精霊の森に魅入られて

丸井竹

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2.戻った女

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村の生活を捨てるつもりで、荷造りしたため、手ぶらで戻るアルノは、遭難してもおかしくない装備だった。
とはいえ、もうニルドが借りてくれた町の家がどこにあるのかもわからないし、荷物を探しに行くことも出来ない。

幸い、ノーラ山の場所だけはわかっている。
家が山にあるということは案外便利なことかもしれないとアルノは考えた。

星の位置が目印になるように、山もどこにいても見つけやすい場所にある。

とはいえ、冬の夜に山登りをするなんて、正気の沙汰じゃない。
そう思いながらも、アルノは一日がかりで下りてきた山を、また登っていた。

黙々と歩きながら、何度も自分に言い聞かせる。
もう絶対に都合の良い夢なんて見ない。

だいたい、アルノに信じられる人なんているわけがなかったのだ。
ロタ村に家族や親せきがいるわけでもないし、友人だっていない。
契約師をしていた老婆に子供の頃に拾われ、弟子として暮らし始めた。

皆が遊んでいる時にも、アルノはずっと修行の毎日で、村の子供達がうらやましくてたまらなかった。

ニルドに声をかけてもらい、こっそり遊びに行くときだけ、唯一子供らしい時間を過ごせた。

村の子供達は、ニルドと一緒に居る時だけ、遊びの輪に入れてくれたのだ。
だけどニルドが消えてからは、アルノはいつも一人だった。

子供の頃から村に住んでいるのに、アルノはいつまで経ってもよそ者扱いで、師匠の老婆も、変人扱いされていたし、その弟子のアルノも、後継者を作るため、無理やり連れてこられた可哀そうな奴隷のように見られていた。

奴隷とまではいかなくても、確かに似たような境遇だったため、村人たちの憐れみや同情の目に晒されるのが耐えがたく、アルノは誰にも会わないように気を付けていた。

そして二年前、愛情の欠片も感じたことのない厳しい師匠が死んだ。
同時に、その年、ロタ村の住民たちが町に移住出来ることが決まり、国からその通達があった。

村は町に出て行く人が絶えず、税も払いきれないため、村ぐるみで町に移住したいと何年も国に訴えてきたのだ。
家や土地、仕事について具体的に決まった今年、村に残る決断をしたのは、アルノ一人だった。

誰に誘われても、絶対に町には行かないと突っぱねた。
ニルドを待っていたこともその理由だったが、誰も信用できなかったことも大きい。
村の人を信じて町に下りても、いじめられ、馬鹿にされるだけだと考えた。

それなのに、ニルドが現れた途端、アルノはあっさり意見を変え、町に下りてしまったのだ。
とんだ赤っ恥だ。

十年ぶりに戻ってきた幼馴染と、まだ心が通じていると勘違いし、ほいほいと山を下りてしまった自分にも腹が立つ。
身の程知らずの恋を笑われた恥ずかしさで頭は沸騰寸前だ。
そのせいか歩調も早まり、気づけばもう村まであと半分の距離に迫っていた。

度を越えた怒りのせいか、恥ずかしさのせいか、涙一滴こぼれてこない。
振り返ると、町の灯りが星のように瞬いていた。
地上の星のようにきれいだが、近づいてみれば、ただただ人が溢れているだけの場所だった。

あの光の中に、ニルドがいる。
そう思った途端に、やっと涙が溢れ出た。

冷え切った手でそれを拭い、アルノは上を見た。
地上の星は遠ざかっているが、空の星は近づいてきている。

「家に帰ろう」

自分に言い聞かせ、アルノはせっせと家に向かって歩き出した。

夜道は真っ暗だったが、アルノにはその道が見えていた。
ノーラ山はアルノにとって、庭のようなものであり、深い森の中でさえ迷うことはない。

周りの子供達のことをうらやましく思ってきたが、師匠に従い、厳しい修行を積んできて良かったとアルノはちょっとだけ考えた。

契約師はもともと孤独な仕事であり、宣誓液のもとになるマカの実を探すところから始めなければならない。
誰もやりたがらない孤独な仕事だ。

いつか逃げ出したいと考えてきたから罰が当たったのかもしれないとアルノは思った。
仕事があるだけでもありがたいと思えと、ちょっと休もうとするだけで竹鞭で打たれてきたが、確かにニルドの花嫁になるという夢を断たれたからには、もう仕事をするしかない。

