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29.逃げる女
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城が建つ様子を間近で目撃したロタ村の元住人達は、国の調査に協力し、クシールに指示されたことや、当日何が起きたのかといったことを証言することになった。
クシールは国の調査が入ることを想定していたため、彼らは完璧に配置され、クシールの望み通りの証言をした。
もしそれが一人や二人であれば、教会関係者に暗殺される恐れもあったが、彼らは名もない平民であり、誰がどこに配置され、何を目撃したのか、その全てを外部の人間が突き止めることは困難だった。
クシールによく周りを観察しておくように指示されたロタ村の元住民たちは、きちんと与えられた仕事をしてのけたのだ。
しかしそれが暗殺される可能性を含んでいたことは知らされなかった。
無事生き延びたロタ村の元住人達には、その後の仕事も用意されていた。
城が出来ればその管理が必要になる。
多少危険はともなうが、給料は変わらず支払われるとクシールが約束していたため、全員が引き続き雇用されることになった。
逆に、町に残っていた元村人たちが、アルノに雇われた人たちから話を聞き、自分達も雇って欲しいとノーラ山に登ってきたが、金銭面が厳しいことを理由に、大半をクシールが断った。
建設費用のほとんどは教会からの借金であり、それはアルノに支払い責任があった。
クシールからの指示書により、アルノは厨房のすぐ隣に出来た四角く出っ張った部屋に引っ越した。
建設目的は契約師の安全確保のためだったからだ。
しかしアルノは森にこもっているため、ほとんど使わなかったし、さらに前の木造のあばら家の方が好きだった。
クシールもゼインも中央教会の仕事で忙しかったため、アルノは師匠が死んだ直後のような一人の生活に戻った。
国の中枢が混乱していても、アルノの仕事にはあまり関係がなく、淡々とした日常が繰り返された。
変化が訪れたのは一晩で城が建って、三か月目のことだった。
雪解け水で出来た川沿いに、アルノは宣誓液を入れたかごを背負って上流に向かっていた。
春先とはいえ、山であるから風はまだ冷たく、春らしさを感じるのはまだ先だった。
木立の向こうに城が見えてきた時、アルノは足を止めた。
道はどこまでも上り坂で、荷物もあるし面倒になったのだ。
方向転換し、ロタ村の方に向かって歩き出す。
わずかな高低差だが、少しでも低いところに行けば、いっきに雪の量は減る。
いつもの住処に戻ってくると、裏庭にはもう雪はなく、荒れた泥まみれの地面に、緑の苔まで生えていた。
厩舎に続く砂利道には、緑の雑草がうっすらと茂り始めている。
歩きなれた道を通り、アルノは裏口から家に入った。
居間の壁際に荷物を下ろし、フックに外套をかけると、暖炉に火を入れる。
それからやっと窓辺の机に置かれた引き出しに、作ってきた宣誓液の瓶を片付けた。
いつもなら、すぐにでも契約紙を作るところだが、そんな気になれず、寝室のベッドにもぐりこむ。
すぐに眠気が訪れ、意識を手放そうとした瞬間、裏口を叩く音がした。
アルノは、居留守を使おうと両手で耳を塞いだ。
すると、今度は表の扉がうるさく鳴りだした。
「アルノ!アルノ!いるんでしょう!」
それは厄介なハンナの声だった。
「いない!」
叫んだが、数秒して裏口が開く音がした。
あろうことか、家に侵入されてしまったのだ。
さらに聞きたくもない情報まで飛び込んできた。
「アルノ、いるのでしょう?困ったことになったの。ニルドが貴族のお姫様を連れてくるそうなの!」
なぜそれを報告に来るのかと、アルノは苛立った。
「私は会わないから、勝手に住んでもらって!」
毛布を内側から引き寄せ、固く目をつぶる。
容赦なく、足音が近づいてきた。
ついに寝室の扉が鳴った。
「アルノ、何を食べているの?厨房で料理したものをあなたに届けるようにクシール様に言われているのに、いつもいないから困っているの」
これ以上踏み込んでくる気なら、掴みかかってでも追い出してやろうとアルノは拳を握る。
