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1.迎えに来た男
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北のノーラ山の冬は長い。
半年近く続き、その間に手に入る食料といえば、クスリの実ぐらいだ。
凍り付いた土の上に現れるその実は、雪を深く掘らないと見つけることは出来ない。
他の食料がいらないほど栄養価は高いが、お腹が膨れる感覚にはならない。
幸運に頼れば、稀に罠にかかった獣が食べられる。
氷を短剣で砕きながら、血を抜いて内臓を洗う。
水が流れている場所に行くまでも一苦労で、雪山を何度も上り下りする必要がある。
そんな雪深い北のノーラ山に、アルノは一人で住んでいた。
かつてロタ村と呼ばれていた集落の片隅で暮らし、冬を越す。
他の住民たちは今回の冬を前に、全員が町に下りてしまったのだ。
白い息を吐きながら、アルノはザルを抱え、さくさくと雪を掘ってクスリの実を探す。
ちらほらとまた雪が降り始め、上を向いて雲の流れを確かめる。
山頂付近に黒い雲が溜まり、不吉な影を落としている。
今夜から吹雪になるのならば、排気用の穴の周りを掃除しておかなければならない。
一歩、一歩、雪に腰まで埋まりながら前に進み、なんとか集落の屋根が見えるところまで戻ってくる。
と、その時、急に体が持ち上がった。
硬い地面の上にひょいっと下ろされる。
「アルノ、お前、まだここに住んでいるのか?」
目の前に懐かしい顔が現れた。
全身雪だるまで、日に焼けて真っ黒になった顔の中で、白い歯がきらきらと輝いて見える。
その生き生きとした瞳は、やんちゃだった少年時代の面影をはっきり残している。
「ニルド、帰ってきたの?」
アルノの声が輝く。
ニルドはアルノの幼馴染であり、子供時代に一緒に遊んだ仲だった。
剣術が得意で、獣を追って森に入り、村に貴重な肉をもたらした。
ところが、その腕前を役人が見て、町の軍学校を受けることになったのだ。
それから、どんどん出世して王都に行ったと思ったら、便りさえなくなってしまった。
「手紙も途絶えたからてっきり……」
戦死している可能性だってあった。
アルノはずっとニルドの無事を祈ってきたのだ。
「忙しくて手紙のことは忘れていた。」
そんなこともあるだろうとアルノは思った。軍の仕事は命がけの過酷なものであり、アルノに手紙を書く予定なんかは忘れ去られて当然だ。
「無事でよかった。祈っていたのよ」
「そのおかげかな。出世したよ」
「そうだと思った」
ニルドは子供時代にしていたように、アルノを抱き上げ歩き出す。
雪の中に埋まってしまうアルノを、力自慢のニルドはよく助けてくれたのだ。
雪に覆われた集落の中に、一本だけ踏み固められた道が出来ている。
アルノが毎朝、せっせと歩いて固めてきた道だ。
そこをニルドは案内も無しに進んでいき、アルノの家の前でアルノを下ろす。
「覚えていたのね」
頭から雪を払い落としながら扉を開ける。
当然のように後ろから入ってきたニルドは、暖炉の前に座り、アルノが薪に火をつける様子を見ている。
「懐かしいな。まだこんなところに住んでいたんだな」
「ニルドは……すごいお屋敷に住んでいるの?」
「部屋の数はわからない。玄関で剣が振り回せる」
もう違う世界の人になったのだ。
アルノは少し寂しさを覚えながら、暖炉の炎を調整し終え、台所に向かう。
その背中をニルドの声が追ってきた。
「一緒に町に下りないか?」
「え?」
やかんを手にしたアルノはニルドを振り返る。
大真面目な顔でニルドもこちらを見ている。
住人たちが村を去る時、アルノは彼らと一緒に行かなかった。
もちろん一緒に来ないかと誘われたが、どうしても行けなかったのだ。
ニルドが帰ってくるかもしれないと考えたからだ。
もし怪我をして戦えなくなれば、きっと故郷を見たいと思うに違いない。
傷ついてぼろぼろになれば、傷を癒す時間が必要になる。
そんなことを考え、ニルドの居場所になりたいと留まった。
もちろん、ニルドが成功して、戻ってこない可能性だって考えた。
だけど手紙が途絶えたということは、何か危険な事件に巻き込まれた可能性だって捨てきれない。
