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21.捨てられた女
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湖面に浮かぶ、水の宮殿に逃げ込んだアスタとイハは、すぐに水中に潜れるように水辺で待機していた。
イハが母親を守ろうと剣を構え、アスタの前に立っている。
そこにハカスが部下達を連れて入ってきた。
「仕掛けの半分ぐらい動かしたが、まだこちらには余力がある」
悠然と歩いてくる父親を見て、イハは誇らしげに鼻の穴を膨らませ、姿勢を正す。
「イハ、よくやったな」
父親に褒められ、イハは顔を赤くしたが、戦いの中で感情を出してはいけないと教わったことを思い出し、必死に表情を引き締める。
アスタは椅子に座り、強張った表情で庭先の水面を見ている。
その隣に腰掛け、ハカスはアスタを抱き寄せた。
「アスタ、勝者にお前を返すと約束してきた」
何とも言えない複雑な表情で、アスタは夫を見上げた。
「もちろん、すんなり返す気はない。生き残った方と戦うことになる」
「ハカス様……子供たちを守ってくださいますよね?」
子供達はいわばアスタを手に入れるための人質だ。
本当に愛情をもって育ててくれているのか、アスタには確証がない。
「俺が守るべきものは国だ。王である以上、民のために生きる必要がある」
イハはそんな父親に尊敬の眼差しを向けている。
アスタは耐えきれず、ハカスを睨みつけた。
「大人達の戦いに、子供を利用するつもりですか?イハはまだ子供です!」
「男は戦うものだ」
やはりこの日のために良い夫、父親の仮面を被ってきたのだとアスタは思った。
「残酷な人……」
「お前が俺を勝たせれば良い。お前が味方してくれたら、俺はお前も子供達も守り抜くことが出来る」
ダヤの前で味方をしろと言っているのだ。
無言のアスタをハカスはいつになく真剣な表情で見据えた。
「この日のために、念には念を入れ準備をしてきた。何のためだと思う?お前の全てを手に入れるためだ」
そのために、アスタを妻にして母にした。
アスタの未来の全てを奪い、ハカスの傍に縛りつけるため、ハカスは死力を尽くしてきた。
そして愛以外の全てを手に入れた。
「俺を選べ、アスタ。もうその準備は出来ているはずだ」
アスタの力は砂の地にかかせない。
国を豊かにするため、強い王であるため、絶対にアスタは手放せない。
「お前は俺の妻であり、イハとフィアの母親だ。そしてこの砂の王国の王妃だ。運命を受け入れろ」
迷いなく生きてきた男の言葉が、無力なアスタの心を打ち砕く。
生まれながらに火の国の奴隷であったアスタは、命ですら自分の物ではなかった。
たった一つ、ダヤへの愛だけが自分で手に入れたものだった。
息子のイハに対する愛情も最初はかなり揺らいでいた。
母としての愛情よりダヤへの愛が勝っていた。
それなのに、いつからか選べなくなり、たった一つの愛すら諦めなければならないところまで追い込まれた。
ダヤへの愛を諦めたら、二人の子供と新しい夫が手に入る。
ハカスは憎い男から子供たちの父親、そして、アスタの本当の意味での夫になる。
今でも夫はダヤだけだと思っているのに。
空が揺れるのではないかと思うような爆発音が轟いた。
「陛下、町が燃やされています!」
一人の兵士が飛び込んできた。
「住民は避難済みか?」
「地下の水路から砂の崖に向かっています」
「面白いな。外の世界の男か。どんな戦い方をするのか楽しみだ」
過酷な土地で生きる砂の民は、戦闘民族であり、その肉体も極限まで鍛え抜かれている。
ハカスもまた部下に戦いを任せ、安全な場所に身を潜めているような臆病者ではない。
