26 / 71
26.友達以上恋人未満
しおりを挟む
灯りが映り込んだ湯気は、まるで湯気そのものがランプになったかのように、ゼインの顔を温かな色で照らし出している。
アルノは契約上の恋人を見上げ、その心細さを誤魔化そうと前を向いた。
「そう……。他の……人がくる?」
「そうかもしれないし、戻ってこられるかもしれない」
それは教会が決めることであって、ゼインの意思は関係ないということなのだとわかったが、アルノの胸は痛んだ。
「誰にも……他の人には私の世話なんてさせない」
「君はきれいだ。次の世話人もきっと君を好きになるだろう。君にはまた友人が出来る」
「嘘よ!誰も信じていないくせに。友人なんて嘘。私だって……きれいじゃない。私を好きになる人なんて、どこにもいない。それに、あんなことだってあったのに……」
背後からアルノの肩に手を置いたゼインは、そっとその手を下に滑らせた。
透明な湯の中に、ゼインの手が入り込み、アルノの胸に優しく触れた。
ぞっとするかと思ったが、それは逆だった。
美しい指や爪の形が、アルノの汚れた胸に乗せられているのを見て、心臓の鼓動が速くなる。
「私の体を見ただろう?傷だらけで、無事なところはほとんどない。さらに子供時代から欲まみれの大人達に体中を犯されてきた。望んでそれをするようになるまで、縛られてされることさえあった。私に比べたら、君は新雪のように真っ白だ」
胸に乗せられたゼインのきれいな手を、アルノは両手で包んだ。
「ゼインはきれいよ。そんな話を聞いても……汚れているとは思えない。顔も手も指も傷だらけの体だってきれいだった」
「慰めてくれるのか?」
どこか投げやりなゼインの声に、アルノは振り返る。
ゼインの目にも憎しみがあるが、それはアルノのものとは違う。
同情や憐れみを跳ねのけるだけの強さがあり、道を選び抜く覚悟がある。
アルノのように寂しさを癒す相手も、愛さえも求めていない。
「あなたも……本物だと信じられるものを、手に入れたことがないのね。ゼイン、来て」
胸を突き上げるように沸いた気持ちをなんと表現していいのか、アルノはわからなかった。
ゼインは上のシャツを脱ぎ、アルノを怖がらせないように反対側の縁から湯桶に静かに入った。
向かいに膝を立てて座り、アルノの手を取る。
「まだ怖いだろう?」
圧倒的な力で支配される恐怖は、ゼインにも身に覚えがある。
「ゼイン……。私は……きれいでもないし、可愛くもない。お世辞は言わないでね。性格も良くないし、もてる要素がないのはわかっている。
あんなことがあって……普通の人は欲しがらない体よね。村の人なら今の私を傷ものだと呼ぶと思う。
でも……一個だけ真っ白だと思えるものがあるの。ゼイン、私の純潔をあげる」
ランプの灯りに染まった湯気が揺らめくベールのように二人の間に立ち昇る。
「無理をしなくても良い。君に……その気がないのはわかっている」
偽りの世界で身を固めてきたゼインは、真実を宿したアルノの声にわずかな恐怖を感じ、警戒した。
「言葉も体も嘘をつく。あなたは誰も信じない。私も、誰も信じたことがない。だから、本物を証明するのは難しい。でも一個だけ本物だと目に見える形であなたにあげられるものがある。ゼイン、あなたに私の純潔をあげる。一緒に、本当のものを見たいの。私に……触れて」
「愛もないのに?」
「あると言っても信じないでしょう?それに私もわからない。ただ……あまりにも現実離れした妄想の世界で生きて来たから、私も本物が見たくなったの。
あなたも……心にもない言葉で私を騙して奪うより良いでしょう?望んでいたはずなのに、躊躇するのね」
「君の心がどこにあるのか知っているからだ」
かすむ湯気越しに、ゼインの目をじっと見つめ、アルノは小さく首を振る。
ゼインは慎重だった。
今しくじれば、ここに戻る道を失う。
