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36.心の変化
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「ルカ?無事なの?姿を見せて!」
声が大きくなる女を後ろに引き寄せ、レイフが声をかけた。
「レイフだ。王国の騎士団も来ている。怪我人は?外はまだ危険な状態だ。音を立てないように一人ずつ出て来られるか?手伝いに下りた方が良いか?」
「怪我人はいない。これから出て行く」
ロベルは、上に向かってそう答え、一人で階段を上がり始めた。
「ロベル様」
レイフが手を貸し、ロベルを引き上げる。
その後ろから少年の姿が現れた。
レイフは片腕で抱き上げ、ルカを一瞬で地面に下ろした。
女はすぐに抱きしめ、その体が無事かどうか触れて確かめる。
父親が上ってきて、ほとんど全裸の女に気づき、衝撃を受けたように動けなくなった。
その尻を押しのけて、ヴィーナが地上にあがってきた。
「レイフ様」
息子を抱きしめ、エリンが押さえた声で呼びかけた。
「さっき死んだ男が、この町はオーブ国が掌握し、しばらく戦いにならないと言っていました。この町の貴族は買収されていて王族も味方についていると」
「王族?」
レイフは表情を引き締め、肩から落ちかけていた毛布を引き上げ、女を包み込んだ。
息子は全裸の母親に抱かれ、その腕の中で体を固くしている。
小さなランプの淡い光の中でもわかるほど、エリンの全身は傷だらけだった。
顔は腫れて、元の顔がわからなくなっている。
「エリン、ありがとう。それは重要な情報だ。家で待っていられるか?」
女はすぐに頷いた。
レイフが暗闇に向かって手招きすると、すぐにレイフの部下が姿を現した。
「ユーリ、彼らを頼む」
黙って頷き、ユーリは女を抱き上げようと近づいた。
女はびくりと体を震わせ、息子を固く抱きしめる。
先ほどまで、野蛮な男達に嬲られていた恐怖がやっと襲ってきたかのように、女の体は震えだしていた。
なんとか自分で立とうとするが、足にも力が入らない。
部下に任せてはいけず、レイフは引き返してくると女を抱き上げた。
息子から引き離されそうになり、女は暴れようとしたが、息子は父親が引き寄せていた。
ほっとしたように女は力を抜いた。
「俺が連れて行く。灯りは消して、ついてきてくれ」
暗がりの中、女を抱いたレイフ、それから息子を連れた男、ロベル、ヴィーナが無言で進む。
後ろをユーリが守り、住居になっている小屋に入った。
レイフは手探りで通路を進み、寝室に入ると、窓から差し込む薄明りの中に女を横たえた。
「エリン、今日、君は誰よりも勇敢だった。少しの間、ここを離れることを許して欲しい。愛している」
押さえた声で熱烈な告白をしたレイフは、最後に震える女の額に唇を押し付けた。
それからユーリにもう一度ここを頼むと告げ、暗がりを出ていく。
多くの気配が教会に向かって動いていたが、それに気づいた者はいなかった。
レイフの率いる騎士団はどこにも所属していない自由な軍隊であり、精鋭ぞろいだった。
敵国の軍隊を引き入れた貴族たちは、レイフが王族であることや、レイフが独立して動いていることをわかっていなかった。その身分は完全に隠され、王女のために有名な作家の作品を仕入れにきている一介の騎士だと思われていた。
ところが、レイフは既にこの町の怪しい動きに気づいていた。
軍馬の取引が増えれば、それは戦に備えている証拠でもある。
西国境の小競り合いも必要以上に長引いており、それはある種の癒着を生んでいた。
国をまたぎ勝手に取引をするものが現れたのだ。
敵の侵入がいつあるのか、その計画を掴もうと、秘密裏に動いていたところで突然国境が突破された。
まさか真冬に始まるとは思わず、レイフは大急ぎで王国軍を呼び寄せた。
その準備はしてきたが、さすがに直後に動くことは難しい。
まずは、西国境を突破した彼らの退路を防ぎ、それからじわじわと奪われた場所を取り返した。
