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27.不毛な会話
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雪解けの季節を迎えた森の中には、不思議な気配が満ちていた。
冬眠中の精霊たちが目を覚まし始めたかのように、まだ地面は雪で覆われているというのに、草木の香りが充満し、まだ冷たい風にまで、もう春の息吹が混ざり込んでいるようだった。
気が早いのではないかと、精霊たちに突っ込みたくなるが、枝についたつぼみや、雪の下から聞こえる雪解け水の川音は確かな春の足音だった。
アルノはあっさり見つかったマカの実を回収しながら、大きく息を吐き出した。
契約師の仕事は孤独なものであり、自然と一体になることで精霊の力を得ると言われるため、俗世にはほとんど関わらずに生涯を終える。
アルノの師匠にも友達と言える人はいなかった。
担当僧侶が来た時だけ、アルノを遠ざけ二人きりで何かを話していたが、歳をとり契約紙を一枚仕上げるのに時間がかかるようになると、その僧侶の足も遠のいていったのだ。
今は頻繁にやってくるクシールも、次の専属世話人も、そんな風にいつかアルノのところには来なくなる。
どうせ一人でいるのであれば、このまま森を出なくてもいいのではないかと考えてしまう。
「家出をしたら……クシールが困ることになるのね……」
それにニルドにお城も建ててあげられなくなる。
自分の物にならない男のために、城を建てるなんて、馬鹿げていると思うが、もうそれぐらいしかアルノが仕事をする理由がない。
ゼインも聖職者で贅沢を禁じられている身だし、アルノのことをどう思っているのかもよくわからない。
ニルドが消えたら、アルノは誰とも繋がっていないことになってしまう。
とはいえ、誰かと繋がっていたいのかどうかも、もはやわからない。
疲れたようにため息をつき、アルノは宣誓液を作るための洞に向かうため方向転換をした。
と、岩陰から不意に大きな雪狼が現れた。
「あなたは……」
アルノは雪狼に近づき、顎の下をやさしくかいてやる。
「あんなに小さかったのに、大きくなり過ぎじゃない?まだ成長しているの?」
大人になれば成長は止まるはずだが、この雪狼は会うたびに大きくなっている。
アルノに撫でられ喜んでいるのか、雪狼は鼻をアルノの胸元に押し付けた。
左右にゆすられ、アルノは顔を赤くする。
「ちょ、ちょっと、くすぐったい」
さらに雪狼は胸からお腹にかけて鼻を押し付け、ついに股間の下にもぐりこむと、アルノの体を地面から持ち上げた。
宙に放られたアルノは、すぐに柔らかな背中に着地した。
頑丈な毛を掴み、なんとか態勢を整え、背中にまたがる。
初めて体験する高さに緊張し、アルノは雪狼の背中にしがみつく。
「どうしたの?どこかに連れていってくれるの?」
雪狼はアルノを乗せたまま、ゆっくり森の中を歩きだす。
「こんな風に、乗せてくれるのは初めてね」
自力で下りられる高さではないため、アルノは諦めて雪狼の背で揺られながら、その耳の後ろを優しく撫でる。
「出会ったころは胸に抱けるぐらい小さかったのに」
長い付き合いともいえるこの雪狼は、もうアルノにとって森を構築しているものの一部という認識だ。
神聖な山の守り神であれば、勝手な名前も付けるわけにはいかないと、ただその存在に敬意を払ってきた。
これだけ大きな雪狼になったということは、やはりノーラ山の主なのかもしれないとアルノは密かに考えた。
雪狼は、アルノを乗せたまま、足場の悪い地面を器用に進んでいく。
高い木々の間を抜け、灌木を乗り越えて斜面を登っていくと、岩だらけの山頂が見えてきた。
腹ばいになっていたアルノは上体を起こした。
そそり立つ岩盤の下に、小さな人影が見える。
「誰かいる?」
雪狼がそちらに向かい、岩だらけの斜面を登っていく。
「クシール?」
クシールが、手に何か書類のようなものを持って立っている。
背後には洞窟があり、まるでそこで寝泊まりしているかのように、入り口付近に荷物が積み上げられている。
