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28.戻った体
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水の民は魔物から進化した種であり、一定の年齢に達すると外見に変化は生じなくなる。
竜から進化してきたガドルもまた長寿であり、その成長はほとんど止まっているように見える。
砂の民は少し歳をとり、二人の王はどことなく貫禄が増していた。
集まった三人の王の前に、瀕死の女性が横たわっていた。
車輪の付いた簡易的な寝台に寝かせられている女性は目を閉ざし、浅い呼吸を繰り返す。
それはガドル王が持ち込んだ、シリ―という名の水の巫女だった。
「一年体を持たせ、子供を一人産ませた。もう瀕死だが、息があるうちに連れてきた」
なぜそんな女を連れてきたのか、ガドルは説明しなかった。
二人の王はガドルが送ってよこした手紙について説明を求めた。
「この文字はアスタにしか書けないはずだ。どこで手に入れた?この女が書いたのか?」
「アスタの寝室に連れていけ。そうすればその理由がわかる」
シリ―が死なないうちに早く連れていけと、ガドルは二人を急がせた。
アスタの寝室に運び込まれた瀕死のシリ―の手を、ガドルは意外にも優しく持ち上げ、アスタの方に引っ張り上げた。
耳元で静かに囁く。
「触れさせればいいのか?」
かすかに、瀕死の女性が瞼を動かす。
その瞬間、女性の体が砂となって砕け始めた。
それは砂漠の砂ではなかった。
見たこともない黄金色の砂が床の上にさらさらと積み上げられていく。
死んだと表現するにはあまりにも不自然なその女性の最後に、砂の国で生まれた二人の男は驚き、警戒するように身構えた。
ガドルの手の中にあった女の手も、溶けるように砂となり消えさった。
その瞬間、まるで昨夜眠りについたかのように、ごく自然にアスタの瞼がすっと持ち上がった。
「アスタ!」
先に動いたのはハカスだった。
寝台の反対側に回り、アスタの顔を覗き込む。
「アスタ……ダヤ王が来ている。お前が目覚めるのを待っていた」
ダヤの名前を聞いた途端、アスタの頬に赤みがさした。
その姿を、探すように視線が動く。
ようやくダヤも足を前に出す。
床に積もった砂を乗り越え寝台に近づく。
ガドル王が寝台から離れ、場所を空けた。
そこにダヤが膝をついてしゃがみ込む。
視線の高さが、横たわるアスタと同じ場所にきた。
「アスタ……」
ほっとしたようにアスタの頬が緩んだ。
眠り続けた体は完全に固くなり、ほとんど動かない。
唇がわずかに開く。
「ダヤ……マール・ダラ・クィーン・ダラール・ティアパーン・レダマール……」
それは陸上には存在しない海の魔物が発する音であり、聞き覚えがあったのはダヤだけだった。
「俺を……水の王にした言葉だ。そうだろう?アスタ……君はいったい」
「ダヤ……私はマーリー。最後のマーリーヴァラン。遥か大陸の向こうであなたを見つけた……我が王に……祝福を……」
堪えきれず、ダヤは掛け布の下からアスタの手を取り出し、優しく握った。
その指が、さらりと砕けた。
呼び止める間もなく、指先から手首、それから腕にかけて金色の砂となってこぼれ落ちていく。
「アスタ!アスタ!」
もう愛していないふりをする必要もなかった。
ダヤは呼びかけ、アスタの体を守ろうと砂になっていく体を押さえ込もうとした。
ハカスは動けなかった。ただ砂となり消えていく妻を見つめている。
アスタの顔は完全にダヤの方を向いており、その瞳にはダヤの姿しか映っていない。
さらさらと砂の音が続く中、アスタはまるで子供のように無邪気に笑った。
「ダヤ……私の王……」
最後に首から上が金色の砂になって崩れ出した。
「アスタ……」
