砂の地に囚われて

丸井竹

文字の大きさ
上 下
14 / 35

14.変わった男

しおりを挟む
どこまでも青い空の色を眺め、アスタは海の記憶を思い出していた。

臨月が近づき、体が重くなったアスタは、一日の大半を寝台の上で過ごしている。
海で泳いでいるような感覚に浸れる神殿の水に触れたいが、ハカスはアスタの安全を考え、ガドル王が出現した神殿への出入りを禁じていた。

窓から吹き込んだ熱を含んだ風が、少しだけ涼しくなってアスタに届く。
心地良い風に髪を嬲られながら、アスタは膨れ上がったお腹を見下ろし涙ぐんだ。

子供を産んでも、伸びた皮は戻らないし、醜く膨れた乳房もきっと垂れてしまう。
ハカスが毎日弄ぶため、その形は心なしか淫らで、だらしない印象にかわってしまった。

こんな体はダヤには見せられない。
もし助けにきてくれたとしても、きっと幻滅されてしまうに違いない。
目の前で背を向けられるぐらいなら、ダヤの記憶の中にあるアスタの姿を壊さないように、二度と会わない方が良い。

アスタはこぼれてきた涙を手の甲で拭い、声を漏らすまいと奥歯を噛みしめた。
ダヤと結ばれることだけを支えに生きてきたというのに、その望みさえ消えていく。

さらに火の王まで現れ、アスタが生きていることを知られてしまった。

火の王はアスタが予言の巫女だと知り、怒り心頭に違いない。
砂地の男を王に任命したと知ったら、なんとしてもまたこの地に来てアスタを殺そうとするだろう。

アスタを殺して気が晴れるのであればまだいいが、王となったダヤを殺そうと考えるかもしれない。
間違いなくガドル王であれば、そうするだろう。

砂の地に居るアスタには、今度こそ何も出来ない。

伝説では水の民の先祖は、人に恋をして海から上がったと言われるが、実際のところは違うのではないかとアスタは考えた。

水の民は戦いに向かず、逃げることを得意とする。
国を奪われても取り戻そうとはしないし、王が決まらなければ意見を合わせることもできない。
神官や戦士、食料調達係など役割はあるが、野心もなく彼らは与えられた役割に忠実に生きるばかりだ。

海にも砂魚のような敵がいる。
魔物であった先祖は、その弱肉強食の環境に耐えきれず、陸に逃げたのかもしれない。

水の中で暮らすための能力は陸にあがり退化し、唯一長けていた変身能力も、人に化けてから数百年姿を変えずにいたらそのまま消えてしまった。

そう考えた方が恋に落ちて陸にあがったという話より、現実味がある。

助けることのできないダヤの身を案じながら、無力なアスタは絶望的な気持ちで、また膨らんできたお腹を見下ろす。

その時、扉の外から大きな音が聞こえ、アスタはぱっと顔をあげた。
心臓の鼓動が早くなり、本能的な部分で危険を察知したかのように体が震え出す。

周囲の護衛達が一斉に前に出た。

次の瞬間、吹き飛ぶように扉が開いた。
黒い装備に身を固めた男達が一気に部屋に雪崩れ込む。

目の前で激しい戦闘が始まった。

先ほどまで生きていた兵士達が次々に死体となって床に転がっていく。
呆然としているアスタのもとに侍女たちが駆け付けた。

「アスタ様!奥の部屋に逃げてください!」

日頃から武装している侍女達は、強引にアスタを寝台から起き上がらせる。

重いお腹を抱え、アスタは血に染まった絨毯の上を歩き奥の部屋に向かう。
隠し通路のある部屋の扉を開けた瞬間、銀色の刃が視界の端をかすめた。

「きゃああっ」

隣にいた侍女が犠牲となり、血をふきあげながらばたりと倒れる。
もう一人の侍女が、アスタを後ろに庇い、追ってきた敵に立ち向かう。

「アスタ様、逃げて!」

その瞬間、鮮血が飛び散り、死体となって転がった。

ショックのあまり崩れ落ち、アスタは侍女を立て続けに二人も殺した敵を見上げる。
血に染まった剣が振り上げられ、その切っ先がアスタの腹を狙う。
お腹を抱え、アスタは魔物の声を発した。

――あっちへ行け!……

花瓶の水が跳ね上がり、敵の顔にぶつかった。
水中で暮らしていた魔物の力は、陸の戦いには向かない。

部屋中の水が敵に向かっていくが、その動きを止めることは出来ない。

「殺しはしない。その腹の子には死んでもらうが、その力は俺のものだ!」

子供だけ殺し、母体は生かす。
そんな器用なことが出来るのだろうかと、アスタは不思議と冷静に考えた。
体は恐怖を感じているが、死に物狂いで生き延びようとする気力はなかった。