残忍な催しには自ら出て力を示す場合もある。
「イハ、母を守れよ」
「ご武運を!」
イハに見送られ、ハカスが部屋を出て行く。
扉が閉まると、護衛の兵士達が水辺に立った。
アスタは何かあれば水に飛び込める位置にいる。
イハも浅瀬に足首まで浸かり、剣を握ってアスタの前を守っている。
沈黙が続く中、突然水面が小刻みに震えはじめた。
波が寄せて来る方に目を向けると、そこに異国の装備に身を固めた男の姿があった。
侵入者の姿を見つけ、護衛の兵士達が走り出す。
異国の戦士は落ち着いた物腰で、巨大な剣を構えた。
太陽の光を受け、巨大な剣が黄金色にきらめいた。
その光は素早く虚空を走り、同時に血しぶきが飛ぶ。
たった一人の異国の戦士を前に、数十人いた護衛の兵士達がみるみる数を減らしていく。
一人、また一人と屠りながら、異国の戦士が一歩、また一歩と近づいてくる。
まるで男の殺意に連動しているかのように、水面がさらに激しく震えはじめる。
それはまさしく、水を統べる王の力だった。
巨大な剣が最後の兵士を打ち倒す。
ついに返り血に染まった男がアスタとイハの正面に立った。
アスタがふらりと立ち上がり、男の方に向かって一歩を踏み出す。
「お母様!危ない!」
思いがけず、体が深く沈んだ。
水中の階段を踏み外し、アスタは膝丈ほどの水の中に座り込む。
緊張と不安、恐怖といった混沌とした感情に支配され、全身が震え力が入らない。
片手に剣を握ったイハが、母親の体を持ち上げようと、男に視線を向けたまま、もう片方の手で母親を上に引っ張った。
異国の戦士は最後の死体を乗り越え、もうそこまで迫っている。
「お母様、逃げてください」
震えながらも、イハは両手で剣を握り直し、母の前に立った。
「イハ、やめて」
アスタの声も震えている。
まるで「死」そのものであるかのように、護衛の兵士達を軽々と殲滅させた異国の戦士は、もうその表情さえも見える距離にいる。
その刃のような鋭い目は、アスタを捉えて離さない。
意を決し、イハが走り出す。
「イハ!やめて!」
アスタが恐怖に駆られ叫んだ。
一刀のもとに、イハの剣は跳ねのけられ、その衝撃でイハの体は後方に転がった。
浅瀬に落ちたその体に、アスタが覆いかぶさる。
「お母様!どいてください!」
イハはすぐに短剣を引き抜こうと動いていた。
その手をアスタが押さえ込む。
顔をあげ、迫る男に何かを言わなければと口を開く。
男は剣を片手にぶら下げたまま、もう一方の手をアスタに伸ばした。
「お母様に触るな!」
イハが叫ぶ。
息子を胸に抱きしめ、アスタは顔を伏せた。
「アスタ……怖がらなくて良い。君を迎えにきたわけじゃない」
どうやってダヤに話しを切り出したらいいのか、わからないでいたアスタは、ダヤの言葉に衝撃を受けた。
迎えに来られても困ると思っていたのに、迎えに来る気はなかったと言われるとは思ってもいなかった。
大きな腕が浅瀬に座り込むアスタとその腕の中にいるイハを軽々と抱き上げ、乾いた場所に下ろす。
その隙に短剣を抜こうとしたイハの手から、簡単にそれを奪い取り、湖に放り投げた。
「あの時、腹にいた子か?」
懐かしいダヤの声に耳を傾け、アスタは頷いた。
「ええ。イハというの。イハ、彼は……」
「俺は水の王ダヤ。お前の母の古い友人だ。王として、水の民が大切にされているか確認にきた」
つい先ほどまで戦いの中にあったとは思えないほどの優しく穏やかな声音にイハは驚き、アスタの腕の中から不思議そうにダヤを見上げた。
「アスタ、俺は望んだわけでもないのに水の王となった」
「あなたを守りたかった。私にそんな力が残っているとは思わなかったけれども、どうしてもあなたを守りたくて、思いつく限りの加護を願った……」