「仕事よ!あの城のためにいくら借金したと思っているの!おばあちゃんになっても返せないぐらいの額よ!疲れているんだから、寝かせてちょうだい。私はこれまでもずっと一人でやってきたし、これからも一人でやっていける。構わないで」
やっと静かになったが、遠ざかる足音は聞こえてこない。
息をひそめていると、ハンナの声がした。
「アルノって、結構執念深いのね。私達があなたを助けなかったことを根にもっているでしょう?」
「助けなかったですって?それ以上よ!私は昔から性格が悪いの。根に持つタイプだし、人は信じない。あなた達にお給料を払っているのは私よ。クシールが私のお金を管理しているけど、それを稼いでいるのは私なの。
仕事やお金がもらえなければ、ここに来る気もなかったくせに、今更、親切面しないでよ!あんたにされた、嫌なことも一つ残らず覚えているんだから!」
「全部が本心じゃないわ。あなたにも良いところが多少あるように、私達にも良心ぐらいあるのよ」
「出て行って!」
また沈黙が続く。なかなか立ち去らないことにアルノは苛立った。
今度こそ毛布から出ていかないといけないのかと思い始めた時、ハンナの声がした。
「ニルドに会いたくないなら、私達が対応するわ」
「そうしてちょうだい」
やっと遠ざかっていく足音を聞き、アルノは最悪な気分になった。
自分が嫌な奴になった気分だし、さらにこれから神聖な作業に入るというのに、頭に余計な邪念が入った。
ついにニルドは、あの城で幸せな新婚生活を送るのだ。
ニルドが連れて来る大切に守られてきたお姫様と、婚約者の立場をかけて争う気持ちはもう欠片も残っていない。
ゼインの言葉を思い出す。アルノはこちら側の人間でニルドは違う。
ニルドには生まれつき家族がいて、兄弟がいる。
同じ境遇の仲間や友人がいて、親しく付き合えるご近所さんだっていた。
村の人はニルドに挨拶をしても、アルノにはしない。
同じ村に住んでいたのに、二人の共通点は何もない。
もう二度と顔も合わせたくない。
そう思った途端、嫌な予感がした。
ハンナがこの家に来たみたいに、ニルドと婚約者も、揃ってここに挨拶に来るかもしれない。
そんなもの、絶対に見たくない。
眠気は吹き飛び、アルノは毛布を跳ねのけ起き上がった。
早く森に隠れなければ。
猛然と立ち上がり、空になったかごを担ぐと、表から外に出る。
鍵をしっかりと閉めると、ポケットにそれを戻し、濡れた地面を歩き出す。
ゼインがいなくなり、家の周りはだいぶ荒れている。
雪が消えて下敷きになっていた草木がぼろぼろの状態で現れ、濡れて抉れた地面がさらに沈みこんで、平らで乾いた場所までが傾いている。
雑然と生えてきた雑草のせいで、ただでさえみすぼらしい家の外観は、見事な廃屋の様相を呈している。
そんなあばら家に住んでいる契約師が、まさかノーラ山に城を建てたなんて、誰も思わないだろう。
しかも自分はほとんど住まない城だ。
まさに、お金の使い道に困って、投げ捨てたようなものだ。
破裂しそうだった苛立ちと怒りが、森を歩くうちに少しだけおさまってくる。
最悪な気分も、いくらかましになった。
人に関わることさえなければ、気持ちは楽でいられるのにと考える。
なぜそれが出来ないのかと、憂鬱な溜息をついてふと下を見ると、濡れた落ち葉に覆われた斜面の下に、マカの実が見えた。
迷いなく枯葉の上を滑り降り、マカの実を回収し、かごにいれる。
帰りは急な上り坂になり、アルノはそこを引き返すことを諦め、急斜面にそって歩き出す。
すぐに小さな川が現れた。
雪解け水から生まれた小さな川は、落ち葉や土をじわじわと押し流し、ちょろちょろと斜面を流れ落ちて行く。
冬から春に変わった森は、様子ががらりと変わる。
いつもの森であるはずなのに、見知らぬ森に取り込まれたような気分になる。
川の上に張り出した大岩をよじ登りながら、アルノは何か掴むものはないかと手を伸ばした。
濡れた苔ばかりで、蔓や根も触れない。
硬い岩肌に指をかけ、登り切ったところで、また濡れた落ち葉に覆われた斜面が現れた。
迂回する道が見当たらず、アルノは仕方なく四つん這いになって、斜面を登り始める。
ずるずる滑り落ちながら、なんとか進み、垂れ下がっていた枯れた蔓を掴んだ。
何度か引っ張り、抜けないことを確かめると、それを両手で掴み、足を踏ん張り枯葉の下にある地面を踏みしめる。