恐くて生死を確かめに行けなかった。
アルノにとってニルドは、ただの幼馴染ではなかった。
「私の暮らしはここにあるから……。町に下りても、一緒に暮らす人もいないし」
「俺と一緒でも行けないのか?」
顔が熱くなり、心臓が跳ね上がる。
ニルドが村を出てから、アルノは一日もかかさず、そんな日が来ることを夢見てきた。
いつか大出世した幼馴染が自分を迎えに来て、ここから連れ出してくれる。
何もかも捨てても良いと思えるような情熱的な愛が、自分にも訪れるのだと信じてきた。
ばかばかしいと笑われるような話かもしれない。
だけど、もし本当にそんなことが起きたとしたら、飛びつく以外の選択肢はない。
「それってどういう意味?」
「俺が面倒みてやるよ」
頭の中で教会のベルが鳴り響く。
今度こそ、幸せになっても良いかもしれない。
そんな風に考え、アルノはいそいそと台所を出ると、ニルドに差し出された手を両手で握りしめていた。
――
最後に町に下りた日がいつだったのか、アルノは覚えていなかった。
一晩、アルノの家で過ごした二人は、清い関係のまま家を出た。
ニルドは暖炉の前の藁布団で眠り、アルノは寝室を使った。
雪山をずんずんと下りていくニルドの背中を追い、アルノは必死に雪の中をついていく。
ニルドは背中に大きな荷物を担いでおり、さすがにアルノまでは抱いていけない。
その荷物は、完全に村を捨てる覚悟でアルノが昨夜のうちに荷造りしたものだった。
こんなにあっさり村を捨てられるとは自分でも思っておらず、アルノはすっかり興奮状態にあった。
山歩き用の杖をつき、アルノは時々村を振り返った。
もう誰も待たなくて良いのだ。
ほっとしたが、心細さも感じていた。
本当に全てを捨てることになる。
仕事も家も財産も、身一つでニルドのところに行くのだ。
雪の道を踏みしめながら、アルノはその喜びを確かなものにしていった。
ようやく町に到着すると、ニルドは町はずれの二階建ての家にアルノを連れていった。
室内には家具らしいものがまだ何もなく、二階の部屋にベッドが一つだけ置かれていた。
「荷物はここに置くぞ」
ニルドは担いできたアルノの荷物をベッドの足元に置いた。
明るいうちに家を出たのに、もうすっかり日も暮れ、お腹もすいている。
それを口に出していいものか迷い、アルノは子供時代であれば、遠慮せずに何でも言えたのにと考えた。
ニルドはきっと過酷な戦場で生きてきたため、飢えにも慣れているのだ。
「腹、減っただろう」
ぱっと顔をあげ、アルノは込み上げる喜びのままにニルドに抱き着いた。
その腰を、ニルドも当然のように抱き留める。
「お前、胸が大きくなったな。男みたいに平らだったのに」
無神経な発言にアルノはむっとしたが、そんなことを気安く言えてしまう関係が続いていることに、ほっとした。
「お腹空いた」
やっと素直な言葉が出た。
優しい笑みをこぼす幼馴染を見上げ、アルノの不安は吹き飛んだ。
外に出ると、先ほどより人通りが増え、町はさらに賑やかになっていた。
酔っ払いや、大声で話し続ける集団もあり、道幅は広いのに歩く隙間もないぐらいにごった返している。
町では、ただ道を歩くのでさえ特殊な技術がいるのだ。
「仕事が終わり、一杯ひっかけに行く人たちだ。娼館街には行くなよ。勘違いされてさらわれるぞ」
ぞっとして、アルノはニルドの腕にしがみついた。
大柄なニルドは、見事に鍛えられた体を高級そうな衣服に包み、マントの下には革の装備までつけていた。
腰には剣が吊り下げられ、胸元にも短剣を鞘ごと入れられる皮のベルトを締めている。
器用に人混みを抜け、少し落ち着いた通りに入ると、先頭を歩いていたニルドがアルノを振り返った。
「あの酒場に入るぞ」
道を覚える余裕もなく、ひたすらニルドにしがみついてきたアルノは、やっと前を見た。
少し薄暗い通りの先に、こじんまりとした店がある。
人通りもまばらで、酒場までの道にも、街灯の灯りが丸く地面に落ちているばかりだ。
「静かな場所ね」
「新しく出来た住宅街が傍にある。この町はまだ成長途中で、辺境の村々を飲み込んで大きくなっているんだ」
「そういえばこの町の名前は?」
ノール山のふもとには三つの町が存在している。