「わかっている。俺はなりたくもない王になったと恨み言を言いたいわけじゃない。俺は望まず王になったが、君が王にしてくれたのだと知り、君に与えられた使命に生きようと思った。水の民は国を取り戻した」
「まさか!」
そこまでのことが出来るとは思いもしなかったアスタは、別れた時よりさらに逞しくなったダヤを眩しそうに見上げた。
王になって国を取り戻してほしかったわけではなく、ただ生き延びて欲しいと願った。
そんなささやかなアスタの願い以上のことを成し遂げ、水の王としてダヤは戻ってきたのだ。
「水の王となったからには、その責任を全うしようと思い国を奪い返し、さらに水の民を虐げていた火の国とも対等にやり合っている。
先ほどまでガドル王と剣を交えていたが、どこかではぐれたな」
大きく剣を一振りし、簡単に血を払うと、ダヤは腰に下げた鞘に剣を戻した。
「君に伝えたかった。俺は自分で選んだわけではないが、君が与えてくれた運命を生きている。だから、君もこの国の王妃となったからには、その道を生きるべきだ。
いつまでも、昔の恋を引きずるようなことはせず、与えられた運命に忠実に生きるしかない。
誰もが望む人生を歩けるわけじゃないのだから」
アスタの目から涙が溢れ、ほろほろと頬を伝って落ちた。
「イハ、砂の国の掟は学んだか?奪われた奴隷は誰のものだ?」
「力で奪った者のものだ!」
イハが堂々と答える。ダヤは満足そうに頷いた。
「そうだ。欲しければ力で奪い、奪われたくなければ守るだけのこと。俺はもう砂の民ではない。水の王だ。それ故、違う掟に生きる。イハ」
呆然とした表情で静かに涙を流すアスタを無視し、ダヤはまたもやイハに声をかけた。
「お前の母、アスタは水の民だった。もし助けが必要になれば俺を頼って来い。王として民のために力を貸してやる。
ハカス王が俺と国同士の話がしたいというのであれば、それも付き合ってやっても良い。
ただ俺も王であり忙しい。火の国ともこれからいろいろ交渉事がある。
砂の外では、全てが地続きであるため、力だけで押していてはきりがない。微妙な駆け引きや交渉事が主な解決策となる。別の掟で生きている人々がいるのだ。それを忘れるな。
アスタを、母をよく守れ。もっと腕をあげろ」
踵を返し、ダヤは水を跳ね上げ浅瀬を引き返していく。
その大きな背中を見上げ、アスタは何かを叫ぼうと口を大きく開ける。
呼び止める言葉が見つからず、片腕を伸ばす。
その指先が遠ざかっていく大きな背中を追う。
イハはアスタの腕を飛び出し、飛ばされた剣を拾って戻ってきた。
「お母様、もう大丈夫です。敵は去りました。お母様?」
いつもなら、温かく微笑んでくれるはずの母親の顔はいつも以上に白く、イハのことさえ見えていないかのようにその目は虚ろだった。
「お母様?大丈夫ですか!」
ようやく腕を下ろし、アスタは目の前の息子を見た。
ダヤの血を引いていない、ハカスの子。
この子が自分とダヤの間を切り裂いたのだ。
そんな気持ちが込み上げ、アスタは自分の心の奥底に眠っていたどす黒い感情に驚いた。
「イハ……」
子供に罪があるはずがない。
イハは何も知らずに生まれてきたのだから。
「ごめんなさい……古い知り合いで、驚いてしまって」
「僕も驚いた。外の国の王様が来るなんて。でも、この国と似ているところもあるね。だって、古い友達と話しをするために邪魔な存在を殺して道を開いたのだから」
けろりと恐ろしいことを口にする息子に、アスタはかすかに頷く。
外の世界も残酷だった。
優しい世界はどこにもなかったのだ。
もうダヤのもとには戻れないと諦めていながら、ダヤの愛は消えることはないと信じ込んできた自分が、滑稽で仕方がない。