少し登ったところで、アルノはすぐにがっしり張り出した木の根につかまった。
蔓から手を移し替え、木の幹にしがみついて斜面の上に這い上がる。
と、ずるりとその大木が傾いた。
根元の地面が滑り落ち、木の根が半分宙に浮いた状態だったのだ。
木の下敷きになる前に、先ほど掴んでいた蔓に飛びついた。
力が入らず、体がずるずる枯葉で覆われた斜面を滑りだす。
転がり落ちていく大木が岩に当たって砕け、ぼっきりと折れた。
そこに、斜面を滑り落ちてきたアルノが背中からぶつかった。
「うっ……」
衝撃で一瞬息を止めたアルノは、強い痛みを感じ、スカートをめくる。
足首がずきずき痛むが、変な方に曲がってはいない。
森の中は危険でいっぱいだ。
契約師であっても、常に救いがあるわけではない。
都合よく雪狼が現れて、助けてくれることなんてことも期待できない。
力尽きれば、森の糧になる。
それが自然の掟だ。
アルノは斜面に横倒しになっている大木の上に頭を置いて空を見た。
木々の合間から見える空に雲はない。
ここに雨まで降ってくるという最悪な事態は避けられそうだ。
身動きせずにいると、さまざまな音が聞こえてくる。
水の流れる音や鳥たちが会話をするようにさえずる声、それからどこかで何かが移動しているかのような葉のさざなり。
風の音さえ聞こえてくる。
そのうち、自分の呼吸の音ばかりが耳元で聞こえ始める。
目を閉じ、森の一部になったかのように大木の陰に身を寄せる。
一晩ここで過ごすしかなさそうだと覚悟し、アルノは外套を首元まで引き上げた。
何かに呼ばれたように、アルノは飛び起きた。
斜面の上から、アルノの名前を呼ぶ声が聞こえてくる。
「アルノ!アルノ!」
ニルドの声だ。
最悪な状況に、アルノはどうにか隠れられないかと辺りを見る。
足首が腫れているから歩けないし、落ち葉の中に隠れたら全身がびしょ濡れになる。
這うことは出来るかもしれないと考え、大木によじのぼる。
折れた大木は、川に張り出した大きな岩につっかえて、かろうじて止まっている状態だ。
滑り台のように傾いてはいるが、上を這って行けば、斜面の下に隠れられるかもしれない。
丸太に這い上がったところで、ずるりと倒木が濡れた落ち葉の上を滑りだした。
「きゃああ」
思わず声が出た。
強い衝撃と共に、大木の動きが止まった。
対岸に食い込んでいた岩に倒木の先端がひっかかり、こちら側の斜面と繋がり、橋のように空中で横たわっていた。
アルノはそんな丸太の橋にしがみつき、恐る恐る下を見た。
小さな谷底に雪解け水で出来た川が流れている。
「アルノ!アルノ!」
ニルドの声が近づく。
さらに悪いことに、先ほどの衝撃でスカートがまくれ、下着に包まれたお尻が丸見えの状態になっている。
こんな無様な姿は誰にも見られたくない。
ましてや、ニルドに見られるなんて、考えただけで死にそうだ。
それぐらいなら、手を放して尖った小石や枝が突き立っている濡れた地面に落下した方がましではないかと考える。
川に落ちたら少しは衝撃もやわらぐかもしれない。
しかし冷たい水に濡れ、さらなる怪我を負えば、それこそ今夜を生き延びることさえ難しくなる。
「アルノ!」
声色が変わった。
ついに、ニルドが橋のように空中に張り出した大木に、蛙のように張り付くアルノの姿を発見したのだ。
「大丈夫か!」
声がすぐそこで聞こえ、枯葉をかき分ける音まで迫ってくる。
このままでは、恥ずべき姿を見られることになる。
いや、もう見られている。
パンツも見られているし、大股開きで丸太にしがみつく無様な姿も見られている。
顔を横向きにして丸太の表面に頬を押し付けたまま、このまま木と同化して消えてしまうか、あるいは落ち葉が大量に落ちてきて体を埋めてくれないだろうかと考えた。
「アルノ!大丈夫か!」
ついに、ニルドの声が耳元で聞こえ、アルノの肩に大きな分厚い手が触れた。
「アルノ?」
ニルドが丸太からアルノを引きはがし、くるりと体を回転させると腕に抱き留めた。
それから、驚いたように目をぱちくりとさせた。
腕に抱いたアルノは、固く目を閉じ、わざとらしい、いびきをかいていた。
クシールは国の調査が入ることを想定していたため、彼らは完璧に配置され、クシールの望み通りの証言をした。