死を覚悟し、敵をただ見上げる。

その瞬間、敵の胸元から無数の剣先が飛び出した。
見たこともない残酷な光景に、アスタは震えあがる。

血に濡れ、鈍く光ったその切っ先が、ずるりと後ろに引き抜かれる。
穴だらけになった体が、誰かに蹴られたように横に転がった。

そこに、ハカスが立っていた。
その周囲を、やはり血に染まった剣を手にした、ハカスの部下達がかためている。

「無事か?」

「で、でも……守ってくれた人たちが……」

「役目を果たしたのだ。丁重に弔う」

冷酷な王子であったはずのハカスは、今や身分のない者達から絶大な支持を得て、大きな勢力を手にしていた。
ハカスの軍勢に加わりたい兵士もあとを絶たない。
戦いで命を落とせば、相応の金が家族に渡ることになっているからだ。

それは全てアスタを守るために、ハカスが考え出したことだった。
アスタを共に守ってくれる味方が、王族や貴族の中には見つけられないと判断し、力無い者達を鍛えることに決めたのだ。

生涯奴隷の身分で終わるはずだった人々に、ハカスは大きな希望を与えた。
それは闘技場で優勝した者に自由を与えるといったささやかなものではなかった。

自由民でさえも例外ではない。
奴隷ではなくても貧しい暮らしを余儀なくされている人は大勢いる。
能力さえあれば、ハカスは国の事業に雇うことを約束した。

実力さえあれば、上の暮らしが望める。
砂の国で生涯、苦しい生活を強いられていくはずだった人々は、初めて希望を持った。
しかし、それは一方で多くの敵を生んでいた。

「アスタ、来い」

動けないアスタを軽々と抱き上げ、ハカスは奥の部屋に運ぶ。
寝台に乗せ、アスタを横にすると、床に膝をつきアスタの手を握りしめる。

「俺の味方をするものには仕事と身分を保証することにした。お前が俺の政策を象徴する王妃になる。敵が思ったより多い。その子を無事に産ませてやりたいが、その道はだいぶ厳しい。アスタ、お前は泳げるな?」

