精霊の森に魅入られて

丸井竹

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5.売り物の笑顔

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台所でお湯を沸かし始めたアルノをちらりと見て、ゼインは暖炉の前に座り、濡れた靴先を温めた。

少し迷って剣帯を外すと、今度は出窓の方に視線を向ける。
外には、先ほどアルノがご近所さんと呼んだ雪狼の姿があり、ゆっくりと森に向かって遠ざかっていくところだった。

彼が先ほどまでいた場所は血で汚れ、獲物の毛や骨などが残されている。

凶悪な獣のはずなのに、雪狼はここに到着するまで、一度もゼインを襲おうとはしなかった。
それどころか、二人を先導するように前を歩き、家まで一緒にくると、くわえてきた獲物を雪の中に落とし、食事の続きを始めたのだ。

アルノはそんな雪狼に構うことなく、さっさと家に入り、ゼインもそれを追いかけた。

「あの雪狼との付き合いは長いのですか?」

何も説明しようとしないアルノにしびれを切らし、ゼインが口を開いた。
アルノはカップを並べ、お茶を入れている。

「そうよ。私が子供の頃はもっと小さかったの。一カ月ほど家出している間に出会ったの。
まだ小さくて飢えていたから、私の持っていた食料を分けてあげて、それからしばらく一緒に居たの。
いつの間にかどこかに帰って行ったけど、時々顔を見せにきてくれるのよ」

「森に家出を?!よく無事でしたね」

「一カ月ぐらい平気よ。でも、師匠に見つかって連れ戻されて、大変な目に合った。そこに竹鞭がかかっているでしょう?」

壁の右奥に凹みがあり、扉のない物入れになっていた。
そこに竹で出来た鞭がずらりと並んでいる。
それは全部で五本あり、一本が折れていた。

「私をぶつために作られた竹鞭よ。途中から、私に作らせるようになったの。十本以上あったけど、私をぶつたびに壊れていくから、多めに作るように命じられたのよ。家出もしたくなると思わない?」

その目には拭いきれない怒りと苛立ちが宿る。
深い恨みを抱えたアルノの姿をゼインは注意深く観察した。

「でもあなたは飢えずに生きていける仕事を手に入れた」

「そうかしら?言ったでしょう?私は森で一カ月生きられるの。それ以上もね」

「冬は難しいのでは?」

アルノはむっとして黙り込んだ。

もしこれが、恋愛対象になるニルドの前なら多少は猫を被ったかもしれないが、前回の態度を見て、ゼインがアルノを選ぶわけがないことはわかっている。

さらに、選ばれたとしてもお金が支払えなければ離れてしまう関係だ。
良くみられようと努力するのも馬鹿らしい。
アルノはそう結論を出し、無言でお茶を入れたカップをテーブルに置き、さっさと椅子に座った。

ゼインも暖炉の前を離れ、アルノの向かいの椅子に座る。

「クシールは来ないの?」

「この間は自己紹介もせず失礼いたしました。私はパラス大聖堂の聖騎士団に所属しているゼインと申します。クシール様の護衛として、一カ月前に中央教会より派遣されてきました。冬の雪山は思ったより危険であると判断し、私が一人で契約紙の回収に伺うことになりました」

「冬の時期に移動だなんて、大変だったのね」

重いため息をつき、アルノは椅子を立ち、完成した契約紙を窓辺に置かれた引き出しから取り出し持ってくると、テーブルの上に置いた。

「失礼」

さっとゼインが立ち上がり、せっかくのいれたてのお茶を台所に下げてしまう。

「万が一にも汚れてしまうと大変ですので」

すぐに戻ってきて、白い手袋を嵌めると完成した契約紙を持ち上げる。

「そんなに大切なものなの?」

「もちろんです。これは、教会からしたら大変貴重なものなのです」

「そう……」

退屈そうに、アルノはテーブルに肘をついて窓の外を見た。
雪狼は姿を消し、獲物の残骸の上に、ちらほらと雪が降り積もり始めている。

「こちらが報酬になります」

契約紙が片付けられ、いつの間にかテーブルには銀貨が積み上げられていた。
それを数えながら回収し、白い巾着に入れる。

その手がぴたりと止まった。

「クシールにお願いしていたのだけど……。その、私の世話人って決まりそう?」

お金を払わないと男に相手にもされない女だと告白しているようで恥ずかしく、アルノはすっかりうつむいてしまう。
とはいえ、次にいつこの男が契約紙の回収に来るのかわからないし、クシールが来ないとなれば、この男に頼むしかないのだから、恥は早いうちにかいてしまった方が良い。