呆然とするダヤの両手から砂は次々にこぼれ落ち、風に散らされ消えていく。
それはダヤの夢であり希望であり、そして未来であり、そして愛の全てだった。
寝台の上からアスタは消え、わずかな砂が残された。
空になった寝台の上を、まるで目を凝らせばそこにアスタが見えるのではないかと望みを抱いているかのように、ダヤはじっと見つめ、どうしても見つけられないと知ると、ふらりと立ち上がった。
「俺は……」
今こそ、この地上にいる全ての種族を殺し尽くしていいのではないかとダヤの心に過った。
アスタのいない世界に意味はない。
この二人の王を殺し、水を取り上げ、大陸を干からびさせ、全ての命をアスタに捧げ、死の世界を賑やかな場所にするべきだ。
腰に吊り下げられた大剣が、にわかにずっしりと重くなる。
手を伸ばし、その柄を握れば、すぐに引き抜ける。
ハカスもまた寝台を見下ろし、動かずにいる。
壁際のガドルもまた、殺気を潜め気配を消している。
今なら怒りに任せ動いても構わないだろう。
ぽっかりと空いたダヤの心の穴にどす黒い憎しみが沸き上がる。
その指がぴくりと動く直前、ガドルが声を発した。
「マーリーヴァラン……まだ……竜であったころの記憶にその名前がある」
張りつめた物騒な空気の中、剣に伸びていたダヤの手が止まる。
「俺にはアスタと同じように先祖の記憶がある。予言の巫女もまた、原始の記憶を持っていた。
俺の記憶はアスタの持つ記憶ほど鮮明なものではなく、ぼんやりとしたものだったが、アスタといるうちにだいぶはっきりと思い出せるようになっていった。
マーリーヴァランは海の魔物だ。およそ数万年前に陸にあがってきた。
彼らは水の民に進化し、海で得た能力を陸でも使い、水を自在に操った。
今の言葉も……マーリーヴァランの言語だ。マーリーヴァランは全て陸にあがったと思っていたが、海に残ったものもいたのかもしれない。俺が連れてきた瀕死の巫女にはアスタの魂が入っていた。
ここにある、アスタの肉体のもとに連れて行けと俺の前に現れたのだ。彼女と対等に取引をし、彼女の望みをかなえるため、ここに連れてきた」
「魂が?!」
にわかには信じ難い話だったが、実際、目の前で人の姿をしたものが砂と消えたのだ。
今であれば、どんな話も信じられるような気がした。
「アスタは、では、お前のもとにいたのか?いつから!」
噛みつくようにダヤが叫んだ。
ガドルは壁に背をもたれ、腕組みをして考え込むように虚空を見据えた。
「マーリーヴァランは一頭の雌が群れのリーダーとなる雄を選ぶ。一族を繁栄に導くかどうか、どうやって見抜いているのかは、わからない。その一頭の雌に選ばれるために雄は強さや賢さ、その持ちうる能力の全てを見せつける。選ばれた雄は群れを守るための力を得る。
陸にあがり、その能力が形を変え水の民に受け継がれた。そう考えれば彼らの今の能力についても説明がつく」
「ならば……アスタの魂がまた別の体に乗り移っているという可能性は?」
ハカスが顔をあげた。
「俺は……アスタが魔物でも構わない。伝えていない言葉がある。もしまた他の肉体に入ったとしたら、彼女と話しが出来るだろうか?」
「海とは……どこにある?」
砂の地で生まれ育った男達は、海を知らない。
ガドルだけが知っていた。
「海は……大陸の外だ。砂の檻を出て大陸を出た、さらに向こうにある。遥か昔、大きな環境の変化が起こり、海の生物のほとんどが滅びた。
海にいた生物たちは、陸にあがることで生き延びた。それ故、海には死に絶えた水という呼び名がある。
この一年で、おれは水の民が守ってきた聖域の水こそが、死に絶える前の海の水なのではないかと考えるようになった。原始の海には不思議な能力を持った魔物達が何千種類も存在し、昼夜問わず生きるための戦いを繰り広げていた。その水には彼らの不思議な魔力が宿っていたはずだ」
