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14.信用できない男達
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早朝にさっさとハンナと別れ、ノーラ山のある方の門を抜けたアルノは、ゼインを見つけた途端、回れ右をした。
ところがゼインは、すぐに駆け寄ってきてアルノの前に回り込み、輝くばかりの美貌で微笑んだ。
「アルノさん……ご無事でよかったです」
何事もなかったかのような爽やかな口ぶりに、アルノは仕方なく足を止めた。
「もしかして、ずっと探していた?」
心なしか、美しいゼインの顔も疲れて見える。
「全ての宿を回り、アルノさんが泊まっていないか確認しました。それに酒場、食堂、店という店に顔を出して聞き込みまでしましたよ。すれ違いになったのではないかと心配になり、門に戻ってきてみたところです。そりも見つけてあります。ここでお会いできて本当に良かった」
そりは山道の途中で、岩陰に隠しておいたのだ。
それを見つけたということは、ずいぶん広範囲を探してきたことになる。
さすがに、ここで突き放すのも悪い気がして、町に戻ることを諦め、山の方を向いた。
「さあ、帰りましょう」
ゼインはさきほどまで立っていた場所までそりを取りに走り、すぐに戻ってくると、アルノをそこに乗せようとした。
さすがに、そこまでゼインに身をゆだねる気にはなれず、アルノは強引に歩き出す。
ゼインは気遣うようにアルノをちらりと見て、先に立ってゆっくり歩き始める。
「驚かせてしまい申し訳ありませんでした。私達は同じ教会所属の孤児院で育ち、ああしたことも共に練習してきたので、特別なことというわけではなかったのです。専属世話人になるにはどうしても磨いておかなければならない技術であり、そうした技を競う試験もあります。技術は訓練を続けなければ、衰えてしまうものです」
それは少し衝撃的な話ではあった。
ゼインもまた、村の子供達のように恵まれた環境で生きてきたわけではない。
「ゼインも……仕事を選べなかったのね」
「そうですね。でも、クシール様は自分には向いていないと気づき、違う道を選びました。大変な努力が必要でしたが、今はアルノさんの担当僧侶となり、教会の中枢機関に所属して働いています」
でこぼこした山道を登り始めると、その慣れ親しんだ地面の感触に、アルノはどこかほっとした。
結局、人生の大半を過ごしてきた山が一番落ち着くのだ。
「寝具だけ変えてほしい。ベッドはあのままでいいから」
「大丈夫です。もう新しいものを手配しました」
「早いのね……」
沈黙が続き、ざくざくと雪を踏む音だけが続く。
「私……」
アルノのかすかな声に気づき、ゼインが少し足音を忍ばせる。
「お城を買う」
数秒待って、ゼインが口を開いた。
「理由をお伺いしてもいいですか?」
表情を隠すようにアルノはゼインの足元を見た。
鉄の鋲で毛皮を打ち付けたごついブーツの先が、雪で隠れている。
「もちろん、そのいらいら姫とか、ニルドのためだけじゃない。お城を見たことがないの。どんなものかは知っているけど、私はあそこを出たことがないから。
だから、あそこにお城を建てたら見られるでしょう?」
それが本心かどうか、探るようにゼインはアルノを見た。
「確かに、家は広い方が良いですね。弟子をとる時に便利です」
アルノは酷く不機嫌な顔になった。
「もうやめてよ。今だって十分やっかいな状況なのに、この上、弟子なんてきたら、どう扱えばいいかわからない。しかも借金してお城を建てるのに、養わなきゃいけない子が一人増えるわけ?絶対に嫌よ」
「まぁ、そうですね。アルノさんはまだ若い。弟子はまだまだ先でも良いでしょう」
「そんなことを考える余裕なんて、いつまで経ってもこない気がする……」
鬼のような師匠を思い出し、アルノは絶対に師匠なんて呼ばれたくないと考えた。
「ちなみに、イライザ姫です。姫君の名前を間違えると、処刑されますよ」
「え?!名前を間違えるだけで、殺されるの?やっぱり来ないでほしい……」
「どうでしょうね。愛さえあれば生きていけると本当に信じているのなら、来てしまうかもしれませんね。多少現実が理解出来る姫君なら、来ないと思います」
「じゃあ……ニルドは失恋しちゃうの?」
ゼインは振り返り、歩幅を微妙に変化させながら、さりげなくアルノの隣に並んだ。