辛い修業時代を思い出し、アルノはよくここまで生きてこられたものだと、自分を褒めた。

マカの実をとって来られなければ、家には入れられないと真冬に外に出されたことさえあったのだ。
運が悪ければとっくに死んでいた。

空が白み始めてきた時、アルノはやっと家に辿り着き、雪をかきわけ扉を開けた。
もう誰が来てもここを出ていくものかと心に決め、暖炉に火を入れるとその前に横になる。

藁の寝床には、ニルドの残り香がした。
こみ上げる涙を必死に飲み込み、アルノは固く目を閉じた。



――



激しく扉を叩く音に起こされ、目を開けたアルノは、のろのろとベッドから起き上がった。
ニルドに騙され、町に一瞬だけ下りて戻って来てから、なんともう三日が過ぎていた。

その間、何もなくなった空っぽの家で、ひたすら暖を取り、非常食のクスリの実をぽりぽり食べ続けた。

何をする意欲もなく、もうこのまま冬眠してしまおうかとすら考えていた。
立ち直るにはまだ何日もかかる。

誰かと顔を合わせたい気分ではないのだ。

またニルドだったとしたら、それこそ最悪だとアルノは考えた。
もう笑いものになるのはまっぴらだったし、失恋の傷を抉られるのもごめんだ。

「どなたです?」

今度こそ、自分を助けに来た騎士や、貴公子ではないかと夢みたいな妄想が、ちらりと頭をかすめたが、そんな都合の良いことはやはり起こらなかった。

「私です」

聞こえてきた声は、良く知る人物のものだった。

扉を開けると、雪だるまになった僧侶のクシールが入ってきた。
師匠が死んでから、アルノの担当になったクシールは、アルノが完成させた契約紙を取りに来る。

「アルノさん、道が一つもなくて大変でしたよ。村を抜ける道ぐらい作っておいてください」

端正な顔立ちの若い男だが、聖職者では恋愛対象にはならない。
うんざりとしたため息をつき、アルノは窓辺にある机に置かれた棚の引き出しから契約紙を取り出すと、クシールに差し出した。

「一枚だけですか?!こんなに苦労して山を登ってきたのに!」

「もう……仕事はやめたい」

「それで、どうやって食べていくのですか?」

全く本気にしていない様子で、クシールは専用のファイルを取り出し、契約紙を丁寧にしまう。

「道をならす気がないのでしたら、町に下りて頂けませんか?ここまで来るのは大変です。夏の間にマカの実を収穫し、宣誓液を作っておけば、冬の間に契約紙を仕上げられます。そうすれば、こんな冬山に二日がかりで登って来なくて済むのですけどね」

「二日もかかるの?一日で到着するでしょう?そんなにここは高いところにあるわけでもないし」

「私はここから一日の距離にあるトラスではなく、パラスから来ています。大きな聖堂がある町ですよ。トラスほど賑わってはいませんが、静かで良い町です。どうです?移住します?」

「材料集めに二日かけて、ここに来ないといけないわけ?」

「夏の間だけ、ここで暮らせば良いのです。教会に住みませんか?」

ニルドにお情けで家を借りてもらうよりよっぽど良いかもしれないと考え、すぐに激しく首を横に振る。

「でも、そうしたら今度こそ私は仕事を辞められなくなるし、もし仕事が出来なくなれば、教会を追い出されるのでしょう?家も仕事も失うことになる」

「アルノさんの師匠であられるカトリーナさんは、死の瞬間まで仕事をしていたと聞きました」

「それは嘘よ。担当の僧侶が来なくなって、それからすぐに死んだのよ。仕事が出来なくなった師匠に用がなくなったのね。私もそんな風に捨てられるなんてごめんよ」

「カトリーナさんの担当僧侶は専属世話人でしたからね。仕方がありません。お金で雇われていただけの関係でしたから」

鞄を壁に立てかけ、クシールは暖炉の傍に座り、つま先を温めだした。

「専属の世話人って?」

毛布にくるまったアルノは、クシールの隣に座った。
薪を節約しているため、炎は小さく、部屋には温かさが足りていない。

「契約師を止めてしまう人は結構多いのですよ。それでは教会が困ることになります。
それで、契約師に快く仕事をしてもらうための専属の世話人がいるのです。一カ月は試用期間です。その期間を過ぎても、まだその世話人に居てほしいと望むなら、毎月教会に雇い賃を支払わなければなりません」

「家政婦さん?」

「そうとも言えます。契約形態は実に様々です。一枚仕上げるごとに銀貨三枚を支払うこともあります。つまり、まぁ、言いにくいですが、もう年齢も年齢だし、良いでしょう」

クシールはアルノを頭のてっぺんから足の先までじろじろと観察した。

「専属世話人とは契約師が喜んで働いてくれるように仕事をする人です。つまり、恋人にも、偽物の夫にもなれます。大変な仕事になればそれだけ報酬も必要になる。
例えば、全く男性にもてたことがないあなたをお姫様のように扱い、初夜のまねごとまでしてくれるのです。お金次第ですが……」

