精霊の森に魅入られて

丸井竹

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24.未練だらけの片思い

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久しぶりに家のベッドで目を覚ましたアルノは、窓のカーテンを少しだけめくった。
外は真っ暗で、星明り一つ見えない。
家の中も静かで、寝室に人の気配も無かった。

空腹も感じず、アルノはもう一度毛布の中に戻った。
体の震えは収まっているが、心に受けた衝撃はまだ残っている。

ゼインに自宅に戻される前のことも、悲しいことに全部覚えていた。

村に戻ってきたゼインは、クシールに会わなくて済むように、裏口から真っすぐにアルノを寝室に連れて行き、すぐに浴室の準備に戻った。
その間に、クシールがアルノの様子を見に来ることもなかった。

しばらくして、ゼインはアルノを迎えに来て、熱いお湯に入れてくれた。
アルノはすすり泣きながら、必死に体を石鹸で磨いた。

お湯が冷める前に、ゼインが戻ってきて無理矢理アルノを湯桶から出した。
驚くほど優しい手つきでアルノの体を拭き、それからまた寝室に戻してくれたのだ。

寝付く前に運んでくれたスープの皿は、もう片付けられている。
ランプの灯りは消え、外の声さえ聞こえなかった。

しかし、もうゼインはクシールに何があったか報告を終えているだろうし、元ロタ村の住人達も、とっくにここに到着しているはずだ。
村の入り口に確保されていた宿泊用の家にいるのだと思うが、同じ村にいると思うと、少し落ち着かない。

アルノの目に涙が浮かんだ。
どうしても恐ろしい記憶が蘇る。

今日の出来事が全て夢だったならば良いのにと思うが、時間は戻らないし、起きたことも無かったことにはならない。

町に着ていった服は、もうどこにもない。
涙を拭っていると、扉が鳴った。

咄嗟に、アルノは毛布の中に隠れた。

もう一度扉が鳴ったが、アルノは寝ているふりをした。

躊躇いがちに扉が開く音がして、靴音が近づいた。
横の椅子に誰かが座った気配がして、微かに床が鳴る音がした。

毛布から顔を覗かせると、ゼインが椅子に掛け、その足元にアルノの鞄を置いていた。

「その鞄……あそこから取ってきたの?」

アルノが起きていたことに少し驚いた表情をしたゼインは、すぐに優しく微笑み、鞄を壁際に置き直した。

「死体の始末をしてきた。もう全て終わったことだ」

「そんなに……長く寝ていた?」

「よく眠れたのなら良かった」

毛布の中に手を入れ、ゼインはアルノの右手を握った。

「ハンナと集められた人たちのことは心配いらない。食事もすませて就寝中だ。指示は全てクシールが出すから、君が彼らと顔を合わせる必要はないし、その機会もないだろう」

「良かった……」

「それから……」

マットの上に皮の巾着がそっと置かれた。
その重みで少しだけシーツが沈む。

「あ……」

ニルドがくれたお金だった。

「大金だ。これは、ニルドから?」

アルノは袋を引き寄せ、毛布の中に隠した。
その優しさを思い出し、大粒の涙が溢れだす。

「これは……ニルドがくれたの……私のものよ」

もう前のようにニルドと顔を合わせられる自信がない。
アルノは鼻をすすり、袋を抱きしめる。

「アルノ、私を正式に恋人に採用するというのはどうだろう?まずは、君を抱きしめて眠るだけの男だ」

さりげなく、ゼインはアルノの手から袋を取り上げた。
取り返そうとするアルノの前で、ゼインは袋を枕元に置いた。

「持って眠ってしまったら胸を痛めるかもしれない」

袋がすぐ傍にあることに安心し、アルノが体の力を抜く。
その隙に、ゼインは素早くアルノの傍らに滑りこみ、腕の中にアルノを抱き込んだ。
自分を守ってくれるゼインの存在に無理やり安心し、アルノは目を閉じた。

「利害関係や契約で繋がるって……ある意味一番安心なのね……。心で繋がっても、相手が裏切ることもあるし、気が変わってしまうかもしれない。でも、利害関係がはっきりしていれば……裏切ることはないと信じられる」

