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5.おぞましい現実
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牢内の二人の様子を、ハカスは天井に取り付けられた特殊なレンズを通して観察していた。
そこは牢内を監視するために作られた、王族のための豪華な一室だった。
広い寝台に、酒の並んだ棚、美女と楽しむための浴室までついている。
ハカスはそんな部屋で、夜を一人で過ごした。
その結果、ハカスは今まで抱えたことのない複雑な感情に支配され、理解しがたい苛立ちの中、部屋の中をぐるぐると歩き始めることになった。
そうしている間も、アスタの微笑みや、寝台で激しくダヤを求める姿が次から次に脳裏に蘇る。
奴隷は所詮、道具であり、特別な価値が与えられることはない。
ちょっと気に入った奴隷も数日で飽きてしまい、部下に与えておもちゃにしたことも何度もある。
アスタも同様に道具にすぎず、欲しい情報を引き出すために、二人の関係を利用しただけだったが、牢内の二人の姿は、思いもかけずハカスの心を抉ったのだ。
自分が仕掛けたことであるにも関わらず、ハカスはダヤを殺す方法を考え始めていた。
しかしそんなことをすれば、アスタはさらにハカスに従わなくなる。
ダヤを生かしておかなければ、アスタは必要な情報さえも渡さないと言い出すかもしれない。
願いをかなえたのだから、それはハカスが手にするべきものだ。
ハカスは苛立ちを募らせたまま豪奢な椅子に深く腰を落とした。
ダヤが何か一つでも反抗的な態度をとれば、それを口実に罰することも出来たが、残念ながら奴隷の二人は身分をわきまえ、主人から与えられた褒美以上のものは得ようとしなかった。
二人は生き延びるために賢く振舞ったのだ。
「気に入らない男だ……」
アスタを取り返すために、確実な機会を狙っているのだ。
ハカスは牢の監視部屋を出ると、離れの宮殿に向かった。
そこには既に医術師が待機しており、戻ってきたアスタの体を清めている。
他の男に抱かれて戻ってきたアスタは、地下牢に入れてしまおうとさえ考えていた。
必要な情報を取り出せば、餌として捨てるだけの存在であり、女としての関心は無くなるはずだと思ったのだ。
それなのに、その執着はさらに強くなり、夜のうちに他の男の種を洗い流すための医術師を手配した。
さすがに一晩中他の男に抱かれたアスタに会う気にはなれず、執務室に向かったハカスのもとに、手配した医術師の一人が駆け付けてきた。
「ハカス様!」
足を止めてしまう自分に苛立ちながら、ハカスは振り返った。
「なんだ」
あの男の種をきれいに取り除き、全ての痕跡を消し去るように命じたのは自分だが、そんな報告は受けたくないとまで思ってしまう。
全ては自分の命令通りに進んでいるため、怒りをぶつけることも出来ない。
「あ、あの……。それが、あまり強い処置は難しいかと思います。その……あの奴隷は……その……」
「なんだ。早く言え!」
昨夜に関する話はさっさと終わりにしてしまいたいとばかりに、ハカスは怒鳴る。
医術師は背中をびくりと震わせ、床につかんばかりに頭を深く下げた。
「お……恐らく、殿下の子供を身ごもっております」
つい先ほどまで、怒りでいっぱいだったハカスの頭が一瞬、真っ白になった。
唖然とし、それから目を剥いて、もう一度耳を澄ます。
「なんだと?」
「あの奴隷が初めてこの宮殿に運び込まれてきた時、私がその体を調べました。その時は、確かに妊娠の兆候はなく、念のため数日に渡り、外の子種が育っていないか検査を繰り返しました。
