好きなのかと思うが、この好きという感情は友人としての好きなのだと強引に考えた。
「ならば戻ってあげるべきね。申し訳ないけど、私はお城に住んでいないの。ロタ村の家に連れて行って」
「なぜだ?あんな立派なお城が出来たのに。あれが突然現れて、要塞は大変な騒ぎになった。
ゼイン様から知らせが来たんだ。城が完成したから引っ越してきても良いって。
なぜか、東モーレリアにあるデラーチェ領に手紙が届いた……。イライザは大喜びだった。
いつも家族に無視されていた自分が、今一番注目を浴びている豪華で大きなお城に住めることになったと言ってね。
呼び出された俺は、いつ城に住めるのかと責められて……」
「あなたが欲しいと言ったわりには、乗り気じゃないのね。私はあの城のために死ぬまで働かなきゃいけないのに」
「もちろん、俺も手伝うよ。でも、君のお城だし俺達は居候で……でも、ゼイン様もいないのに、俺達だけが住むなんておかしいだろう?」
「そう思っているのなら、どうして来たのよ」
「それは……」
浮かない顔で下を向くニルドを横に見て、アルノは憂鬱な溜息をついた。
「婚約しているのよね?結婚して……幸せに暮らすのよね?そのために、昔の友達を頼って花嫁の要望に応えた。それが実現できたのだから、それでいいじゃない。
お城には働いてくれている人もいるから、召使付きのお城ともいえる。
豪華な家具なんかはないから、それぐらいは自分達でなんとかしてね。ちなみに、ハンナも他の村の人たちも、私が雇っているの。お金の管理はクシールだけど……。最近忙しいみたいで」
そういえば完成した契約紙は誰が取りにくることになるのだろうと、アルノは考えた。
ゼインもクシールも、もう三か月以上も姿を見せていない。
窓辺の机に置かれた引き出しには、契約紙が溜まってきている。幸い、クシールは多めに純白紙を置いていってくれたが、そろそろそれも尽きる。
契約紙が売れなければ、借金も返せないし、このままだとニルドの収入に頼ることになる。
「クシール様は今、この国で最も忙しい人だと思うよ。ゼイン様も同様だ。教会の体制が崩壊したんだ。再構築のために、毎日王都では会議が続けられていると聞くし、地方教会の方にも中枢から調査機関が入っている。
契約紙の供給が滞ることがあっては困るから、聖騎士達は仕事をしているが、アルノのところには、来ていないのか?」
「さあ……私はほとんど森に居るから、人に会う暇もなかったし」
「そうか……。ゼイン様は?その……付き合っているんだろう?つまり……結婚の約束とか……」
さすがのニルドも歯切れが悪かった。
アルノが見知らぬ男に襲われたあと、ゼインとアルノの関係がどうなったのか、アルノの心の傷は癒えたのか、ずっとそれを心配してきたが、鈍いニルドも、その出来事を思い出させるようなことは言うべきではないとわかっていた。
「結婚したとしても、あなた達とあのお城に一緒に住む気はないの。私の仕事はここにあるのだから」
「君が……幸せでいてくれないと、俺もそんな気分になれない」
かっとしてアルノはその辺の小石を掴み取り、ニルドのお尻にむかって投げつけた。
それほど強い力ではなかったが、ニルドはお尻を浮かせ、火の向こうに逃げる。
「あなたまで、私をそんな目で見るの?憐れみの目で見ないで!私を不幸だと決めつけているのはあなた達でしょう!私は誰の助けも必要としていない!こんな怪我だって平気よ!」
立ち上がろうとして、足の痛みで倒れそうになるアルノを、ニルドが飛んできて支える。
その大きな腕に包まれ、アルノは泣くまいと唇を噛みしめた。
「あなたのお姫様は、幸せになるための条件がたくさんあるのよ。お城や召使、立派な家具や美味しい食事。たくさんの条件がそろって初めて幸せになるのよ。
でもね、私はそうじゃない。私は……そんなものがなくても幸せなの。ゼインがいなくても、私は自分の家と仕事があれば十分なのよ」
「まさか、ゼイン様と別れたのか?」
「関係ないでしょう!」
まさか一回やって以来、会っていないなんて恥ずかしすぎて口が裂けても言えない。