「アルノさん、昨夜からお疲れのはずです。失礼しますね」
腰を屈め、素早くアルノの体を腕ですくいあげる。
地面から離され、アルノは不安定になった体を支えようとゼインの首にしがみついた。
景色が少しだけ変わる。
背中越しに見る町は、もう遠く小さくなっている。
「はぁ……」
抵抗する気力もなく、アルノはゼインの肩に顎をのせて、雪道に続く二人の足跡を眺めた。
そりは長い紐で繋がれ、その先端がゼインの片方の手首にかかっており、さらさらと音を立て、隣を滑っている。
顔をあげると、黒雲が徐々に山に向かって流れていくのが見えた。
「雪が降るかも」
「そうですね。急ぎましょう」
ゼインは乗ってきた馬を口笛で呼び寄せそりを繋ぐと、そこにアルノを乗せ、自分は馬にまたがった。
ゆっくりと動いていく景色を眺めているうちに、夕暮れになり、ロタ村の粗末な門を抜けた。
入り口付近の数軒が、周囲の雪を取り除かれ、扉まで入れるようになっている。
「誰か移住してくるの?」
アルノが問いかけると、ゼインは馬上から「そうです」と答えた。
そりは雪に埋もれ、小山のようになった家々の間を、縫うように馬に引かれ滑っていく。
その先に、やっとアルノの師匠の家が見えてきた。
いつの間にか黒雲が空を覆い、雪が降り始めていた。
「積もる前に屋根から雪をおろさないといけませんね。これでは危険だ」
「家が雪で潰れて平らになったら、次に何かを建てる時に便利よね」
「そうですね。解体作業は楽になりそうです」
庭先でゼインは馬を止め、アルノをそりから抱き上げて地面に下ろした。
家の扉が開き、いつもと変わらない淡々とした表情のクシールが現れた。
「アルノさん」
その声を聞いた途端、アルノはなぜか無性にほっとして、走り出していた。
「クシール!」
その首に抱き着き、アルノは大きく安堵の吐息を漏らした。
馬鹿げた話だったが、アルノは少しだけゼインに嫉妬していたのだ。
クシールはアルノの担当僧侶であり、胡散臭い男ではあったが、一番にアルノのことを考えていると思っていた。
だけど、やはりアルノはクシールにとって、仕事で相手をしなければならないだけの存在であり、契約師と担当僧侶の関係以上ではなかったのだ。
それを目の前に突き付けられたようで面白くなかった。
喧嘩もしたし、家出も止められたし、とにかく断固とした態度でアルノを仕事に縛り付けようとする信用ならない、やっかいな男だというのに、それでも、アルノにとっては、遠慮なく話しが出来る唯一の知り合いだった。
その細い体を抱き留めたクシールは、アルノの頭越しに珍しい光景を見ていた。
そこには呆然とした表情のゼインが立ち尽くしていたのだ。
男性にも女性にもふられたことがないと豪語してきたゼインの、ノーラ山より高いプライドが、がらがらと崩れていく音が聞こえたような気がして、クシールは噴き出した。
「ふっ……」
自分が笑われたと勘違いしたアルノが、体を離し嫌な顔をした。
「なんで笑うのよ!言っておくけど、悪いのはクシールとゼイン様よ!私じゃないから!それに、家出でもないから!」
すっかり気分を損ね、アルノはクシールを押しのけ、粗末な家に入っていく。
クシールは、自信喪失しかけているゼインに近づいて、その背中をぽんと叩くと、また小さく笑った。
「ふっ……」
「笑い過ぎだ」
覗き込むと、そこには湯気がでそうなほど赤くなったゼインの顔があった。
「ぶっ」
もう堪えきれず、クシールが膝を叩くふりをして笑いだす。
「俺に落ちない男も女もいないと聞いたことがあるな」
ゼインはそりを繋いでいた紐を解き、クシールに押し付けた。
「クシール様、馬とこれを片付けておいてください」
明らかに気分を害した様子で家に入っていく。
それを見送るクシールは、背中を震わせ、まだ笑っていた。
家に入ったアルノは、すぐに寝室に向かった。
そこに、確かに新しい寝台が置かれていることを確かめ、ようやく家に戻ってこられると、胸をなでおろした。
ここで目撃したとんでもない光景はまだ覚えていたが、もう考えることすら面倒だった。
ハンナの家に泊まったことも、ニルドにお城を建てることにしたことも、アルノにとっては今までの人生において、一度も想像すらしたことがないことだった。
変化のない日常が繰り返されていたはずなのに、あの日、ニルドが迎えに来た時から、次々に奇妙な事件に巻き込まれている気がする。
それが不快なことなのか、それとも悪くないと思っているのか、アルノはわからなかった。