誰が敵国に祖国を売ったのか、それを見極めるために慎重に反撃は始まった。
レイフは手持ちの騎士団を率い、敵軍が教会に入っていくのを確かめると、教会の正面を迂回して外壁の西扉から敷地に侵入した。そこはエリンのいる作業小屋のすぐ近くの扉であり、当然その存在をレイフは知っていた。
エリンをまずは救出するためだったが、まさか、町での略奪行為もなくまっすぐに教会に入ってきた傭兵団がいたことには気づかなかった。
壁を乗り越えようとして、扉が開いていることに気づき、エリンが一人で脱出したことを考えた。
しかし、小屋が近づくにつれ、壊された扉や荒れた庭の様子が明らかになると、今度は殺されたか、暴行を受けている可能性があると考えた。
作業小屋の入り口で、部隊をいったん闇に潜ませ、ここに入ってきた敵兵たちの痕跡を探っているまさにその時、教会から引き返してきたバザとエリンが裏口から入ってきた。
暗がりの中、バザとエリンが重なっていれば同時に殺してしまうかもしれない。
慎重に機会を待っていたレイフは、バザがランプに火を入れたところで電光石火のごとく動いたのだ。
そんなレイフに助け出された一同は、闇に閉ざされた小屋の中でまだ息をひそめていた。
ロベルと男と息子、それからヴィーナは居間にいて、小屋にある毛布やシーツ、外套などを被っていた。
まだ傭兵たちも敵国の軍隊も教会の敷地内にいるのだ。
暖炉に火を入れたら居場所を教えてしまう。
ユーリは女のいる寝室の手前で剣を抱いて座っていた。
男は息子を抱きしめ、息子がもう泣いて騒がない歳であることに感謝した。
これが五歳、六歳であれば、静かにしていられなかったかもしれない。
女のところに駆けつけたかったが、やはりこんな状況で息子を一人にはしておけなかった。
ロベルが腰をあげ、ユーリのいる通路に向かった。
「ユーリ、灯りはつけないが、彼女の体を見させて欲しい。妊娠の恐れもあるため、今できる処置をする」
密かな声だったが、音を立てないように静かにしていた全員がその声を聞いた。
男は震えながら息子の耳を覆った。
ヴィーナは動かなかった。
ユーリは黙って立ち上がり、ロベルを寝室に通した。
寝室の扉が閉まり、しばらくして女のすすり泣く声が聞こえてきた。
男の腕の中で、もうそれほど幼くもない息子が囁いた。
「父さん、行ってあげたら?」
体を張って息子を守ったのは女であり、傷だらけの女を助け出したのはレイフだった。
そして、一番に女の体を案じて動いたのはロベルであり、男は息子に声をかけられるまで動こうともしなかった。
何をするにも、今更のことだった。
駆け付けたい気持ちはあったが、出来なかったのだ。
どうすれば女の心に寄り添えるのか、男にはわからなかった。
すぐに女のすすり泣きは止まり、何も起きていないかのような静寂が続いた。
やがて、ロベルが出てきてひっそりと通路を通り居間に戻ってきた。
隣接している台所に入り、何かを探し始める。
その気配を感じ、男はやっと立ち上がった。
かつて暮らしていた場所であり、物のある場所はだいたいわかっている。
「何を探しているのですか?」
「布類が足りない」
男は黙って布巾が詰まれている棚に手を伸ばした。
清潔な布を数枚重ね差し出すと、ロベルはそれを受け取り、水差しを持って寝室に戻った。
息子の傍に戻ってきた父親に、息子はもの言いたげに顔を上げたが、闇に沈む父親の表情は見えなかった。
黙り込んだ父親にならい、息子も俯いて口を閉ざした。
男は息子を抱いて、自分の心に言い訳をした。
息子を守るのが自分の役目であり、それが最優先事項だ。女はもう大人であり、子供を守る立場なのだから、後回しになるのは仕方がない。
今の段階で、自分の出来ることは何もない。
そう思い込もうとしながら、男はもしこの家を出ていなければと思わずにはいられなかった。
もし、一緒に住んでいれば、家族として積極的に関わることに躊躇いはなかった。結婚していなくても、夜は夫婦のように一緒に寝ていたし、子供と両親の関係でいられたのだ。