アルノにゼインが必要だと思わせないといけない。痛みを与え、後悔するようなことをさせては次の機会は巡ってこない。
「これは取引じゃない。私が、ただあなたにあげたいの」
「試しているのか?」
作り物めいた穏やかな声音から、少し緊張したかたい声に変わった。
「ゼイン、愛もないけど嘘もない。あなたは今日で私の専属を外れるかもしれないのだから、甘い嘘で私を縛り付けるようなことをしても無駄になる。そうでしょう?」
「こんな風に、思い付きで行動したら後悔することになる。心の影響で契約紙の質が落ちたら、クシールにも恨まれる」
「良いじゃない。もうあなたは担当じゃないんだから。それに……クシールはあなたを恨んだりしないと思う。だって、クシールはゼインのこと大好きよ」
不審な顔になったゼインに、アルノは少し羨むような眼差しを向けた。
「ゼイン、それでもあなたにあげる。お世話になったお礼とでも考えてよ。だって、初めてでしょう?嘘で飾る必要のない行為は。楽しめるか、試してみたら?私……あなたの本当の心に触れてみたいの。それが、どんな恐ろしい姿でも構わない」
ゼインの目の色が変わった。
ただの男として、仕事上の利益もなしに女を抱いたことは一度もない。
「俺にただで物をくれるというのか?俺が好きにして良いと?何の見返りもなく?」
「この行為の前後で、私があなたの評価を変えないと約束する」
甘やかされた夢見がちな女が、寝言を言っているようにゼインには聞こえた。
何も知らない女に、この痛みがわかるわけがない。
そう思った瞬間、ゼインの全身を激しい怒りが突き抜けた。
水を跳ね上げ、ゼインはアルノに襲い掛かった。
乱暴にこじ開けた足の間に自身の腰を押し付ける。
獣に変わったゼインの顔を見上げ、アルノはその頬を両手で抱えた。
「後悔しないのか?」
前戯も、相手を思いやることもなく、ただ男の狂暴な欲望に任せ体を奪う直前、最後の理性がゼインの口を開かせた。
「あなたにあげる。ゼイン、好きなように奪って」
風呂桶のお湯が跳ね上がるのと同時に、体を貫かれるような激痛が襲った。
あまりの痛みに、気が遠くなる。
霞んでいく視界の中に、ゼインの姿を探す。
ゼインは傷だらけの身体でアルノの上に君臨し、冷酷な目で見据えながら、無言で腰を打ち付けている。
確かな痛みを感じながら、アルノは声を出すまいと歯を食いしばった。
湯桶のお湯が半分に減ってしまうまで、ゼインはアルノを桶の底に押さえ込んでいた。
半ば溺れそうになりながら、アルノは湯桶の縁に両手をかけ、必死に顔をあげていた。
しかしそれも長くは続かず、アルノは声も無く意識を手放した。
一心不乱に欲望に身をまかせ、腰を叩きつけていたゼインは、やっと動きを止めた。
透明なお湯が赤く染まり、鼻と口を残して、アルノの身体がほとんどお湯に沈んでいる。
抱き上げ、目を閉ざしたアルノを胸に抱え、湯桶の縁にもたれかかった。
激しく動いたため、桶の中にはゼインの逸物をかろうじて隠せる程度のお湯しか残っていない。
濡れた石造りの天井を見上げ、ゼインは数十年ぶりに表に出した自分の本性に向き合った。
理性を失った気分は最悪だった。
それなのに、ある種の生々しい爽快感がある。
完璧に計算し、作り上げた自身の殻を、自分で破壊したのだ。
「くそっ。なんてざまだ。小娘の分際で、俺を手玉に取ろうとするとは。もう二度と顔を合わせずに済むのであればいっそ、清々する」
小声で毒づき、ふと視線を下げてぎょっとする。
アルノが目を開けてじっとゼインを見ている。
今更取り繕った顔も出来ず、ゼインは無言で睨み返した。
ふっとアルノが笑った。
「そっちのゼインの方が好き。それが、本当のゼインなのね。残忍で意地悪な獣みたいなのに、そんな凶悪な獣を完璧に制御しているのね。クシールには見せないの?」