それから、今日まで他の誰とも、つまり昨夜の男とも交わっていないのであれば、今宿っている命は、つまり、ここに運び込まれてからのことになりますから、つまり……」
「俺の子だと?あの、奴隷の子ではないのか?」
「昨日の今日で、その可能性はありません。この宮殿内で身ごもったのです」
ハカスの離宮で妊娠したのであれば、父親はどう考えてもハカス以外は考えられない。
女を囲う時は、子殺しの毒薬を飲ませ用心してきたが、アスタには飲ませなかった。
水女が妊娠した話は聞いたことがなかったし、どうせすぐに飽きて砂魚の餌にしてしまうのだと思っていたため、油断していた。
いや、水女は体が弱く、すぐに死んでしまう。毒薬を飲ませることを躊躇ったのだ。
アスタに対する執着が、ハカスの判断を狂わせた。
「アスタは知っているのか?」
「いいえ。殿下にまずはお知らせしなければと思いましたので」
もし身ごもった奴隷がアスタでなければ、迷わず母子ともに殺せたのにとハカスは思った。
アスタへの執着はまだ消せそうにない。
いつか飽きるかもしれないが、それまでは生かしておくしかない。
最初のハカスの子を奴隷が産むことになるのだ。
許せない事だと思いながらも、その心には不思議な高揚感もある。
アスタがハカスの子供を生めば、もう奴隷の男と結ばれる未来は断たれたも同然だ。
アスタを永遠にハカスだけの物に出来るかもしれない。
「ならばまだ知らせるな。俺が時期を決める」
「かしこまりました」
医術師が去ると、ハカスは部下を呼び、冷酷な命令を伝えた。
「今夜の闘技場には砂輪虫を用意しておけ。あの男が対戦相手だ。俺の奴隷を使った対価はすぐにでも払ってもらわなければならないからな」
執務室にこもってすぐに、アスタの準備が整ったと知らせが来た。
すぐにでもその姿を確認したいところだったが、ハカスは腰を上げなかった。
その脳裏には、どうしても昨夜のアスタとダヤの交わる姿がある。
他の男に与えた女を、また抱きたいと思うことなど、未来永劫無いと思ってきた。
それなのに、ハカスは夜になるのが待ち遠しいと感じていた。
闘技場に炎が入った。珍しくその日の競技は夜間に行われることになった。
砂の張られた円形の闘技場には、男が一人だけ立っている。
武器は大剣一本のみで、無謀な戦場に放り出された男は、王族席にアスタの姿を見つけ、感情を隠した顔を、ただ真っすぐにアスタに向けた。
昨夜愛し合ったばかりの男の姿を、アスタも祈るように見つめている。
その傍らにはハカスがいる。
夜になるのを待ち、ハカスはアスタを寝室に迎えに行き、そのまま闘技場に連れだした。
目の前でダヤを殺し、もう帰る場所はないのだと見せつけるための場を用意したのだ。
二人が無言で見つめ合う様子を見て、ハカスは不気味に口の端をつり上げる。
どれほど思い合っていたとしても、アスタの腹にはハカスの子が宿っており、奴隷の男は今夜にでも命を落とすのだ。
権力者であるハカスに媚びることもせず、ひたすらにダヤを見つめるアスタを抱き寄せ、ハカスは小さな耳にしゃぶりついた。
「お前は、あの男の何なのだ?水女と護衛といった関係ではなかったのか?」
奴隷の事情など気にかけたこともなかったのに、アスタのことは知らずにはいられない。
教養のある特別な水女であるとは考えたが、所詮は奴隷、道具の人生などどうでもいいはずだった。
なぜこうもアスタのことが気になるのかと、ハカスは苛立ちながらも、アスタの答えを待つ。
「彼は……。ダヤは私の夫です」
予想外の答えに、ハカスは顔色を変えた。
「水女と夫婦になれる国があるとは思わなかったな」
砂の地に生まれたオアシスには、必ず国が育つ。
オアシスを繋ぐ道は多くはないが、砂ラクダで近くの国を行き来する商人は存在している。
