精霊の森に魅入られて

丸井竹

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25.時間がない男

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まさに精霊自身がアルノの体に宿ったかのように、アルノは一晩眠らずに仕事をした。
真っ白な紙の上を、金色の線が美しく曲がりくねり、独特の模様が描かれて行く。

宣誓液は文句なく完璧な金色で、濁りは一切なかった。
その線にわずかな乱れもない。
普通のインクのように落ち着くはずの宣誓液で描かれた模様が、うっすらと輝きを放ち、元の紙までより高品質なものに変わっている。

ペンを置いたアルノの後ろからそれを覗き込み、クシールは感嘆のため息をついた。

「これまでで一番の仕上がりですね。審査会にはこれを出しましょう」

「予備審査に出したものとは違う物を出すの?」

「出したのは一枚です。本審査では三枚審議の場に出される。しかしその前に……」

一枚を手に取り、その形と文字にわずかな間違いがないか、念のために確認する。

「これならば十分です。私の育てたものが一番であると、証明できます」

「嘘よ……」

アルノは呟くと、席を立った。
ふらりとよろめく体を、すかさずゼインが支え、抱き上げた。

「アルノ、さすがに、少し休もう」

「疲れていないの……だけど……すごく眠い……」

有無を言わせず、ゼインはアルノを寝室に連れて行き、寝台に寝かせて毛布を掛けた。
アルノはもう寝息を立てていた。

それを確かめ、ゼインはすぐにクシールのもとに引き返した。


クシールはまだアルノの完成させた契約紙をじっと見ていた。
それは見れば見るほど、見事と言わざるをえないような、美しい仕上がりだった。

「クシール様、理由がわかりますか?なぜ彼女がこれを?」

今回は、多少質が落ちるのではないかと予想していたゼインも驚いていた。

「全てにおいて、実に正確です。それに……この文様と言葉は岩を動かすときに有効な精霊言語です。これを使えと精霊が我々に指示を出しているようです」

「描く文様はアルノが決めているのではないのですか?」

「いいえ、違います。毎日同じ風が吹くわけではないように、宣誓液がその形を決め、言葉を伝えるように契約師の手を借りて姿を現します。しかし、契約師は、宣誓液が描かせようとする文様を知っている必要があるのです。初めて現れる文様は、既存の形に似たものになります。少しずつ形が完成されてくると、それは新しい文様として登録されます。
だから精霊言語書は恐ろしく分厚い本となり、それは今も増え続けているのです。
文様の形によっては、熱にするべきか、光にするべきか迷うこともあります」

「それを判断しているのが賢者の塔の十二大神官達ということですか?彼らに何がわかるというのか。欲を捨てられず、心も清らかに保てない者が、文様を見分けられるのでしょうか」

視線を合わせ、クシールは首を横に振った。

「ゼイン様、言葉には気を付けてください。指標を出すということも重要な仕事です。とにかく、これをうまく組み合わせ、力を途切れることなく動かし、一晩で城を建てます」

「ひ、一晩?」

突拍子も無い発言に、ゼインは絶句した。
数秒沈黙し、それから家を飛び出し、周囲に誰もいないか確かめて戻ってきた。

同じ姿勢で座っているクシールに近づき、耳元に口を近づける。

「失敗したらどうする!一気に買い集めてきた契約紙を使い切るということだろう?」

冷静さを欠いたゼインの行動を、クシールが嗜めるように、指でゼインの口を押えた。

「しっ。油断なさらないように。私達は一緒に仕事をしていても、互いに憎み合っているように見せる必要もまだ残っています。覚えていますよね?一度中央教会に戻る必要があると」

新人の世話人は契約の更新のため、中央教会に一度所属を戻されることになる。
力あるものに引っ張ってもらわなければ、自分の意思でもとの契約師のもとに戻ることは出来ない。

「わかっています……」

心望まぬ行為を強いられる中央教会の仕事は、ゼインにとっても試練の時だ。

クシールは表情を引き締めたゼインの姿を上から下までじっくりと観察した。
艶やかな銀髪、鍛えられたしなやかな体、若さの漲る美しい外見は、今は立派に武器として使えるものだ。
しかしその若さはいつか衰える。

「アルノさんから、しばらく離れてもらいます」

「まだ猶予があるはずです。今こそ彼女の傍にいなければ、彼女の心は手に入らない」

執念深い恋を諦めた今こそ、アルノの心を手に入れる好機だとゼインは考えていた。
しかしクシールはもう別のことを考えていた。

敵にアルノの存在を知られている以上、潰される前に動く必要がある。

「時間を稼いでもらわなければなりません。長い間ではありませんが、これはゼイン様にしか頼めない仕事です」

つまり、中央教会に戻り、アルノを狙う勢力を押さえてきてもらいたいということだとゼインは解釈した。

「誰に取り入れば?」

「戻ればわかります。もう餌はまきました」

「餌とは、私のことですか?」

冷酷にも見える冷やかな笑みを浮かべ、ゼインは台所に行き、床蓋を開けて隠してあった酒を取り出した。
聖職者は酒を飲まないとされているが、飲んでいない聖職者を見つける方が実際は難しい。