雪狼が速度を上げてそこに近づく。
「クシール!」
雪狼の背から手を振るとクシールが驚いたように、顔をあげた。
「アルノさん?」
鋭い岩だらけの斜面をかるがると飛び越えた雪狼が足を止め、後ろ脚を畳んで背中を滑り台のように傾ける。
アルノは丸まった尻尾の上にお尻から着地した。
「クシール」
差し出されたクシールの手を取って立ち上がったアルノは、ここまで連れてきてくれた雪狼を振り返る。
雪狼は二人の前からゆっくり遠ざかり、またすぐにお尻を下ろし、促すように振り返る。
「乗れと言われているみたい」
精霊の意思が働いているのであれば、従う必要があるとクシールは判断した。
二人が雪狼の背中に這い上がると、やはり雪狼はまたゆっくりと斜面を登り始めた。
大きな岩の上を跳ねるように移動し、アルノとクシールは腹ばいになって背中にしがみついた。
突然、一気に視界が開けた。
クシールが起き上がり、目をみはった。
「こ、これは!」
「どうしたの?」
クシールが落ちるのではないかと心配し、アルノがその足を押さえる。
「交易都市パリートが見えます。この方角だったのですね……。ずっと探していたのです。パリートから篝火の灯りが一つでも見える場所はどこなのか。
地図を見て、距離や角度を計算し、実際に現地を見て、いろいろ検討しても確信が持てませんでした。しかし、ここならば完璧です」
そこは巨大な岩のてっぺんで、確かに人には登れないような場所だった。
クシールは太陽の向きや、町の方角、それからロタ村の位置まで確かめ、手元の紙に熱心に何かを書き始めた。
しばらくして、クシールはようやく雪狼の背中に張り付いた。
「もう終わりました。私を先ほどのところに戻してください」
雪狼は方向転換し、飛ぶように斜面を下っていく。
やがて、さっきまでクシールが立っていた洞窟の前に到着すると、お尻を落とし背中を傾ける。
クシールはアルノをしっかり抱いて、地面に着地した。
すぐに立ち上がると、アルノに手を貸し、助け起こす。
雪狼は二人を振り返ることなく、あっという間に夕闇に消えてしまった。
残された二人は、薄暗くなってきた岩だらけの斜面を見て、洞窟を振り返った。
「私も泊れる?」
アルノの問いかけに、クシールは積み上げた荷物の中から、寝袋を取り出してアルノに差し出した。
夜が迫る中、アルノはクシールの用意していた保存食を使い、火を焚いてちょっとした料理をした。
その間、クシールは小さなテーブルに分厚い書類を積み上げ、ずっと何かを書き続けていた。
「食事が出来たけど、食べるでしょう?そっちに持って行っても良い?」
「私はいりません。一人で食べてください」
「そんな……せっかく作ったのに」
一人なら携帯用のクスリの実で良かったのだ。
ため息をつき、アルノは自分用の椀には何も入れず、クシールの椀を火の傍に戻した。
それをちらりと見て、クシールがテーブルにペンを置いた。
「頂きます」
腰を上げ、火の傍に来てアルノがよそった椀を手に取る。
クシールが食べ始めるのを見届け、アルノも自分の椀にスープを注いだ。
「あの雪狼に名前はないのですか?」
あっという間に食べ終えたクシールは、椀を地面に置いて洞窟の外を見た。
焚火の灯りのせいで外はより暗く見え、眼下の森はより濃い闇として横たわる。
「あの子には、もう名前があると思うの。でも、それを知ることが出来ないから、勝手な名前で呼ぶのも失礼でしょう?」
「契約師は契約した土地に味方が多いほど、精霊の力を分けてもらえると聞きますから、彼もきっとあなたの力の一部なのだと思います」
「力って……別に何か特別なことが出来るわけでもないのに……。あの子だって、気が向いた時に姿を見せてくれるだけよ。それに……森に守られていると言っても、飢えないわけじゃないし、寒くないわけじゃない。普通の暮らしよ……。食料が見つけられなければ、木の皮を齧るような……そんな村ではきっと考えられないような暮らし。
それでも……村にいるより、山に居た方が楽」
「そうですか?同情され、憐れまれることが悪いことだとは思いませんが?贅沢ですね。