もしそれが一人や二人であれば、教会関係者に暗殺される恐れもあったが、彼らは名もない平民であり、誰がどこに配置され、何を目撃したのか、その全てを外部の人間が突き止めることは困難だった。
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しかしそれが暗殺される可能性を含んでいたことは知らされなかった。
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城が出来ればその管理が必要になる。
多少危険はともなうが、給料は変わらず支払われるとクシールが約束していたため、全員が引き続き雇用されることになった。
逆に、町に残っていた元村人たちが、アルノに雇われた人たちから話を聞き、自分達も雇って欲しいとノーラ山に登ってきたが、金銭面が厳しいことを理由に、大半をクシールが断った。
建設費用のほとんどは教会からの借金であり、それはアルノに支払い責任があった。
クシールからの指示書により、アルノは厨房のすぐ隣に出来た四角く出っ張った部屋に引っ越した。
建設目的は契約師の安全確保のためだったからだ。
しかしアルノは森にこもっているため、ほとんど使わなかったし、さらに前の木造のあばら家の方が好きだった。
クシールもゼインも中央教会の仕事で忙しかったため、アルノは師匠が死んだ直後のような一人の生活に戻った。
国の中枢が混乱していても、アルノの仕事にはあまり関係がなく、淡々とした日常が繰り返された。
変化が訪れたのは一晩で城が建って、三か月目のことだった。
雪解け水で出来た川沿いに、アルノは宣誓液を入れたかごを背負って上流に向かっていた。
春先とはいえ、山であるから風はまだ冷たく、春らしさを感じるのはまだ先だった。
木立の向こうに城が見えてきた時、アルノは足を止めた。
道はどこまでも上り坂で、荷物もあるし面倒になったのだ。
方向転換し、ロタ村の方に向かって歩き出す。
わずかな高低差だが、少しでも低いところに行けば、いっきに雪の量は減る。
いつもの住処に戻ってくると、裏庭にはもう雪はなく、荒れた泥まみれの地面に、緑の苔まで生えていた。
厩舎に続く砂利道には、緑の雑草がうっすらと茂り始めている。
歩きなれた道を通り、アルノは裏口から家に入った。
居間の壁際に荷物を下ろし、フックに外套をかけると、暖炉に火を入れる。
それからやっと窓辺の机に置かれた引き出しに、作ってきた宣誓液の瓶を片付けた。
いつもなら、すぐにでも契約紙を作るところだが、そんな気になれず、寝室のベッドにもぐりこむ。
すぐに眠気が訪れ、意識を手放そうとした瞬間、裏口を叩く音がした。
アルノは、居留守を使おうと両手で耳を塞いだ。
すると、今度は表の扉がうるさく鳴りだした。
「アルノ!アルノ!いるんでしょう!」
それは厄介なハンナの声だった。
「いない!」
叫んだが、数秒して裏口が開く音がした。
あろうことか、家に侵入されてしまったのだ。
さらに聞きたくもない情報まで飛び込んできた。
「アルノ、いるのでしょう?困ったことになったの。ニルドが貴族のお姫様を連れてくるそうなの!」
なぜそれを報告に来るのかと、アルノは苛立った。
「私は会わないから、勝手に住んでもらって!」
毛布を内側から引き寄せ、固く目をつぶる。
容赦なく、足音が近づいてきた。
ついに寝室の扉が鳴った。
「アルノ、何を食べているの?厨房で料理したものをあなたに届けるようにクシール様に言われているのに、いつもいないから困っているの」
これ以上踏み込んでくる気なら、掴みかかってでも追い出してやろうとアルノは拳を握る。
「仕事よ!あの城のためにいくら借金したと思っているの!おばあちゃんになっても返せないぐらいの額よ!疲れているんだから、寝かせてちょうだい。私はこれまでもずっと一人でやってきたし、これからも一人でやっていける。構わないで」
やっと静かになったが、遠ざかる足音は聞こえてこない。
息をひそめていると、ハンナの声がした。
「アルノって、結構執念深いのね。私達があなたを助けなかったことを根にもっているでしょう?」
「助けなかったですって?それ以上よ!私は昔から性格が悪いの。根に持つタイプだし、人は信じない。あなた達にお給料を払っているのは私よ。クシールが私のお金を管理しているけど、それを稼いでいるのは私なの。