暴れるアルノを担ぎ上げ、ニルドは足で焚火を消すと、森の中を歩きだす。
途中で抵抗を諦めたアルノは、ぐったりと肩にかつがれ揺られていた。
道が平らになってくると、ニルドはアルノを胸に抱き直した。
そこはもうロタ村の中で、アルノの廃屋のような家が見えていた。
「本当に、こんなところが良いのか?」
雨漏りさえ直していない様子の家を見て、ニルドが心配そうに問いかける。
「知らないの?契約師は欲深くてはいけないの。贅沢は禁止。どれだけ稼いだとしてもね。森に愛されるように、朽ちて自然に戻りそうな家で暮らすの。穴ウサギの方がよっぽどましな住まいを持っていたとしてもね」
ニルドはアルノに渡された鍵で表の扉を開け室内に入る。
暖炉の脇に積まれた薪は、ほとんど残っていない。
「そこに座らせて。それでいいから」
椅子に座らせ、ニルドはアルノの足首をとって布を解いた。
「清潔にして薬草を貼ろう」
「それより、さっさとお姫様のところに戻ったら?」
ニルドの手を払いのけようと、アルノは腰を屈める。
と、思ったより勢いがつき、前のめりになってずるりと椅子から滑り落ちた。
「アルノ!」
助け起こそうとニルドが手を伸ばす。
その時、扉が開いた。
外の光が容赦なく薄暗い室内に差し込んだ。
戸口に現れた人物は、眉間に皺をよせ、ニルドを睨んだ。
腰を屈めて立つニルドの足元にアルノが座り込み、ニルドの腰に抱き着いている。
説明がなければ、それは、ニルドの股間にアルノが顔を埋め、ニルドがその頭に手を添えて性的奉仕を強要しているように見える。
その事に気が付き、ニルドは慌てたようにアルノを押しのける。
椅子から落ちた姿勢から、ニルドに掴まり立ち上がろうとしていたアルノは、ニルドに突き飛ばされ、後ろにひっくり返った。
お尻を打ち付け、目を怒らせて起き上がる。
「一体何よ!」
そこでようやく、家に入ってきたもう一人の人物に気が付いた。
「ゼイン?」
ゼインはアルノに近づき、その体を優しく支え、自分の胸に引き寄せた。
落ち着いた物腰で、静かに顔をあげる。
「ニルド、ここで何を?」
「あ……俺は……いや、私はただ彼女を助けようと……」
誤解を解こうとニルドはアルノの足首に巻いていた布を拾い上げた。
「彼女が森の中で足を痛めた様子で、動けなくなっていたのでここに運んできただけです」
ゼインはアルノの腫れた右足を見て、熱をもったそこに力をかけないようにそっと触れた。
「そのようだな。もう帰ってくれ」
「は、はい。すみません」
急いで出ていこうとしたニルドは、思い出したように振り返った。
「あ、あの……」
「城のことなら、好きに使って暮らしてくれ。君の姫君にはあとで挨拶に伺おう。彼女は連れていけないが、それで十分だろう?」
「はい……すみません」
逃げるようにニルドが出て行くと、アルノは脱力したようにゼインの胸によりかかった。
ゼインはすぐにアルノを寝室に運んだ。
冷え切った部屋に顔をしかめると、アルノをベッドに寝かせ、居間に引き返す。
薪を運んでくると、寝室の暖炉に積み上げた。
質の悪い契約紙を取り出し、何かを唱える。
途端に薪が燃え上がる。
ゼインはその契約紙も火の中に放り込んだ。
それから治療箱を取りにいき、アルノの足に薬草を塗りつけて布を巻きつけた。
その間、アルノは仰向けの姿勢で天井の雨水がしみ出している部分を見ていた。
専属世話人が来たら、雨漏りを直してもらおうと思っていたのに、目を逸らすたびに忘れてしまう。
「アルノ、痛みは?」
ゼインの声に、アルノは首を小さく左右に振る。
「契約紙を取りにきたのでしょう?窓辺の引き出しにあるから、持っていって」
「それだけじゃない。アルノ……君には感謝している。いろいろ言いたいことはあるが……」
ゼインは床に膝をつき、アルノの左手をとった。
その手の甲に唇を押し付ける。
「アルノ、結婚してくれないか?」
のろのろと横を向き、アルノは不信感一杯の表情でゼインを睨みつける。
それは当然のことだ。