レイフが入り込む余地は生じなかった。あんな状態の女を放っておくことなどしなかった。
ロベルを押しのけ、自分が世話をするから息子をみていてくれと頼むことが出来た。
夫ならそれが出来る。ロベルは女の親代わりであり、ルカは孫のような存在だ。
形だけでも家族であり続けていたら、女との距離は生じなかった。
もう少し辛抱強く傍にいれば、もう少し周りの助けを求め、ロベルに相談していれば。
もう少し、自分の気持ちに素直になれていたら、エリンのもとを訪ねて欲しいとロベルに言われた時に応じることが出来た。
ほんの少しの積み重ねが、今の男と女の距離だった。
通路の向こうにはユーリがいてロベルがいる。
その向こうに女がいて、男は赤の他人のような顔で息子を抱いている。
息子がいなければ、それこそ女との接点は何もない。昔、少しだけ寝たことがある女というだけだ。二人も子供を産ませ、無責任に逃げ出した過去に目をつぶるような男なら、何も心に想うことはないだろう。
様々に思いを巡らしながら、男は沈黙を守り動かなかった。
朝の光が差し込んできた時、血に染まったレイフが戻ってきた。
通路にいたユーリと目を合わせ、頷き合うと、一人で女のいる寝室に入った。
入れ替わるようにロベルが寝室から出てきて扉が閉まった。
ユーリが居間の暖炉に火をつけた。
明るく温かな炎の前で、残った人々は冷え切った体を温めた。
女のいる寝室にも朝の淡い光が差し込んでいた。
冬であっても太陽の日差しは容赦なくあたりを照らし出す。
昨夜は闇に紛れていた暴力の痕跡は、色鮮やかに女の体に浮かび上がっていた。
力まかせに掴まれた男達の手の跡まで痣になり、殴られた箇所は青紫色に腫れあがっている。
「エリン」
レイフは仰向けに横たわる女の手を取り、覆いかぶさるようにその目を覗き込んだ。
無気力に見えるその虚ろな瞳の奥に、強い輝きが宿っている。
それは生まれ持った女の強さだった。
ぼんやりとしていた女の目が突然、覚醒したように大きく開いた。
「レイフ様?怪我を?」
返り血を浴びているレイフも酷いいでたちだった。
王国騎士として身だしなみに気を使ってきたレイフは、騎士本来の姿に戻り、国を守るために命がけで戦ってきたのだ。
「敵の血だ。安心して良い。昨日この教会に押し入った連中は、誰一人生きていない」
女の身に起こったことを知っているのは、レイフとその忠実な部下達、それからロベルとヴィーナ、息子とその父親だ。
「ルカは無事?」
ふっと柔らかく微笑み、レイフは頷いた。
「もちろん。あまり、うれしくはないかもしれないが、君は俺の母親に似ている。王城内の離宮で、俺の母親は突然襲われた。母親は咄嗟に俺を衣装棚に隠した。
俺を守るために、母親はどんな拷問にも屈しなかった。王にまで愛された体は痛めつけられ、男達に辱められた。息子を生んだばかりに、母は命を落とした。
俺は、助け出されるまで母の無残な死体を物陰から見ていた。震えて、泣いているばかりだった。君には……生き延びて欲しい」
女の目から涙があふれ目尻を伝い落ちると、シーツに丸い染みができた。
「ロベル様から君の過去の話しも全部聞いた。俺なら、君の最初の子供を殺させはしなかった」
もう今更どうしようもない過去のことだったが、それは女が渇望してきた救いの言葉だった。
誰かに子供の存在を認めてもらいたかった。守ってもらいたかった。
それなのに、自分以外に子供を守ろうとした人は誰もいなかったのだ。
悪魔の子供だから殺すべきだとロベルとラバータに諭され、女は嫌だと訴えた。
その直後、食事に薬を盛られ、子供を死なせてしまった。
ロベルとラバータが愛情からそれをしたのだとわかっていたが、それでも許せない想いが長い間女を苦しめ続けた。
子供は、悪魔の子と呼ばれて殺されたのだ。
教会に祈りに行けなくなり、ただひたすら孤独に死なせてしまった子供に謝り続けた。
もしあの時、レイフが傍にいてくれたら、味方になってくれたかもしれない。
そんな想いが女の心に広がった。