助けてほしいと言えば、誰かが動いたかもしれない。あなたは、拒まれることを恐れて逃げていただけでは?まぁ、私には関係ありません。
ロタ村の元住人達には仕事を割り振りました。城を建てられる場所も決まりましたし、それに何より、あの雪狼が導いてくれたことが大きい。
この山の精霊に建設を許されたと確信出来ました。城を建てるとは、なかなか名案です」
「ニルドと……よく知らないお姫様の為よ。本当に頭にくる。なんで私が建ててあげなきゃいけないわけ?普通、昔の友達だったからって、城を建ててくれなんて頼む?」
「正直な人ですね。相当、困っていたんでしょうね」
「熱っ」
椀を一気に傾けたアルノが、熱さに悲鳴を上げ、赤くなった舌を出した。
「ご自分で作っていましたよね?」
先に食べて熱いことがわかっていたのだから教えてくれたらいいのにと、アルノはクシールをちらりと睨む。
「クシールって、意地悪ね」
「アルノさんは、いつも怒っていますね。そろそろ成長してください」
「説教臭いところも嫌い」
「説教だと気づいてくださりなによりです。明日は朝から仕事に出てくださいね。ここにいてもあなたが出来ることはありません」
アルノは頬を膨らませた。
「ゼインは、クシールのどこが好きなのかしら」
「好きではないと思いますよ。私達は殺し合ったこともありますし、騙し合ったこともあります。利害の一致でしょうね。互いを抱き合う授業は最悪でした。彼は私の上からどこうとしなかったので、いつか殺そうと思っていました」
「そんな授業があるの?それに比べたら、私の悩みは小さいのかしら……」
「悩んでいたんですか?」
問いかけながらも、クシールは関心なさそうに欠伸をする。
「その……不安なのよ。クシールには話したことがないから、知らないと思うけど……その……私……ニルドが好きだったの」
今更の話に、逆にクシールは驚いた。
「どうして私が知らないと思ったのか、そっちの方が驚きです」
「え……」
顔を赤くして、アルノは膝の間に顔を埋めた。
「クシールは知らないと思っていた。だって、ゼインと違って私に関心ないじゃない」
「今更の話ですね。それで、悩みというのは?」
「お城で……ニルドとそのお姫様の生活を見るのは嫌なの」
「見えないと思いますよ。あなたの部屋はお城の中というより外ですから。すぐに森に入れるように厨房の隣です。
なんでしたら、従業員用の部屋よりも外側です。設計図を見ていないのですか?道の整備は大変ですが、まぁ、城が建つということが一番重要なことですから」
アルノはクシールをにらみつけた。
「クシールって、絶対に意地悪だと思う」
「光栄です。私は馬車馬に鞭を振るうのが仕事ですから」
馬車馬扱いされ、怒ろうとしたアルノはそれをやめ、冷めてきた椀の中身をいっきに平らげ、器を火の傍に戻した。
「もう寝るから」
クシールも、やっと仕事に戻れるといった顔で、さっさとテーブルの方に移る。
不毛な会話だったというのに、少しだけ気分がすっきりしたアルノは、寝袋を引きずり、クシールの居る場所より奥に移動した。
暗がりに寝袋を広げ、潜り込む。
横になって目を閉じる直前、アルノは書き物をしているクシールをちらりと見た。
相変らず、淡々とした表情で、仕事をしている。
どう考えても、クシールを信じて心を開くなんてことは出来そうにない。
何を考えているのかわからないクシールはずっと苦手だったし、あからさまにアルノを手懐けようとしてくるゼインも信用できなかった。
村の人たちは自分の利益のためにしか行動しないし、イアンに襲われたことを考えれば、他人は誰も信用できない。
――あなたは、拒まれることを恐れて逃げていただけでは?……
先ほどのクシールの言葉が蘇り、アルノは少し嫌な気持ちになった。
じゃあ、どうすれば信じられる人かどうか見分けられるようになるというのか。
裏切られて初めて、信じてはいけない人だったのだと気づくようなら、最初から信じない方がましだ。
硬く目を閉じ、何も考えないようにしてアルノは強引に眠りについた。
書き物をしていたクシールは、アルノの寝息に気が付くと、積み上げられた荷物の中から毛布を一枚取り上げた。