「聖域の水にもその力が残っていたという事か?」
ダヤは寝台に残された黄金色の砂を見た。
これは明らかに砂漠の砂とは違う。
「先祖の記憶に、死に絶えた水の場所が記憶されている。いつの記憶かわからないが、まだそこにあるのであれば、案内できるだろう」
ダヤは寝台の上から、黄金色の砂を一つかみとって腰の革袋に入れた。
残りをハカスがシーツでくるんだ。
争いも交渉事もなく二人の王は去り、アスタの眠っていた寝室にハカスが一人残された。
――
暗闇に青白い光が点滅している。
カートスがカプセルの蓋を開けると、青い髪がふわりと浮かび上がり、尾ひれが優雅に水をかいた。
替えのきかない本物の体に戻ってきたアスタは、海の水をさらに塩辛くし、両手で顔を覆った。
「もう陸には行かない……」
きらきらした真珠が水中を流れていく。
「アスタ、君のその身体も人と交わることが出来るように進化している。陸でも散歩してきてはどうだ?しばらくゆっくりして、それからまた王を探しに出たら良い」
力無く首を横に振り、アスタはまじない屋の中をうろうろと泳ぎ回った。
それから岩の椅子に腰を下ろした。
「もう生まれたくない。私は王の子を産めなかった。やっと私の王を見つけたのに、役目を果たせなかった」
「そうだろうか……。君の潜在能力には驚かされることばかりだ。アスタ、君は安全を確認できない限り、王の子は産めない。
群れを確実に守るために、君は最善の道を選び続ける。どうしようもなく大きな力に潰されてしまうこともあるだろう。しかし君に備わっている本来の力は、生物の根本的な欲求に真っすぐに働きかける。言葉にするのは難しいが、君は誰よりも強い生命力を持ち、その命を繋げる能力にたけている。その能力を生かせずに滅ぶのはもったいない。
私はずっと君に幸せになってもらいたいと願ってきた」
まじない屋のカートスは昔も今も変わらない姿で、アスタに微笑みかける。
この男こそが海の守り神なのではないかとアスタは思ったが、もうアスタ自身に、陸にあがる気力は残っていなかった。
「記憶を置いていけば、また身軽になる。積み上げた記憶は膨大で、全てを持って生まれ変わることは不可能だ。魂が肉体に定着するのにも時間がかかる。わかっただろう?肉体に少しずつ馴染んでいくやり方ではないと、魂はすぐにここに戻ってきてしまう。もし君にその気があるのならすぐにでも始められる。
魂を守るための容器も少しだけ丈夫にできる」
その分また辛い目に合うのだ。アスタは狭い洞窟を出て、広い海に飛び出した。
「もう一人で良い!」
「アスタ!」
カートスの声が追いかけてきたが、アスタは振り返らなかった。
常に濁っていた水の底は、今は透き通り、空の青がどこまでも沈みこむ。
淡い光が差し込む先を見上げ、アスタは仰向けになって水の中を漂った。
海には身分も階級もないし、誰かに支配されることもない。
守ってくれる力もないが、誰かを想い泣くことさえ自由に出来る。
「私はもう自分の王を見つけた。それで十分……」
陸にいる水の民は近縁種であり、厳密にいえばアスタと同じ仲間ではない。
違う進化の道を辿り、彼らは陸に適応した。
大きな尾ひれを見下ろし、アスタはそれを二本の足に変化させた。
水に潜って遊ぶイハとフィアの幼い姿を思い出し、またアスタの目から真珠のような涙が溢れた。
血を分けた家族といえるのはイハとフィアだけだ。
しかし彼らもまた陸の種族であり、水の中で暮らすことは出来ない。
本来のアスタとは異なる種族なのだ。しかも半分は砂の民の血を継いでいる。
一人ぼっちのアスタは、誰に遠慮することなく、存分に涙を流しながら、やはり上を見た。
淡い光の中に陸の景色を思い浮かべ両手を伸ばす。
青い髪がやわらかくたゆたい、アスタの耳に嵌めこまれた宝石がきらりと光る。