あるいは、資源が乏しくなり、他のオアシスをのっとろうと他国が襲ってくることもある。
そうした国々の情報をパール国は商人達から買っている。
閉ざされた土地だからこそ、外の情報は貴重なものであり、他国がこの国を狙っていないかどうか常に目を光らせてておく必要がある。
他にも、砂魚を解体した時に、飲み込まれた人々の遺品から外の事情がわかることもある。
よく発見される遺体はやはり水女のものであり、彼らは砂魚を引き寄せる餌として捨てられているのだ。
「お前は水女だろう?」
アスタは闘技場に立つダヤを見つめたまま、口を開いた。
「私は、砂魚のお腹の中から、彼によって助け出されました。彼は……私に名前を聞いてくれました。
私を水女として扱おうとはせず、弱っている私を自宅に連れて帰って、大切に匿ってくれました。
国に差し出すことなく、彼は私に妻になってほしいと言ってくれたのです。私は喜んで了承しました。
私達はその時、夫婦になったのです。
近所の人たちや、彼の友人たちは私の存在を知ることになりましたが……私は彼と暮らし続けることが出来ていました。でも……砂魚が出たある日、誰かに売られて……国の外に出されてしまったのです。
彼は、命がけで私を追いかけてきてくれた。そして、一緒に砂魚に飲まれたのです。
私を見つけなければ……私を……追いかけて来なければ……私と出会わなければ、彼は故郷で腕の良い狩人として幸せに暮らせていたはずです。そんな彼が、もしここで命を落とせば、私も後を追います」
ダヤはアスタを奴隷や水女としてではなく、最初から唯一の伴侶として扱ったのだ。
既に人妻であったのであれば、子供を孕ませたとしても、ハカスは所詮夫の次に現れた二番目の男に過ぎない。
毅然としたアスタの言葉に、ハカスはさらに苛立った。
ハカスこそがアスタの主人であるのに、まるでハカスは少しの間、アスタの体を夫から借りているだけのような気すらしてくる。
「それは正式な夫婦とは言えないな。口約束だけではないか。恋人、あるいは婚約者といったところだ。しかしここに来たからにはそんなちっぽけな誓約は無効だ。
国が変われば決まりも変わる。お前は俺の物で、あの男も俺の奴隷だ」
「この国の掟に逆らったことはないはずです。私たちはよそ者であり、この国での立場をわきまえています。この国のやり方で、私達は希望を繋げているだけです」
涙をにじませ、唇をかみしめるアスタの姿に、ハカスは昨夜のダヤに向けて微笑むアスタの姿を重ね合わせた。
夫のダヤだけに、アスタは、あんなにも甘く微笑むのだ。
嫌がるアスタを力でねじ伏せ、体を支配する喜びにばかりに浸ってきたが、昨夜のアスタを思い出すと、胸をかきむしられるような嫉妬を覚える。
ダヤだけが、アスタの全ての顔を知っている。
「ならば、夫が消えたらお前はどうなる?あの奴隷の男がここで命を落とせば」
「また同じことを言えばいいのですか?私も死にます」
淀みないアスタの言葉に、ハカスは激しい舌打ちをした。
こんな生意気な奴隷は殺してしまえばいいのだ。
そう思ったが、手は鉛のように重く、腰の剣までも動かない。
試合を告げる銅鑼が鳴り響く。
まだダヤの対戦相手は、闘技場に姿を見せてはいない。
不気味な金属音が観戦席の方まで聞こえてきた。
ダヤの正面にある巨大な鉄の扉がじりじりと引き上げられていく。
両手を胸の前で組み合わせ、最愛の男の無事を祈るアスタの姿を見て、ハカスの心にどす黒いもの物が立ち上がる。
その肩を抱き寄せ、耳元で低く囁いた。
「お前の体には俺の子が宿っている。夫の子ではなくて残念だな」
アスタの目が大きく膨らみ、のろのろとハカスを見上げる。