「人を信じたことがない私達には、この方法が一番良い。だけど、その次の段階もある」

「同情や憐れみのない関係ね……」

今まで、ニルドに憐れみの目で見られたことはなかった。
村の人達と違い、ニルドはいつも真っすぐにアルノを見てくれた。

でもアルノの身に起きたことを知ったら、きっとニルドも村の人たちのように憐れみや同情の目でアルノを見ることになる。

もう普通の友達ではいられなくなったのだ。

また泣き出したアルノの背中を抱きしめ、ゼインはさりげなく唇を頭に押し付けた。



寝室の扉の隙間から、二人の様子を見ていたクシールは音もたてずそこを離れた。

居間に戻ったクシールは、椅子に腰かけ、テーブルに並べられた書類の山を眺めた。

契約師を仕事に縛り付ける役目をゼインに任せているため、少しは楽になったが、考えることは山ほどある。

ここを耐え抜かなければ、上には行けない。
もし、アルノがこの事件をきっかけに、契約紙の質を落とすようなことになれば、これまでの評価も一気に落ちてしまう。
これは一つの賭けだった。

クシールはアルノの身に起きることを知っていたし、ゼインにアルノが襲われるまで待って助けるように指示したのもクシールだった。
アルノの中でゼインの評価は上がるし、ニルドへの未練も断ち切れる。

しかし心の傷が深ければ、契約師として仕事が出来なくなるかもしれないとも考えた。
アルノには仕事に対する真剣さが足りない。
俗世を捨て、もっと精霊たちと向き合うべきなのだ。

担当する契約師の地位が上がれば、クシールだけではなくゼインの位も上がる。
誰にも自由にされないための権限を掴むには、どうしても優秀な契約師が必要だ。

この国の熱も光も、そして防衛、軍事にも契約師の力は使われている。
その力の全てを握ることが出来れば、大きな発言権を得ることになる。

アルノの中には決して消えることのない怒りがある。
村人たちの平凡な生活を傍目から見て、虐げられている自分と比較し、理不尽な世界を憎んできた。
孤独や怒りを子供時代から貯め込み、それを乗り越えられないまま大人になり、もがきながら仕事を続けている。

そんな幼稚なアルノが、精霊に認められたというのなら、その理由はどこにあるのか。
この理不尽な世界の仕組みを早々に受け入れ、そこに染まってしまったクシールとゼインにはない何かが、アルノの心にはあるのだ。

あるいは、理不尽な世界を憎みながらも、信じたいのかもしれない。
自分にも救われる世界があると。

幻想だとクシールは思う。
生まれた時に平穏な道は全て閉ざされ、地獄に続く道を生きるしかなかった。

脳裏には幼い頃の記憶が悪夢のようにこびりついている。

薄暗い石の教会に閉じ込められ、狭いお仕置き部屋で震えていた。
毎日生きるのに必死で、先のことは何も考えられなかった。
そこに、ゼインが上から忍び込んできた。

――お前のお勤めを代わってやる。そのかわり、お前は俺を駒に使え。ここは殺し合い、蹴落とし合う場所だが、お前は頭が良い。俺はお前の頭脳を利用して上に行きたい。協力できるか?……

夜のお勤めだけは苦手だった。書物の暗記は得意で、剣術はそれなりだった。
作戦を立てれば勝てたからだ。

敵しかいない世界で、ゼインの手を取った。
その時は、まだ友達ではなかったが、大きな借りが出来た。
ゼインは夜の勤めの全てをクシールに代わって引き受けた。

その分、クシールは勉強に集中することが出来た。
ゼインがいなければ、クシールは契約師を担当出来る僧侶にはなれなかった。

「一刻も早く、城を建てなければ」

城の建築の為として元ロタ村の住人達を集めたが、彼らに期待していることは建築の手伝いなどではない。

「一晩では無理だが、春には出来る。いや、それより早い」

テーブルに並ぶ書類には、クシールがこれまでに学び、身に着けてきた知識と、独自に進めてきた研究の全てが詰め込まれている。

机上の空論と笑われるようなことを、現実のものとするために、設計図には日々、新たな計算式が付け加えられ、細かな計画が足されて行く。
最初に図面に書き込まれた印は三つだったが、次々に増えて今は二十を超えている。