グラスに酒を注ぎ、ゼインはそれを喉に流し込む。
覚悟を決めたように、ゼインはグラスを静かに置いた。

「いつですか?いつ、私はここを離れたら良いのですか?」

「二、三日中に……」

大きく息を吐き出し、ゼインは両手をついて背中を丸めた。
クシールの計画の駒として動くことに異論はないが、ゼインもまだ自分の仕事を終えていない。

「少し出てきます」

ゼインは酒を元の場所に隠すと、裏口から外に出た。



その扉が閉まる音を、アルノは毛布の中から聞いていた。
本当に壁が薄いのだ。

さすがに会話の内容までは聞こえなかったが、ゼインが怒ったような足取りで寝室の前を横切り、裏口を出て行ったことはわかった。

なんとなく眠気が冷めてしまったが、二人に会う気力もなく、アルノは毛布の中でまるくなる。
イアンに襲われかけ、汚されてしまったのだと落ち込み、ニルドを想って泣いたというのに、今度は怒りが湧いてきた。
意外にも自分は逞しいのではないかと考えてしまう。

その怒りは、ゼインが殺したイアンに向けてのものではなく、自分に対しての怒りだった。

本物の愛が持てるかもしれないとまた夢みたいなことを信じて、ほいほい見知らぬ男についていくから痛い目にあったのだ。
ニルドに連れられて町に下りた時、ニルドと結婚を夢見てついてきたアルノを村の人たちは笑ってばかにした。
その時、もう二度と自分が愛される存在になれるなんて夢は見ないと誓ったはずだ。

それなのに、今度は、契約師ではない自分自身を好きになってくれる人を見つけたかもしれないと考え、また夢を見た。

直前にニルドに出会い、やはりニルドのことが好きな状態で、誰かと付き合うわけにはいかないと考え直したが、それでもどこかで浮かれていた。

だからイアンを深く疑うこともなく、ついて行ってしまったのだ。
よく考えれば、髪もぼさぼさで身なりにも構わない女に、惹かれる男なんているわけがない。

もし時間を戻せたら、イアンについて行こうとする自分を見つけ、殴って目を覚まさせてやりたい。

さらに、またもや素晴らしい契約紙が完成してしまったのだ。

謙虚さも、清らかさも欠片もなく、身の程知らずな夢ばかりみている欲深い人間だ。
それなのに、契約紙は最高のものが出来る。

精霊に遊ばれているのだろうかと考えてしまう。

仕事内容の割に報酬は少ないし、多くなっても自分では使えない。
ずっと辞めたいと思ってきた仕事なのに、腕だけは上がる。
この苛立ちはどうすれば解消されるのかわからない。

ゼインはアルノがこちら側の人間だと言ったが、それも違うとアルノは思った。

ゼインとクシールが求めているものと、アルノが求めているものは違う。
先ほど裏口を出ていったゼインが引き返してくる音がして、慌ててアルノは毛布を被った。

すぐに扉が鳴り、ゼインが入ってきた。

「アルノ、お風呂に入ろう。私が洗うから」

強引にゼインの手が毛布に入り込んでくる。
乱暴なイアンの手を思い出し、アルノは体を強張らせた。

「あ、すまない……」

すぐにゼインの手が離れた。
毛布から顔をあげ、アルノはいつもより少し余裕がない様子のゼインを見た。

「アルノ、強引だった。すまない」

「私は……思っていたより、まだ幸せなところにいる?」

くすりと笑い、ゼインが目元を和ませる。

「私からはそう見える」

「羨ましい?」

今度は少し驚いたように目を大きくして、それからまた穏やかな目元に戻った。

「それは思わない。これは本当だ。むしろ、自分が幸運だったとさえ思う」

「どうして?」

「君は……幸せな光景を見過ぎて、自分の現実を受け入れることに苦労しているように見える。受け入れて前に進むための覚悟が、作りきれていない」

アルノはぼろぼろと涙を落とし、頷いた。

「そう思う。私には相応しくない夢ばかりみるの。馬鹿みたいに期待して、奇跡が起きるんじゃないかって考えてしまう。精霊を見ることが出来ないのと同じぐらい、そんなものが訪れる保証なんてどこにもないのに」

その頬を抱き、ゼインがごく自然に唇を重ねた。

「悪いことじゃない。希望が無ければ、生きていくことは難しくなる。君は……とても女性らしいのだと思う。男は欲しいものがあれば、戦いによって手に入れようとするが、女は力では手に入らない、目に見えないものを求める」

「目に見えないもの……」

かつて少年と見た、村の光景が頭に浮かんだ。
家々から立ち昇る、煙を眺め、食卓を囲む家族の姿を思い描いた。

そんな平和な日常が欲しかった。

だけどもともと家族なんてものはいないのだ。

「アルノ」

ゼインがやはり少し強引にアルノを抱き上げた。
落ちないようにアルノがゼインの首につかまると、ゼインは力強く歩き出した。

裏口を出ると、ひんやりとした夜風が肌に当たり、雪狼の遠吠えが聞こえてきた。
その声は逞しく、世界中にその存在を知らしめるように響き渡る。
アルノは大人しく、その声に耳を傾けた。

裏庭を横切ったゼインは、アルノを抱いたまま浴室に入った。
天井に吊り下げられたランプの炎が揺れるたびに、湯気の中で影が躍る。

慎重に腰を屈め、ゼインはアルノをそっと湯桶の中に下ろした。
全身が湯のぬくもりに包まれ、アルノの涙腺がまた少し緩んだ。

ゼインが湯桶を使い、アルノの頭に優しくお湯を流しかける。
頭の上から髪や頬、耳元をお湯が伝い、お湯につかっていない部分を優しく温める。
オレンジ色に染まった湯気の中で、アルノは自分の白い胸に触れた。

おぞましいイアンの姿が、突然目の前に蘇った。
乳房をしゃぶるイアンがそこに張り付いているかのように感じ、ぞっとして凍り付く。

その瞬間、湯気の中からゼインの声がした。

「アルノ、私はここを離れることになる」

足元が抜けたような心細さに襲われ、アルノはゼインを振り返った。




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