絶望と悲しみに打ちひしがれたその顔は、みるみる青ざめていく。
今にも命を断ちそうなそんな顔こそ、ハカスの好物だったはずなのに、やはり思い描いていたものとは違う感情がハカスの心に立ちのぼる。
「俺の子がそれほど嫌か?」
口から出た言葉も、ハカスの心に反していた。
嫌がる女を孕ませ、絶望と悲しみを味合わせ、完膚なきまでにその心をへし折ってやることも楽しみの一つであり、王子の子を宿したことで身の安全を保障されたと安心し、喜ぶ女を殺すこともまた、一興とさえ思っていた。
無力な奴隷たちは権力者に媚び、自分の立場をすこしでも良くしようと本気でハカスの寵愛を望み、関係を持った後に飲まされる子を殺す薬をこっそり吐き出そうとする者さえいる。
女であればハカスの子を望んで当然なのだ。
それなのに、アスタはお腹の子供を嫌悪している。
「私の体を支配出来たとしても、私の心はダヤのものです。永遠にあなたには手に入れることが出来ない」
白く滑らかな肌を透明な涙が伝い、朝露の一滴のような輝きを放ちながらそれは乾いた空気の中をすり抜けて落ちて行き、石の床で小さな染みを作った。
まるで妖魔の産む魅惑の真珠のように美しい涙だと、ハカスは思った。
アスタの涙も、その一途な愛も、心からの言葉もその全身の隅々までも、ダヤのためにささげられている。
その体を使い楽しんだとしても、ハカスはいつまでもかりそめの男に過ぎない。
そんなことが許されるだろうか。
闘技場内の扉が完全に開き、観客の歓声があがった。
しかしその甲高い歓声は、すぐに恐怖による悲鳴にすり替わる。
ダヤの対戦相手として現れたものは人間ではなかった。
野獣でも砂魚でもない。
それは闘技場の屋根を突き破りそうなほど巨大な砂輪虫だった。
左右に開く巨大な牙を持ち、トカゲのように固い甲羅をいくつも連ねた体をしているが、ミミズのように丸い肉を備え、柔軟な動きも出来る。
その背丈は砂魚の三倍はあり、大勢の狩人達が力を合わせ、狩るようなそんな大物だった。
そこは牢内を監視するために作られた、王族のための豪華な一室だった。
広い寝台に、酒の並んだ棚、美女と楽しむための浴室までついている。
ハカスはそんな部屋で、夜を一人で過ごした。
その結果、ハカスは今まで抱えたことのない複雑な感情に支配され、理解しがたい苛立ちの中、部屋の中をぐるぐると歩き始めることになった。
そうしている間も、アスタの微笑みや、寝台で激しくダヤを求める姿が次から次に脳裏に蘇る。
奴隷は所詮、道具であり、特別な価値が与えられることはない。
ちょっと気に入った奴隷も数日で飽きてしまい、部下に与えておもちゃにしたことも何度もある。
アスタも同様に道具にすぎず、欲しい情報を引き出すために、二人の関係を利用しただけだったが、牢内の二人の姿は、思いもかけずハカスの心を抉ったのだ。
自分が仕掛けたことであるにも関わらず、ハカスはダヤを殺す方法を考え始めていた。
しかしそんなことをすれば、アスタはさらにハカスに従わなくなる。
ダヤを生かしておかなければ、アスタは必要な情報さえも渡さないと言い出すかもしれない。
願いをかなえたのだから、それはハカスが手にするべきものだ。
ハカスは苛立ちを募らせたまま豪奢な椅子に深く腰を落とした。
ダヤが何か一つでも反抗的な態度をとれば、それを口実に罰することも出来たが、残念ながら奴隷の二人は身分をわきまえ、主人から与えられた褒美以上のものは得ようとしなかった。
二人は生き延びるために賢く振舞ったのだ。
「気に入らない男だ……」
アスタを取り返すために、確実な機会を狙っているのだ。
ハカスは牢の監視部屋を出ると、離れの宮殿に向かった。
そこには既に医術師が待機しており、戻ってきたアスタの体を清めている。