ゼインとは純潔を捧げて以来の再会であり、その翌朝にはゼインはアルノに一言もなく消えてしまったのだ。
心の繋がりが出来たような気がしたのも一瞬だったし、それからしばらくゼインのことばかり考えていたというのに、ゼインからは何の知らせもなかった。
ゼインにとって、自分が魅力のない女であることはわかっていたから、期待しないように努めてきた。
夢も希望も持たないと決めたのだから、これで良いのだと自分に言い聞かせてきたのだ。
それなのに、あまりにも急展開過ぎないだろうか。
胡散臭さを通り越し、もうゼインが言葉の通じない未知の生物に見えてきた。
そんなアルノの視線を受け、ゼインはアルノの指に煌めく銀色の指輪を嵌めた。
「教会に新しい決まりが出来た。聖職者は結婚を禁じられている。しかし一部には認められていた。今回、結婚が許可される聖職者は、専属世話人だ。上位契約師五人の世話人にはそれが許可されていたが、今回は全ての世話人にその決まりが適用される。
特別な絆があると認められた場合に限り、婚姻が可能になる。アルノ、結婚しよう」
会っていなかった間、ゼインは妄想の中で生きていたのだろうかとアルノは考えた。
それであれば、共感できる話だ。
なにせアルノは妄想の中の物語に十年という年月を捧げてきた。
ニルドとのらぶらぶデートに始まり、小さな喧嘩を繰り返し、恋人になり、さらに淫らな関係を続け、結婚までしてのけた。様々な設定を作り出したため、それこそ物語にして書き上げたら壁一面が本で埋まるぐらいの膨大な量になる。
番外編どころか、シリーズだって山ほどある。
絶対に脳内から出してはいけない妄想のストーリーに酔い過ぎて、ニルドに愛されていると勘違いする事態に陥った。おかげで、とんだ恥をかくことになったのだ。
それと同じことがゼインの脳内で起きたのだと考えると、ゼインも妄想の中でアルノと百回ぐらい寝ていて、さらに婚約もすませ、そろそろ結婚というところにさしかかったことになる。
現実世界では何も進展していないことに気づいていないということだ。
そう考えなければ、この展開はとても納得できるものではない。
とはいえ、ゼインの妄想内の話であれば、アルノが脳内で作り上げてきたような甘い恋愛物語ではないはずだ。
何か企みがあって、結婚する必要が出来たに違いない。
「それって、お金無しで夫のふりをしてくれるの?」
「ふりじゃない。本当の夫になる」
「妻か夫が契約師であることが前提なら、同じことじゃない?私に仕事が出来なくなった途端に消えていなくなるのでしょう?」
「それでは本当の夫とは言えない。ずっと……傍にいるための夫だ」
そんな馬鹿げた話があるわけがない。
笑いものにされてきた日々を思い出し、アルノはこれは夢だと自身に言い聞かせながら、疲れたように目を閉じた。
正面には大きなニルドの身体があり、大きな手で意外にも器用に、アルノの腫れた足首に長い紐状の布を巻いてくれている。
大木の上に蛙のように張り付き、お尻を突き出した姿勢で発見されたアルノは、ニルドにひょいっと持ち上げられ、斜面の上に運ばれると、小さな崖の窪みに放り込まれた。
それからニルドが火を起こすまで寝たふりをつづけ、ぱちぱちと火の爆ぜる音が聞こえてくると、もぞもぞとわざとらしく体を動かした。
全く疑う様子もなくニルドは飛んできて、狸寝入りしていたアルノの背中を支え、火の傍に引き寄せた。
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「俺が君を馬鹿にするはずがないじゃないか!むしろ、すごく尊敬している」
心底アルノの狸寝入りを信じている様子のニルドに、アルノは脱力し、痛む足を前に出した。
すぐにニルドがその腫れに気づき、乱暴に持ち上げた。
「いたいっ!」
「どうした?ひねったのか?」
「見たらわかるでしょう!」
こうして、ニルドは自分のマントを包帯のように切り裂き、アルノの足に分厚く巻き付け始めたのだ。
無言でそれを見ていたアルノは、どうやってもニルドと話しをしなければならない現状をなんとか受け入れた。