以前来たことのある町が、なんという名前だったのか、アルノはもう覚えていなかった。
「ここは、トラスだ」
聞き覚えがあるような気もするが、よくわからない。
ニルドが歩き出し、アルノは引っ張られるようにその後ろに続く。
酒場の階段を上がると、ニルドが扉を押し開けた。
一気にたくさんの音が耳に流れ込んでくる。
話し声や笑い声、それから音楽に歌まである。
店員と客の声が行き交い、厨房の奥からも大きな声が聞こえてくる。
「いらっしゃい。奥の席へどうぞ」
初めて入った店に緊張し、アルノはさらにニルドに強くしがみついた。
前方の奥まった席に、大きなテーブルがあり、若い男女が座っている。
空席が見当たらず、きょろきょろするアルノを腕にしがみつかせたまま、ニルドが突然足を止めた。
視線を正面に戻したアルノは、さっと青ざめた。
テーブルについていた若い男女が、にやにやしながらアルノを見ている。
そこに座っていたのは、全員元ロタ村の住人達だった。
「ほらね、ニルドが迎えに行けば山を下りてくると思ったのよ」
嘲るような口調で話し出したのは、ハンナだった。
「俺達がいくら誘っても下りて来なかったのに、ニルドに呼ばれたらほいほい下りてきた」
隣の男がそう言った途端、酒場内から笑い声が沸き上がる。
顔を真っ赤にして、アルノはニルドの後ろに隠れようとした。
その腰をニルドが前に押し出した。
「に、ニルド、これは……」
「実は近くの軍要塞に来ていて、休暇中にたまたまこいつらに会ったんだ。それで、お前が一人で山に残ったという話になって、誰がお前をここに連れてこられるか、賭けようという話になった。
俺も久しぶりに故郷を見ておきたくなったから、丁度良かった。
あんなところで若い女が一人で暮らすなんて、もったいないぞ。仲間もいるんだから、町で暮らせばいいじゃないか。あの家は、俺が幼馴染のよしみで借りてやったから、そこで仕事をしたらいい。当分、家賃は払ってやるよ」
酒場中から、またどっと笑い声があがった。
よく見てみれば、酒場を埋め尽くしている客のほとんどが顔見知りだった。
「お前、ニルドのために村に留まっていたんじゃないだろうな?ニルドは出世してもう騎士様だぞ?貴族の女性とだって結婚できる身分だ。村娘なんかを相手にするわけないだろう?」
誰かが嘲った。
またもやどっと笑い声が起こる。
恥ずかしさで熱くなった体が、急速に冷えていく。
夢なんて見なきゃよかったと、アルノは心の底から思った。
こんな惨めな思いをするために町に下りて来たなんて、最悪だ。
「アルノ、そこに座れよ」
ニルドが近くの椅子に座り、少し離れたところにある空席を指さした。
出世して高いところから、哀れな村娘を見下ろしているニルドには、わからないのだ。
アルノが今まで生きてきた中で、一番恥ずかしい思いをしていることに。
だからといって、泣きながら店を飛びだしたら、それこそ騎士にまでなったニルドに愛されていると勘違いして、ひょいひょいついてきた哀れな女になってしまう。
村の人たちにいくら誘われても村を下りなかったくせに、ニルドに誘われ、ここに来てしまった時点で、もう救いようもない状況だとも思うが、泣いて飛び出すよりは傷を浅く見せることは出来る。
「そりゃ、ついてくるわよ。だって、戦死したと思っていた人が生きて現れたのだもの。皆だって喜んだはずでしょう?」
虚勢を張り、離れた席に座ったアルノは、親切でも優しくもない人たちに笑われながら、平気なふりをして目の前に置かれている皿から肉のかけらをつまんで口に入れた。
それは灰のように味気なく、クスリの実の方がずっとましだった。
それからアルノがこっそり酒場を抜け出すまで、ニルドは一度もアルノを見なかった。
ずっと村の人たちに囲まれ、飲んで話して、楽しそうに笑っていた。
同じテーブルの人たちは、アルノを馬鹿にすることで共通の話題を見出し、身の程知らずだと言っては他のテーブルの人たちを巻き込んで、何度も盛り上がった。
とんだ恥をかかされたアルノは、トイレに行くふりをして店を出ると、山のある方角を確かめ、一人でさっさと歩きだした。
半年近く続き、その間に手に入る食料といえば、クスリの実ぐらいだ。
凍り付いた土の上に現れるその実は、雪を深く掘らないと見つけることは出来ない。