他の男に抱かれて戻ってきたアスタは、地下牢に入れてしまおうとさえ考えていた。
必要な情報を取り出せば、餌として捨てるだけの存在であり、女としての関心は無くなるはずだと思ったのだ。
それなのに、その執着はさらに強くなり、夜のうちに他の男の種を洗い流すための医術師を手配した。
さすがに一晩中他の男に抱かれたアスタに会う気にはなれず、執務室に向かったハカスのもとに、手配した医術師の一人が駆け付けてきた。
「ハカス様!」
足を止めてしまう自分に苛立ちながら、ハカスは振り返った。
「なんだ」
あの男の種をきれいに取り除き、全ての痕跡を消し去るように命じたのは自分だが、そんな報告は受けたくないとまで思ってしまう。
全ては自分の命令通りに進んでいるため、怒りをぶつけることも出来ない。
「あ、あの……。それが、あまり強い処置は難しいかと思います。その……あの奴隷は……その……」
「なんだ。早く言え!」
昨夜に関する話はさっさと終わりにしてしまいたいとばかりに、ハカスは怒鳴る。
医術師は背中をびくりと震わせ、床につかんばかりに頭を深く下げた。
「お……恐らく、殿下の子供を身ごもっております」
つい先ほどまで、怒りでいっぱいだったハカスの頭が一瞬、真っ白になった。
唖然とし、それから目を剥いて、もう一度耳を澄ます。
「なんだと?」
「あの奴隷が初めてこの宮殿に運び込まれてきた時、私がその体を調べました。その時は、確かに妊娠の兆候はなく、念のため数日に渡り、外の子種が育っていないか検査を繰り返しました。
それから、今日まで他の誰とも、つまり昨夜の男とも交わっていないのであれば、今宿っている命は、つまり、ここに運び込まれてからのことになりますから、つまり……」
「俺の子だと?あの、奴隷の子ではないのか?」
「昨日の今日で、その可能性はありません。この宮殿内で身ごもったのです」
ハカスの離宮で妊娠したのであれば、父親はどう考えてもハカス以外は考えられない。
女を囲う時は、子殺しの毒薬を飲ませ用心してきたが、アスタには飲ませなかった。
水女が妊娠した話は聞いたことがなかったし、どうせすぐに飽きて砂魚の餌にしてしまうのだと思っていたため、油断していた。
いや、水女は体が弱く、すぐに死んでしまう。毒薬を飲ませることを躊躇ったのだ。
アスタに対する執着が、ハカスの判断を狂わせた。
「アスタは知っているのか?」
「いいえ。殿下にまずはお知らせしなければと思いましたので」
もし身ごもった奴隷がアスタでなければ、迷わず母子ともに殺せたのにとハカスは思った。
アスタへの執着はまだ消せそうにない。
いつか飽きるかもしれないが、それまでは生かしておくしかない。
最初のハカスの子を奴隷が産むことになるのだ。
許せない事だと思いながらも、その心には不思議な高揚感もある。
アスタがハカスの子供を生めば、もう奴隷の男と結ばれる未来は断たれたも同然だ。
アスタを永遠にハカスだけの物に出来るかもしれない。
「ならばまだ知らせるな。俺が時期を決める」
「かしこまりました」
医術師が去ると、ハカスは部下を呼び、冷酷な命令を伝えた。
「今夜の闘技場には砂輪虫を用意しておけ。あの男が対戦相手だ。俺の奴隷を使った対価はすぐにでも払ってもらわなければならないからな」
執務室にこもってすぐに、アスタの準備が整ったと知らせが来た。
すぐにでもその姿を確認したいところだったが、ハカスは腰を上げなかった。
その脳裏には、どうしても昨夜のアスタとダヤの交わる姿がある。
他の男に与えた女を、また抱きたいと思うことなど、未来永劫無いと思ってきた。
それなのに、ハカスは夜になるのが待ち遠しいと感じていた。