海底で生き残った孤独なマーリーヴァランは、波に任せ塩辛い水の中を静かに漂った。
竜から進化してきたガドルもまた長寿であり、その成長はほとんど止まっているように見える。
砂の民は少し歳をとり、二人の王はどことなく貫禄が増していた。
集まった三人の王の前に、瀕死の女性が横たわっていた。
車輪の付いた簡易的な寝台に寝かせられている女性は目を閉ざし、浅い呼吸を繰り返す。
それはガドル王が持ち込んだ、シリ―という名の水の巫女だった。
「一年体を持たせ、子供を一人産ませた。もう瀕死だが、息があるうちに連れてきた」
なぜそんな女を連れてきたのか、ガドルは説明しなかった。
二人の王はガドルが送ってよこした手紙について説明を求めた。
「この文字はアスタにしか書けないはずだ。どこで手に入れた?この女が書いたのか?」
「アスタの寝室に連れていけ。そうすればその理由がわかる」
シリ―が死なないうちに早く連れていけと、ガドルは二人を急がせた。
アスタの寝室に運び込まれた瀕死のシリ―の手を、ガドルは意外にも優しく持ち上げ、アスタの方に引っ張り上げた。
耳元で静かに囁く。
「触れさせればいいのか?」
かすかに、瀕死の女性が瞼を動かす。
その瞬間、女性の体が砂となって砕け始めた。
それは砂漠の砂ではなかった。
見たこともない黄金色の砂が床の上にさらさらと積み上げられていく。
死んだと表現するにはあまりにも不自然なその女性の最後に、砂の国で生まれた二人の男は驚き、警戒するように身構えた。
ガドルの手の中にあった女の手も、溶けるように砂となり消えさった。
その瞬間、まるで昨夜眠りについたかのように、ごく自然にアスタの瞼がすっと持ち上がった。
「アスタ!」
先に動いたのはハカスだった。
寝台の反対側に回り、アスタの顔を覗き込む。
「アスタ……ダヤ王が来ている。お前が目覚めるのを待っていた」
ダヤの名前を聞いた途端、アスタの頬に赤みがさした。
その姿を、探すように視線が動く。
ようやくダヤも足を前に出す。
床に積もった砂を乗り越え寝台に近づく。
ガドル王が寝台から離れ、場所を空けた。
そこにダヤが膝をついてしゃがみ込む。
視線の高さが、横たわるアスタと同じ場所にきた。
「アスタ……」
ほっとしたようにアスタの頬が緩んだ。
眠り続けた体は完全に固くなり、ほとんど動かない。
唇がわずかに開く。
「ダヤ……マール・ダラ・クィーン・ダラール・ティアパーン・レダマール……」
それは陸上には存在しない海の魔物が発する音であり、聞き覚えがあったのはダヤだけだった。
「俺を……水の王にした言葉だ。そうだろう?アスタ……君はいったい」
「ダヤ……私はマーリー。最後のマーリーヴァラン。遥か大陸の向こうであなたを見つけた……我が王に……祝福を……」
堪えきれず、ダヤは掛け布の下からアスタの手を取り出し、優しく握った。
その指が、さらりと砕けた。
呼び止める間もなく、指先から手首、それから腕にかけて金色の砂となってこぼれ落ちていく。
「アスタ!アスタ!」
もう愛していないふりをする必要もなかった。
ダヤは呼びかけ、アスタの体を守ろうと砂になっていく体を押さえ込もうとした。
ハカスは動けなかった。ただ砂となり消えていく妻を見つめている。
アスタの顔は完全にダヤの方を向いており、その瞳にはダヤの姿しか映っていない。
さらさらと砂の音が続く中、アスタはまるで子供のように無邪気に笑った。
「ダヤ……私の王……」
最後に首から上が金色の砂になって崩れ出した。
「アスタ……」
呆然とするダヤの両手から砂は次々にこぼれ落ち、風に散らされ消えていく。
それはダヤの夢であり希望であり、そして未来であり、そして愛の全てだった。
寝台の上からアスタは消え、わずかな砂が残された。