他の食料がいらないほど栄養価は高いが、お腹が膨れる感覚にはならない。
幸運に頼れば、稀に罠にかかった獣が食べられる。
氷を短剣で砕きながら、血を抜いて内臓を洗う。
水が流れている場所に行くまでも一苦労で、雪山を何度も上り下りする必要がある。
そんな雪深い北のノーラ山に、アルノは一人で住んでいた。
かつてロタ村と呼ばれていた集落の片隅で暮らし、冬を越す。
他の住民たちは今回の冬を前に、全員が町に下りてしまったのだ。
白い息を吐きながら、アルノはザルを抱え、さくさくと雪を掘ってクスリの実を探す。
ちらほらとまた雪が降り始め、上を向いて雲の流れを確かめる。
山頂付近に黒い雲が溜まり、不吉な影を落としている。
今夜から吹雪になるのならば、排気用の穴の周りを掃除しておかなければならない。
一歩、一歩、雪に腰まで埋まりながら前に進み、なんとか集落の屋根が見えるところまで戻ってくる。
と、その時、急に体が持ち上がった。
硬い地面の上にひょいっと下ろされる。
「アルノ、お前、まだここに住んでいるのか?」
目の前に懐かしい顔が現れた。
全身雪だるまで、日に焼けて真っ黒になった顔の中で、白い歯がきらきらと輝いて見える。
その生き生きとした瞳は、やんちゃだった少年時代の面影をはっきり残している。
「ニルド、帰ってきたの?」
アルノの声が輝く。
ニルドはアルノの幼馴染であり、子供時代に一緒に遊んだ仲だった。
剣術が得意で、獣を追って森に入り、村に貴重な肉をもたらした。
ところが、その腕前を役人が見て、町の軍学校を受けることになったのだ。
それから、どんどん出世して王都に行ったと思ったら、便りさえなくなってしまった。
「手紙も途絶えたからてっきり……」
戦死している可能性だってあった。
アルノはずっとニルドの無事を祈ってきたのだ。
「忙しくて手紙のことは忘れていた。」
そんなこともあるだろうとアルノは思った。軍の仕事は命がけの過酷なものであり、アルノに手紙を書く予定なんかは忘れ去られて当然だ。
「無事でよかった。祈っていたのよ」
「そのおかげかな。出世したよ」
「そうだと思った」
ニルドは子供時代にしていたように、アルノを抱き上げ歩き出す。
雪の中に埋まってしまうアルノを、力自慢のニルドはよく助けてくれたのだ。
雪に覆われた集落の中に、一本だけ踏み固められた道が出来ている。
アルノが毎朝、せっせと歩いて固めてきた道だ。
そこをニルドは案内も無しに進んでいき、アルノの家の前でアルノを下ろす。
「覚えていたのね」
頭から雪を払い落としながら扉を開ける。
当然のように後ろから入ってきたニルドは、暖炉の前に座り、アルノが薪に火をつける様子を見ている。
「懐かしいな。まだこんなところに住んでいたんだな」
「ニルドは……すごいお屋敷に住んでいるの?」
「部屋の数はわからない。玄関で剣が振り回せる」
もう違う世界の人になったのだ。
アルノは少し寂しさを覚えながら、暖炉の炎を調整し終え、台所に向かう。
その背中をニルドの声が追ってきた。
「一緒に町に下りないか?」
「え?」
やかんを手にしたアルノはニルドを振り返る。
大真面目な顔でニルドもこちらを見ている。
住人たちが村を去る時、アルノは彼らと一緒に行かなかった。
もちろん一緒に来ないかと誘われたが、どうしても行けなかったのだ。
ニルドが帰ってくるかもしれないと考えたからだ。
もし怪我をして戦えなくなれば、きっと故郷を見たいと思うに違いない。
傷ついてぼろぼろになれば、傷を癒す時間が必要になる。
そんなことを考え、ニルドの居場所になりたいと留まった。
もちろん、ニルドが成功して、戻ってこない可能性だって考えた。
だけど手紙が途絶えたということは、何か危険な事件に巻き込まれた可能性だって捨てきれない。
恐くて生死を確かめに行けなかった。
アルノにとってニルドは、ただの幼馴染ではなかった。
「私の暮らしはここにあるから……。町に下りても、一緒に暮らす人もいないし」
「俺と一緒でも行けないのか?」
顔が熱くなり、心臓が跳ね上がる。
ニルドが村を出てから、アルノは一日もかかさず、そんな日が来ることを夢見てきた。
いつか大出世した幼馴染が自分を迎えに来て、ここから連れ出してくれる。