血に濡れたレイフは、女にさらに近づき、濡れた女の目をまっすぐに見つめた。
「君の気持を尊重する。もし子供が出来ていたら、君はやはり同じ選択を?」
女は首を横に振った。
「いいえ……産んであげられても……育てるのは無理。私に母親にはなれない。息子も娘も手放した。私には愛せないの。死なせてしまった子にも、愛してあげられなかった息子にも、手放してしまった娘にも申し訳なくて、どうしていいかわからない」
傷ついた心は時を止め、女は同じ場所から動けない。
レイフは痛ましいその体を抱きしめた。
「誰にだって過ちはある。ルカは君を慕っている。もう君の愛を疑ってはいないだろう。君の娘のこともちゃんと調べた。幸せに暮らしている。天界にいるリースも、君が最近笑うようになってきてほっとしているはずだ。
君の幸せを願わない者がいるだろうか。
力も味方もなく、孤独で辛い時代、君は精一杯生きて最善の選択をした。苦しみながら子供の幸せだって考えた。前に進むべきだ。君に……俺は、俺の子供を産んでもらいたい」
驚く女の唇にレイフの唇が重なった。傷を労わるように優しく舐め、そっと顔を離す。
「エリン、君を抱きたい。体が痛むと思うが、少し我慢して欲しい。俺の種が混ざれば誰も何も言えなくなる。もし子供が宿っていれば、生まれてくる子供は俺の子供かもしれない。
君だって安心して産めるし、子育てを手伝う人は十分にいる。俺も必ず守ると約束する」
そっと毛布をとり、レイフは羽に触れるように慎重に女の足を持ち上げた。
女は痛みに顔を引きつらせたが、その視線はレイフから離れなかった。
「必ず君の傍にいる。約束しよう」
少し強引で、残忍なやり方だったかもしれないが、レイフはこの機会を逃さなかった。
一人で悩ませる前に、レイフは女の重荷を全て引き受けた。
優しく腰を動かし、深く体を沈めると、尊い血の混ざるその子種を流し込んだ。
「俺の子供だ。だから、安心して良い。何も考えずに大事にしてくれ。全ては俺が面倒をみる。出来るだけ早く結婚しよう」
子供が出来ていたら産めばいいのだ。あとは全てレイフが考えて動いてくれる。
誰かに何もかも委ねるやり方を女は知らなかった。
不思議そうな女に微笑みかけ、レイフは痛めつけられた秘芯を優しく指で撫でた。
「君の全てが大切だ」
助けられなかった母親のかわりなのかもしれない。
それが確かな愛なのか、誰にもわからない。
しかし決めた道を迷う男ではなかった。
「妻になってくれないか?」
レイフの言葉に全てをゆだね、女はかすかに頷いた。
夫の権利を得たレイフは、女の額にもう一度口づけした。
「休んでいてくれ。すぐに治癒師が来る。それから、ロベル様とも話をする。食事の心配もしなくていい。ルカのこともこちらで全部面倒をみる」
レイフが出ていくと、女は驚くほど心が楽になっていることに気が付いた。
ルカは無事だし、父親が守っている。娘も幸せに暮らしている。リースのお墓はそこにあり、笑っている子供の姿を思い浮かべることも出来るようになってきた。作品にも名が刻まれ、その名が忘れ去られる日はもう来ない。
過ちは消えないし、後悔も一生続くだろう。それは忘れたくない。
それも全て愛ゆえの想いだからだ。
その全てを抱えて、これからを生きることが出来るのかもしれない。
女は初めて、そんな風に考えた。
声が大きくなる女を後ろに引き寄せ、レイフが声をかけた。
「レイフだ。王国の騎士団も来ている。怪我人は?外はまだ危険な状態だ。音を立てないように一人ずつ出て来られるか?手伝いに下りた方が良いか?」
「怪我人はいない。これから出て行く」
ロベルは、上に向かってそう答え、一人で階段を上がり始めた。
「ロベル様」
レイフが手を貸し、ロベルを引き上げる。
その後ろから少年の姿が現れた。
レイフは片腕で抱き上げ、ルカを一瞬で地面に下ろした。
女はすぐに抱きしめ、その体が無事かどうか触れて確かめる。
父親が上ってきて、ほとんど全裸の女に気づき、衝撃を受けたように動けなくなった。
その尻を押しのけて、ヴィーナが地上にあがってきた。
