精霊の森に魅入られて

丸井竹

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8.偽物の世界

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完全に寝不足状態のアルノは、クシールの前に、契約紙を三枚並べた。

「どうよ。報酬はあがりそう?」

ゼインはごく自然に、アルノの隣に座っている。
クシールはその光景を当然と受けとめ、いつものように慎重な仕草で契約紙の質を確かめた。

「見事ですね。宣誓液を見せてくださいますか?」

アルノは窓辺にある引き出しから金色の液体が入った小瓶を持って戻ってくると、クシールの前に置いた。
蓋口にかけて、美しいくびれを持つ、優美な形状の小瓶を持ち上げ、クシールは中の液体を光にかざす。
金色に透き通る宣誓液が瓶の側面をとろりと滑る。

光そのもののように透明度が高く、ほのかに光っている。

「素晴らしいですね。やはり、冬の方が、品質が良くなる気がします。夏は熱さで邪念が消えないのではないですか?」

「作り方は同じよ。報酬は?」

憮然として腕組みをするアルノの前に、クシールが小瓶を戻す。

「審査会まで、上げません」

「えー!」

欲深いアルノの不満を聞き流し、クシールはさっさと立ち上がる。

「護衛を待たせているので、もう行きますね。まだお試し期間ですが、継続するかどうかはよく考えてください。ではゼイン様、アルノさんをよろしくお願いします」

クシールが頭を下げると、ゼインも軽く会釈を返す。
少し他人行儀な二人を見比べ、アルノは外に出ていくクシールを追いかけた。

空は相変わらず寒そうな灰色だが、まだ雪の気配はない。
冬の寒さをはらんだ風に髪をなぶられ、アルノは白い息を虚空に飛ばした。

クシールはそりの上に荷物を積むと、契約紙の入った鞄を大切に肩から掛けて、胸に抱く。
アルノの不満そうな顔を見て、クシールはふっと微笑み、前かがみになった。

「さっさと体の相性をみておいてくださいね。代わりを探すなら、早い方が良いですから。それに、春になればゼイン様を望む契約師の方も増えると思いますから、本契約は急いだほうが良いですよ」

お金を払う方が頑張るのかと、アルノはまた不機嫌な顔になった。

「アルノさん」

さらに顔を近づけ、クシールがアルノの耳元で囁いた。

「契約中なのですから、襲ってみてはどうですか?何をしても彼があなたを嫌うことはありませんよ」

「え!」

赤面したアルノに片目をつぶり、クシールはふもとに向けて歩き出す。
ぎしぎし雪を踏む音と共に、その背中が遠ざかる。
クシールは一度もアルノを振り返ったことがない。

視線を上げると、その向こうには、桃色に染まる分厚い雲がある。
風は山に向かって流れているため、それは必然的にノーラ山を越えられず、この辺りで停滞することになる。

山頂を振り仰ぎ、アルノは両肩を抱いて、小走りに家に戻った。


扉を閉めると、台所にいたゼインと目があった。
ゼインは木皿を調理台に並べている。

「アルノさん、食事はどうします?お風呂にしても良いですけど」

アルノが森で宣誓液を作っている間に、ゼインはすっかりアルノの家を制圧し、物の置き場所も把握し、料理から掃除洗濯と、家事はなんでもこなしている。

おかげでアルノは仕事に没頭できるが、二部屋しかない粗末な家の中でゼインを見ると、あまりにも眩しすぎて、こんなところに住んでもらって大丈夫なのだろうかと不安になる。

聖騎士の名にふさわしく、その姿は清潔感に溢れ、輝いてさえ見える。
服の上からでもわかるその肉体美に、アルノの目はついつい吸い寄せられてしまう。

光沢のある白シャツを一枚身に着け、下半身にはぴったりとした灰色のズボンと膝丈まであるブーツを履いている。
鎧は外しているため、その肉付きは一目瞭然だ。

まるで食用の家畜に対する評価のようで、アルノはゼインに申し訳なく感じるが、この肉体を鑑賞するためにお金を払っているのだと思うと、それもやはり仕方がないと思ってしまう。