何もかも捨てても良いと思えるような情熱的な愛が、自分にも訪れるのだと信じてきた。
ばかばかしいと笑われるような話かもしれない。
だけど、もし本当にそんなことが起きたとしたら、飛びつく以外の選択肢はない。
「それってどういう意味?」
「俺が面倒みてやるよ」
頭の中で教会のベルが鳴り響く。
今度こそ、幸せになっても良いかもしれない。
そんな風に考え、アルノはいそいそと台所を出ると、ニルドに差し出された手を両手で握りしめていた。
――
最後に町に下りた日がいつだったのか、アルノは覚えていなかった。
一晩、アルノの家で過ごした二人は、清い関係のまま家を出た。
ニルドは暖炉の前の藁布団で眠り、アルノは寝室を使った。
雪山をずんずんと下りていくニルドの背中を追い、アルノは必死に雪の中をついていく。
ニルドは背中に大きな荷物を担いでおり、さすがにアルノまでは抱いていけない。
その荷物は、完全に村を捨てる覚悟でアルノが昨夜のうちに荷造りしたものだった。
こんなにあっさり村を捨てられるとは自分でも思っておらず、アルノはすっかり興奮状態にあった。
山歩き用の杖をつき、アルノは時々村を振り返った。
もう誰も待たなくて良いのだ。
ほっとしたが、心細さも感じていた。
本当に全てを捨てることになる。
仕事も家も財産も、身一つでニルドのところに行くのだ。
雪の道を踏みしめながら、アルノはその喜びを確かなものにしていった。
ようやく町に到着すると、ニルドは町はずれの二階建ての家にアルノを連れていった。
室内には家具らしいものがまだ何もなく、二階の部屋にベッドが一つだけ置かれていた。
「荷物はここに置くぞ」
ニルドは担いできたアルノの荷物をベッドの足元に置いた。
明るいうちに家を出たのに、もうすっかり日も暮れ、お腹もすいている。
それを口に出していいものか迷い、アルノは子供時代であれば、遠慮せずに何でも言えたのにと考えた。
ニルドはきっと過酷な戦場で生きてきたため、飢えにも慣れているのだ。
「腹、減っただろう」
ぱっと顔をあげ、アルノは込み上げる喜びのままにニルドに抱き着いた。
その腰を、ニルドも当然のように抱き留める。
「お前、胸が大きくなったな。男みたいに平らだったのに」
無神経な発言にアルノはむっとしたが、そんなことを気安く言えてしまう関係が続いていることに、ほっとした。
「お腹空いた」
やっと素直な言葉が出た。
優しい笑みをこぼす幼馴染を見上げ、アルノの不安は吹き飛んだ。
外に出ると、先ほどより人通りが増え、町はさらに賑やかになっていた。
酔っ払いや、大声で話し続ける集団もあり、道幅は広いのに歩く隙間もないぐらいにごった返している。
町では、ただ道を歩くのでさえ特殊な技術がいるのだ。
「仕事が終わり、一杯ひっかけに行く人たちだ。娼館街には行くなよ。勘違いされてさらわれるぞ」
ぞっとして、アルノはニルドの腕にしがみついた。
大柄なニルドは、見事に鍛えられた体を高級そうな衣服に包み、マントの下には革の装備までつけていた。
腰には剣が吊り下げられ、胸元にも短剣を鞘ごと入れられる皮のベルトを締めている。
器用に人混みを抜け、少し落ち着いた通りに入ると、先頭を歩いていたニルドがアルノを振り返った。
「あの酒場に入るぞ」
道を覚える余裕もなく、ひたすらニルドにしがみついてきたアルノは、やっと前を見た。
少し薄暗い通りの先に、こじんまりとした店がある。
人通りもまばらで、酒場までの道にも、街灯の灯りが丸く地面に落ちているばかりだ。
「静かな場所ね」
「新しく出来た住宅街が傍にある。この町はまだ成長途中で、辺境の村々を飲み込んで大きくなっているんだ」
「そういえばこの町の名前は?」
ノール山のふもとには三つの町が存在している。
以前来たことのある町が、なんという名前だったのか、アルノはもう覚えていなかった。
「ここは、トラスだ」
聞き覚えがあるような気もするが、よくわからない。
ニルドが歩き出し、アルノは引っ張られるようにその後ろに続く。
酒場の階段を上がると、ニルドが扉を押し開けた。
一気にたくさんの音が耳に流れ込んでくる。
話し声や笑い声、それから音楽に歌まである。
店員と客の声が行き交い、厨房の奥からも大きな声が聞こえてくる。