イアンに襲われかけたことや、ゼインに身を任せたことで、もうニルドと昔のように親しくすることは出来ないと深刻に考えてきたが、ニルドからしたら、アルノは恋愛対象外であり、純潔だの、汚されただのといったことを気にしているのはアルノだけだという虚しい現実にも気が付いた。
「どうしてここに?その……お城に行けばいいじゃない」
「君に挨拶もなく住むことは出来ない。城まで行ったが、ハンナに君が仕事に出ていて話は出来ないと言われて、そんなわけにはいかないと探しに来た」
「あなたのお姫様は?置いてきたの?」
「あっ……。忘れていた……。でも豪華な馬車に乗っていたし、一足早く城に入っているかもしれない」
「そう……」
悲しいことに、ニルドが婚約者を置き去りにして、アルノに会いに来てくれたことに喜びを感じてしまう。
とっくに諦めた恋なのに、まだ残っていたのかと、アルノは自分にがっかりした。
この鈍感な男のどこが好きなのかと思うが、この好きという感情は友人としての好きなのだと強引に考えた。
「ならば戻ってあげるべきね。申し訳ないけど、私はお城に住んでいないの。ロタ村の家に連れて行って」
「なぜだ?あんな立派なお城が出来たのに。あれが突然現れて、要塞は大変な騒ぎになった。
ゼイン様から知らせが来たんだ。城が完成したから引っ越してきても良いって。
なぜか、東モーレリアにあるデラーチェ領に手紙が届いた……。イライザは大喜びだった。
いつも家族に無視されていた自分が、今一番注目を浴びている豪華で大きなお城に住めることになったと言ってね。
呼び出された俺は、いつ城に住めるのかと責められて……」
「あなたが欲しいと言ったわりには、乗り気じゃないのね。私はあの城のために死ぬまで働かなきゃいけないのに」
「もちろん、俺も手伝うよ。でも、君のお城だし俺達は居候で……でも、ゼイン様もいないのに、俺達だけが住むなんておかしいだろう?」
「そう思っているのなら、どうして来たのよ」
「それは……」
浮かない顔で下を向くニルドを横に見て、アルノは憂鬱な溜息をついた。
「婚約しているのよね?結婚して……幸せに暮らすのよね?そのために、昔の友達を頼って花嫁の要望に応えた。それが実現できたのだから、それでいいじゃない。
お城には働いてくれている人もいるから、召使付きのお城ともいえる。
豪華な家具なんかはないから、それぐらいは自分達でなんとかしてね。ちなみに、ハンナも他の村の人たちも、私が雇っているの。お金の管理はクシールだけど……。最近忙しいみたいで」
そういえば完成した契約紙は誰が取りにくることになるのだろうと、アルノは考えた。
ゼインもクシールも、もう三か月以上も姿を見せていない。
窓辺の机に置かれた引き出しには、契約紙が溜まってきている。幸い、クシールは多めに純白紙を置いていってくれたが、そろそろそれも尽きる。
契約紙が売れなければ、借金も返せないし、このままだとニルドの収入に頼ることになる。
「クシール様は今、この国で最も忙しい人だと思うよ。ゼイン様も同様だ。教会の体制が崩壊したんだ。再構築のために、毎日王都では会議が続けられていると聞くし、地方教会の方にも中枢から調査機関が入っている。
契約紙の供給が滞ることがあっては困るから、聖騎士達は仕事をしているが、アルノのところには、来ていないのか?」
「さあ……私はほとんど森に居るから、人に会う暇もなかったし」
「そうか……。ゼイン様は?その……付き合っているんだろう?つまり……結婚の約束とか……」
さすがのニルドも歯切れが悪かった。
アルノが見知らぬ男に襲われたあと、ゼインとアルノの関係がどうなったのか、アルノの心の傷は癒えたのか、ずっとそれを心配してきたが、鈍いニルドも、その出来事を思い出させるようなことは言うべきではないとわかっていた。
「結婚したとしても、あなた達とあのお城に一緒に住む気はないの。私の仕事はここにあるのだから」
「君が……幸せでいてくれないと、俺もそんな気分になれない」