素を出してしまったゼインは、気を遣って返事をする必要もないだろうとばかりに無言だった。
いつの間にかお湯はぬるくなり、湯気も散ってしまっている。
質の悪い契約紙で作られたお湯はすぐに冷たくなる。
ほの暗い浴室の壁に、炎の陰が映り込む。
アルノはゼインの返事がなくても気にした様子もなく、傷だらけの体に身を寄せて、また目を閉じた。
お湯がすっかり冷えたころ、やっとクシールが様子を見に来た。
風呂桶を覗き、珍しく表情豊かなゼインと、眠り込んでいるアルノを見比べる。
それから風呂桶に残されている水の色を確かめた。
「やっと目的を遂げたようですね。風邪を引かせないように、さっさと寝室に運んでください」
クシールの姿が視界から消えると、ゼインは水音を立てないように、アルノを抱いて立ち上がった。
翌朝、アルノは体の痛みに呻きながら目を覚ました。
背中も股間も、腕もどこもかしこもずきずきと痛み、悲鳴を上げている。
狭い風呂桶でゼインとしたことを思い出し、アルノは仰向けになって自分の気持ちに向き合った。
たった一つのものを失って、多少は後悔するのだろうかと思ったが、不思議と何も感じなかった。
むしろ無用の長物だったものを、思い切って捨てたような清々しい気持ちだった。
純潔なんてものにこだわるから、男との逢瀬に過剰な期待をするのかもしれない。
村の人たちだって、しょっちゅう物陰でやりたい放題していたのだから、きっと慣れてしまえばその程度のことなのだ。
あんなにニルドに未練たらたらだったのに、ゼインのことばかり思い出す。
ゼインの本当の姿を間近に見て、容赦のない力で蹂躙された時、心が震えるような感動を覚えた。
そんな気持ちになったのは、子供時代にニルドと遊んだ時以来だった。
心で人と繋がった気がしたのだ。
もし、ゼインが偽りの仮面をかぶり、売り物にしている優しさでアルノの純潔を奪っていれば、お金で純潔を売ってしまったかのような虚しい気持ちになったかもしれない。
でも、本物に触れるために純潔を捧げたのだと思うと、有意義な時間だったと思える。
ゼインの怒りや悲しみ、それから全てを乗り越えてきた強さのようなものが一気に体に流れ込んできて、アルノはその逞しさに圧倒されていた。
ずっと仕事を捨て、ここ以外のどこかに行きたいと願ってきたが、足掻くことの強さを知ったような気さえした。
心が繋がった瞬間を思い出すと胸が熱くなる。
とはいえ、ゼインと恋人になれるかどうかはまた別の問題だ。
「友達にはなれそうだけど、体を重ねても恋人になれるかどうかは、まだわからないのね」
それは、とても不思議なことだった。
それなのに、もうゼインは他人じゃないと感じている。
十年の片思いは何だったのだろうかとアルノは自身の変わり身の早さに、呆れながら考えた。
やはりいくら好きでも、触れることのできない男ではつまらないのだ。
意外とふてぶてしい女ではないかと自分の逞しさに満足し、アルノはベッドから起き上がった。
冷たい床に両足を置くと、着せられていた寝着を脱ぐ。
衣装棚を開けた瞬間、アルノは部屋を飛び出した。
「クシール!ゼインは?」
テーブルに書類を積み上げ、難しい顔で書き物をしていたクシールが顔をあげた。
「早朝に立ちました」
衝撃で言葉を失いかけたアルノは、すぐに気を取り直した。
「荷物が何も無かったの」
「もう戻ってこないとすれば、新しい世話人がきますからね。荷物は引き取っていったのでしょう」
「私が用意したものも無いのよ!」
「ゼイン様のために用意したものを、新しい世話人に使わせたいですか?」
新たな恋の予感は空気が抜けた風船のようにどこかに飛んで行き、かわりに諦めの感情が降って来た。
確かに無料であげるとは言ったが、本当にこれで終わってしまったら、まるで押し付けられたから仕方なくもらったが、二度目はもういらないと言われたような感じがする。