「お母様、怖かったの?もう泣かなくても大丈夫だよ」
声をあげて泣けない分、心臓が締め付けられているかのように痛み、涙が溢れ出る。
もし迎えに来たと言われたとしても、確かに行けなかった。
どうやって謝って帰ってもらえばいいのか、そんな風に考えた。
それなのに「迎えに来た」とダヤに言われたかったのだ。
なぜ他の男の子供を産んだくせに、まだ愛されていると思っていたのか。
外の世界に出たらもっと若くて美しい女性がいるのだから、目移りするに違いないと思っていたくせに。
あまりにも惨めで恥ずかしく、さらに信じてきた愛を失い、アスタは心が空っぽになっていくようだった。
ふと、水底を見たくなった。
声をあげて泣くことも、自分の気持ちを打ち明けることも出来ない。
走り出し、アスタは湖に飛び込んだ。
冷たい水の中で思い切り体を伸ばし、光の届かない水底を目指す。
豊かな髪の中から泡が立ち上がり、水面に登っていく。
冷たく暗い水底は、今のアスタにぴったりの場所だった。
人目を気にすることなく、泣き続けるアスタの髪を何かが引っ張った。
上を向くと、イハが顔を赤くして手を伸ばし、漂うアスタの髪をなんとか掴んでいる。
完全な水の民ではないイハは、息が続かず苦しそうにもがき始める。
急いでアスタは水を蹴って浮上する。
息子を腕に抱き、水面を目指す。
上から大きな手が伸びてきて、アスタの腕を掴んだ。
強い力で引き上げられ、アスタは息子と二人で陸にあがった。
「何があった?」
恐ろしい顔つきのハカスがしゃがみ込んでいる。
ダヤは本当に去ったのだとアスタは思った。
何年も待ち続けやっと会えたのに、触れ合うことさえできず、愛までも失った。
そんな現実に耐えきれず、アスタはふらりと倒れた。
イハはなんとか呼吸を整え、倒れた母親の隣で四つん這いになり父親を見上げた。
「水の王が来て、古い友達であるお母様に話しがあると言いました。それで、ええと、水の民であったお母様の無事を確認に来ただけだと言って、お母様にもここで王妃として生きるようにと言いました。王として忙しいけれど、何かあれば頼っても良いと私にも声をかけてきました。あと、国同士の話であれば応じる用意もあるようです」
聡明なイハは、覚えている限りのことをなんとか父親に報告し、誇らしげな表情で姿勢を伸ばした。
ハカスはイハの頭を撫で、部下を呼んでイハを連れて行かせると、アスタを抱き上げ鉄格子のついた宮殿に向かった。
部下達を下がらせ、寝室に運び込むと、服を脱がせて柔らかな寝着を着せ、寝台に横たえる。
それから、アスタを監視させていた部下を呼ぶ。
王に命じられ、ダヤとアスタ、それからイハの様子を黙って目撃していた男は、一言一句違えずハカスにダヤがアスタに告げた言葉を伝えた。
ハカスは、険しい表情で考え込んだ。
それはハカスの望んでいた展開ではなかった。
子供の存在が足枷になり、アスタがダヤと行けないことはわかっていた。つまりダヤがアスタに拒絶される構図を想定していたのだ。しかし現実はその逆になったのだ。
先に、ダヤがアスタを拒絶した。
ダヤがアスタに「迎えに来たわけではない」と言い、愛を信じ待っていたアスタが裏切られる形になった。
息子の身にも想定外のことが起こった。
ハカスは、イハがアスタを守るためにダヤに戦いを挑み、殺されるか、あるいは傷を負い、完全にダヤを敵と認識すると思っていたが、それも読み通りにはいかなかった。
ダヤはイハに砂の民として長く生きてきた師であるかのように言葉をかけ、さらに同盟国の王であるように、王子に対して外の国について教えた。
アスタの愛だけが終わり、イハがダヤを憎む機会は生まれなかった。
「指一本触れず、交わした言葉もそれだけか?」