空になった寝台の上を、まるで目を凝らせばそこにアスタが見えるのではないかと望みを抱いているかのように、ダヤはじっと見つめ、どうしても見つけられないと知ると、ふらりと立ち上がった。
「俺は……」
今こそ、この地上にいる全ての種族を殺し尽くしていいのではないかとダヤの心に過った。
アスタのいない世界に意味はない。
この二人の王を殺し、水を取り上げ、大陸を干からびさせ、全ての命をアスタに捧げ、死の世界を賑やかな場所にするべきだ。
腰に吊り下げられた大剣が、にわかにずっしりと重くなる。
手を伸ばし、その柄を握れば、すぐに引き抜ける。
ハカスもまた寝台を見下ろし、動かずにいる。
壁際のガドルもまた、殺気を潜め気配を消している。
今なら怒りに任せ動いても構わないだろう。
ぽっかりと空いたダヤの心の穴にどす黒い憎しみが沸き上がる。
その指がぴくりと動く直前、ガドルが声を発した。
「マーリーヴァラン……まだ……竜であったころの記憶にその名前がある」
張りつめた物騒な空気の中、剣に伸びていたダヤの手が止まる。
「俺にはアスタと同じように先祖の記憶がある。予言の巫女もまた、原始の記憶を持っていた。
俺の記憶はアスタの持つ記憶ほど鮮明なものではなく、ぼんやりとしたものだったが、アスタといるうちにだいぶはっきりと思い出せるようになっていった。
マーリーヴァランは海の魔物だ。およそ数万年前に陸にあがってきた。
彼らは水の民に進化し、海で得た能力を陸でも使い、水を自在に操った。
今の言葉も……マーリーヴァランの言語だ。マーリーヴァランは全て陸にあがったと思っていたが、海に残ったものもいたのかもしれない。俺が連れてきた瀕死の巫女にはアスタの魂が入っていた。
ここにある、アスタの肉体のもとに連れて行けと俺の前に現れたのだ。彼女と対等に取引をし、彼女の望みをかなえるため、ここに連れてきた」
「魂が?!」
にわかには信じ難い話だったが、実際、目の前で人の姿をしたものが砂と消えたのだ。
今であれば、どんな話も信じられるような気がした。
「アスタは、では、お前のもとにいたのか?いつから!」
噛みつくようにダヤが叫んだ。
ガドルは壁に背をもたれ、腕組みをして考え込むように虚空を見据えた。
「マーリーヴァランは一頭の雌が群れのリーダーとなる雄を選ぶ。一族を繁栄に導くかどうか、どうやって見抜いているのかは、わからない。その一頭の雌に選ばれるために雄は強さや賢さ、その持ちうる能力の全てを見せつける。選ばれた雄は群れを守るための力を得る。
陸にあがり、その能力が形を変え水の民に受け継がれた。そう考えれば彼らの今の能力についても説明がつく」
「ならば……アスタの魂がまた別の体に乗り移っているという可能性は?」
ハカスが顔をあげた。
「俺は……アスタが魔物でも構わない。伝えていない言葉がある。もしまた他の肉体に入ったとしたら、彼女と話しが出来るだろうか?」
「海とは……どこにある?」
砂の地で生まれ育った男達は、海を知らない。
ガドルだけが知っていた。
「海は……大陸の外だ。砂の檻を出て大陸を出た、さらに向こうにある。遥か昔、大きな環境の変化が起こり、海の生物のほとんどが滅びた。
海にいた生物たちは、陸にあがることで生き延びた。それ故、海には死に絶えた水という呼び名がある。
この一年で、おれは水の民が守ってきた聖域の水こそが、死に絶える前の海の水なのではないかと考えるようになった。原始の海には不思議な能力を持った魔物達が何千種類も存在し、昼夜問わず生きるための戦いを繰り広げていた。その水には彼らの不思議な魔力が宿っていたはずだ」
「聖域の水にもその力が残っていたという事か?」
ダヤは寝台に残された黄金色の砂を見た。
これは明らかに砂漠の砂とは違う。