「前方部分は契約紙三枚で完成する。この尖塔部分は一枚使うな。それに、内部を掘るのに五枚だ。精霊が手助けしてくれるかどうか、それは賭けになる。
アルノがこの地に深く愛されていれば、これぐらいのことは出来るはずだ。ゼインがうまくアルノを動かすことが出来れば……」

アルノが立ち直れるかどうか、それはゼインに託されている。
分厚い精霊言語の書物を取り出し、ページをめくる。

そこにはクシールが独自に研究し、開発した精霊言語も書き込まれている。
複雑な計算式で割り出された法則に則り、編みだされた新精霊言語で、その効果も少しずつ試してきた。

自然界にある現象のほとんどが数値化できる。
それに気づいたクシールは、精霊言語の法則もまた計算で解き明かせるのではないかと考えた。
城を建てることになるとは思ってもいなかったが、クシールにとっては最大の好機になった。
これまでの研究成果を形にすることが出来るし、その費用をアルノに被せることもできる。
ゼインが味方であれば、聖騎士団にこの手柄が横取りされることもない。

「雪解け前に、始めなければ」

ノートとインク壺を取り出すと、クシールはペンを手に、またもや難解な計算を始めた。
精霊たちの姿を見ることは出来ないが、精霊言語で発動される力の記録から、その方向性を予測することは出来る。
基本的に契約紙の質とその力は比例して大きくなる。しかし単純にそうとも言えない。

ここまで研究し、計算し続けても、精霊が契約師に何を求めているのか、明確な答えが見つかっていない以上、どうしても運に任せるところが出てきてしまう。

「全く、他力本願な……」

自嘲するように呟き、一つの数式を完成させたクシールはペンを置いた。

この仕事は確かにクシールだけでは成し遂げられない。
アルノとゼインの力が必須なのだ。

人を信じることの出来ないクシールも、信じざる得ない時がある。
だから契約という形をとる。

自分にしか出来ない仕事をするため、クシールは夜を徹して設計図に向き合い続けた。


クシールの企みも野望も、全く知らぬまま、アルノはゼインの腕の中でぐっすり眠った。
翌朝、朝食を運んできたゼインに、アルノは仕事に行くと告げた。

「まだ早いのでは?」

ゼインの言葉に、アルノは顔をしかめた。
それがゼインの本心でないことは明らかだ。

イアンに襲われかけたアルノが、契約師の力を失っていないか心配していないわけがない。
クシールもゼインも、アルノを働かせるためにここにいるのだ。

それに、アルノ自身にも不安がある。
邪念を持った男に汚されかけたせいで、精霊にそっぽを向かれてしまった可能性もある。

精霊が怒れば、アルノは宣誓液の材料であるマカの実を見つけられなくなる。

もうここまで来たら、ニルドに約束したお城だけはなんとしても建てなければならない。
当分顔を合わせたくない気はしているが、ニルドに距離を置かれてしまうのもやはり辛い。

未練がましく、アルノは友達でも良いから、ニルドに好かれていたいのだ。
お城を建ててあげれば、ニルドはアルノに感謝するし、きっといつもの笑顔を向けてくれる。

普通は恐縮して、申し訳なさそうにするとは思うが、ニルドならそんなことはしない。

それに、ニルドと距離をおくことになったとしても、お城をプレゼントすれば、アルノがニルドを嫌いなわけじゃないとわかってもらえるだろう。

もう恋人になることは諦めるが、友人の位置は手放せない。
恐るべき未練と執念で、アルノは仕事への意欲を取り戻した。

なんとしても稼ごうと、アルノはさっさと装備を整え、かごを背負うと、雪解けの始まった森の中に足を踏み入れた。

見送りはゼイン一人だったが、アルノから見えない位置でクシールもその後姿を見ていた。


それから五日後、アルノが森から帰ってきた。

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