「レイフ様」
息子を抱きしめ、エリンが押さえた声で呼びかけた。
「さっき死んだ男が、この町はオーブ国が掌握し、しばらく戦いにならないと言っていました。この町の貴族は買収されていて王族も味方についていると」
「王族?」
レイフは表情を引き締め、肩から落ちかけていた毛布を引き上げ、女を包み込んだ。
息子は全裸の母親に抱かれ、その腕の中で体を固くしている。
小さなランプの淡い光の中でもわかるほど、エリンの全身は傷だらけだった。
顔は腫れて、元の顔がわからなくなっている。
「エリン、ありがとう。それは重要な情報だ。家で待っていられるか?」
女はすぐに頷いた。
レイフが暗闇に向かって手招きすると、すぐにレイフの部下が姿を現した。
「ユーリ、彼らを頼む」
黙って頷き、ユーリは女を抱き上げようと近づいた。
女はびくりと体を震わせ、息子を固く抱きしめる。
先ほどまで、野蛮な男達に嬲られていた恐怖がやっと襲ってきたかのように、女の体は震えだしていた。
なんとか自分で立とうとするが、足にも力が入らない。
部下に任せてはいけず、レイフは引き返してくると女を抱き上げた。
息子から引き離されそうになり、女は暴れようとしたが、息子は父親が引き寄せていた。
ほっとしたように女は力を抜いた。
「俺が連れて行く。灯りは消して、ついてきてくれ」
暗がりの中、女を抱いたレイフ、それから息子を連れた男、ロベル、ヴィーナが無言で進む。
後ろをユーリが守り、住居になっている小屋に入った。
レイフは手探りで通路を進み、寝室に入ると、窓から差し込む薄明りの中に女を横たえた。
「エリン、今日、君は誰よりも勇敢だった。少しの間、ここを離れることを許して欲しい。愛している」
押さえた声で熱烈な告白をしたレイフは、最後に震える女の額に唇を押し付けた。
それからユーリにもう一度ここを頼むと告げ、暗がりを出ていく。
多くの気配が教会に向かって動いていたが、それに気づいた者はいなかった。
レイフの率いる騎士団はどこにも所属していない自由な軍隊であり、精鋭ぞろいだった。
敵国の軍隊を引き入れた貴族たちは、レイフが王族であることや、レイフが独立して動いていることをわかっていなかった。その身分は完全に隠され、王女のために有名な作家の作品を仕入れにきている一介の騎士だと思われていた。
ところが、レイフは既にこの町の怪しい動きに気づいていた。
軍馬の取引が増えれば、それは戦に備えている証拠でもある。
西国境の小競り合いも必要以上に長引いており、それはある種の癒着を生んでいた。
国をまたぎ勝手に取引をするものが現れたのだ。
敵の侵入がいつあるのか、その計画を掴もうと、秘密裏に動いていたところで突然国境が突破された。
まさか真冬に始まるとは思わず、レイフは大急ぎで王国軍を呼び寄せた。
その準備はしてきたが、さすがに直後に動くことは難しい。
まずは、西国境を突破した彼らの退路を防ぎ、それからじわじわと奪われた場所を取り返した。
誰が敵国に祖国を売ったのか、それを見極めるために慎重に反撃は始まった。
レイフは手持ちの騎士団を率い、敵軍が教会に入っていくのを確かめると、教会の正面を迂回して外壁の西扉から敷地に侵入した。そこはエリンのいる作業小屋のすぐ近くの扉であり、当然その存在をレイフは知っていた。
エリンをまずは救出するためだったが、まさか、町での略奪行為もなくまっすぐに教会に入ってきた傭兵団がいたことには気づかなかった。
壁を乗り越えようとして、扉が開いていることに気づき、エリンが一人で脱出したことを考えた。
しかし、小屋が近づくにつれ、壊された扉や荒れた庭の様子が明らかになると、今度は殺されたか、暴行を受けている可能性があると考えた。
作業小屋の入り口で、部隊をいったん闇に潜ませ、ここに入ってきた敵兵たちの痕跡を探っているまさにその時、教会から引き返してきたバザとエリンが裏口から入ってきた。
暗がりの中、バザとエリンが重なっていれば同時に殺してしまうかもしれない。