さらに、護衛でもあるため、すぐに戦闘に入れるように剣帯を巻き、剣を身に着けている。
とにかくどこからどう見ても、文句なくかっこいい。

ゼインは、アルノが存分に鑑賞できるよう、あえて目を合わせないようにしてくれている。
もちろん、口でそう説明されたわけではないが、アルノの露骨な視線に気づいていないわけがないのに、一切目が合わないのだ。

目があえば、アルノが赤くなって逃げてしまうことをよくわかっている。
まさにどこまでも完璧な男だ。

「食事の後に、湯桶にお湯をいれてきますね」

テーブルの上に料理を盛り付けた皿を並べ終え、ゼインは鍋を片付けに行く。

家事をする聖騎士なんてものが存在していいのだろうかと、不安になるが、お金を払って雇っていると思えば家政婦並みの働きは当然なのかもしれないとも思う。

おかげで、アルノは一日の大半を仕事に没頭出来るようになったのだから、専属世話人の使い方としてはきっと正解なのだ。
しかしアルノは不満だった。

やはりいつまでも恋人がいるという気分が味わえないのだ。
不満そうに食卓の椅子に座ったアルノの前に、戻ってきたゼインは、見惚れるような美貌で微笑み、アルノの向かいに座る。

スプーンを手に取りながら、お試し期間が終わったら、ゼインはきっと他の契約師に取られてしまうのだとアルノは考えた。

これだけの美貌なのだから、望まれない方がおかしい。

「あの……ゼイン……」

「何ですか?アルノさん」

テーブルにはクシールが置いていった報酬が入った巾着が置かれている。
白地の布に金色の紐が通されたもので、マカの実が金色の糸で刺繍されている。

「そ、その……今夜……私と恋人らしいことを……」

「やっと、許可をくださいますか?寝室すら一緒に使わせてくださらないので、冬の間、私はずっと暖炉の前で寝なければならないのかと思っていました」

正式に契約を結び、クシールが帰った後から一緒に住み始めたゼインは、何度もアルノの手をとったり、台所に並んだ時には腰を抱いてきたり、お風呂の準備が出来ると体を洗うのを手伝いたがったりと、積極的に迫ってくれてはいたのだ。

それなのに、アルノがどうしても受け入れられず、最後には「別々に寝ましょう!」と叫んでしまう。
ゼインが嫌いなわけではないし、むしろ、こんな美形の男性に初体験の相手をお願いしていいのだろうかと、申し訳ない気持ちにさえなっている。

ゼインほどの美形であれば相手は選びたい放題に違いない。

こんな人をお金で買ってもいいのだろうかとも思うし、悲しいことに、本当に初体験の全てをお金で買ってもいいのだろうかという気持ちもかすかに残っている。

しかしこの美貌を眺めていられるのもあと一か月かと思うと、やはりぐずぐずはしていられない。

「こ、今夜は……私が逃げてしまわないうちに、その……少々、強引に迫って頂けると……」

「嫌わないと約束してくださいますか?」

「ふわあああぁ」

思わず心の声が外に出た。
胸は高鳴り、鼻息まで荒くなる。

「ぜ、ゼイン様が、す、素敵過ぎて、いつも緊張するのです!」

ゼインは爽やかに笑った。

「光栄です。では、今日は一緒にお風呂に入りますか?」

「い、いえ!お風呂は別々で!」

そこは強引に行かなくていいのかと、ゼインが問いかけるように首を傾ける。
その姿にもまた見惚れてしまう。

アルノには友達も家族もいない。
唯一親しかったニルドは、突然子供時代に消えてしまった。
人付き合いに慣れていないうえに、急に恋人が出来ても、どうしていいのかわからない。

