残酷で幸福な愛の話

丸井竹

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17.治療

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 湖を浮かべた庭園が窓から臨める場所にヤーナの離宮はあった。
それは王城の少し裏側に位置しており、比較的静かな場所だった。
治癒師や薬師はそこに通い、ヤーナの様子を観察し、少しずつだが治療を試みていた。
簡単な質問を繰り返し、ヤーナの心理状況を探ろうとしたのだ。

その結果、新しい場所に移せばヤーナを混乱させると判断され、ヤーナはまだ離宮に囚われていた。

デイヴィスが訪れると、ヤーナは寝台に座り、お行儀よく微笑んだ。
新しい王に合わせたやり方を覚えたのだ。

「陛下」

お行儀の良い微笑みを作り、ヤーナは挨拶をする。
デイヴィスは微笑み返し、その隣に座る。

手も繋げるし、それ以上のこともしたがるが、ヤーナの心は閉ざされている。

「ヤーナ、何か欲しいものは?」

デイヴィスの問いに、ヤーナは幻惑の実を指さした。
何か思い出したくないことがあるのだ。

「君の……言い方は悪いが、観察記録を読んだ。ここにきた当初から三年間、君はそれをあまり口にしていない。残したい記憶があったのだと治癒師達は考えている。
でも、ここに戻されてから君はたくさんの幻惑の実を食べた。辛かったのだと思うが……君の人格が失われていくのは……」

その量は洗脳に使われる薬の量に匹敵し、自己を保つのも難しい状況だと薬師のコーデルの記録から判断された。
戻されたことがよほど辛く、三年耐えたことに耐えられなくなったのかもしれないとデイヴィスや治癒師達は考えた。

全てを忘れた方が幸せなのだろうか。
デイヴィスはヤーナの手を取り、その手をじっと見つめた。
ヤーナは不思議そうにデイヴィスを見上げた。

王が何を望んでいるのか知りたがっているのだ。
愛されるために、生き残るために。
それは習性となってしまった事であり、ヤーナの本心ではない。

ぼんやりとした眼差しに、作り物の笑顔。
デイヴィスを見ても何か思い出す様子もない。
ヤーナの頬を抱いて、デイヴィスはその唇を欲しいと思った。

わずかに、ヤーナの全身に力が入った。
それは一瞬だったが、確かな嫌悪だった。
犯される時、口づけされる時、ヤーナは心の痛みに堪え、それを表に出さないように気を付けたのだ。
すぐに力を抜き、ヤーナは心を閉ざした笑顔で自ら唇を重ねようとする。
その体をデイヴィスは退けた。

ヤーナが望んでいないことはしたくない。

デイヴィスはヤーナの手を両手で大切に握った。
故郷に戻された時、ヤーナの手にはちゃんと十本の指が揃っていた。
ここに連れ戻された時に何かあったのだ。

デイヴィスの仲間達が王城にヤーナの犬として潜入を果たした時には、もう指はなかったと報告を受けていた。
犬を集めるきっかけになるような出来事があったのかもしれない。

「ヤーナ……」

デイヴィスが覚えているヤーナはこんな作り物めいた笑い方はしなかった。
もう四年以上も前のことだ。
恥ずかしくて手も繋げず、口づけもまだだった。
ヤーナの心が知りたくて、わざと手を近づけて指を触れ合わせた。

恥ずかしそうなヤーナの顔は笑っていた。
手を握ればよかったが、田舎の村で、男女が並んで歩くだけでも冷やかされた。

家族に交際を反対される可能性もあった。
ヤーナの家族はあまりヤーナを大切にしていなかった。
妹に遠慮して、ヤーナもあまり積極的になれない様子で、デイヴィスの誘いになかなか応えてくれなかった。
村の郊外にある川に向かう小道でデイヴィスはよくヤーナを待ち伏せした。

デイヴィスを見つけると、ヤーナは花のように笑った。
うれしそうに頬を赤らめて目を合わせ、それから恥ずかしそうに目を伏せる。
並んで歩きながら、ちらちらと視線を指に向ける。

指が触れるか触れ合わないかの距離を歩き、目が合うとすぐに顔を伏せる。
デイヴィスはヤーナの唇を見ていた。
欲しくてたまらなかった。
柔らかく微笑むその唇の形も好きだった。

「陛下?」

今のヤーナの微笑みは、その当時の微笑みとは似ても似つかない偽物だ。
デイヴィスはヤーナに微笑み返し、ヤーナを寝台に横たえると、その目を閉じさせた。

「また来る。ヤーナ……」

あの時、逃げなければ良かったのか。
それとも、これしか方法がなかったのか。

答が出ないままさらに数か月が過ぎた頃、ヤーナを治療していた治癒師の一人が一つの提案をした。

「ベメ王討伐の直後、ヤーナ様は陛下を前に、銀貨がないから遊べないと言ったのですよね?
それはヤーナ様の中に残っている記憶です。
ヤーナ様の記憶が強く残っているところまでさかのぼれば、そこから新しく脳の状態を回復していけるかもしれません。
同時に危険のないよう様子を見ながら薬も抜いていきましょう。
このままでは、ヤーナ様の心はこの離宮に閉じ込められたままです。
永遠に、恐ろしい王の来訪を待ち続けることになる。
もとのヤーナ様に戻すのではなく、王の呪縛から解放されることを目指しましょう。
恐らく、記憶を改ざんし事実を捻じ曲げる必要があります。しかし、今の状態から脱却することは出来ます。
どうもヤーナ様は記憶の一点から時間が止まっているように見受けられます。
つまり、正気であったところからやり直せる可能性があるのです。
なんとかそこに戻り、そこからヤーナ様の時間を進めましょう。
王を相手にヤーナ様は本心を言えません。でも、大切にしていた犬の前であれば……」