全てを報告し終えた部下は、それだけですと自信をもって答えた。
「嫌な男だな……」
ハカスは舌打ちし、部下を下がらせた。
イハが母親を守ろうと剣を構え、アスタの前に立っている。
そこにハカスが部下達を連れて入ってきた。
「仕掛けの半分ぐらい動かしたが、まだこちらには余力がある」
悠然と歩いてくる父親を見て、イハは誇らしげに鼻の穴を膨らませ、姿勢を正す。
「イハ、よくやったな」
父親に褒められ、イハは顔を赤くしたが、戦いの中で感情を出してはいけないと教わったことを思い出し、必死に表情を引き締める。
アスタは椅子に座り、強張った表情で庭先の水面を見ている。
その隣に腰掛け、ハカスはアスタを抱き寄せた。
「アスタ、勝者にお前を返すと約束してきた」
何とも言えない複雑な表情で、アスタは夫を見上げた。
「もちろん、すんなり返す気はない。生き残った方と戦うことになる」
「ハカス様……子供たちを守ってくださいますよね?」
子供達はいわばアスタを手に入れるための人質だ。
本当に愛情をもって育ててくれているのか、アスタには確証がない。
「俺が守るべきものは国だ。王である以上、民のために生きる必要がある」
イハはそんな父親に尊敬の眼差しを向けている。
アスタは耐えきれず、ハカスを睨みつけた。
「大人達の戦いに、子供を利用するつもりですか?イハはまだ子供です!」
「男は戦うものだ」
やはりこの日のために良い夫、父親の仮面を被ってきたのだとアスタは思った。
「残酷な人……」
「お前が俺を勝たせれば良い。お前が味方してくれたら、俺はお前も子供達も守り抜くことが出来る」
ダヤの前で味方をしろと言っているのだ。
無言のアスタをハカスはいつになく真剣な表情で見据えた。
「この日のために、念には念を入れ準備をしてきた。何のためだと思う?お前の全てを手に入れるためだ」
そのために、アスタを妻にして母にした。
アスタの未来の全てを奪い、ハカスの傍に縛りつけるため、ハカスは死力を尽くしてきた。
そして愛以外の全てを手に入れた。
「俺を選べ、アスタ。もうその準備は出来ているはずだ」
アスタの力は砂の地にかかせない。
国を豊かにするため、強い王であるため、絶対にアスタは手放せない。
「お前は俺の妻であり、イハとフィアの母親だ。そしてこの砂の王国の王妃だ。運命を受け入れろ」
迷いなく生きてきた男の言葉が、無力なアスタの心を打ち砕く。
生まれながらに火の国の奴隷であったアスタは、命ですら自分の物ではなかった。
たった一つ、ダヤへの愛だけが自分で手に入れたものだった。
息子のイハに対する愛情も最初はかなり揺らいでいた。
母としての愛情よりダヤへの愛が勝っていた。
それなのに、いつからか選べなくなり、たった一つの愛すら諦めなければならないところまで追い込まれた。
ダヤへの愛を諦めたら、二人の子供と新しい夫が手に入る。
ハカスは憎い男から子供たちの父親、そして、アスタの本当の意味での夫になる。
今でも夫はダヤだけだと思っているのに。
空が揺れるのではないかと思うような爆発音が轟いた。
「陛下、町が燃やされています!」
一人の兵士が飛び込んできた。
「住民は避難済みか?」
「地下の水路から砂の崖に向かっています」
「面白いな。外の世界の男か。どんな戦い方をするのか楽しみだ」
過酷な土地で生きる砂の民は、戦闘民族であり、その肉体も極限まで鍛え抜かれている。
ハカスもまた部下に戦いを任せ、安全な場所に身を潜めているような臆病者ではない。
残忍な催しには自ら出て力を示す場合もある。
「イハ、母を守れよ」
「ご武運を!」
イハに見送られ、ハカスが部屋を出て行く。
扉が閉まると、護衛の兵士達が水辺に立った。
アスタは何かあれば水に飛び込める位置にいる。