「じゃ、じゃあ、師匠のところに来ていたあの僧侶は?!」

「カトリーナ様が選んだ偽物の恋人です。契約紙を仕上げられなくなったので、来なくなったのです。ちなみに、あの彼とは、一枚仕上げる度に銀貨三枚の契約でした」

唖然とし、アルノは目をぱちくりさせた。
絶対にやめておけと心の警告音が鳴り響いているのに、良からぬことを考えてしまう。

ニルドより見た目の良い素敵な男性を恋人役にして、町に住むこともできる。
自分を馬鹿にしてきた村の人たちの前で、いちゃいちゃしてみせて、幸せそうに笑ってやることが出来る。
さらに、報酬さえはずめば、夫にもなってくれるのだ。

契約紙が作れる限り、傍にいてくれる夫なら、十分じゃないだろうか。
師匠が一人ぼっちになったのは、本当に晩年の数日だけだったし、弟子のアルノも一緒にいた。
師匠がアルノを弟子にし、厳しく教えてきたのは、契約上の恋人が来なくなった時に、自分の世話をさせるためだったのだ。

「その、でも専属の世話人の人だって、自由時間とか、その勤務していない時間もあるでしょう?奥さんや子供がいるとか」

「何を言っているのです。教会に所属しているのだから、恋人も妻もいませんよ。まぁ……多少羽目を外すぐらいは許されていますよ。聖職者以外の女性と一夜限りで遊ぶとかですね。一生女性と縁のない生活を送るぐらいなら、世話人となり誰かと寝て、教会から金をもらった方が良いと考える人も多いのです。娼館では男娼ですが、教会では僧侶ですからね。
社会的な身分が違います」

「で、でも……偽の夫になるなら聖職者ではだめでしょう?僧侶では結婚出来ないし……」

「そのための身分も用意されています。契約師とは、アルノさんが思っている以上に、教会にとっては大切な仕事なのです。教会所属の聖騎士団員のほとんどが世話人をしています。ただ、報酬額は少々高くなりますが……」

「い、いくら?」

身を乗り出すアルノに、クシールはやれやれと首を横に振った。

「本当に雇う気ですか?アルノさんはまだ若いし、十分恋愛が出来るじゃないですか。ああいうものは、晩年近くなった老婆や、あるいは若い男性に相手にされなくなったそうした歳の方が雇うのです。まれに男性が、男性の世話人を雇う場合もありますが、アルノさんのような若い女性は、世話人は喜ぶでしょうが、もったいないと思いますよ」

「私……もう夢みたいなことを考えるのは止めたのよ」

クシールはばかばかしいと言った様子で鼻を鳴らした。

「その前に、人がいるところに行って、誰か探したらいいじゃないですか。こんなところにこもっているから、良い人が見つからないのでは?」

もっともな話だったが、村の人たちに馬鹿にされてきた年月が、アルノから誰かに選ばれる自信なんてものを根こそぎ奪っていた。とどめは、この間ニルドに連れていかれた酒場での出来事だった。アルノなんか、誰にも選ばれるはずがないと、村人たち総出で笑われたのだ。

「磨けばきれいになりそうですけど」

女性に全く興味のないクシールに言われても、ちっともうれしくない。
お世辞ばかり並べて、ただひたすらアルノを働かせようとするのだ。

「専属世話人って、私が選べるの?その……一カ月のお試し期間があるのでしょう?」

「世話人に対してどのような要望があるのか、まずはそこを整理してください。体の関係まで可能かどうかは、世話人にもよります。ランクもありますから、報酬も人によって変わります。さらに、恋人のふりも、要望次第では別途報酬が必要になる場合もありますから、かなり稼ぐ必要がありますよ」

聖職者のくせに、どれだけ金をとるつもりなのかと、アルノは嫌な顔をした。
ちなみにと、クシールは付け加えた。

「年を取って容姿が衰えて来れば、世話人もなかなか好きなふりをするのが難しくなってきます。男性に相手にされない年齢になってからですと、体の関係なしでも、報酬額が跳ね上がります。
若いうちであれば、その時のために貯金をし、今は自前で誰かを見つけることをお勧めします」

五日後にまた来ますと言い残し、クシールは大荷物をそりに積み込み、山を下りていった。
有難いことに、アルノには多少の食料と薪を置いていった。

遠ざかるそりを見送りながら、アルノは専属世話人を雇う気満々で、さてどうしようかと考えた。



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