宮殿に湖を作りながらも、ハカスは実際にアスタをそこに近づけようとはしなかった。
水に入ればどこかに逃げて戻ってこなくなるかもしれない。
そう心配してきたからだ。

「砂の民の中にも泳げるものはいるが、お前ほどではないだろう。見たことはないが、お前が泳ぎが出来るというなら、隠れ家を水中に移そうと思う」

「泳いだことはありません。私は……囚われていたので……」

「試してみよう」

ハカスはアスタを再び抱き上げ、隠し通路に繋がる奥の棚を開いた。
階段を降り、ひんやりとした地下通路を進む。

音もたてず、ハカスの部下達が周囲を警戒しながらついてくる。

今度は階段を上り始める。
明るい日差しが溢れ、外の乾いた空気が全身を包み込む。

ハカスがそっとアスタを床に下ろす。
そこは風通しのよい宮殿の中だった。

外壁がほとんどなく、高い天井は円柱で支えられている。

「見晴らしがよく、敵の侵入を発見しやすい」

水の縁に立っている円柱の傍までアスタを連れて行く。

「湖面の真ん中に宮殿を作らせた。四方八方が水だ。お前ならば逃げられるのではないかと考えた。試してみるか?」

お腹が重くてうまく動けないでいたアスタは、足を踏み出し、そのまま水に飛び込んだ。
先祖の記憶が蘇り、まるで魚になったように手足が動き、体が水中を泳ぎ出す。

――安全!安全!……

魔物であった時代の言葉が自然とこぼれでる。
水がきらきらと輝き、息がしやすいように清められていく。

太古の記憶で見たように、アスタは夢中になって水の中を泳ぎ続ける。
そのうち、やはり長く水の中にはいられないことに気が付いた。

魔物の力で体を保護していても、体は冷えて来るし、餌をとることもできない。
水から空気を抜いて呼吸は出来るが、その力も使い続けては疲れてくる。

人の身体となったからには、やはりもう水に戻ることは出来なかった。
水も海とは違う真水であり、記憶にみた水中とは違う。

アスタは水面から顔をあげ、方向を確認した。
ハカスが円柱の横に立っている。
まるで、戻ってくるかどうか確かめるように、じっとアスタのいる方を見つめている。

アスタはハカスに向かって泳いだ。
この水はどこにもつながっていない。
所詮は砂地から出られない。

陸に戻ってきたアスタを、ハカスが水から引き揚げた。
濡れた服を脱がせ、アスタを全裸にすると、その体を抱きしめ唇を重ねる。

「んっ……」

「アスタ、寝室は一つだけだ」

いつの間にか、熱いお湯を入れた浴槽が用意されている。
ハカスはアスタを抱き上げ、湯の中にそっと入れた。

冷えた体が温まってくると、ハカスが自らアスタを抱き上げタオルで包む。
気遣うように寝台に横たえ、お腹を潰さないように慎重にまたがった。

「足を開け」

それでもやるのかと、アスタは泣きそうな顔でハカスを見上げる。

「でも……」

ハカスの表情は動かない。

アスタは観念し、足を開いて目を閉じた。
浅く、しかし確かにダヤ以外の男のものが胎内に入り込んでくる。
その嫌悪感はどうしても消えない。

アスタは入り口をこすられる刺激に堪えきれず声を漏らす。

「んっ……んっ……んんっ……」

「子供には親の愛情が一番良いと聞いた。俺はそんなものを信じたことはないが、お前にはあるのだろうな」

耳元で聞こえるハカスの声に、アスタは涙をこぼした。
憎い男の子供を愛してしまったら、今度こそ心が壊れてしまうのではないかとアスタは恐れた。

もう会えるわけがないと思いながらも、浅ましくダヤと結ばれる日を夢見ているのだ。
子供が生まれたら、それはますます難しくなる。
ダヤを愛しているように、ハカスの子供を愛してしまったら、どうやって生きていけばいいのだろう。

アスタの体を最大限に気遣い、ハカスが腰を離した。
どろりと垂れてきたおぞましい感触に、アスタは体を強張らせた。

「お前の体は飽きないな。二人目もすぐに出来るだろう」

さらなる絶望に叩き落とされ、アスタは天井を見上げた。

ハカスは去り、新たな護衛と侍女が宮殿にやってきた。
任務に燃える彼らにアスタは告げた。

「もし、襲われることがあれば、私は水に逃げるので、皆も私を気にせず逃げてください」

護衛の兵士達は、アスタの言葉に驚き、侍女は戸惑ったように目を見合わせた。
一人の兵士が進み出た。

「そうはいきません。ここを守ることが私達に与えられた任務です。アスタ様、俺達は奴隷でしたが、今はもう違います。ハカス様のために戦えば、家族も持てます。これこそが私達の生きる道なのです」

心からハカスに忠誠を誓う、真っすぐな兵士の顔を見て、アスタは悲しく思った。
ハカスは人々に尊敬される良い君主に近づいている。
憎い男のままではいてくれないのだ。

燃えるような使命感を持つ彼らの姿に、アスタの心はさらに申し訳なさでいっぱいになった。

アスタには生きる目標も希望もない。
ダヤとの幸せな想い出だけを胸に抱きしめ、死んだように生きるばかりだ。
それなのに、生きる希望を持っている人々がアスタのために死んでいく。

「もし危険だと思ったら水に逃げて。しばらくの間なら、水中で呼吸が出来るから」

――水の中、水の中、大丈夫……

魔物が生きた獲物を水の中に連れて行くときに使う力であり、新鮮な餌を水中に置いておくための言葉でもある。
兵士達の体に不思議な力が宿る。

「これで泳げるのですか?」

「泳げなくても、息は出来るから助けてあげられる」

兵士達は怪しむ様子もなく、純粋に喜んだ。

「ありがとうございます!」

彼らにとって、奴隷のアスタが王妃になることは、理想とする国に近づくことを意味しているのだ。
一部の金持ちが財力で人を買い上げ、自由民にしてやることとはわけがちがう。

ハカスの統治下であれば、誰もが努力や実力で自ら生きる道を切り開いていくことが可能になる。
それこそが、彼らの望む国の形だった。

ハカスが王位継承権をかけて戦いを続ける中、彼らはよく戦いアスタを守り切った。
そして、ついに出産の時が近づいた。

しおりを挟む
1 / 3

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

翼のある猫に懐かれた少女のその後(R18ver.)

恋愛 / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:31

愛があっても難しい

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:154

【R18】偽りの鳥籠

恋愛 / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:27

【R18】召喚聖女はイケおじ神官上司を陥落させたい

恋愛 / 完結 24h.ポイント:149pt お気に入り:94

【完結】幸せ探し

恋愛 / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:34

精霊の森に魅入られて

恋愛 / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:174

処理中です...