ニルドとの新婚生活については妄想しまくってきたが、ゼインはまた別だ。

「無理なことはしません。今日は逃げないでくださいね」

ゼインの甘い言葉に脳みそを溶かされそうになりながら、アルノはゼインの手料理をほおばった。


そして、ついに夜が訪れた。

緊張のあまり心臓を吐きそうになりながら寝室に入ったアルノは、真新しい寝着に着替え、寝台に座った。
今夜こそ純潔を捨て、女の喜びというものを味わうのだ。
決意も新たに、アルノは大きく深呼吸した。

教わったことはないがアルノにも、性的知識はちゃんと備わっている。
森の木陰で、愛を交わす村人達の姿をよく覗き見ていたからだ。

そうした現場に居合わせてしまえば、音を立てるわけにもいかず、男女が行為を終わらせ、帰って行くまでアルノは物陰に潜んでいるしかなかった。
最初は逃げたり、目を覆ったりしていたが、慣れてくると、目をひん剥いて見学するようになった。

おかげで妄想の中のアルノとニルドも相当過激な行為をしてきたが、そんな気持ちばかりが先行し、婚約者のいる男に横恋慕する痛い女になってしまった。
ニルドがアルノを迎えに来た段階で、アルノの妄想の中では、二人はとっくに恋人同士だったのだから仕方がない。

酒場での醜態を思い出し、アルノの気持ちがぺたんとへこむ。
シーツの上に横たわり、アルノは毛布の中に逃げ込んだ。

ふっと室内が暗くなった。

「アルノさん、入りますね」

ゼインの足音が近づき、ランタンの灯りが布越しに入ってくる。

「あ、あの……」

「アルノさん」

毛布の端からゼインの手が入り込んできた。
女に見紛うほどの美貌なのに、手はちゃんと戦う者の手をしている。

「ぜ、ゼイン様」

身動きした途端、するりと毛布が滑り落ち、灯りに浮かび上がるゼインの顔が正面に現れた。

その美しさに、アルノは失神しそうになった。

高名な画家を呼んでこの顔を、ぜひ描いてもらいたい。
それを生涯の思い出として飾りたい。
しかしそれもきっと不可能だ。

この輝きだけは再現できないに違いない。
淫らな欲望がむくむくとアルノの中で膨れ上がる。

「ゼイン様……」

間近に迫るゼインの顔に見惚れながらも、アルノは顎を少し持ち上げ目を閉じる。
その顎にゼインの指がかかり、鼻の穴が広がるほど良い香りが近づく。

頭の中に、物陰から覗き見た男女の淫らな行為の数々が蘇る。
手を取り合い、見つめ合い、唇を重ね合い、さらにとんでもないところまでずぶずぶと結合し……涎を垂らしてそんな光景を眺めるばかりだった惨めな自分を思い出し、涙が込み上げる。

村の人たちの当たり前の日常が羨ましすぎて、苛立ちや怒りでいっぱいになった。
仕事を憎み、師匠を恨み、妄想の中のニルドばかりを追いかけてきた。

しかし今こそ、その虚しい時間の全てが報われるほどの本物の口づけを手に入れるのだ。
そう思った瞬間、これが偽物の口づけであることを思い出した。
結局、アルノはあちら側の景色には入れない。

お金で買った偽物の世界で、偽物の口づけをして、本物に近づいた気になるしかない。
生まれながらに家族や故郷を持つ人達とは違う。
大人のように割り切れない、子供の部分が駄々をこねるようにこんなのは嫌だと叫んでいる。そこに無理やり蓋をして、アルノは震える唇を押し上げた。

ついに柔らかな感触が唇に当たった。
ような気がした。

それを確かめようと、さらに深く唇を重ねるべくアルノが意気込んだその時、とんでもない音が室内に響き渡った。

「アルノ!アルノ!いるんだろう?」

扉を叩く音に続いて聞こえてきたその声は、あろうことか、この場に最もふさわしくないニルドの声だった。
アルノは真っ青になり、まるでやましいことでもしていたかのように、ゼインから飛んで離れた。



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