イハも浅瀬に足首まで浸かり、剣を握ってアスタの前を守っている。
沈黙が続く中、突然水面が小刻みに震えはじめた。
波が寄せて来る方に目を向けると、そこに異国の装備に身を固めた男の姿があった。
侵入者の姿を見つけ、護衛の兵士達が走り出す。
異国の戦士は落ち着いた物腰で、巨大な剣を構えた。
太陽の光を受け、巨大な剣が黄金色にきらめいた。
その光は素早く虚空を走り、同時に血しぶきが飛ぶ。
たった一人の異国の戦士を前に、数十人いた護衛の兵士達がみるみる数を減らしていく。
一人、また一人と屠りながら、異国の戦士が一歩、また一歩と近づいてくる。
まるで男の殺意に連動しているかのように、水面がさらに激しく震えはじめる。
それはまさしく、水を統べる王の力だった。
巨大な剣が最後の兵士を打ち倒す。
ついに返り血に染まった男がアスタとイハの正面に立った。
アスタがふらりと立ち上がり、男の方に向かって一歩を踏み出す。
「お母様!危ない!」
思いがけず、体が深く沈んだ。
水中の階段を踏み外し、アスタは膝丈ほどの水の中に座り込む。
緊張と不安、恐怖といった混沌とした感情に支配され、全身が震え力が入らない。
片手に剣を握ったイハが、母親の体を持ち上げようと、男に視線を向けたまま、もう片方の手で母親を上に引っ張った。
異国の戦士は最後の死体を乗り越え、もうそこまで迫っている。
「お母様、逃げてください」
震えながらも、イハは両手で剣を握り直し、母の前に立った。
「イハ、やめて」
アスタの声も震えている。
まるで「死」そのものであるかのように、護衛の兵士達を軽々と殲滅させた異国の戦士は、もうその表情さえも見える距離にいる。
その刃のような鋭い目は、アスタを捉えて離さない。
意を決し、イハが走り出す。
「イハ!やめて!」
アスタが恐怖に駆られ叫んだ。
一刀のもとに、イハの剣は跳ねのけられ、その衝撃でイハの体は後方に転がった。
浅瀬に落ちたその体に、アスタが覆いかぶさる。
「お母様!どいてください!」
イハはすぐに短剣を引き抜こうと動いていた。
その手をアスタが押さえ込む。
顔をあげ、迫る男に何かを言わなければと口を開く。
男は剣を片手にぶら下げたまま、もう一方の手をアスタに伸ばした。
「お母様に触るな!」
イハが叫ぶ。
息子を胸に抱きしめ、アスタは顔を伏せた。
「アスタ……怖がらなくて良い。君を迎えにきたわけじゃない」
どうやってダヤに話しを切り出したらいいのか、わからないでいたアスタは、ダヤの言葉に衝撃を受けた。
迎えに来られても困ると思っていたのに、迎えに来る気はなかったと言われるとは思ってもいなかった。
大きな腕が浅瀬に座り込むアスタとその腕の中にいるイハを軽々と抱き上げ、乾いた場所に下ろす。
その隙に短剣を抜こうとしたイハの手から、簡単にそれを奪い取り、湖に放り投げた。
「あの時、腹にいた子か?」
懐かしいダヤの声に耳を傾け、アスタは頷いた。
「ええ。イハというの。イハ、彼は……」
「俺は水の王ダヤ。お前の母の古い友人だ。王として、水の民が大切にされているか確認にきた」
つい先ほどまで戦いの中にあったとは思えないほどの優しく穏やかな声音にイハは驚き、アスタの腕の中から不思議そうにダヤを見上げた。
「アスタ、俺は望んだわけでもないのに水の王となった」
「あなたを守りたかった。私にそんな力が残っているとは思わなかったけれども、どうしてもあなたを守りたくて、思いつく限りの加護を願った……」
「わかっている。俺はなりたくもない王になったと恨み言を言いたいわけじゃない。俺は望まず王になったが、君が王にしてくれたのだと知り、君に与えられた使命に生きようと思った。水の民は国を取り戻した」