闘技場に炎が入った。珍しくその日の競技は夜間に行われることになった。
砂の張られた円形の闘技場には、男が一人だけ立っている。
武器は大剣一本のみで、無謀な戦場に放り出された男は、王族席にアスタの姿を見つけ、感情を隠した顔を、ただ真っすぐにアスタに向けた。
昨夜愛し合ったばかりの男の姿を、アスタも祈るように見つめている。
その傍らにはハカスがいる。
夜になるのを待ち、ハカスはアスタを寝室に迎えに行き、そのまま闘技場に連れだした。
目の前でダヤを殺し、もう帰る場所はないのだと見せつけるための場を用意したのだ。
二人が無言で見つめ合う様子を見て、ハカスは不気味に口の端をつり上げる。
どれほど思い合っていたとしても、アスタの腹にはハカスの子が宿っており、奴隷の男は今夜にでも命を落とすのだ。
権力者であるハカスに媚びることもせず、ひたすらにダヤを見つめるアスタを抱き寄せ、ハカスは小さな耳にしゃぶりついた。
「お前は、あの男の何なのだ?水女と護衛といった関係ではなかったのか?」
奴隷の事情など気にかけたこともなかったのに、アスタのことは知らずにはいられない。
教養のある特別な水女であるとは考えたが、所詮は奴隷、道具の人生などどうでもいいはずだった。
なぜこうもアスタのことが気になるのかと、ハカスは苛立ちながらも、アスタの答えを待つ。
「彼は……。ダヤは私の夫です」
予想外の答えに、ハカスは顔色を変えた。
「水女と夫婦になれる国があるとは思わなかったな」
砂の地に生まれたオアシスには、必ず国が育つ。
オアシスを繋ぐ道は多くはないが、砂ラクダで近くの国を行き来する商人は存在している。
あるいは、資源が乏しくなり、他のオアシスをのっとろうと他国が襲ってくることもある。
そうした国々の情報をパール国は商人達から買っている。
閉ざされた土地だからこそ、外の情報は貴重なものであり、他国がこの国を狙っていないかどうか常に目を光らせてておく必要がある。
他にも、砂魚を解体した時に、飲み込まれた人々の遺品から外の事情がわかることもある。
よく発見される遺体はやはり水女のものであり、彼らは砂魚を引き寄せる餌として捨てられているのだ。
「お前は水女だろう?」
アスタは闘技場に立つダヤを見つめたまま、口を開いた。
「私は、砂魚のお腹の中から、彼によって助け出されました。彼は……私に名前を聞いてくれました。
私を水女として扱おうとはせず、弱っている私を自宅に連れて帰って、大切に匿ってくれました。
国に差し出すことなく、彼は私に妻になってほしいと言ってくれたのです。私は喜んで了承しました。
私達はその時、夫婦になったのです。
近所の人たちや、彼の友人たちは私の存在を知ることになりましたが……私は彼と暮らし続けることが出来ていました。でも……砂魚が出たある日、誰かに売られて……国の外に出されてしまったのです。
彼は、命がけで私を追いかけてきてくれた。そして、一緒に砂魚に飲まれたのです。
私を見つけなければ……私を……追いかけて来なければ……私と出会わなければ、彼は故郷で腕の良い狩人として幸せに暮らせていたはずです。そんな彼が、もしここで命を落とせば、私も後を追います」
ダヤはアスタを奴隷や水女としてではなく、最初から唯一の伴侶として扱ったのだ。
既に人妻であったのであれば、子供を孕ませたとしても、ハカスは所詮夫の次に現れた二番目の男に過ぎない。
毅然としたアスタの言葉に、ハカスはさらに苛立った。
ハカスこそがアスタの主人であるのに、まるでハカスは少しの間、アスタの体を夫から借りているだけのような気すらしてくる。
「それは正式な夫婦とは言えないな。口約束だけではないか。恋人、あるいは婚約者といったところだ。しかしここに来たからにはそんなちっぽけな誓約は無効だ。
