砂の地に囚われて

丸井竹

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17.偽りの家族

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水を跳ね上げて走る小さな足音と、小鳥のさえずりのような子供の笑い声が聞こえてきた。
アスタはうっすらと目を開ける。

正面には噴水があり、飛び散る水滴に光が反射し、きらきらと輝いている。
水面から吹き上がる風が心地よくアスタの髪を揺らす。

「お母様、寝ていたの?」

おしゃべりが上手になった息子が、アスタの横たわる寝椅子に寄り掛かり頭を乗せる。

「イハ……お昼寝をしていたの。昨夜は遅かったから……」

髪をかきあげ体を起こすと、アスタは息子を抱き上げる。
膝に乗せてやると、すぐに小さな泣き声が聞こえてきた。

「王妃様、フィア様の授乳の時間です」

ハカスの乳母だった女性が赤ん坊を抱いて近づいてくる。
高齢だが、背筋は真っすぐで言葉も明瞭だ。

「僕、おりるよ」

イハがすぐにアスタの膝から滑り降り、妹に場所を譲った。
優しい息子の頭を撫で、アスタは乳母から生まれたばかりの娘を受け取る。
その容姿もまた砂の民そのものだった。

「僕、今日、お父様に褒められたんだ」

イハは長椅子によじ登り、アスタの隣に腰を下ろした。
床に届かない小さな足を前後に揺らしながら、得意げに母親を見上げる。

「そうなの?訓練をしたの?」

「うん!腕が良いって!今度アマンにも乗せてくれるって。僕も早く、お父様みたいに強い戦士になりたいなぁ」

イハはアスタに寄り掛かり、大きな胸を見上げてくんくんと鼻を動かした。

「まだおっぱいが恋しいの?」

「お兄ちゃんだから、もういらないよ。でもなんだか懐かしい」

まだ小さいのにもう懐かしく思えるような記憶があるのかと、アスタは息子の重みを感じながら微笑んだ。
娘のフィアはすっかりおっぱいに夢中で、アスタが母親であることに気づいているのかどうかもわからない。

ミルクが出れば誰でもいいのではないかと思うが、そうでもないのだ。
熱心にミルクを飲む娘の頬を指でつつき、アスタは涙ぐむ。
愛しい気持ちと、どこまでも落ちていくような絶望が常にアスタの心に混在している。

ハカスは傍目から見れば良い父親であり、その事がさらにアスタの心を追い詰めていた。
憎い男の子供とはいえ、生まれた子供をアスタは憎めなかったのだ。

ハカスが子供達を嫌い、子供達もハカスを憎んでくれたならば、アスタは子供を味方につけ、いつかダヤが迎えに来てくれた時に一緒に逃げられたかもしれない。
ダヤならば、敵の子であってもアスタの子であれば守ってくれると信じられた。

それなのに、子供たちは父親にすっかり懐いているし、ハカスはまるでいつかダヤが戻ってくることを知っているかのように、アスタの産んだ子供達をすっかり味方につけている。
生まれたばかりの娘でさえ、夜泣きをするたびにハカスにあやされて大人しくなるのだ。

出口のない地獄を見ているようで絶望的な気持ちになるが、子供たちがいてはここから逃げ出すことも出来ない。
もし命を断てば、子供たちは母親に捨てられたと思ってしまう。

ダヤに愛されたアスタは、子供にも愛を与えたいと願ってしまう。

「アスタ」

耳に馴染んでしまった声に、アスタは反射的に体を強張らせた。
フィアが驚いたようにミルクを飲むのをやめて、ぐずりだす。
急いでその背中を撫でて、乳房を与える。

「お父様!」

イハが駆け出し、うれしそうな笑い声を立てる。
片腕に息子を抱き上げたハカスがアスタの前に立った。

「フィアは食事中か」

乳母と召使たちが家族団らんの時間を邪魔しないように水辺に張り出したテラスから出て行く。
ハカスは自ら椅子を引き寄せ、アスタの前に座った。
その膝に息子を置き、大きな手で息子の頭を撫でる。

父親に安心しきって身をゆだねているイハの姿に、アスタは表情を曇らせる。
そんなアスタの顔を、お前の気持ちはわかっているぞと言いたげに眺め、ハカスは片手を突き出し、その頬を撫でた。

「王子に王女が生まれた。優秀な王妃だな」

息子の視線を受け、アスタはなんとか笑顔を作った。

「あ、ありがとうございます……」

「俺は家族仲が良い王族を見たことがない。俺達がそうした家族になれたら良いと思うがどう思う?」

「子供たちを……大切にして頂き、感謝しております」

ぎこちなく笑うアスタの頭を引き寄せ、ハカスは膝に息子を置いたまま唇を重ねた。
それはイハにとっては見慣れた光景であり、父親の膝から落とされまいと、逞しい腕にしがみつく。

すぐに唇は離れ、ハカスは赤く色づいたアスタの頬を指でなでる。

「最近、地下の水の神殿で青い光が頻繁に目撃されている。昨夜も、見張りをしていた部下から報告があった。青い光の向こうで何が行われているか、予想がつくか?」

アスタはわからないと首を横に振る。
聖域の水が青く光るのは、予言の巫女が生まれた時だけだ。
しかし火の王がやってきた時も青く光った。
それは、アスタが魔物の言葉を発した時だ。

アスタが光らせていないのであれば、残る可能性は水の王の影響だ。
ダヤが何か行動を起こしているのかもしれない。
しかしそれは口に出せない。

ハカスは疑わし気に、沈黙を守るアスタの表情をじっと窺う。

恐ろしい剣技を持った火の王が出現して以来、ハカスは地下の神殿に見張りを置いている。
火の王が軍勢を率いて現れる可能性についても想定し、地下通路を要塞化するための工事を進めている。