かっとしてアルノはその辺の小石を掴み取り、ニルドのお尻にむかって投げつけた。
それほど強い力ではなかったが、ニルドはお尻を浮かせ、火の向こうに逃げる。
「あなたまで、私をそんな目で見るの?憐れみの目で見ないで!私を不幸だと決めつけているのはあなた達でしょう!私は誰の助けも必要としていない!こんな怪我だって平気よ!」
立ち上がろうとして、足の痛みで倒れそうになるアルノを、ニルドが飛んできて支える。
その大きな腕に包まれ、アルノは泣くまいと唇を噛みしめた。
「あなたのお姫様は、幸せになるための条件がたくさんあるのよ。お城や召使、立派な家具や美味しい食事。たくさんの条件がそろって初めて幸せになるのよ。
でもね、私はそうじゃない。私は……そんなものがなくても幸せなの。ゼインがいなくても、私は自分の家と仕事があれば十分なのよ」
「まさか、ゼイン様と別れたのか?」
「関係ないでしょう!」
まさか一回やって以来、会っていないなんて恥ずかしすぎて口が裂けても言えない。
暴れるアルノを担ぎ上げ、ニルドは足で焚火を消すと、森の中を歩きだす。
途中で抵抗を諦めたアルノは、ぐったりと肩にかつがれ揺られていた。
道が平らになってくると、ニルドはアルノを胸に抱き直した。
そこはもうロタ村の中で、アルノの廃屋のような家が見えていた。
「本当に、こんなところが良いのか?」
雨漏りさえ直していない様子の家を見て、ニルドが心配そうに問いかける。
「知らないの?契約師は欲深くてはいけないの。贅沢は禁止。どれだけ稼いだとしてもね。森に愛されるように、朽ちて自然に戻りそうな家で暮らすの。穴ウサギの方がよっぽどましな住まいを持っていたとしてもね」
ニルドはアルノに渡された鍵で表の扉を開け室内に入る。
暖炉の脇に積まれた薪は、ほとんど残っていない。
「そこに座らせて。それでいいから」
椅子に座らせ、ニルドはアルノの足首をとって布を解いた。
「清潔にして薬草を貼ろう」
「それより、さっさとお姫様のところに戻ったら?」
ニルドの手を払いのけようと、アルノは腰を屈める。
と、思ったより勢いがつき、前のめりになってずるりと椅子から滑り落ちた。
「アルノ!」
助け起こそうとニルドが手を伸ばす。
その時、扉が開いた。
外の光が容赦なく薄暗い室内に差し込んだ。
戸口に現れた人物は、眉間に皺をよせ、ニルドを睨んだ。
腰を屈めて立つニルドの足元にアルノが座り込み、ニルドの腰に抱き着いている。
説明がなければ、それは、ニルドの股間にアルノが顔を埋め、ニルドがその頭に手を添えて性的奉仕を強要しているように見える。
その事に気が付き、ニルドは慌てたようにアルノを押しのける。
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お尻を打ち付け、目を怒らせて起き上がる。
「一体何よ!」
そこでようやく、家に入ってきたもう一人の人物に気が付いた。
「ゼイン?」
ゼインはアルノに近づき、その体を優しく支え、自分の胸に引き寄せた。
落ち着いた物腰で、静かに顔をあげる。
「ニルド、ここで何を?」
「あ……俺は……いや、私はただ彼女を助けようと……」
誤解を解こうとニルドはアルノの足首に巻いていた布を拾い上げた。
「彼女が森の中で足を痛めた様子で、動けなくなっていたのでここに運んできただけです」
ゼインはアルノの腫れた右足を見て、熱をもったそこに力をかけないようにそっと触れた。
「そのようだな。もう帰ってくれ」
「は、はい。すみません」
急いで出ていこうとしたニルドは、思い出したように振り返った。
「あ、あの……」
「城のことなら、好きに使って暮らしてくれ。君の姫君にはあとで挨拶に伺おう。彼女は連れていけないが、それで十分だろう?」
「はい……すみません」
逃げるようにニルドが出て行くと、アルノは脱力したようにゼインの胸によりかかった。
ゼインはすぐにアルノを寝室に運んだ。
冷え切った部屋に顔をしかめると、アルノをベッドに寝かせ、居間に引き返す。
薪を運んでくると、寝室の暖炉に積み上げた。