それをアルノの上にそっとかける。
そして、またテーブルに戻り、大きく伸びをすると、書き物の続きを始めた。
冬眠中の精霊たちが目を覚まし始めたかのように、まだ地面は雪で覆われているというのに、草木の香りが充満し、まだ冷たい風にまで、もう春の息吹が混ざり込んでいるようだった。
気が早いのではないかと、精霊たちに突っ込みたくなるが、枝についたつぼみや、雪の下から聞こえる雪解け水の川音は確かな春の足音だった。
アルノはあっさり見つかったマカの実を回収しながら、大きく息を吐き出した。
契約師の仕事は孤独なものであり、自然と一体になることで精霊の力を得ると言われるため、俗世にはほとんど関わらずに生涯を終える。
アルノの師匠にも友達と言える人はいなかった。
担当僧侶が来た時だけ、アルノを遠ざけ二人きりで何かを話していたが、歳をとり契約紙を一枚仕上げるのに時間がかかるようになると、その僧侶の足も遠のいていったのだ。
今は頻繁にやってくるクシールも、次の専属世話人も、そんな風にいつかアルノのところには来なくなる。
どうせ一人でいるのであれば、このまま森を出なくてもいいのではないかと考えてしまう。
「家出をしたら……クシールが困ることになるのね……」
それにニルドにお城も建ててあげられなくなる。
自分の物にならない男のために、城を建てるなんて、馬鹿げていると思うが、もうそれぐらいしかアルノが仕事をする理由がない。
ゼインも聖職者で贅沢を禁じられている身だし、アルノのことをどう思っているのかもよくわからない。
ニルドが消えたら、アルノは誰とも繋がっていないことになってしまう。
とはいえ、誰かと繋がっていたいのかどうかも、もはやわからない。
疲れたようにため息をつき、アルノは宣誓液を作るための洞に向かうため方向転換をした。
と、岩陰から不意に大きな雪狼が現れた。
「あなたは……」
アルノは雪狼に近づき、顎の下をやさしくかいてやる。
「あんなに小さかったのに、大きくなり過ぎじゃない?まだ成長しているの?」
大人になれば成長は止まるはずだが、この雪狼は会うたびに大きくなっている。
アルノに撫でられ喜んでいるのか、雪狼は鼻をアルノの胸元に押し付けた。
左右にゆすられ、アルノは顔を赤くする。
「ちょ、ちょっと、くすぐったい」
さらに雪狼は胸からお腹にかけて鼻を押し付け、ついに股間の下にもぐりこむと、アルノの体を地面から持ち上げた。
宙に放られたアルノは、すぐに柔らかな背中に着地した。
頑丈な毛を掴み、なんとか態勢を整え、背中にまたがる。
初めて体験する高さに緊張し、アルノは雪狼の背中にしがみつく。
「どうしたの?どこかに連れていってくれるの?」
雪狼はアルノを乗せたまま、ゆっくり森の中を歩きだす。
「こんな風に、乗せてくれるのは初めてね」
自力で下りられる高さではないため、アルノは諦めて雪狼の背で揺られながら、その耳の後ろを優しく撫でる。
「出会ったころは胸に抱けるぐらい小さかったのに」
長い付き合いともいえるこの雪狼は、もうアルノにとって森を構築しているものの一部という認識だ。
神聖な山の守り神であれば、勝手な名前も付けるわけにはいかないと、ただその存在に敬意を払ってきた。
これだけ大きな雪狼になったということは、やはりノーラ山の主なのかもしれないとアルノは密かに考えた。
雪狼は、アルノを乗せたまま、足場の悪い地面を器用に進んでいく。
高い木々の間を抜け、灌木を乗り越えて斜面を登っていくと、岩だらけの山頂が見えてきた。
腹ばいになっていたアルノは上体を起こした。
そそり立つ岩盤の下に、小さな人影が見える。
「誰かいる?」
雪狼がそちらに向かい、岩だらけの斜面を登っていく。
「クシール?」
クシールが、手に何か書類のようなものを持って立っている。
背後には洞窟があり、まるでそこで寝泊まりしているかのように、入り口付近に荷物が積み上げられている。
雪狼が速度を上げてそこに近づく。
「クシール!」
雪狼の背から手を振るとクシールが驚いたように、顔をあげた。
「アルノさん?」
鋭い岩だらけの斜面をかるがると飛び越えた雪狼が足を止め、後ろ脚を畳んで背中を滑り台のように傾ける。