国が変われば決まりも変わる。お前は俺の物で、あの男も俺の奴隷だ」
「この国の掟に逆らったことはないはずです。私たちはよそ者であり、この国での立場をわきまえています。この国のやり方で、私達は希望を繋げているだけです」
涙をにじませ、唇をかみしめるアスタの姿に、ハカスは昨夜のダヤに向けて微笑むアスタの姿を重ね合わせた。
夫のダヤだけに、アスタは、あんなにも甘く微笑むのだ。
嫌がるアスタを力でねじ伏せ、体を支配する喜びにばかりに浸ってきたが、昨夜のアスタを思い出すと、胸をかきむしられるような嫉妬を覚える。
ダヤだけが、アスタの全ての顔を知っている。
「ならば、夫が消えたらお前はどうなる?あの奴隷の男がここで命を落とせば」
「また同じことを言えばいいのですか?私も死にます」
淀みないアスタの言葉に、ハカスは激しい舌打ちをした。
こんな生意気な奴隷は殺してしまえばいいのだ。
そう思ったが、手は鉛のように重く、腰の剣までも動かない。
試合を告げる銅鑼が鳴り響く。
まだダヤの対戦相手は、闘技場に姿を見せてはいない。
不気味な金属音が観戦席の方まで聞こえてきた。
ダヤの正面にある巨大な鉄の扉がじりじりと引き上げられていく。
両手を胸の前で組み合わせ、最愛の男の無事を祈るアスタの姿を見て、ハカスの心にどす黒いもの物が立ち上がる。
その肩を抱き寄せ、耳元で低く囁いた。
「お前の体には俺の子が宿っている。夫の子ではなくて残念だな」
アスタの目が大きく膨らみ、のろのろとハカスを見上げる。
絶望と悲しみに打ちひしがれたその顔は、みるみる青ざめていく。
今にも命を断ちそうなそんな顔こそ、ハカスの好物だったはずなのに、やはり思い描いていたものとは違う感情がハカスの心に立ちのぼる。
「俺の子がそれほど嫌か?」
口から出た言葉も、ハカスの心に反していた。
嫌がる女を孕ませ、絶望と悲しみを味合わせ、完膚なきまでにその心をへし折ってやることも楽しみの一つであり、王子の子を宿したことで身の安全を保障されたと安心し、喜ぶ女を殺すこともまた、一興とさえ思っていた。
無力な奴隷たちは権力者に媚び、自分の立場をすこしでも良くしようと本気でハカスの寵愛を望み、関係を持った後に飲まされる子を殺す薬をこっそり吐き出そうとする者さえいる。
女であればハカスの子を望んで当然なのだ。
それなのに、アスタはお腹の子供を嫌悪している。
「私の体を支配出来たとしても、私の心はダヤのものです。永遠にあなたには手に入れることが出来ない」
白く滑らかな肌を透明な涙が伝い、朝露の一滴のような輝きを放ちながらそれは乾いた空気の中をすり抜けて落ちて行き、石の床で小さな染みを作った。
まるで妖魔の産む魅惑の真珠のように美しい涙だと、ハカスは思った。
アスタの涙も、その一途な愛も、心からの言葉もその全身の隅々までも、ダヤのためにささげられている。
その体を使い楽しんだとしても、ハカスはいつまでもかりそめの男に過ぎない。
そんなことが許されるだろうか。
闘技場内の扉が完全に開き、観客の歓声があがった。
しかしその甲高い歓声は、すぐに恐怖による悲鳴にすり替わる。
ダヤの対戦相手として現れたものは人間ではなかった。
野獣でも砂魚でもない。
それは闘技場の屋根を突き破りそうなほど巨大な砂輪虫だった。
左右に開く巨大な牙を持ち、トカゲのように固い甲羅をいくつも連ねた体をしているが、ミミズのように丸い肉を備え、柔軟な動きも出来る。
その背丈は砂魚の三倍はあり、大勢の狩人達が力を合わせ、狩るようなそんな大物だった。
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