かつて覗き見た村人たちのやりとりを思い出す。
『一度やったぐらいで俺の女を気取るな!』
『私の何が悪かったのよ!』
そんなどろどろした濡れ場を、アルノは茂みの中から目をぎらぎらさせて見ていたのだ。
当時のアルノにとっては、完全な娯楽の時間だったが、実際に体験してみれば、とんでもなくがっかりする話だ。
クシールが立ち上がり、テーブルに広げられていた書類を集め始めた。
片側に積まれているファイルの中に、素早くしまいこみながら、渋い顔をして立ち尽くしているアルノを見やる。
「クシールは最近、長くいるのね……」
「やることがあるからです。ですが、契約紙を納めにパラスに戻ります。それに、昨日から人が来ていますから。仕事を世話して給料を支払います。アルノさんは、契約紙を作ることだけを考えていてください。ゼイン様を手放すつもりはありませんでした。予備審査であなたの契約紙がもっと上位に食い込めば、彼を奪われずに済んだのです」
「私のせいなの?」
アルノは声を尖らせた。
クシールは鞄に全ての書類を片付け、姿勢を伸ばした。
「あなたには雑念が多すぎる。自分の仕事にもっと真摯に向き合ってください。もっと完璧な物が出来るはずです」
戸口に向かったクシールは、扉に手をかけ振り返った。
「私は世話人ではないので、食事は作りません。ゼイン様を取り戻したければ、仕事をすることです」
クシールはあっさり家を出て行った。
アルノは久しぶりに自分で食事を作り、一人で食べた。
少し前までしていたように、一人で仕事の用意を始めながら、アルノは意外にも気持ちに変化がないことに驚いた。
ゼインとクシールがいなくても、生活に困るわけでもないし、むしろほっとしているような気もする。
誰かと繋がりたいと思いながら、それが手に入らないことに安堵しているようだった。
と、扉が鳴った。
「どなた?」
「ハンナよ。クシール様に……言われてきたの……」
今から外に出るつもりだったアルノは、表玄関を諦め、裏口を振り返った。
「何を?」
「だ、だから……」
歯切れの悪いハンナの声を聞きながら、小瓶の入った肩掛け鞄を下げ、マカの実を収穫するためのかごを持つ。
「何か、手伝いがあれば言って。私達、工事が始まるまでの村の管理を頼まれたの。放置された家の修理とか、住人のお世話とか……。その、アルノの……世話をしてくれる人がいなくなったと聞いたの」
「もう子供じゃないんだから、別に平気よ。子供の頃だって、世話をしてくれる人なんていなかったのに、今更でしょう?私のところには来ないで」
「……わかった」
耳を澄ませていると、他の村人たちの声が小さく聞こえてきた。
「手伝いは、いらないって?」
「雪かきも垣根の手入れも?」
「冬の間に傷んだ納屋の修理もないのか?」
「クシール様に怒られないか?」
声は遠ざかり、やがて静寂が戻る。
虚しさと苛立ちが募る。
子供時代のアルノに手を差し伸べてくれる人はいなかったのに、仕事をくれると知った途端に、用はないかと聞いてくるのだ。
確かに、仕事を頼んだのはこちらだが、だからといってすり寄って来られても不快な気分にしかならない。
「私もゼインと同じ、人嫌いね。煩わしいとしか思えないなんて……」
室内を見渡し、何も忘れているものがないか確かめると、アルノは裏口から外に出た。
アルノは契約上の恋人を見上げ、その心細さを誤魔化そうと前を向いた。
「そう……。他の……人がくる?」
「そうかもしれないし、戻ってこられるかもしれない」
それは教会が決めることであって、ゼインの意思は関係ないということなのだとわかったが、アルノの胸は痛んだ。
「誰にも……他の人には私の世話なんてさせない」
「君はきれいだ。次の世話人もきっと君を好きになるだろう。君にはまた友人が出来る」