アルノは丸まった尻尾の上にお尻から着地した。
「クシール」
差し出されたクシールの手を取って立ち上がったアルノは、ここまで連れてきてくれた雪狼を振り返る。
雪狼は二人の前からゆっくり遠ざかり、またすぐにお尻を下ろし、促すように振り返る。
「乗れと言われているみたい」
精霊の意思が働いているのであれば、従う必要があるとクシールは判断した。
二人が雪狼の背中に這い上がると、やはり雪狼はまたゆっくりと斜面を登り始めた。
大きな岩の上を跳ねるように移動し、アルノとクシールは腹ばいになって背中にしがみついた。
突然、一気に視界が開けた。
クシールが起き上がり、目をみはった。
「こ、これは!」
「どうしたの?」
クシールが落ちるのではないかと心配し、アルノがその足を押さえる。
「交易都市パリートが見えます。この方角だったのですね……。ずっと探していたのです。パリートから篝火の灯りが一つでも見える場所はどこなのか。
地図を見て、距離や角度を計算し、実際に現地を見て、いろいろ検討しても確信が持てませんでした。しかし、ここならば完璧です」
そこは巨大な岩のてっぺんで、確かに人には登れないような場所だった。
クシールは太陽の向きや、町の方角、それからロタ村の位置まで確かめ、手元の紙に熱心に何かを書き始めた。
しばらくして、クシールはようやく雪狼の背中に張り付いた。
「もう終わりました。私を先ほどのところに戻してください」
雪狼は方向転換し、飛ぶように斜面を下っていく。
やがて、さっきまでクシールが立っていた洞窟の前に到着すると、お尻を落とし背中を傾ける。
クシールはアルノをしっかり抱いて、地面に着地した。
すぐに立ち上がると、アルノに手を貸し、助け起こす。
雪狼は二人を振り返ることなく、あっという間に夕闇に消えてしまった。
残された二人は、薄暗くなってきた岩だらけの斜面を見て、洞窟を振り返った。
「私も泊れる?」
アルノの問いかけに、クシールは積み上げた荷物の中から、寝袋を取り出してアルノに差し出した。
夜が迫る中、アルノはクシールの用意していた保存食を使い、火を焚いてちょっとした料理をした。
その間、クシールは小さなテーブルに分厚い書類を積み上げ、ずっと何かを書き続けていた。
「食事が出来たけど、食べるでしょう?そっちに持って行っても良い?」
「私はいりません。一人で食べてください」
「そんな……せっかく作ったのに」
一人なら携帯用のクスリの実で良かったのだ。
ため息をつき、アルノは自分用の椀には何も入れず、クシールの椀を火の傍に戻した。
それをちらりと見て、クシールがテーブルにペンを置いた。
「頂きます」
腰を上げ、火の傍に来てアルノがよそった椀を手に取る。
クシールが食べ始めるのを見届け、アルノも自分の椀にスープを注いだ。
「あの雪狼に名前はないのですか?」
あっという間に食べ終えたクシールは、椀を地面に置いて洞窟の外を見た。
焚火の灯りのせいで外はより暗く見え、眼下の森はより濃い闇として横たわる。
「あの子には、もう名前があると思うの。でも、それを知ることが出来ないから、勝手な名前で呼ぶのも失礼でしょう?」
「契約師は契約した土地に味方が多いほど、精霊の力を分けてもらえると聞きますから、彼もきっとあなたの力の一部なのだと思います」
「力って……別に何か特別なことが出来るわけでもないのに……。あの子だって、気が向いた時に姿を見せてくれるだけよ。それに……森に守られていると言っても、飢えないわけじゃないし、寒くないわけじゃない。普通の暮らしよ……。食料が見つけられなければ、木の皮を齧るような……そんな村ではきっと考えられないような暮らし。
それでも……村にいるより、山に居た方が楽」
「そうですか?同情され、憐れまれることが悪いことだとは思いませんが?贅沢ですね。
助けてほしいと言えば、誰かが動いたかもしれない。あなたは、拒まれることを恐れて逃げていただけでは?まぁ、私には関係ありません。
ロタ村の元住人達には仕事を割り振りました。城を建てられる場所も決まりましたし、それに何より、あの雪狼が導いてくれたことが大きい。