王に犬になれとは言えず、治癒師は口ごもった。
デイヴィスはヤーナのためならどんなことでもする覚悟だった。
すぐに仲間達を集め、そのための相談を開始した。



――

 冬の終わり、まだ肌寒い中、ヤーナは王宮を離れることになった。
昨夜、急に王が訪ねてきてヤーナに告げたのだ。

「ヤーナ、王宮勤めは今日で終わりだ。良く勤めたな」

ヤーナは喜びを顔に出さないように気を付けた。

「寂しく思いますが、仕方がありません。お傍にいられて幸せでした」

心にもない挨拶を終え、それ以上何もないまま翌朝馬車に送られた。
ヤーナは馬車の外を眺め、ぼんやりと記憶を探った。

こんなことが以前にもあった気がするが、思い出せない。
三年、生き延びた。
それなのに故郷に帰れることを喜ぶ気にはなれない。

ふと、窓に置いた自分の手をヤーナは不思議そうに見つめた。
中指が消えている。
いつ消えたのだろうかと、ヤーナは不思議に思ったが、それでよかった気もしてくる。

ぼんやりとした意識のまま、ヤーナはとある館の前に到着した。
そこで下ろされ、階段の上の扉を見上げる。
どこかで見たことがあるような外観だ。

ヤーナは階段を一段ずつ踏みしめて登った。
扉を開けると中はがらんとしている。
右側に二階に上がる階段があり、途中で左に折れている。
その踊り場に目をやった瞬間、ヤーナは走り出していた。

記憶の中に何かが残っている。
人が横たわれるぐらいの広さの床の上には何もない。
ヤーナはそこに座り込んで、床を注意深く見つめた。
指で板を擦り、そこに血痕がないか確認する。

「あ……」

突然ヤーナは立ち上がり、寝室に向かった。
見知った通路を通り、馴染みのある扉を開ける。
寝台も知っている。

そこに横たわり、ヤーナはなぜここにいるのかぼんやり考えた。

王に寵姫として王宮に連れていかれると、三年は戻れない。
無事に三年勤め終えたら、故郷の村に戻される。
三年前とは変わり果てた汚れた体で村に戻り、人々から白い目で見られ一生王の館に囚われる。

戻ってきたのだろうかとヤーナはぼんやり考えた。

記憶をたどろうとしたが王宮の出来事は辛すぎて思い出したくも無かった。
もし夢ならどんなに良いだろう。
そんな風に考えて、ヤーナはさらにわからなくなった。

もし夢ならば、どこまでが夢で、どこからが現実なのか。
現実はいつだって残酷だ。
だとしたら、もっとも残酷な記憶が本物なのではないだろうか。

ふと気が付くと、窓の外はいつの間にか真っ暗になっていた。
空腹を感じるような気がするが、何も感じない気もする。
ヤーナは起き上がり、厨房に向かった。

と、扉が鳴った。
控えめな音で、それは裏口から聞こえてくる。
どきどきする胸を押さえ、ヤーナは厨房の奥にある扉を見た。
手前に灯りがおいてある。

それは既に火が入っていた。
もう一度扉が鳴った。

伸ばした手が震えている。
ドアノブに手をかけ、ゆっくり回して開ける。

ランプの灯りがぎりぎり届くところに一人の男が立っている。
おどおどと目を落とし、背中を丸めている。
外は既に真っ暗で、人目につかない時間帯だ。

「あ……」

男が拳を突き出した。
ヤーナは腕を伸ばし、男の拳の下で手を開いた。
男が拳を開くと、ランプの光を跳ね返し、銀色の物体がぽたりとヤーナの手の上に落ちた。

それは一枚の銀貨だった。
ヤーナの頭の中で、時間がするっと巻き戻った。

「まぁ……返しにきてくれたのね……」

自然にヤーナの口から言葉が流れ出た。

男が、今落とした銀貨を今度は欲しいと訴えるように、手を開いて突き出した。
名前を呼ぼうとして、ヤーナの唇が震えた。
そんなわけがないと頭のどこかが訴えている。

「ヤーナ……金を貸してくれないか?」

聞き覚えのある声だった。
おどおどと目を上げた男の顔をまっすぐに見つめ、ヤーナは厨房の椅子に座った。
こんな光景は以前にも見たことがある。
いつだっただろう。

確信が持てないまま、ヤーナはうっすらと微笑んだ。

「入って、服を脱ぎなさい」

男は戸口を入ってくると後ろ手に扉を閉めた。
それから素早く服を脱ぎ、裸になってお尻を床について座った。

犬のように両腕を伸ばして前の床に置く。
ヤーナを見上げて首を伸ばした。

不思議そうにヤーナはその姿を見おろしながら、なんとなく厨房の台に手を伸ばした。
指に触れた紐を取り上げる。

何も考えずに、ヤーナはそれを男の首に巻いてやった。
また記憶が少し巻き戻った。

「デイヴィス……?良い子ね……ちゃんと覚えているのね……」

やっと口から出てきた名前にほっとして、ヤーナは夢の中にいるかのようにぼんやりとした口調で、デイヴィスに語りかけた。



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