ただ今は一刻も早く眠ってしまいたかった。
さらさらのシーツの上を手のひらで撫でて、その贅沢な感触を堪能しながら目を閉じる。
その頭の下には綿の入った枕もあり、アルノはその使い心地の良さにうっとりとした。
以前の枕は、藁が入っていたため、時々藁の先が布を飛び出し、寝付くまで不快な感触に耐えなければならなかった。
「この程度の贅沢まで、今まで遠ざけられていたなんて。本当に、大嫌いよ、この仕事」
欲深くあってはいけないため、暮らしも質素でなければならない。
稼いでも、贅沢にお金を使えないとなれば、何を楽しみに生きたら良いかわからない。
自分に使えないのであれば、誰かのために使うしかない。
となれば、お城を買うことも悪いことではないかもしれないと、アルノは考えた。
この世界で一番信じられて、好きだと言えるのは、やはりニルドしかいない。
不思議なことに、ニルドが幸せになるのであれば、それは祝福できる気がした。
ニルドの婚約者が死んでくれないだろうかと思ったことは一度もないし、ニルドが悲しむ姿は見たくない。
善人ではないつもりだが、ニルドに対してだけは別なのだ。
馬鹿ニルドの最悪な結婚のために、城を建てる。
こんな馬鹿げた結婚祝いあるだろうか。
お城を見てみたいから建てるなんて、大嘘だ。本当は馬鹿ニルドのためだ。
「あああああっ」
枕に顔を埋め、アルノは苛立ちをぶつけるように声をあげた。
おかげで、寝室の扉が閉まった音を聞き逃した。
突然肩に置かれた手の感触に、アルノはびっくりして跳ね上がる。
その体は、気づけばゼインの腕の中にあった。
間近に、ゼインの真剣なまなざしがある。
「どうすれば、あなたを誘惑出来るのか、わからなくなりました。アルノさん……やはり口調を変えても?」
「友達みたいに話して。本当は恋人みたいなのが良いけど……」
考えることを放棄し、半ば自暴自棄にアルノは答えた。
こんな精神状態で身を任せるべきではないと、頭の中で冷静な自分が警告したが、アルノはもう止まらなかった。
ここまでいろいろこじれたら、頭を使って考えるなんて不可能だ。
あとはもう本能に任せて、この状況を乗り越えてしまった方が楽に違いない。
そんな衝動に突き動かされ、アルノは今度こそ、偽物の口づけを味わうべく、顎を少し持ち上げ、目を閉ざした。
ところがゼインは、すぐに駆け寄ってきてアルノの前に回り込み、輝くばかりの美貌で微笑んだ。
「アルノさん……ご無事でよかったです」
何事もなかったかのような爽やかな口ぶりに、アルノは仕方なく足を止めた。
「もしかして、ずっと探していた?」
心なしか、美しいゼインの顔も疲れて見える。
「全ての宿を回り、アルノさんが泊まっていないか確認しました。それに酒場、食堂、店という店に顔を出して聞き込みまでしましたよ。すれ違いになったのではないかと心配になり、門に戻ってきてみたところです。そりも見つけてあります。ここでお会いできて本当に良かった」
そりは山道の途中で、岩陰に隠しておいたのだ。
それを見つけたということは、ずいぶん広範囲を探してきたことになる。
さすがに、ここで突き放すのも悪い気がして、町に戻ることを諦め、山の方を向いた。
「さあ、帰りましょう」
ゼインはさきほどまで立っていた場所までそりを取りに走り、すぐに戻ってくると、アルノをそこに乗せようとした。
さすがに、そこまでゼインに身をゆだねる気にはなれず、アルノは強引に歩き出す。
ゼインは気遣うようにアルノをちらりと見て、先に立ってゆっくり歩き始める。
「驚かせてしまい申し訳ありませんでした。私達は同じ教会所属の孤児院で育ち、ああしたことも共に練習してきたので、特別なことというわけではなかったのです。専属世話人になるにはどうしても磨いておかなければならない技術であり、そうした技を競う試験もあります。技術は訓練を続けなければ、衰えてしまうものです」
それは少し衝撃的な話ではあった。
ゼインもまた、村の子供達のように恵まれた環境で生きてきたわけではない。
「ゼインも……仕事を選べなかったのね」
「そうですね。でも、クシール様は自分には向いていないと気づき、違う道を選びました。大変な努力が必要でしたが、今はアルノさんの担当僧侶となり、教会の中枢機関に所属して働いています」
でこぼこした山道を登り始めると、その慣れ親しんだ地面の感触に、アルノはどこかほっとした。