もう恋人のふりをしてくれる人を雇えると知ってしまったからには、ぜひとも試してみたい気持ちが抑えきれない。
なにせ友達もいないし、恋人だって出来たことがない。

「なぜ、必要なのですか?これだけ良い物が出来ているのに。その人が来た途端に、腕が落ちるようでは困ります」

やる気にさせる反面、堕落してしまう可能性もあるとゼインは、冷静に示唆した。
その冷たい言い方に、アルノは露骨に不機嫌になった。

「クシールみたいなことを言うのね……。……ここには楽しいことが一つもないからよ。毎日ここから逃げ出したいと思い続けて、気が変になりそうなの。もうここにいる理由もないのに、町にも行けない」

なにせ、あれだけ恥をかいたのだから、顔見知りばかりの場所には住みたくない。

「そういえば、ロタ村の皆さんは町に移住したようですね。ここは不便な土地で、さらに税も取りにくいですから。アルノさんは行かなかったのですか?仕事の時だけ森に戻ってくれば良いのでは?」

真新しい心の傷を抉られているようで、アルノの表情はさらに不機嫌になる。

元ロタ村の住人たちが、ニルドに婚約者がいると知ったら、それ見た事かとまた笑われるに違いない。

「憎まれて、嫌われて、鞭でぶたれて無理矢理学ばされたこんな仕事、どうしたって好きになれない」

「確かに、休息が必要かもしれませんが、それをお金で買うことになります。大丈夫ですか?」

無償の愛なんて夢みたいなことは信じない。
アルノはその決意を思い出した。

「嘘でも良い。私は……」

孤独で愛に飢えていた幼い頃の記憶が蘇る。
辛い記憶ばかりで、思い出すたびに吐き気がする。

「クシールから聞いていると思いますが、私も一応世話人の資格を持っています。冬の間はなかなか王都から人が出て来られませんから。少しの間であれば、報酬によってはお引き受けできますよ」

相当気が進まない様子のゼインに、アルノの心は重くなる。
こんなに嫌がられているのに、恋人のふりをしてもらって楽しめるだろうか。

前回来た時は名乗りもしなかった。
恐らくクシールはゼインをアルノの専属世話人にするつもりで連れてきたが、ゼインの方がアルノを選びたくなかったから帰ってしまったのだ。