「嘘よ!誰も信じていないくせに。友人なんて嘘。私だって……きれいじゃない。私を好きになる人なんて、どこにもいない。それに、あんなことだってあったのに……」
背後からアルノの肩に手を置いたゼインは、そっとその手を下に滑らせた。
透明な湯の中に、ゼインの手が入り込み、アルノの胸に優しく触れた。
ぞっとするかと思ったが、それは逆だった。
美しい指や爪の形が、アルノの汚れた胸に乗せられているのを見て、心臓の鼓動が速くなる。
「私の体を見ただろう?傷だらけで、無事なところはほとんどない。さらに子供時代から欲まみれの大人達に体中を犯されてきた。望んでそれをするようになるまで、縛られてされることさえあった。私に比べたら、君は新雪のように真っ白だ」
胸に乗せられたゼインのきれいな手を、アルノは両手で包んだ。
「ゼインはきれいよ。そんな話を聞いても……汚れているとは思えない。顔も手も指も傷だらけの体だってきれいだった」
「慰めてくれるのか?」
どこか投げやりなゼインの声に、アルノは振り返る。
ゼインの目にも憎しみがあるが、それはアルノのものとは違う。
同情や憐れみを跳ねのけるだけの強さがあり、道を選び抜く覚悟がある。
アルノのように寂しさを癒す相手も、愛さえも求めていない。
「あなたも……本物だと信じられるものを、手に入れたことがないのね。ゼイン、来て」
胸を突き上げるように沸いた気持ちをなんと表現していいのか、アルノはわからなかった。
ゼインは上のシャツを脱ぎ、アルノを怖がらせないように反対側の縁から湯桶に静かに入った。
向かいに膝を立てて座り、アルノの手を取る。
「まだ怖いだろう?」
圧倒的な力で支配される恐怖は、ゼインにも身に覚えがある。
「ゼイン……。私は……きれいでもないし、可愛くもない。お世辞は言わないでね。性格も良くないし、もてる要素がないのはわかっている。
あんなことがあって……普通の人は欲しがらない体よね。村の人なら今の私を傷ものだと呼ぶと思う。
でも……一個だけ真っ白だと思えるものがあるの。ゼイン、私の純潔をあげる」
ランプの灯りに染まった湯気が揺らめくベールのように二人の間に立ち昇る。
「無理をしなくても良い。君に……その気がないのはわかっている」
偽りの世界で身を固めてきたゼインは、真実を宿したアルノの声にわずかな恐怖を感じ、警戒した。
「言葉も体も嘘をつく。あなたは誰も信じない。私も、誰も信じたことがない。だから、本物を証明するのは難しい。でも一個だけ本物だと目に見える形であなたにあげられるものがある。ゼイン、あなたに私の純潔をあげる。一緒に、本当のものを見たいの。私に……触れて」
「愛もないのに?」
「あると言っても信じないでしょう?それに私もわからない。ただ……あまりにも現実離れした妄想の世界で生きて来たから、私も本物が見たくなったの。
あなたも……心にもない言葉で私を騙して奪うより良いでしょう?望んでいたはずなのに、躊躇するのね」
「君の心がどこにあるのか知っているからだ」
かすむ湯気越しに、ゼインの目をじっと見つめ、アルノは小さく首を振る。
ゼインは慎重だった。
今しくじれば、ここに戻る道を失う。
アルノにゼインが必要だと思わせないといけない。痛みを与え、後悔するようなことをさせては次の機会は巡ってこない。
「これは取引じゃない。私が、ただあなたにあげたいの」
「試しているのか?」
作り物めいた穏やかな声音から、少し緊張したかたい声に変わった。
「ゼイン、愛もないけど嘘もない。あなたは今日で私の専属を外れるかもしれないのだから、甘い嘘で私を縛り付けるようなことをしても無駄になる。そうでしょう?」
「こんな風に、思い付きで行動したら後悔することになる。心の影響で契約紙の質が落ちたら、クシールにも恨まれる」