砂の国を治める王は、常に最悪の状況に備える必要がある。
過酷な砂の地で生き延びるためには、戦いが必須だからだ。
水資源があり、奴隷も多く抱えるこの国は、常に他国に狙われている。

さらに国内にも争いの芽はある。
貴族や王族という身分であっても、その地位に相応しい働きをしていなければ蹴落とされることになる。
誰もが人よりも強くあろうと力を欲している。

今やアスタもまた、パール国が抱える宝の一つであり、国を支える大きな力になっている。
豊富な水資源を維持するにはアスタの力が必要だ。

オアシスから離れた場所では、年に数度水場が干上がることがある。
そんな時は、水女を餌に砂魚をおびき寄せれば、水が戻るといったこともあったが、アスタは地下深くから水を呼び寄せることが出来るため、そんな危険な行為をしなくてもよくなった。

水を引けるのであれば井戸も作りやすくなり、その過程で王国の地下に豊富な地下水があることまで判明した。

そこは地中深くもぐる砂魚たちの道であり、パール国は水不足とは無縁の国となった。
砂の地では最強と呼べるほどの国となったが、外の世界に対しその強さが通用するかどうかはわからない。 

そのため、ハカスは家族を大切にしてきた。
子供を味方につけておけば、ダヤでさえもアスタを連れて行くことは難しくなる。

「ガドル王が何をしているのか、私にはわかりません……」

アスタはハカスから顔を背けると、取り繕うように娘に優しく微笑んだ。

家族としての形を成していくことに、アスタは苦痛を感じていたが、妻であり母であることを演じ続けないわけにはいかない。

「あの水は恐らく、ガドル王の城にある水の民の聖域に繋がっています。ガドル王は再び水を繋げようと巫女たちを使って何かを始めたのかもしれません。
水の民が所持していた歴史書などの書物は全て、ガドル王が所持していますから」

「道がまた繋がるのか?あの時、あの男が現れたのは、お前の言葉のせいだろう?」

「わかりません。あの水に触れて、私は先祖の記憶をよみがえらせた。同じように、魔物だった頃の記憶が蘇った巫女がいれば、水を繋げる言葉を見つけるかもしれません」

言葉を閉ざしたアスタに、鋭い視線を向ける。

「あの男が来るとしたら……あそこからではないのか?」

手は汗ばみ、緊張で顔は強張っていたが、アスタはあえて真っすぐにハカスを見返した。
その目には、憎しみと怒りがちゃんと残っている。
それを確かめ、ハカスはほらみたことかと言わんばかりに口元を歪める。

「アスタ、顔に気を付けろ。お前は……俺の妻だろう?」

耳元で囁き、怒りを秘めるアスタの唇を奪う。

その時、娘がぐずりだした。
アスタは慌てて抱き直し、ミルクで汚れた口の周りを布で拭ってやる。
少しもアスタに似ていない娘だが、安心したようにアスタの膝に抱かれている。

母親らしいその仕草に、ハカスは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「イハはよい戦士になれそうだ。着実に腕をあげている」

「ね!お母様!言ったでしょう!」

ハカスの膝の上にいたイハは、床に滑り降りて走り出す。
あっという間に水に飛び込み、ぱっと顔をあげる。
水が波立ち、浮いていた花が逃げていく。

息子が無事に泳ぎ出したのを見届け、アスタは怒りに燃える目でハカスを睨んだ。

「残酷な人……」

「そう思うか?俺はお前を妻にし母にした。奴隷であったお前に贅沢な暮らしをさせ、何年も面倒をみている。他に女も子供も作っていないぞ。これほど清く正しい王はパール国歴代の王の中でも俺ぐらいだ。それとも、俺に愛人を作って欲しいか?イハやフィアの命を危険に晒すかもしれない王の血筋を増やすか?」

悔しそうなアスタの頬を抱き、ハカスは軽く唇を重ね、椅子を立った。

「今夜は二人で過ごすぞ」

また子供を産まされるのだ。
アスタは込み上げる涙をなんとか飲み込んだ。

「イハ、来い」

水辺で遊ぶ息子に近づき、ハカスが呼びかける。
魚のように泳いでいたイハが岸に近づき、飛び上がって陸にあがった。
その小さな背中をハカスが優しく抱きしめる。

イハの目から見たら、ハカスもアスタも大好きな父親と母親だ。
世界の残酷さも、愛の複雑さもまだ知らない。

幸福な子供時代を過ごしながら、王の後継者として少しずつ残酷な世界を学んでいくのだ。

ダヤの愛に応えて生きていくのだと思っていたのに、その人生はハカスによって搾取されていく。
本当に愛したい人は、手の届かない場所にいて、もう別の人を愛しているかもしれない。

「ダヤ……」

声に出してしまったことに気づき、急いで口を閉ざしフィアを見下ろす。
娘はすやすやと眠っている。
周囲にも人の気配はない。

ほっとして、アスタは娘の体を優しく抱き直した。
水を含んだ風が、熱からアスタを守るように吹き付けてくる。

涙で霞む視界の中に、イハとハカスの寄り添う姿がある。
その光景に、アスタはダヤとアスタを隔てる果てしない道のりを想った。

どんなに願っても奇跡は起こらない。
釣り上げられ、水槽に入れられた魚は、決して自力では逃げられないのだ。

「アスタ、夜になる前に迎えに来る」

ハカスがイハと離れ、部屋を横切りながらアスタに視線を向ける。
両親の様子を見ているイハを意識し、アスタは夫の帰りを待ちわびる妻らしく微笑んだ。




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