「まさか!」
そこまでのことが出来るとは思いもしなかったアスタは、別れた時よりさらに逞しくなったダヤを眩しそうに見上げた。
王になって国を取り戻してほしかったわけではなく、ただ生き延びて欲しいと願った。
そんなささやかなアスタの願い以上のことを成し遂げ、水の王としてダヤは戻ってきたのだ。
「水の王となったからには、その責任を全うしようと思い国を奪い返し、さらに水の民を虐げていた火の国とも対等にやり合っている。
先ほどまでガドル王と剣を交えていたが、どこかではぐれたな」
大きく剣を一振りし、簡単に血を払うと、ダヤは腰に下げた鞘に剣を戻した。
「君に伝えたかった。俺は自分で選んだわけではないが、君が与えてくれた運命を生きている。だから、君もこの国の王妃となったからには、その道を生きるべきだ。
いつまでも、昔の恋を引きずるようなことはせず、与えられた運命に忠実に生きるしかない。
誰もが望む人生を歩けるわけじゃないのだから」
アスタの目から涙が溢れ、ほろほろと頬を伝って落ちた。
「イハ、砂の国の掟は学んだか?奪われた奴隷は誰のものだ?」
「力で奪った者のものだ!」
イハが堂々と答える。ダヤは満足そうに頷いた。
「そうだ。欲しければ力で奪い、奪われたくなければ守るだけのこと。俺はもう砂の民ではない。水の王だ。それ故、違う掟に生きる。イハ」
呆然とした表情で静かに涙を流すアスタを無視し、ダヤはまたもやイハに声をかけた。
「お前の母、アスタは水の民だった。もし助けが必要になれば俺を頼って来い。王として民のために力を貸してやる。
ハカス王が俺と国同士の話がしたいというのであれば、それも付き合ってやっても良い。
ただ俺も王であり忙しい。火の国ともこれからいろいろ交渉事がある。
砂の外では、全てが地続きであるため、力だけで押していてはきりがない。微妙な駆け引きや交渉事が主な解決策となる。別の掟で生きている人々がいるのだ。それを忘れるな。
アスタを、母をよく守れ。もっと腕をあげろ」
踵を返し、ダヤは水を跳ね上げ浅瀬を引き返していく。
その大きな背中を見上げ、アスタは何かを叫ぼうと口を大きく開ける。
呼び止める言葉が見つからず、片腕を伸ばす。
その指先が遠ざかっていく大きな背中を追う。
イハはアスタの腕を飛び出し、飛ばされた剣を拾って戻ってきた。
「お母様、もう大丈夫です。敵は去りました。お母様?」
いつもなら、温かく微笑んでくれるはずの母親の顔はいつも以上に白く、イハのことさえ見えていないかのようにその目は虚ろだった。
「お母様?大丈夫ですか!」
ようやく腕を下ろし、アスタは目の前の息子を見た。
ダヤの血を引いていない、ハカスの子。
この子が自分とダヤの間を切り裂いたのだ。
そんな気持ちが込み上げ、アスタは自分の心の奥底に眠っていたどす黒い感情に驚いた。
「イハ……」
子供に罪があるはずがない。
イハは何も知らずに生まれてきたのだから。
「ごめんなさい……古い知り合いで、驚いてしまって」
「僕も驚いた。外の国の王様が来るなんて。でも、この国と似ているところもあるね。だって、古い友達と話しをするために邪魔な存在を殺して道を開いたのだから」
けろりと恐ろしいことを口にする息子に、アスタはかすかに頷く。
外の世界も残酷だった。
優しい世界はどこにもなかったのだ。
もうダヤのもとには戻れないと諦めていながら、ダヤの愛は消えることはないと信じ込んできた自分が、滑稽で仕方がない。
「お母様、怖かったの?もう泣かなくても大丈夫だよ」
声をあげて泣けない分、心臓が締め付けられているかのように痛み、涙が溢れ出る。
もし迎えに来たと言われたとしても、確かに行けなかった。
どうやって謝って帰ってもらえばいいのか、そんな風に考えた。