「良いじゃない。もうあなたは担当じゃないんだから。それに……クシールはあなたを恨んだりしないと思う。だって、クシールはゼインのこと大好きよ」
不審な顔になったゼインに、アルノは少し羨むような眼差しを向けた。
「ゼイン、それでもあなたにあげる。お世話になったお礼とでも考えてよ。だって、初めてでしょう?嘘で飾る必要のない行為は。楽しめるか、試してみたら?私……あなたの本当の心に触れてみたいの。それが、どんな恐ろしい姿でも構わない」
ゼインの目の色が変わった。
ただの男として、仕事上の利益もなしに女を抱いたことは一度もない。
「俺にただで物をくれるというのか?俺が好きにして良いと?何の見返りもなく?」
「この行為の前後で、私があなたの評価を変えないと約束する」
甘やかされた夢見がちな女が、寝言を言っているようにゼインには聞こえた。
何も知らない女に、この痛みがわかるわけがない。
そう思った瞬間、ゼインの全身を激しい怒りが突き抜けた。
水を跳ね上げ、ゼインはアルノに襲い掛かった。
乱暴にこじ開けた足の間に自身の腰を押し付ける。
獣に変わったゼインの顔を見上げ、アルノはその頬を両手で抱えた。
「後悔しないのか?」
前戯も、相手を思いやることもなく、ただ男の狂暴な欲望に任せ体を奪う直前、最後の理性がゼインの口を開かせた。
「あなたにあげる。ゼイン、好きなように奪って」
風呂桶のお湯が跳ね上がるのと同時に、体を貫かれるような激痛が襲った。
あまりの痛みに、気が遠くなる。
霞んでいく視界の中に、ゼインの姿を探す。
ゼインは傷だらけの身体でアルノの上に君臨し、冷酷な目で見据えながら、無言で腰を打ち付けている。
確かな痛みを感じながら、アルノは声を出すまいと歯を食いしばった。
湯桶のお湯が半分に減ってしまうまで、ゼインはアルノを桶の底に押さえ込んでいた。
半ば溺れそうになりながら、アルノは湯桶の縁に両手をかけ、必死に顔をあげていた。
しかしそれも長くは続かず、アルノは声も無く意識を手放した。
一心不乱に欲望に身をまかせ、腰を叩きつけていたゼインは、やっと動きを止めた。
透明なお湯が赤く染まり、鼻と口を残して、アルノの身体がほとんどお湯に沈んでいる。
抱き上げ、目を閉ざしたアルノを胸に抱え、湯桶の縁にもたれかかった。
激しく動いたため、桶の中にはゼインの逸物をかろうじて隠せる程度のお湯しか残っていない。
濡れた石造りの天井を見上げ、ゼインは数十年ぶりに表に出した自分の本性に向き合った。
理性を失った気分は最悪だった。
それなのに、ある種の生々しい爽快感がある。
完璧に計算し、作り上げた自身の殻を、自分で破壊したのだ。
「くそっ。なんてざまだ。小娘の分際で、俺を手玉に取ろうとするとは。もう二度と顔を合わせずに済むのであればいっそ、清々する」
小声で毒づき、ふと視線を下げてぎょっとする。
アルノが目を開けてじっとゼインを見ている。
今更取り繕った顔も出来ず、ゼインは無言で睨み返した。
ふっとアルノが笑った。
「そっちのゼインの方が好き。それが、本当のゼインなのね。残忍で意地悪な獣みたいなのに、そんな凶悪な獣を完璧に制御しているのね。クシールには見せないの?」
素を出してしまったゼインは、気を遣って返事をする必要もないだろうとばかりに無言だった。
いつの間にかお湯はぬるくなり、湯気も散ってしまっている。
質の悪い契約紙で作られたお湯はすぐに冷たくなる。
ほの暗い浴室の壁に、炎の陰が映り込む。
アルノはゼインの返事がなくても気にした様子もなく、傷だらけの体に身を寄せて、また目を閉じた。
お湯がすっかり冷えたころ、やっとクシールが様子を見に来た。
風呂桶を覗き、珍しく表情豊かなゼインと、眠り込んでいるアルノを見比べる。
それから風呂桶に残されている水の色を確かめた。