この山の精霊に建設を許されたと確信出来ました。城を建てるとは、なかなか名案です」
「ニルドと……よく知らないお姫様の為よ。本当に頭にくる。なんで私が建ててあげなきゃいけないわけ?普通、昔の友達だったからって、城を建ててくれなんて頼む?」
「正直な人ですね。相当、困っていたんでしょうね」
「熱っ」
椀を一気に傾けたアルノが、熱さに悲鳴を上げ、赤くなった舌を出した。
「ご自分で作っていましたよね?」
先に食べて熱いことがわかっていたのだから教えてくれたらいいのにと、アルノはクシールをちらりと睨む。
「クシールって、意地悪ね」
「アルノさんは、いつも怒っていますね。そろそろ成長してください」
「説教臭いところも嫌い」
「説教だと気づいてくださりなによりです。明日は朝から仕事に出てくださいね。ここにいてもあなたが出来ることはありません」
アルノは頬を膨らませた。
「ゼインは、クシールのどこが好きなのかしら」
「好きではないと思いますよ。私達は殺し合ったこともありますし、騙し合ったこともあります。利害の一致でしょうね。互いを抱き合う授業は最悪でした。彼は私の上からどこうとしなかったので、いつか殺そうと思っていました」
「そんな授業があるの?それに比べたら、私の悩みは小さいのかしら……」
「悩んでいたんですか?」
問いかけながらも、クシールは関心なさそうに欠伸をする。
「その……不安なのよ。クシールには話したことがないから、知らないと思うけど……その……私……ニルドが好きだったの」
今更の話に、逆にクシールは驚いた。
「どうして私が知らないと思ったのか、そっちの方が驚きです」
「え……」
顔を赤くして、アルノは膝の間に顔を埋めた。
「クシールは知らないと思っていた。だって、ゼインと違って私に関心ないじゃない」
「今更の話ですね。それで、悩みというのは?」
「お城で……ニルドとそのお姫様の生活を見るのは嫌なの」
「見えないと思いますよ。あなたの部屋はお城の中というより外ですから。すぐに森に入れるように厨房の隣です。
なんでしたら、従業員用の部屋よりも外側です。設計図を見ていないのですか?道の整備は大変ですが、まぁ、城が建つということが一番重要なことですから」
アルノはクシールをにらみつけた。
「クシールって、絶対に意地悪だと思う」
「光栄です。私は馬車馬に鞭を振るうのが仕事ですから」
馬車馬扱いされ、怒ろうとしたアルノはそれをやめ、冷めてきた椀の中身をいっきに平らげ、器を火の傍に戻した。
「もう寝るから」
クシールも、やっと仕事に戻れるといった顔で、さっさとテーブルの方に移る。
不毛な会話だったというのに、少しだけ気分がすっきりしたアルノは、寝袋を引きずり、クシールの居る場所より奥に移動した。
暗がりに寝袋を広げ、潜り込む。
横になって目を閉じる直前、アルノは書き物をしているクシールをちらりと見た。
相変らず、淡々とした表情で、仕事をしている。
どう考えても、クシールを信じて心を開くなんてことは出来そうにない。
何を考えているのかわからないクシールはずっと苦手だったし、あからさまにアルノを手懐けようとしてくるゼインも信用できなかった。
村の人たちは自分の利益のためにしか行動しないし、イアンに襲われたことを考えれば、他人は誰も信用できない。
――あなたは、拒まれることを恐れて逃げていただけでは?……
先ほどのクシールの言葉が蘇り、アルノは少し嫌な気持ちになった。
じゃあ、どうすれば信じられる人かどうか見分けられるようになるというのか。
裏切られて初めて、信じてはいけない人だったのだと気づくようなら、最初から信じない方がましだ。
硬く目を閉じ、何も考えないようにしてアルノは強引に眠りについた。
書き物をしていたクシールは、アルノの寝息に気が付くと、積み上げられた荷物の中から毛布を一枚取り上げた。
それをアルノの上にそっとかける。
そして、またテーブルに戻り、大きく伸びをすると、書き物の続きを始めた。
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