「いらっしゃい。奥の席へどうぞ」
初めて入った店に緊張し、アルノはさらにニルドに強くしがみついた。
前方の奥まった席に、大きなテーブルがあり、若い男女が座っている。
空席が見当たらず、きょろきょろするアルノを腕にしがみつかせたまま、ニルドが突然足を止めた。
視線を正面に戻したアルノは、さっと青ざめた。
テーブルについていた若い男女が、にやにやしながらアルノを見ている。
そこに座っていたのは、全員元ロタ村の住人達だった。
「ほらね、ニルドが迎えに行けば山を下りてくると思ったのよ」
嘲るような口調で話し出したのは、ハンナだった。
「俺達がいくら誘っても下りて来なかったのに、ニルドに呼ばれたらほいほい下りてきた」
隣の男がそう言った途端、酒場内から笑い声が沸き上がる。
顔を真っ赤にして、アルノはニルドの後ろに隠れようとした。
その腰をニルドが前に押し出した。
「に、ニルド、これは……」
「実は近くの軍要塞に来ていて、休暇中にたまたまこいつらに会ったんだ。それで、お前が一人で山に残ったという話になって、誰がお前をここに連れてこられるか、賭けようという話になった。
俺も久しぶりに故郷を見ておきたくなったから、丁度良かった。
あんなところで若い女が一人で暮らすなんて、もったいないぞ。仲間もいるんだから、町で暮らせばいいじゃないか。あの家は、俺が幼馴染のよしみで借りてやったから、そこで仕事をしたらいい。当分、家賃は払ってやるよ」
酒場中から、またどっと笑い声があがった。
よく見てみれば、酒場を埋め尽くしている客のほとんどが顔見知りだった。
「お前、ニルドのために村に留まっていたんじゃないだろうな?ニルドは出世してもう騎士様だぞ?貴族の女性とだって結婚できる身分だ。村娘なんかを相手にするわけないだろう?」
誰かが嘲った。
またもやどっと笑い声が起こる。
恥ずかしさで熱くなった体が、急速に冷えていく。
夢なんて見なきゃよかったと、アルノは心の底から思った。
こんな惨めな思いをするために町に下りて来たなんて、最悪だ。
「アルノ、そこに座れよ」
ニルドが近くの椅子に座り、少し離れたところにある空席を指さした。
出世して高いところから、哀れな村娘を見下ろしているニルドには、わからないのだ。
アルノが今まで生きてきた中で、一番恥ずかしい思いをしていることに。
だからといって、泣きながら店を飛びだしたら、それこそ騎士にまでなったニルドに愛されていると勘違いして、ひょいひょいついてきた哀れな女になってしまう。
村の人たちにいくら誘われても村を下りなかったくせに、ニルドに誘われ、ここに来てしまった時点で、もう救いようもない状況だとも思うが、泣いて飛び出すよりは傷を浅く見せることは出来る。
「そりゃ、ついてくるわよ。だって、戦死したと思っていた人が生きて現れたのだもの。皆だって喜んだはずでしょう?」
虚勢を張り、離れた席に座ったアルノは、親切でも優しくもない人たちに笑われながら、平気なふりをして目の前に置かれている皿から肉のかけらをつまんで口に入れた。
それは灰のように味気なく、クスリの実の方がずっとましだった。
それからアルノがこっそり酒場を抜け出すまで、ニルドは一度もアルノを見なかった。
ずっと村の人たちに囲まれ、飲んで話して、楽しそうに笑っていた。
同じテーブルの人たちは、アルノを馬鹿にすることで共通の話題を見出し、身の程知らずだと言っては他のテーブルの人たちを巻き込んで、何度も盛り上がった。
とんだ恥をかかされたアルノは、トイレに行くふりをして店を出ると、山のある方角を確かめ、一人でさっさと歩きだした。
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明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
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ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
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