仕事やお金がもらえなければ、ここに来る気もなかったくせに、今更、親切面しないでよ!あんたにされた、嫌なことも一つ残らず覚えているんだから!」
「全部が本心じゃないわ。あなたにも良いところが多少あるように、私達にも良心ぐらいあるのよ」
「出て行って!」
また沈黙が続く。なかなか立ち去らないことにアルノは苛立った。
今度こそ毛布から出ていかないといけないのかと思い始めた時、ハンナの声がした。
「ニルドに会いたくないなら、私達が対応するわ」
「そうしてちょうだい」
やっと遠ざかっていく足音を聞き、アルノは最悪な気分になった。
自分が嫌な奴になった気分だし、さらにこれから神聖な作業に入るというのに、頭に余計な邪念が入った。
ついにニルドは、あの城で幸せな新婚生活を送るのだ。
ニルドが連れて来る大切に守られてきたお姫様と、婚約者の立場をかけて争う気持ちはもう欠片も残っていない。
ゼインの言葉を思い出す。アルノはこちら側の人間でニルドは違う。
ニルドには生まれつき家族がいて、兄弟がいる。
同じ境遇の仲間や友人がいて、親しく付き合えるご近所さんだっていた。
村の人はニルドに挨拶をしても、アルノにはしない。
同じ村に住んでいたのに、二人の共通点は何もない。
もう二度と顔も合わせたくない。
そう思った途端、嫌な予感がした。
ハンナがこの家に来たみたいに、ニルドと婚約者も、揃ってここに挨拶に来るかもしれない。
そんなもの、絶対に見たくない。
眠気は吹き飛び、アルノは毛布を跳ねのけ起き上がった。
早く森に隠れなければ。
猛然と立ち上がり、空になったかごを担ぐと、表から外に出る。
鍵をしっかりと閉めると、ポケットにそれを戻し、濡れた地面を歩き出す。
ゼインがいなくなり、家の周りはだいぶ荒れている。
雪が消えて下敷きになっていた草木がぼろぼろの状態で現れ、濡れて抉れた地面がさらに沈みこんで、平らで乾いた場所までが傾いている。
雑然と生えてきた雑草のせいで、ただでさえみすぼらしい家の外観は、見事な廃屋の様相を呈している。
そんなあばら家に住んでいる契約師が、まさかノーラ山に城を建てたなんて、誰も思わないだろう。
しかも自分はほとんど住まない城だ。
まさに、お金の使い道に困って、投げ捨てたようなものだ。
破裂しそうだった苛立ちと怒りが、森を歩くうちに少しだけおさまってくる。
最悪な気分も、いくらかましになった。
人に関わることさえなければ、気持ちは楽でいられるのにと考える。
なぜそれが出来ないのかと、憂鬱な溜息をついてふと下を見ると、濡れた落ち葉に覆われた斜面の下に、マカの実が見えた。
迷いなく枯葉の上を滑り降り、マカの実を回収し、かごにいれる。
帰りは急な上り坂になり、アルノはそこを引き返すことを諦め、急斜面にそって歩き出す。
すぐに小さな川が現れた。
雪解け水から生まれた小さな川は、落ち葉や土をじわじわと押し流し、ちょろちょろと斜面を流れ落ちて行く。
冬から春に変わった森は、様子ががらりと変わる。
いつもの森であるはずなのに、見知らぬ森に取り込まれたような気分になる。
川の上に張り出した大岩をよじ登りながら、アルノは何か掴むものはないかと手を伸ばした。
濡れた苔ばかりで、蔓や根も触れない。
硬い岩肌に指をかけ、登り切ったところで、また濡れた落ち葉に覆われた斜面が現れた。
迂回する道が見当たらず、アルノは仕方なく四つん這いになって、斜面を登り始める。
ずるずる滑り落ちながら、なんとか進み、垂れ下がっていた枯れた蔓を掴んだ。
何度か引っ張り、抜けないことを確かめると、それを両手で掴み、足を踏ん張り枯葉の下にある地面を踏みしめる。
少し登ったところで、アルノはすぐにがっしり張り出した木の根につかまった。
蔓から手を移し替え、木の幹にしがみついて斜面の上に這い上がる。
と、ずるりとその大木が傾いた。
根元の地面が滑り落ち、木の根が半分宙に浮いた状態だったのだ。
木の下敷きになる前に、先ほど掴んでいた蔓に飛びついた。
力が入らず、体がずるずる枯葉で覆われた斜面を滑りだす。
転がり落ちていく大木が岩に当たって砕け、ぼっきりと折れた。
そこに、斜面を滑り落ちてきたアルノが背中からぶつかった。
「うっ……」
衝撃で一瞬息を止めたアルノは、強い痛みを感じ、スカートをめくる。