結局、人生の大半を過ごしてきた山が一番落ち着くのだ。
「寝具だけ変えてほしい。ベッドはあのままでいいから」
「大丈夫です。もう新しいものを手配しました」
「早いのね……」
沈黙が続き、ざくざくと雪を踏む音だけが続く。
「私……」
アルノのかすかな声に気づき、ゼインが少し足音を忍ばせる。
「お城を買う」
数秒待って、ゼインが口を開いた。
「理由をお伺いしてもいいですか?」
表情を隠すようにアルノはゼインの足元を見た。
鉄の鋲で毛皮を打ち付けたごついブーツの先が、雪で隠れている。
「もちろん、そのいらいら姫とか、ニルドのためだけじゃない。お城を見たことがないの。どんなものかは知っているけど、私はあそこを出たことがないから。
だから、あそこにお城を建てたら見られるでしょう?」
それが本心かどうか、探るようにゼインはアルノを見た。
「確かに、家は広い方が良いですね。弟子をとる時に便利です」
アルノは酷く不機嫌な顔になった。
「もうやめてよ。今だって十分やっかいな状況なのに、この上、弟子なんてきたら、どう扱えばいいかわからない。しかも借金してお城を建てるのに、養わなきゃいけない子が一人増えるわけ?絶対に嫌よ」
「まぁ、そうですね。アルノさんはまだ若い。弟子はまだまだ先でも良いでしょう」
「そんなことを考える余裕なんて、いつまで経ってもこない気がする……」
鬼のような師匠を思い出し、アルノは絶対に師匠なんて呼ばれたくないと考えた。
「ちなみに、イライザ姫です。姫君の名前を間違えると、処刑されますよ」
「え?!名前を間違えるだけで、殺されるの?やっぱり来ないでほしい……」
「どうでしょうね。愛さえあれば生きていけると本当に信じているのなら、来てしまうかもしれませんね。多少現実が理解出来る姫君なら、来ないと思います」
「じゃあ……ニルドは失恋しちゃうの?」
ゼインは振り返り、歩幅を微妙に変化させながら、さりげなくアルノの隣に並んだ。
「アルノさん、昨夜からお疲れのはずです。失礼しますね」
腰を屈め、素早くアルノの体を腕ですくいあげる。
地面から離され、アルノは不安定になった体を支えようとゼインの首にしがみついた。
景色が少しだけ変わる。
背中越しに見る町は、もう遠く小さくなっている。
「はぁ……」
抵抗する気力もなく、アルノはゼインの肩に顎をのせて、雪道に続く二人の足跡を眺めた。
そりは長い紐で繋がれ、その先端がゼインの片方の手首にかかっており、さらさらと音を立て、隣を滑っている。
顔をあげると、黒雲が徐々に山に向かって流れていくのが見えた。
「雪が降るかも」
「そうですね。急ぎましょう」
ゼインは乗ってきた馬を口笛で呼び寄せそりを繋ぐと、そこにアルノを乗せ、自分は馬にまたがった。
ゆっくりと動いていく景色を眺めているうちに、夕暮れになり、ロタ村の粗末な門を抜けた。
入り口付近の数軒が、周囲の雪を取り除かれ、扉まで入れるようになっている。
「誰か移住してくるの?」
アルノが問いかけると、ゼインは馬上から「そうです」と答えた。
そりは雪に埋もれ、小山のようになった家々の間を、縫うように馬に引かれ滑っていく。
その先に、やっとアルノの師匠の家が見えてきた。
いつの間にか黒雲が空を覆い、雪が降り始めていた。
「積もる前に屋根から雪をおろさないといけませんね。これでは危険だ」
「家が雪で潰れて平らになったら、次に何かを建てる時に便利よね」
「そうですね。解体作業は楽になりそうです」
庭先でゼインは馬を止め、アルノをそりから抱き上げて地面に下ろした。
家の扉が開き、いつもと変わらない淡々とした表情のクシールが現れた。
「アルノさん」
その声を聞いた途端、アルノはなぜか無性にほっとして、走り出していた。
「クシール!」
その首に抱き着き、アルノは大きく安堵の吐息を漏らした。
馬鹿げた話だったが、アルノは少しだけゼインに嫉妬していたのだ。
クシールはアルノの担当僧侶であり、胡散臭い男ではあったが、一番にアルノのことを考えていると思っていた。
だけど、やはりアルノはクシールにとって、仕事で相手をしなければならないだけの存在であり、契約師と担当僧侶の関係以上ではなかったのだ。
それを目の前に突き付けられたようで面白くなかった。
喧嘩もしたし、家出も止められたし、とにかく断固とした態度でアルノを仕事に縛り付けようとする信用ならない、やっかいな男だというのに、それでも、アルノにとっては、遠慮なく話しが出来る唯一の知り合いだった。