「やっと目的を遂げたようですね。風邪を引かせないように、さっさと寝室に運んでください」
クシールの姿が視界から消えると、ゼインは水音を立てないように、アルノを抱いて立ち上がった。
翌朝、アルノは体の痛みに呻きながら目を覚ました。
背中も股間も、腕もどこもかしこもずきずきと痛み、悲鳴を上げている。
狭い風呂桶でゼインとしたことを思い出し、アルノは仰向けになって自分の気持ちに向き合った。
たった一つのものを失って、多少は後悔するのだろうかと思ったが、不思議と何も感じなかった。
むしろ無用の長物だったものを、思い切って捨てたような清々しい気持ちだった。
純潔なんてものにこだわるから、男との逢瀬に過剰な期待をするのかもしれない。
村の人たちだって、しょっちゅう物陰でやりたい放題していたのだから、きっと慣れてしまえばその程度のことなのだ。
あんなにニルドに未練たらたらだったのに、ゼインのことばかり思い出す。
ゼインの本当の姿を間近に見て、容赦のない力で蹂躙された時、心が震えるような感動を覚えた。
そんな気持ちになったのは、子供時代にニルドと遊んだ時以来だった。
心で人と繋がった気がしたのだ。
もし、ゼインが偽りの仮面をかぶり、売り物にしている優しさでアルノの純潔を奪っていれば、お金で純潔を売ってしまったかのような虚しい気持ちになったかもしれない。
でも、本物に触れるために純潔を捧げたのだと思うと、有意義な時間だったと思える。
ゼインの怒りや悲しみ、それから全てを乗り越えてきた強さのようなものが一気に体に流れ込んできて、アルノはその逞しさに圧倒されていた。
ずっと仕事を捨て、ここ以外のどこかに行きたいと願ってきたが、足掻くことの強さを知ったような気さえした。
心が繋がった瞬間を思い出すと胸が熱くなる。
とはいえ、ゼインと恋人になれるかどうかはまた別の問題だ。
「友達にはなれそうだけど、体を重ねても恋人になれるかどうかは、まだわからないのね」
それは、とても不思議なことだった。
それなのに、もうゼインは他人じゃないと感じている。
十年の片思いは何だったのだろうかとアルノは自身の変わり身の早さに、呆れながら考えた。
やはりいくら好きでも、触れることのできない男ではつまらないのだ。
意外とふてぶてしい女ではないかと自分の逞しさに満足し、アルノはベッドから起き上がった。
冷たい床に両足を置くと、着せられていた寝着を脱ぐ。
衣装棚を開けた瞬間、アルノは部屋を飛び出した。
「クシール!ゼインは?」
テーブルに書類を積み上げ、難しい顔で書き物をしていたクシールが顔をあげた。
「早朝に立ちました」
衝撃で言葉を失いかけたアルノは、すぐに気を取り直した。
「荷物が何も無かったの」
「もう戻ってこないとすれば、新しい世話人がきますからね。荷物は引き取っていったのでしょう」
「私が用意したものも無いのよ!」
「ゼイン様のために用意したものを、新しい世話人に使わせたいですか?」
新たな恋の予感は空気が抜けた風船のようにどこかに飛んで行き、かわりに諦めの感情が降って来た。
確かに無料であげるとは言ったが、本当にこれで終わってしまったら、まるで押し付けられたから仕方なくもらったが、二度目はもういらないと言われたような感じがする。
かつて覗き見た村人たちのやりとりを思い出す。
『一度やったぐらいで俺の女を気取るな!』
『私の何が悪かったのよ!』
そんなどろどろした濡れ場を、アルノは茂みの中から目をぎらぎらさせて見ていたのだ。
当時のアルノにとっては、完全な娯楽の時間だったが、実際に体験してみれば、とんでもなくがっかりする話だ。
クシールが立ち上がり、テーブルに広げられていた書類を集め始めた。
片側に積まれているファイルの中に、素早くしまいこみながら、渋い顔をして立ち尽くしているアルノを見やる。
「クシールは最近、長くいるのね……」