足首がずきずき痛むが、変な方に曲がってはいない。
森の中は危険でいっぱいだ。
契約師であっても、常に救いがあるわけではない。
都合よく雪狼が現れて、助けてくれることなんてことも期待できない。
力尽きれば、森の糧になる。
それが自然の掟だ。
アルノは斜面に横倒しになっている大木の上に頭を置いて空を見た。
木々の合間から見える空に雲はない。
ここに雨まで降ってくるという最悪な事態は避けられそうだ。
身動きせずにいると、さまざまな音が聞こえてくる。
水の流れる音や鳥たちが会話をするようにさえずる声、それからどこかで何かが移動しているかのような葉のさざなり。
風の音さえ聞こえてくる。
そのうち、自分の呼吸の音ばかりが耳元で聞こえ始める。
目を閉じ、森の一部になったかのように大木の陰に身を寄せる。
一晩ここで過ごすしかなさそうだと覚悟し、アルノは外套を首元まで引き上げた。
何かに呼ばれたように、アルノは飛び起きた。
斜面の上から、アルノの名前を呼ぶ声が聞こえてくる。
「アルノ!アルノ!」
ニルドの声だ。
最悪な状況に、アルノはどうにか隠れられないかと辺りを見る。
足首が腫れているから歩けないし、落ち葉の中に隠れたら全身がびしょ濡れになる。
這うことは出来るかもしれないと考え、大木によじのぼる。
折れた大木は、川に張り出した大きな岩につっかえて、かろうじて止まっている状態だ。
滑り台のように傾いてはいるが、上を這って行けば、斜面の下に隠れられるかもしれない。
丸太に這い上がったところで、ずるりと倒木が濡れた落ち葉の上を滑りだした。
「きゃああ」
思わず声が出た。
強い衝撃と共に、大木の動きが止まった。
対岸に食い込んでいた岩に倒木の先端がひっかかり、こちら側の斜面と繋がり、橋のように空中で横たわっていた。
アルノはそんな丸太の橋にしがみつき、恐る恐る下を見た。
小さな谷底に雪解け水で出来た川が流れている。
「アルノ!アルノ!」
ニルドの声が近づく。
さらに悪いことに、先ほどの衝撃でスカートがまくれ、下着に包まれたお尻が丸見えの状態になっている。
こんな無様な姿は誰にも見られたくない。
ましてや、ニルドに見られるなんて、考えただけで死にそうだ。
それぐらいなら、手を放して尖った小石や枝が突き立っている濡れた地面に落下した方がましではないかと考える。
川に落ちたら少しは衝撃もやわらぐかもしれない。
しかし冷たい水に濡れ、さらなる怪我を負えば、それこそ今夜を生き延びることさえ難しくなる。
「アルノ!」
声色が変わった。
ついに、ニルドが橋のように空中に張り出した大木に、蛙のように張り付くアルノの姿を発見したのだ。
「大丈夫か!」
声がすぐそこで聞こえ、枯葉をかき分ける音まで迫ってくる。
このままでは、恥ずべき姿を見られることになる。
いや、もう見られている。
パンツも見られているし、大股開きで丸太にしがみつく無様な姿も見られている。
顔を横向きにして丸太の表面に頬を押し付けたまま、このまま木と同化して消えてしまうか、あるいは落ち葉が大量に落ちてきて体を埋めてくれないだろうかと考えた。
「アルノ!大丈夫か!」
ついに、ニルドの声が耳元で聞こえ、アルノの肩に大きな分厚い手が触れた。
「アルノ?」
ニルドが丸太からアルノを引きはがし、くるりと体を回転させると腕に抱き留めた。
それから、驚いたように目をぱちくりとさせた。
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【完結】悪役令嬢の反撃の日々
くも
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「ロゼリア、お茶会の準備はできていますか?」侍女のクラリスが部屋に入ってくる。
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お茶会の席で、ロゼリアはいつものように優雅に振る舞い、貴族たちの陰口に耳を傾けた。その時、一人の男性が現れた。彼は王国の第一王子であり、ロゼリアの婚約者でもあるレオンハルトだった。
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