その細い体を抱き留めたクシールは、アルノの頭越しに珍しい光景を見ていた。
そこには呆然とした表情のゼインが立ち尽くしていたのだ。
男性にも女性にもふられたことがないと豪語してきたゼインの、ノーラ山より高いプライドが、がらがらと崩れていく音が聞こえたような気がして、クシールは噴き出した。
「ふっ……」
自分が笑われたと勘違いしたアルノが、体を離し嫌な顔をした。
「なんで笑うのよ!言っておくけど、悪いのはクシールとゼイン様よ!私じゃないから!それに、家出でもないから!」
すっかり気分を損ね、アルノはクシールを押しのけ、粗末な家に入っていく。
クシールは、自信喪失しかけているゼインに近づいて、その背中をぽんと叩くと、また小さく笑った。
「ふっ……」
「笑い過ぎだ」
覗き込むと、そこには湯気がでそうなほど赤くなったゼインの顔があった。
「ぶっ」
もう堪えきれず、クシールが膝を叩くふりをして笑いだす。
「俺に落ちない男も女もいないと聞いたことがあるな」
ゼインはそりを繋いでいた紐を解き、クシールに押し付けた。
「クシール様、馬とこれを片付けておいてください」
明らかに気分を害した様子で家に入っていく。
それを見送るクシールは、背中を震わせ、まだ笑っていた。
家に入ったアルノは、すぐに寝室に向かった。
そこに、確かに新しい寝台が置かれていることを確かめ、ようやく家に戻ってこられると、胸をなでおろした。
ここで目撃したとんでもない光景はまだ覚えていたが、もう考えることすら面倒だった。
ハンナの家に泊まったことも、ニルドにお城を建てることにしたことも、アルノにとっては今までの人生において、一度も想像すらしたことがないことだった。
変化のない日常が繰り返されていたはずなのに、あの日、ニルドが迎えに来た時から、次々に奇妙な事件に巻き込まれている気がする。
それが不快なことなのか、それとも悪くないと思っているのか、アルノはわからなかった。
ただ今は一刻も早く眠ってしまいたかった。
さらさらのシーツの上を手のひらで撫でて、その贅沢な感触を堪能しながら目を閉じる。
その頭の下には綿の入った枕もあり、アルノはその使い心地の良さにうっとりとした。
以前の枕は、藁が入っていたため、時々藁の先が布を飛び出し、寝付くまで不快な感触に耐えなければならなかった。
「この程度の贅沢まで、今まで遠ざけられていたなんて。本当に、大嫌いよ、この仕事」
欲深くあってはいけないため、暮らしも質素でなければならない。
稼いでも、贅沢にお金を使えないとなれば、何を楽しみに生きたら良いかわからない。
自分に使えないのであれば、誰かのために使うしかない。
となれば、お城を買うことも悪いことではないかもしれないと、アルノは考えた。
この世界で一番信じられて、好きだと言えるのは、やはりニルドしかいない。
不思議なことに、ニルドが幸せになるのであれば、それは祝福できる気がした。
ニルドの婚約者が死んでくれないだろうかと思ったことは一度もないし、ニルドが悲しむ姿は見たくない。
善人ではないつもりだが、ニルドに対してだけは別なのだ。
馬鹿ニルドの最悪な結婚のために、城を建てる。
こんな馬鹿げた結婚祝いあるだろうか。
お城を見てみたいから建てるなんて、大嘘だ。本当は馬鹿ニルドのためだ。
「あああああっ」
枕に顔を埋め、アルノは苛立ちをぶつけるように声をあげた。
おかげで、寝室の扉が閉まった音を聞き逃した。
突然肩に置かれた手の感触に、アルノはびっくりして跳ね上がる。
その体は、気づけばゼインの腕の中にあった。
間近に、ゼインの真剣なまなざしがある。
「どうすれば、あなたを誘惑出来るのか、わからなくなりました。アルノさん……やはり口調を変えても?」
「友達みたいに話して。本当は恋人みたいなのが良いけど……」
考えることを放棄し、半ば自暴自棄にアルノは答えた。
こんな精神状態で身を任せるべきではないと、頭の中で冷静な自分が警告したが、アルノはもう止まらなかった。
ここまでいろいろこじれたら、頭を使って考えるなんて不可能だ。
あとはもう本能に任せて、この状況を乗り越えてしまった方が楽に違いない。
そんな衝動に突き動かされ、アルノは今度こそ、偽物の口づけを味わうべく、顎を少し持ち上げ、目を閉ざした。
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