「やることがあるからです。ですが、契約紙を納めにパラスに戻ります。それに、昨日から人が来ていますから。仕事を世話して給料を支払います。アルノさんは、契約紙を作ることだけを考えていてください。ゼイン様を手放すつもりはありませんでした。予備審査であなたの契約紙がもっと上位に食い込めば、彼を奪われずに済んだのです」
「私のせいなの?」
アルノは声を尖らせた。
クシールは鞄に全ての書類を片付け、姿勢を伸ばした。
「あなたには雑念が多すぎる。自分の仕事にもっと真摯に向き合ってください。もっと完璧な物が出来るはずです」
戸口に向かったクシールは、扉に手をかけ振り返った。
「私は世話人ではないので、食事は作りません。ゼイン様を取り戻したければ、仕事をすることです」
クシールはあっさり家を出て行った。
アルノは久しぶりに自分で食事を作り、一人で食べた。
少し前までしていたように、一人で仕事の用意を始めながら、アルノは意外にも気持ちに変化がないことに驚いた。
ゼインとクシールがいなくても、生活に困るわけでもないし、むしろほっとしているような気もする。
誰かと繋がりたいと思いながら、それが手に入らないことに安堵しているようだった。
と、扉が鳴った。
「どなた?」
「ハンナよ。クシール様に……言われてきたの……」
今から外に出るつもりだったアルノは、表玄関を諦め、裏口を振り返った。
「何を?」
「だ、だから……」
歯切れの悪いハンナの声を聞きながら、小瓶の入った肩掛け鞄を下げ、マカの実を収穫するためのかごを持つ。
「何か、手伝いがあれば言って。私達、工事が始まるまでの村の管理を頼まれたの。放置された家の修理とか、住人のお世話とか……。その、アルノの……世話をしてくれる人がいなくなったと聞いたの」
「もう子供じゃないんだから、別に平気よ。子供の頃だって、世話をしてくれる人なんていなかったのに、今更でしょう?私のところには来ないで」
「……わかった」
耳を澄ませていると、他の村人たちの声が小さく聞こえてきた。
「手伝いは、いらないって?」
「雪かきも垣根の手入れも?」
「冬の間に傷んだ納屋の修理もないのか?」
「クシール様に怒られないか?」
声は遠ざかり、やがて静寂が戻る。
虚しさと苛立ちが募る。
子供時代のアルノに手を差し伸べてくれる人はいなかったのに、仕事をくれると知った途端に、用はないかと聞いてくるのだ。
確かに、仕事を頼んだのはこちらだが、だからといってすり寄って来られても不快な気分にしかならない。
「私もゼインと同じ、人嫌いね。煩わしいとしか思えないなんて……」
室内を見渡し、何も忘れているものがないか確かめると、アルノは裏口から外に出た。
12
お気に入りに追加
174
あなたにおすすめの小説
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。
『番外編』イケメン彼氏は警察官!初めてのお酒に私の記憶はどこに!?
すずなり。
恋愛
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の身は持たない!?の番外編です。
ある日、美都の元に届いた『同窓会』のご案内。もう目が治ってる美都は参加することに決めた。
要「これ・・・酒が出ると思うけど飲むなよ?」
そう要に言われてたけど、渡されたグラスに口をつける美都。それが『酒』だと気づいたころにはもうだいぶ廻っていて・・・。
要「今日はやたら素直だな・・・。」
美都「早くっ・・入れて欲しいっ・・!あぁっ・・!」
いつもとは違う、乱れた夜に・・・・・。
※お話は全て想像の世界です。現実世界とはなんら関係ありません。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる