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22.原始の夢
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寝台に眠るアスタの傍らに、ハカスの姿があった。
そこは離宮の塔の中で、窓には鉄格子が嵌められている。
ふとアスタの瞼が動いた。
ハカスは指先でその白い頬を撫でる。
「ん……」
目を開けたアスタは、ぼんやりとした表情で天井を見た。
その瞳は赤く充血し、瞼も腫れている。
水の中で号泣した証だった。
「まさか、お前が子供の前で身投げをするとは思ってもいなかったな」
ハカスの声にアスタはようやくはっきりと意識を取り戻し、自分がしたことを思い出した。
水中に母親を迎えにきたイハの苦しそうな顔が蘇る。
「あの子を……あの子を呼んでください。誤解です。私はただ、顔を見られたくなかった。誰にも知られず泣いていたかっただけです。水の中なら一人になれる。そう思って湖に飛び込みました。あの子がついてくるなんて、あの時は考えられなかった。あの子は?無事ですか?」
後からあとから溢れてくる涙をアスタは両手で拭い続ける。
ハカスはそんなアスタを見下ろし、冷静に考えた。
確かに、アスタには一人になれる時間がない。
常に監視が付いているし、窓から身を投げてからは、侍女の数まで増やした。
さらにハカスと夜を過ごす日以外は、毎日子供と過ごしている。
奴隷部屋で暮らす奴隷にも自由はないが、奴隷たちは同じ境遇の者達と会話が出来るし、働き次第では奴隷部屋を与えられ、一人で朝まで過ごすことも可能だ。
しかしアスタには話し相手もいなければ、一人になれる場所もない。
これまではダヤへの愛を支えに生きこられたのかもしれないが、今やそれも失った。
ハカスは泣き続けるアスタを慰めることもせず、冷徹に言い放った。
「夫の前でよく他の男にふられた話が出来るものだ。勝手なことをすれば子供がどうなるか……」
子供たちを殺すと脅しかけたハカスは、アスタの表情を見て言葉を閉ざした。
アスタはぴたりと泣き止み、悲しみに耐えるように目を伏せている。
それは、脅されるまでもなく、ハカスが言わんとすることを理解している証拠だった。
ハカスが良い父親、夫であるとは全く信じていないのだ。
アスタがひっそりと口を開いた。
「ハカス様の奴隷であることを忘れたことはありません。あなたは私の体だけではなく、心までおもちゃのように弄ぶ。子供達だって、私を苦しめるための道具としか考えていない」
その通りではあったが、ハカスはアスタの手を握った。
「なぜそう言い切れる?イハは俺の後継者として国中にその存在を公表している。フィアも王女として誕生祭を行った。お前が王妃であることは我が国の歴史書にも記されることになる。さらに時期国王イハの生母としても名が知られる。もはや、お前をただの奴隷や道具と思っている国民はいない」
アスタはダヤの言葉を思い出した。
――いつまでも、昔の恋を引きずるようなことはせず、与えられた運命に忠実に生きるしかない。誰もが望む人生を歩けるわけじゃないのだから……
この運命が無理やり押し付けられたものだとしても、それを受け入れ生きるべきだとダヤは言ったのだ。
確かにここから逃げたいと思ってきたが、それだけではなかった。
子供たちのために国に貢献もしてきた。
出来る限りのことはもうしたのではないだろうか。
「私は……先祖の記憶を蘇らせ、その言葉の力でこの国に尽くしてきたと自負しております。私の知っている情報も全てお渡ししました。もう、私に出来ることは残されていません。今こそ、私を捨てるべきではないでしょうか」
その口調は、何を話しているのかわかっていないようなぼんやりしたもので、その眼差しも、どこか遠くを見ていた。
「アスタ……」
とてもまともに会話を出来る状態ではないとハカスは悟ったが、我慢を知らないこの男は、強引にアスタの服を脱がせた。
魂も体も空っぽになってしまったようにアスタはただその瞳にハカスの姿を映す。
冷酷な王の名に相応しく、人形のように横たわるアスタをハカスは強引に抱いた。
体の刺激を受け、アスタは無意識に声をあげたが、その目はずっとどこか遠くを見ていた。
やがて、ハカスは体を離し、アスタの体に薄い掛け布を被せた。
「また来る」
そう言い残し、ハカスはアスタを一人にして部屋を出た。
侍女も、見張りの兵士もいない寝室で、アスタは一人体を丸めて目を閉じた。
眠りはすぐに訪れた。
現実から逃れるように、その意識は夢の中に吸い込まれる。
そこはアスタの知らない海の世界だった。
見果てぬ深い水底に、原始的な存在がうごめいている。
瞼の無い巨大な目玉を二つ持った丸い頭の怪魚は、砂魚のような巨大な存在を恐れている。
知恵のあるものを味方につけようと、陸に向かう。
目の下についている小さな鼻で、かすかな匂いを感じとる。
顔の半分を占める巨大な口には、甲殻類までもかみ砕ける牙がある。
水かきのついた両手は、岩に張り付くのに最適な形状だ。
物陰から柔らかな肉をそなえた人間を見つける。
知恵のある恐ろしい魔物だが、食べてみればそれはあまりにも甘美な肉だった。
知恵ある魔物を食べるには、さらなる知恵が必要だ。
深く海に潜り、仲間達を集めて陸に向かう。
身投げをしようとしていた若い女をむさぼり喰い、海の獲物を取りに来た男を引きずり込む。
残虐な性質をもった海の魔物達は、少しずつ人の姿を真似ていく。
なぜ同じ姿の人間を襲うのか。
そんな疑問を持つ個体が現れる。
私達と何が違うのか。
上手に泳げるか、泳げないかの違いでは?
言葉が違う。種族が違う。住む場所が違う。本質が違う。
全ての理由を覆すほどの事件が起きる。
――君は美しい。一緒に行かないか?……
人の策略か、生き延びるための種の本能だったのか、それともただ純粋に愛だったのか。
心を奪えば、種さえも奪えてしまう。
人に連れられ陸にあがった。
巨大な目玉や小さな鼻、水かきもひれも失い、武器は種族の言葉一つ。
――生まれた子供が、人間に見えなければ海に捨てるしかない……
陸で生き延びるために、魔物らしさは捨て、人に近づくための技能を身に着けた。
順応性を問うのなら、魔物に勝る存在はいない。
天敵の砂魚が、獲物を追って砂の上を走り出す。
その先にいつも人が待っている。
――愛を約束しよう……
愛を手放せば、もっと自由に生きられる。
海にいたころの強靭さを取り戻す。
陸に囚われず、水に戻れるかもしれない。
もっと危険で暗く、愛のない孤独な世界。
だけど海には心を囚われない自由がある。
愛さえなければ、強く孤独に生きられる。
愛を手放せば、自由な海に戻れる。
それが先祖からの呼びかけだったのか、それともアスタの心の奥底にある願望が見せた夢だったのかわからない。
ただその夜、アスタは太古の海を泳いだ。
巨大な敵の陰に怯え、物陰に隠れ、小さな生き物をとらえて貪り喰う。
本能に従い、無心に生きられる原始的な海を存分に味わった。
夢の中で、アスタは誰の愛にもとらわれず、自由で孤独だった。
――
砂の地に焼けつくような日差しが降り注ぐ。
水の民であれば、あっという間に衰弱してしまうほどの熱波だが、火の民であれば、まだ耐えられた。
砂の国に潜むガドル王は、近代的な砂の王国の姿に驚愕していた。
自動で浮かび上がる円盤型の装置や、水が循環する仕組み、それから砂魚を退けるための強靭な壁。
見たことのない文字が刻まれた、未知の力を秘めた石板がいたるところに埋め込まれている。
「この技術を知る者が水の民の王になったということか……。これは脅威だな」
罪人の捨て場である砂の檻に、文明の発展した国があるとは考えもしてこなかった火の国の戦士達も、その町の仕組みに度肝を抜かれていた。
彼らは砂の民の衣服を手に入れ、フードで火の民特有の赤い髪を隠していた。
肌の色はほとんど変わらないため、髪さえ隠しておけば身を隠すことはそれほど難しくはない。
しかも砂の国には奴隷が溢れている。見知らぬ人間が入り込んできても、新しい奴隷だとしか思われない。
さらには、砂の民らは凶暴で、何か問題が起きても、力で解決すれば大丈夫だと考える。
そんな野蛮な民族が、なぜ高度な文明を持つことが出来たのか、なぜ砂の檻から外に出てこられなかったのか。それが不思議でならない。
「砂の檻に捨ててきた罪人たちの知識を奪ってきたのかもしれないな」
砂の国にいながら、外の世界のことを学び、いつか外敵が乗り込んでくることを想定し準備をしてきたのだ。
「優れた王の治める国だな。それに……」
よそ者が簡単には暮らせない仕組みもある。水場は完全に管理され、兵士達が厳重に見張っている。
地下通路に溢れていた水も、地上にあがればそう簡単に近づけないようになっていた。
とはいえ、地下水路も火の民らにとっては危険な場所だ。
迷宮のような地下で水攻めにあえば、脱出は困難だ。
ただでさえも、ハカス王の作った地下水路には罠が多すぎる。
ここは完全に砂の民の縄張りであり、敵陣の真っただ中だった。
「生きている限り、水は必要だ。まずは拠点を手に入れ、それからアスターリアを探す」
燃えるものがなければ、火はつかない。
砂の檻は、火の民にとっても死に直結する危険な場所だった。
――
ダヤは砂の地を遠く離れ、オルトナ国の城に戻っていた。
水の王であるからなのか、ダヤには青く光る水の在処が明確にわかっていた。
アスタに必要な言葉を伝えた後、ダヤと水の民らはハカスの作った迷宮のような水路を迷うことなく引き返し、地下闘技場の真ん中に置かれた岩に注がれている青い水から、水の民の聖域があるガドル王の城まで戻ったのだ。
聖域はまだ青い光を放っていたが、それは王の命令と共に小さく萎み、室内全体に広がるほどの規模ではなくなっていた。
「王よ。火の国をのっとりましたね」
国を奪われ、地下に隠れて数百年の月日を耐えてきた水の国の戦士達が、目を輝かせ王の言葉を待っている。
ガドル王と側近の兵士達を砂の国に追放したのだ。
「乗っ取る気はないが、聖域は返してもらう。かつて水の国であった場所の全てを取り戻し、あとは返却だ。敵の多いガドル王にも戻ってもらうつもりだ」
「え?!」
ダヤの部下達は驚きを隠せず、ざわめいた。
「王はご存じないかもしれませんが、我が民は虐げられ、下水道で暮らしてきました。彼らが国を失うのは自業自得では?」
「どうせ国を奪えば争いは続く。だったら国を一部返却し、狭い領土を同じ民族で取り合っていてもらった方が戦力を削れるし、時間も稼げる。それにガドル王は、あれで扱いやすいところがある」
大陸を支配してきた凶悪なガドル王が扱いやすいとは、どういうことなのかと部下達はぎょっとして顔を見合わせる。
ダヤはその理由を説明する手間を省いた。
「ハカス王のパール国とも交渉をする必要があるな」
そのためにアスタの息子のイハに、敵と認識されないよう気を付けた。
「王よ。ではガドル王を迎えに行くので?」
明らかに嫌そうな部下達の顔を見て、ダヤは余裕の笑みを見せた。
「その前に、働いてもらわなくては。俺を王にした巫女は、まだ囚われの身だ」
「アスターリア様は予言の巫女でしたが、もう力を失っているはずです」
純潔を失った巫女は、用済みとされ海に投げ込まれることもある。
「彼女の力の全ては俺に注がれた。しかし彼女には決して奪われることのない、潜在的な能力がある。それがなければ水の民の歴史も続かないぞ」
アスタを弱点としているのはハカスだけではない。
ガドル王もまた、アスタに執着している。
二人の思惑を知った上で行動しているダヤにとって、これからが第二の計画の始まりだった。
その日、火の国オルトナはダヤの支配下に落ちたが、すぐに復活の兆しを見せた。
それはオルトナ国を征服したダヤが、新たな火の王に、もともとのオルトナ国の領土であった場所は返却すると宣言したからだった。
ガドル王は砂の地に追放されたが、火の民はまだ残っている。
ダヤは新たな王の選任を火の民に任せた。
一方、火の王ガドルとその部下達をダヤから押し付けられた砂の国では、新たな戦いが始まっていた。
そこは離宮の塔の中で、窓には鉄格子が嵌められている。
ふとアスタの瞼が動いた。
ハカスは指先でその白い頬を撫でる。
「ん……」
目を開けたアスタは、ぼんやりとした表情で天井を見た。
その瞳は赤く充血し、瞼も腫れている。
水の中で号泣した証だった。
「まさか、お前が子供の前で身投げをするとは思ってもいなかったな」
ハカスの声にアスタはようやくはっきりと意識を取り戻し、自分がしたことを思い出した。
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後からあとから溢れてくる涙をアスタは両手で拭い続ける。
ハカスはそんなアスタを見下ろし、冷静に考えた。
確かに、アスタには一人になれる時間がない。
常に監視が付いているし、窓から身を投げてからは、侍女の数まで増やした。
さらにハカスと夜を過ごす日以外は、毎日子供と過ごしている。
奴隷部屋で暮らす奴隷にも自由はないが、奴隷たちは同じ境遇の者達と会話が出来るし、働き次第では奴隷部屋を与えられ、一人で朝まで過ごすことも可能だ。
しかしアスタには話し相手もいなければ、一人になれる場所もない。
これまではダヤへの愛を支えに生きこられたのかもしれないが、今やそれも失った。
ハカスは泣き続けるアスタを慰めることもせず、冷徹に言い放った。
「夫の前でよく他の男にふられた話が出来るものだ。勝手なことをすれば子供がどうなるか……」
子供たちを殺すと脅しかけたハカスは、アスタの表情を見て言葉を閉ざした。
アスタはぴたりと泣き止み、悲しみに耐えるように目を伏せている。
それは、脅されるまでもなく、ハカスが言わんとすることを理解している証拠だった。
ハカスが良い父親、夫であるとは全く信じていないのだ。
アスタがひっそりと口を開いた。
「ハカス様の奴隷であることを忘れたことはありません。あなたは私の体だけではなく、心までおもちゃのように弄ぶ。子供達だって、私を苦しめるための道具としか考えていない」
その通りではあったが、ハカスはアスタの手を握った。
「なぜそう言い切れる?イハは俺の後継者として国中にその存在を公表している。フィアも王女として誕生祭を行った。お前が王妃であることは我が国の歴史書にも記されることになる。さらに時期国王イハの生母としても名が知られる。もはや、お前をただの奴隷や道具と思っている国民はいない」
アスタはダヤの言葉を思い出した。
――いつまでも、昔の恋を引きずるようなことはせず、与えられた運命に忠実に生きるしかない。誰もが望む人生を歩けるわけじゃないのだから……
この運命が無理やり押し付けられたものだとしても、それを受け入れ生きるべきだとダヤは言ったのだ。
確かにここから逃げたいと思ってきたが、それだけではなかった。
子供たちのために国に貢献もしてきた。
出来る限りのことはもうしたのではないだろうか。
「私は……先祖の記憶を蘇らせ、その言葉の力でこの国に尽くしてきたと自負しております。私の知っている情報も全てお渡ししました。もう、私に出来ることは残されていません。今こそ、私を捨てるべきではないでしょうか」
その口調は、何を話しているのかわかっていないようなぼんやりしたもので、その眼差しも、どこか遠くを見ていた。
「アスタ……」
とてもまともに会話を出来る状態ではないとハカスは悟ったが、我慢を知らないこの男は、強引にアスタの服を脱がせた。
魂も体も空っぽになってしまったようにアスタはただその瞳にハカスの姿を映す。
冷酷な王の名に相応しく、人形のように横たわるアスタをハカスは強引に抱いた。
体の刺激を受け、アスタは無意識に声をあげたが、その目はずっとどこか遠くを見ていた。
やがて、ハカスは体を離し、アスタの体に薄い掛け布を被せた。
「また来る」
そう言い残し、ハカスはアスタを一人にして部屋を出た。
侍女も、見張りの兵士もいない寝室で、アスタは一人体を丸めて目を閉じた。
眠りはすぐに訪れた。
現実から逃れるように、その意識は夢の中に吸い込まれる。
そこはアスタの知らない海の世界だった。
見果てぬ深い水底に、原始的な存在がうごめいている。
瞼の無い巨大な目玉を二つ持った丸い頭の怪魚は、砂魚のような巨大な存在を恐れている。
知恵のあるものを味方につけようと、陸に向かう。
目の下についている小さな鼻で、かすかな匂いを感じとる。
顔の半分を占める巨大な口には、甲殻類までもかみ砕ける牙がある。
水かきのついた両手は、岩に張り付くのに最適な形状だ。
物陰から柔らかな肉をそなえた人間を見つける。
知恵のある恐ろしい魔物だが、食べてみればそれはあまりにも甘美な肉だった。
知恵ある魔物を食べるには、さらなる知恵が必要だ。
深く海に潜り、仲間達を集めて陸に向かう。
身投げをしようとしていた若い女をむさぼり喰い、海の獲物を取りに来た男を引きずり込む。
残虐な性質をもった海の魔物達は、少しずつ人の姿を真似ていく。
なぜ同じ姿の人間を襲うのか。
そんな疑問を持つ個体が現れる。
私達と何が違うのか。
上手に泳げるか、泳げないかの違いでは?
言葉が違う。種族が違う。住む場所が違う。本質が違う。
全ての理由を覆すほどの事件が起きる。
――君は美しい。一緒に行かないか?……
人の策略か、生き延びるための種の本能だったのか、それともただ純粋に愛だったのか。
心を奪えば、種さえも奪えてしまう。
人に連れられ陸にあがった。
巨大な目玉や小さな鼻、水かきもひれも失い、武器は種族の言葉一つ。
――生まれた子供が、人間に見えなければ海に捨てるしかない……
陸で生き延びるために、魔物らしさは捨て、人に近づくための技能を身に着けた。
順応性を問うのなら、魔物に勝る存在はいない。
天敵の砂魚が、獲物を追って砂の上を走り出す。
その先にいつも人が待っている。
――愛を約束しよう……
愛を手放せば、もっと自由に生きられる。
海にいたころの強靭さを取り戻す。
陸に囚われず、水に戻れるかもしれない。
もっと危険で暗く、愛のない孤独な世界。
だけど海には心を囚われない自由がある。
愛さえなければ、強く孤独に生きられる。
愛を手放せば、自由な海に戻れる。
それが先祖からの呼びかけだったのか、それともアスタの心の奥底にある願望が見せた夢だったのかわからない。
ただその夜、アスタは太古の海を泳いだ。
巨大な敵の陰に怯え、物陰に隠れ、小さな生き物をとらえて貪り喰う。
本能に従い、無心に生きられる原始的な海を存分に味わった。
夢の中で、アスタは誰の愛にもとらわれず、自由で孤独だった。
――
砂の地に焼けつくような日差しが降り注ぐ。
水の民であれば、あっという間に衰弱してしまうほどの熱波だが、火の民であれば、まだ耐えられた。
砂の国に潜むガドル王は、近代的な砂の王国の姿に驚愕していた。
自動で浮かび上がる円盤型の装置や、水が循環する仕組み、それから砂魚を退けるための強靭な壁。
見たことのない文字が刻まれた、未知の力を秘めた石板がいたるところに埋め込まれている。
「この技術を知る者が水の民の王になったということか……。これは脅威だな」
罪人の捨て場である砂の檻に、文明の発展した国があるとは考えもしてこなかった火の国の戦士達も、その町の仕組みに度肝を抜かれていた。
彼らは砂の民の衣服を手に入れ、フードで火の民特有の赤い髪を隠していた。
肌の色はほとんど変わらないため、髪さえ隠しておけば身を隠すことはそれほど難しくはない。
しかも砂の国には奴隷が溢れている。見知らぬ人間が入り込んできても、新しい奴隷だとしか思われない。
さらには、砂の民らは凶暴で、何か問題が起きても、力で解決すれば大丈夫だと考える。