それなのに「迎えに来た」とダヤに言われたかったのだ。
なぜ他の男の子供を産んだくせに、まだ愛されていると思っていたのか。
外の世界に出たらもっと若くて美しい女性がいるのだから、目移りするに違いないと思っていたくせに。
あまりにも惨めで恥ずかしく、さらに信じてきた愛を失い、アスタは心が空っぽになっていくようだった。
ふと、水底を見たくなった。
声をあげて泣くことも、自分の気持ちを打ち明けることも出来ない。
走り出し、アスタは湖に飛び込んだ。
冷たい水の中で思い切り体を伸ばし、光の届かない水底を目指す。
豊かな髪の中から泡が立ち上がり、水面に登っていく。
冷たく暗い水底は、今のアスタにぴったりの場所だった。
人目を気にすることなく、泣き続けるアスタの髪を何かが引っ張った。
上を向くと、イハが顔を赤くして手を伸ばし、漂うアスタの髪をなんとか掴んでいる。
完全な水の民ではないイハは、息が続かず苦しそうにもがき始める。
急いでアスタは水を蹴って浮上する。
息子を腕に抱き、水面を目指す。
上から大きな手が伸びてきて、アスタの腕を掴んだ。
強い力で引き上げられ、アスタは息子と二人で陸にあがった。
「何があった?」
恐ろしい顔つきのハカスがしゃがみ込んでいる。
ダヤは本当に去ったのだとアスタは思った。
何年も待ち続けやっと会えたのに、触れ合うことさえできず、愛までも失った。
そんな現実に耐えきれず、アスタはふらりと倒れた。
イハはなんとか呼吸を整え、倒れた母親の隣で四つん這いになり父親を見上げた。
「水の王が来て、古い友達であるお母様に話しがあると言いました。それで、ええと、水の民であったお母様の無事を確認に来ただけだと言って、お母様にもここで王妃として生きるようにと言いました。王として忙しいけれど、何かあれば頼っても良いと私にも声をかけてきました。あと、国同士の話であれば応じる用意もあるようです」
聡明なイハは、覚えている限りのことをなんとか父親に報告し、誇らしげな表情で姿勢を伸ばした。
ハカスはイハの頭を撫で、部下を呼んでイハを連れて行かせると、アスタを抱き上げ鉄格子のついた宮殿に向かった。
部下達を下がらせ、寝室に運び込むと、服を脱がせて柔らかな寝着を着せ、寝台に横たえる。
それから、アスタを監視させていた部下を呼ぶ。
王に命じられ、ダヤとアスタ、それからイハの様子を黙って目撃していた男は、一言一句違えずハカスにダヤがアスタに告げた言葉を伝えた。
ハカスは、険しい表情で考え込んだ。
それはハカスの望んでいた展開ではなかった。
子供の存在が足枷になり、アスタがダヤと行けないことはわかっていた。つまりダヤがアスタに拒絶される構図を想定していたのだ。しかし現実はその逆になったのだ。
先に、ダヤがアスタを拒絶した。
ダヤがアスタに「迎えに来たわけではない」と言い、愛を信じ待っていたアスタが裏切られる形になった。
息子の身にも想定外のことが起こった。
ハカスは、イハがアスタを守るためにダヤに戦いを挑み、殺されるか、あるいは傷を負い、完全にダヤを敵と認識すると思っていたが、それも読み通りにはいかなかった。
ダヤはイハに砂の民として長く生きてきた師であるかのように言葉をかけ、さらに同盟国の王であるように、王子に対して外の国について教えた。
アスタの愛だけが終わり、イハがダヤを憎む機会は生まれなかった。
「指一本触れず、交わした言葉もそれだけか?」
全てを報告し終えた部下は、それだけですと自信をもって答えた。
「嫌な男だな……」
ハカスは舌打ちし、部下を下がらせた。
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