「先祖の記憶に、死に絶えた水の場所が記憶されている。いつの記憶かわからないが、まだそこにあるのであれば、案内できるだろう」
ダヤは寝台の上から、黄金色の砂を一つかみとって腰の革袋に入れた。
残りをハカスがシーツでくるんだ。
争いも交渉事もなく二人の王は去り、アスタの眠っていた寝室にハカスが一人残された。
――
暗闇に青白い光が点滅している。
カートスがカプセルの蓋を開けると、青い髪がふわりと浮かび上がり、尾ひれが優雅に水をかいた。
替えのきかない本物の体に戻ってきたアスタは、海の水をさらに塩辛くし、両手で顔を覆った。
「もう陸には行かない……」
きらきらした真珠が水中を流れていく。
「アスタ、君のその身体も人と交わることが出来るように進化している。陸でも散歩してきてはどうだ?しばらくゆっくりして、それからまた王を探しに出たら良い」
力無く首を横に振り、アスタはまじない屋の中をうろうろと泳ぎ回った。
それから岩の椅子に腰を下ろした。
「もう生まれたくない。私は王の子を産めなかった。やっと私の王を見つけたのに、役目を果たせなかった」
「そうだろうか……。君の潜在能力には驚かされることばかりだ。アスタ、君は安全を確認できない限り、王の子は産めない。
群れを確実に守るために、君は最善の道を選び続ける。どうしようもなく大きな力に潰されてしまうこともあるだろう。しかし君に備わっている本来の力は、生物の根本的な欲求に真っすぐに働きかける。言葉にするのは難しいが、君は誰よりも強い生命力を持ち、その命を繋げる能力にたけている。その能力を生かせずに滅ぶのはもったいない。
私はずっと君に幸せになってもらいたいと願ってきた」
まじない屋のカートスは昔も今も変わらない姿で、アスタに微笑みかける。
この男こそが海の守り神なのではないかとアスタは思ったが、もうアスタ自身に、陸にあがる気力は残っていなかった。
「記憶を置いていけば、また身軽になる。積み上げた記憶は膨大で、全てを持って生まれ変わることは不可能だ。魂が肉体に定着するのにも時間がかかる。わかっただろう?肉体に少しずつ馴染んでいくやり方ではないと、魂はすぐにここに戻ってきてしまう。もし君にその気があるのならすぐにでも始められる。
魂を守るための容器も少しだけ丈夫にできる」
その分また辛い目に合うのだ。アスタは狭い洞窟を出て、広い海に飛び出した。
「もう一人で良い!」
「アスタ!」
カートスの声が追いかけてきたが、アスタは振り返らなかった。
常に濁っていた水の底は、今は透き通り、空の青がどこまでも沈みこむ。
淡い光が差し込む先を見上げ、アスタは仰向けになって水の中を漂った。
海には身分も階級もないし、誰かに支配されることもない。
守ってくれる力もないが、誰かを想い泣くことさえ自由に出来る。
「私はもう自分の王を見つけた。それで十分……」
陸にいる水の民は近縁種であり、厳密にいえばアスタと同じ仲間ではない。
違う進化の道を辿り、彼らは陸に適応した。
大きな尾ひれを見下ろし、アスタはそれを二本の足に変化させた。
水に潜って遊ぶイハとフィアの幼い姿を思い出し、またアスタの目から真珠のような涙が溢れた。
血を分けた家族といえるのはイハとフィアだけだ。
しかし彼らもまた陸の種族であり、水の中で暮らすことは出来ない。
本来のアスタとは異なる種族なのだ。しかも半分は砂の民の血を継いでいる。
一人ぼっちのアスタは、誰に遠慮することなく、存分に涙を流しながら、やはり上を見た。
淡い光の中に陸の景色を思い浮かべ両手を伸ばす。
青い髪がやわらかくたゆたい、アスタの耳に嵌めこまれた宝石がきらりと光る。
海底で生き残った孤独なマーリーヴァランは、波に任せ塩辛い水の中を静かに漂った。
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