質の悪い契約紙を取り出し、何かを唱える。
途端に薪が燃え上がる。
ゼインはその契約紙も火の中に放り込んだ。
それから治療箱を取りにいき、アルノの足に薬草を塗りつけて布を巻きつけた。
その間、アルノは仰向けの姿勢で天井の雨水がしみ出している部分を見ていた。
専属世話人が来たら、雨漏りを直してもらおうと思っていたのに、目を逸らすたびに忘れてしまう。
「アルノ、痛みは?」
ゼインの声に、アルノは首を小さく左右に振る。
「契約紙を取りにきたのでしょう?窓辺の引き出しにあるから、持っていって」
「それだけじゃない。アルノ……君には感謝している。いろいろ言いたいことはあるが……」
ゼインは床に膝をつき、アルノの左手をとった。
その手の甲に唇を押し付ける。
「アルノ、結婚してくれないか?」
のろのろと横を向き、アルノは不信感一杯の表情でゼインを睨みつける。
それは当然のことだ。
ゼインとは純潔を捧げて以来の再会であり、その翌朝にはゼインはアルノに一言もなく消えてしまったのだ。
心の繋がりが出来たような気がしたのも一瞬だったし、それからしばらくゼインのことばかり考えていたというのに、ゼインからは何の知らせもなかった。
ゼインにとって、自分が魅力のない女であることはわかっていたから、期待しないように努めてきた。
夢も希望も持たないと決めたのだから、これで良いのだと自分に言い聞かせてきたのだ。
それなのに、あまりにも急展開過ぎないだろうか。
胡散臭さを通り越し、もうゼインが言葉の通じない未知の生物に見えてきた。
そんなアルノの視線を受け、ゼインはアルノの指に煌めく銀色の指輪を嵌めた。
「教会に新しい決まりが出来た。聖職者は結婚を禁じられている。しかし一部には認められていた。今回、結婚が許可される聖職者は、専属世話人だ。上位契約師五人の世話人にはそれが許可されていたが、今回は全ての世話人にその決まりが適用される。
特別な絆があると認められた場合に限り、婚姻が可能になる。アルノ、結婚しよう」
会っていなかった間、ゼインは妄想の中で生きていたのだろうかとアルノは考えた。
それであれば、共感できる話だ。
なにせアルノは妄想の中の物語に十年という年月を捧げてきた。
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それと同じことがゼインの脳内で起きたのだと考えると、ゼインも妄想の中でアルノと百回ぐらい寝ていて、さらに婚約もすませ、そろそろ結婚というところにさしかかったことになる。
現実世界では何も進展していないことに気づいていないということだ。
そう考えなければ、この展開はとても納得できるものではない。
とはいえ、ゼインの妄想内の話であれば、アルノが脳内で作り上げてきたような甘い恋愛物語ではないはずだ。
何か企みがあって、結婚する必要が出来たに違いない。
「それって、お金無しで夫のふりをしてくれるの?」
「ふりじゃない。本当の夫になる」
「妻か夫が契約師であることが前提なら、同じことじゃない?私に仕事が出来なくなった途端に消えていなくなるのでしょう?」
「それでは本当の夫とは言えない。ずっと……傍にいるための夫だ」
そんな馬鹿げた話があるわけがない。
笑いものにされてきた日々を思い出し、アルノはこれは夢だと自身に言い聞かせながら、疲れたように目を閉じた。
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※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
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※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
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