そんな野蛮な民族が、なぜ高度な文明を持つことが出来たのか、なぜ砂の檻から外に出てこられなかったのか。それが不思議でならない。
「砂の檻に捨ててきた罪人たちの知識を奪ってきたのかもしれないな」
砂の国にいながら、外の世界のことを学び、いつか外敵が乗り込んでくることを想定し準備をしてきたのだ。
「優れた王の治める国だな。それに……」
よそ者が簡単には暮らせない仕組みもある。水場は完全に管理され、兵士達が厳重に見張っている。
地下通路に溢れていた水も、地上にあがればそう簡単に近づけないようになっていた。
とはいえ、地下水路も火の民らにとっては危険な場所だ。
迷宮のような地下で水攻めにあえば、脱出は困難だ。
ただでさえも、ハカス王の作った地下水路には罠が多すぎる。
ここは完全に砂の民の縄張りであり、敵陣の真っただ中だった。
「生きている限り、水は必要だ。まずは拠点を手に入れ、それからアスターリアを探す」
燃えるものがなければ、火はつかない。
砂の檻は、火の民にとっても死に直結する危険な場所だった。
――
ダヤは砂の地を遠く離れ、オルトナ国の城に戻っていた。
水の王であるからなのか、ダヤには青く光る水の在処が明確にわかっていた。
アスタに必要な言葉を伝えた後、ダヤと水の民らはハカスの作った迷宮のような水路を迷うことなく引き返し、地下闘技場の真ん中に置かれた岩に注がれている青い水から、水の民の聖域があるガドル王の城まで戻ったのだ。
聖域はまだ青い光を放っていたが、それは王の命令と共に小さく萎み、室内全体に広がるほどの規模ではなくなっていた。
「王よ。火の国をのっとりましたね」
国を奪われ、地下に隠れて数百年の月日を耐えてきた水の国の戦士達が、目を輝かせ王の言葉を待っている。
ガドル王と側近の兵士達を砂の国に追放したのだ。
「乗っ取る気はないが、聖域は返してもらう。かつて水の国であった場所の全てを取り戻し、あとは返却だ。敵の多いガドル王にも戻ってもらうつもりだ」
「え?!」
ダヤの部下達は驚きを隠せず、ざわめいた。
「王はご存じないかもしれませんが、我が民は虐げられ、下水道で暮らしてきました。彼らが国を失うのは自業自得では?」
「どうせ国を奪えば争いは続く。だったら国を一部返却し、狭い領土を同じ民族で取り合っていてもらった方が戦力を削れるし、時間も稼げる。それにガドル王は、あれで扱いやすいところがある」
大陸を支配してきた凶悪なガドル王が扱いやすいとは、どういうことなのかと部下達はぎょっとして顔を見合わせる。
ダヤはその理由を説明する手間を省いた。
「ハカス王のパール国とも交渉をする必要があるな」
そのためにアスタの息子のイハに、敵と認識されないよう気を付けた。
「王よ。ではガドル王を迎えに行くので?」
明らかに嫌そうな部下達の顔を見て、ダヤは余裕の笑みを見せた。
「その前に、働いてもらわなくては。俺を王にした巫女は、まだ囚われの身だ」
「アスターリア様は予言の巫女でしたが、もう力を失っているはずです」
純潔を失った巫女は、用済みとされ海に投げ込まれることもある。
「彼女の力の全ては俺に注がれた。しかし彼女には決して奪われることのない、潜在的な能力がある。それがなければ水の民の歴史も続かないぞ」
アスタを弱点としているのはハカスだけではない。
ガドル王もまた、アスタに執着している。
二人の思惑を知った上で行動しているダヤにとって、これからが第二の計画の始まりだった。
その日、火の国オルトナはダヤの支配下に落ちたが、すぐに復活の兆しを見せた。
それはオルトナ国を征服したダヤが、新たな火の王に、もともとのオルトナ国の領土であった場所は返却すると宣言したからだった。
ガドル王は砂の地に追放されたが、火の民はまだ残っている。
ダヤは新たな王の選任を火の民に任せた。
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