「それとも春まで待ちますか?」

ゼインが待ちたいのではないかとアルノは思ったが、やはりやっぱりいらないとは言えない。

「一晩……一緒にいてもらうにはいくら必要なの?」

「銀貨三枚ですが……試用期間は一カ月です。その間の料金は発生しません」

温かな陽だまりで子供と花を摘む母親の姿が思い浮かぶ。
子供の頃、森の中で見つけた親子が遊んでいる光景だった。

その膝にどうやったら頭を置くことが出来るのか、ずっと考えていた。
ゼインに体温があるなら、感覚ぐらいはつかめるはずだ。

アルノは急激に火照ってきた顔をあげ、ゼインが嫌そうな顔をしていないか確かめた。
ゼインは淡々とした様子で鞄から書類を取り出している。

さっと白い紙が差し出された。
顔を近づけてみると、細かい文章がずらりと並んでいる。

『契約師世話人契約説明書』

先頭の文字に目を走らせ、二枚目をめくる。

それは料金表だった。

「く、口づけ一回銀貨一枚……膝枕で銅貨五枚……こんなに細かいの?」

「世話人によって契約内容は変わります。私は階級が高い方なので、ちょっと割高になります。でも一カ月は無料ですよ。お試し期間ですから」

普通に恋人のふりをしてもらうとして、必要な項目を合算すると、とんでもない金額になる。

「こんなに稼げるかな……」

「今の倍は仕上げないと厳しいでしょうね」

服も化粧品も買わないし、町に遊びに行くこともない。
人付き合いもないため、お金はあっても使い道もない。
稼いだお金は全て、この専属世話人につぎ込める。

「一カ月は試用期間ですが、それが過ぎればこの料金が発生します。それからこの関係が契約上のものであることを忘れないために、署名をしてもらいます。宣誓液による署名が必要ですから、この契約を破ると仕事を回せなくなります」

「え!」

偽物の恋人と同時に仕事も失うのだ。
しかし弟子であった時代、アルノは森の恵みで生きてきた。
紙だけは手に入らないが、宣誓液は作れる。

それだけでも売れるはずだと思った瞬間、アルノの考えを読んだかのようにゼインが言った。

「宣誓液を許可なく販売すれば捕まりますから」

むっとしたアルノは、出窓の引き出しのところに行き、宣誓液の小瓶とペンを持って戻ってくると、契約書の署名欄に名前を書いた。

普通のインクと違い、少しふっくらとその線は盛り上がる。
それが紙の上に彫刻を乗せたかのように見せ、その芸術的な形を際立たせる。
美しい線を確かめ、ゼインは誓約書をそっと手に取った。

「血のにじむような努力をなさったのでしょうね」

アルノの目元が不意に熱くなる。

「そう言って欲しいですか?」

その熱が一瞬で冷めた。
恥ずかしさに頬を熱くし、アルノは顔を背けた。

「いいえ」

書類を手にしたゼインの手は、傷だらけで爪は剥がれた跡がある。
ニルドの拳を思い出した。
軽々とアルノを抱き上げたその手は、ごつく傷だらけだった。

誰もその努力をひけらかさないのだ。
それが大人だと言われているようで、恥ずかしさと同時に強い怒りを感じる。
アルノはニルドのように、努力して夢を叶えたというわけではない。

無理矢理させられてきたのだ。

「ゼイン様は……なぜ聖騎士の道に?」

「そうですね……。道が無かったからですね。聖職者を養成する孤児院で育ち、聖職者として生きる道しかありませんでした。生き残るために必死に戦い方を覚えました。
眠る場所、食べるもの、穴の開いた靴を手に入れるためでしたが、そのうち、他の者に対し優越感を抱くようになりました。努力して手に入れた場所から、下を見ることが楽しいと感じ始めたのです。崇高な目的、神への献身、神聖なる勤め、そんなものは幻想だと学びました」

聖職者らしからぬゼインの発言に、アルノは少しだけほっとした。
何を考えているかわからないクシールは、聖職者のお手本のようなことしかいわない。

「契約紙も……欲を持っては腕が落ちると言われています。契約紙に神聖な力を持たせるためには、欲を捨て、神聖なるものたちに祈り続けることだと教わりますが、そんなの嘘です。ずっと、この仕事に私は相応しくないと思ってきました……」

ゼインがどこか嘲るように口角を引き上げた。

「私は自分の努力で手に入れた、この腕だけを信じています。祈りよりもずっと強く」

互いに押し付けられた道を歩いてきたのに、ゼインはその道を進む覚悟があるのだ。
アルノには覚悟ではなく、諦めと怒りだけだ。

「ゼイン様……」

鞭で打たれ、食事を与えられない環境も当たり前だと思えば、他人を羨む気持ちに捉われることなく、努力だけを積んでこられたのかもしれない。
だけど、アルノは幸福な人々の暮らしを間近で見て生きてきた。
どうしたって、普通の幸せを諦めきれない。

「私と契約してください。偽物の恋人で……お願いします」

輝くばかりに美しい顔をしたゼインの微笑みは、完全な売り物だった。

それを強く自覚しながら、アルノは差し出された手をしっかり握り返した。



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