慎重に機会を待っていたレイフは、バザがランプに火を入れたところで電光石火のごとく動いたのだ。
そんなレイフに助け出された一同は、闇に閉ざされた小屋の中でまだ息をひそめていた。
ロベルと男と息子、それからヴィーナは居間にいて、小屋にある毛布やシーツ、外套などを被っていた。
まだ傭兵たちも敵国の軍隊も教会の敷地内にいるのだ。
暖炉に火を入れたら居場所を教えてしまう。
ユーリは女のいる寝室の手前で剣を抱いて座っていた。
男は息子を抱きしめ、息子がもう泣いて騒がない歳であることに感謝した。
これが五歳、六歳であれば、静かにしていられなかったかもしれない。
女のところに駆けつけたかったが、やはりこんな状況で息子を一人にはしておけなかった。
ロベルが腰をあげ、ユーリのいる通路に向かった。
「ユーリ、灯りはつけないが、彼女の体を見させて欲しい。妊娠の恐れもあるため、今できる処置をする」
密かな声だったが、音を立てないように静かにしていた全員がその声を聞いた。
男は震えながら息子の耳を覆った。
ヴィーナは動かなかった。
ユーリは黙って立ち上がり、ロベルを寝室に通した。
寝室の扉が閉まり、しばらくして女のすすり泣く声が聞こえてきた。
男の腕の中で、もうそれほど幼くもない息子が囁いた。
「父さん、行ってあげたら?」
体を張って息子を守ったのは女であり、傷だらけの女を助け出したのはレイフだった。
そして、一番に女の体を案じて動いたのはロベルであり、男は息子に声をかけられるまで動こうともしなかった。
何をするにも、今更のことだった。
駆け付けたい気持ちはあったが、出来なかったのだ。
どうすれば女の心に寄り添えるのか、男にはわからなかった。
すぐに女のすすり泣きは止まり、何も起きていないかのような静寂が続いた。
やがて、ロベルが出てきてひっそりと通路を通り居間に戻ってきた。
隣接している台所に入り、何かを探し始める。
その気配を感じ、男はやっと立ち上がった。
かつて暮らしていた場所であり、物のある場所はだいたいわかっている。
「何を探しているのですか?」
「布類が足りない」
男は黙って布巾が詰まれている棚に手を伸ばした。
清潔な布を数枚重ね差し出すと、ロベルはそれを受け取り、水差しを持って寝室に戻った。
息子の傍に戻ってきた父親に、息子はもの言いたげに顔を上げたが、闇に沈む父親の表情は見えなかった。
黙り込んだ父親にならい、息子も俯いて口を閉ざした。
男は息子を抱いて、自分の心に言い訳をした。
息子を守るのが自分の役目であり、それが最優先事項だ。女はもう大人であり、子供を守る立場なのだから、後回しになるのは仕方がない。
今の段階で、自分の出来ることは何もない。
そう思い込もうとしながら、男はもしこの家を出ていなければと思わずにはいられなかった。
もし、一緒に住んでいれば、家族として積極的に関わることに躊躇いはなかった。結婚していなくても、夜は夫婦のように一緒に寝ていたし、子供と両親の関係でいられたのだ。
レイフが入り込む余地は生じなかった。あんな状態の女を放っておくことなどしなかった。
ロベルを押しのけ、自分が世話をするから息子をみていてくれと頼むことが出来た。
夫ならそれが出来る。ロベルは女の親代わりであり、ルカは孫のような存在だ。
形だけでも家族であり続けていたら、女との距離は生じなかった。
もう少し辛抱強く傍にいれば、もう少し周りの助けを求め、ロベルに相談していれば。
もう少し、自分の気持ちに素直になれていたら、エリンのもとを訪ねて欲しいとロベルに言われた時に応じることが出来た。
ほんの少しの積み重ねが、今の男と女の距離だった。
通路の向こうにはユーリがいてロベルがいる。
その向こうに女がいて、男は赤の他人のような顔で息子を抱いている。
息子がいなければ、それこそ女との接点は何もない。昔、少しだけ寝たことがある女というだけだ。二人も子供を産ませ、無責任に逃げ出した過去に目をつぶるような男なら、何も心に想うことはないだろう。
様々に思いを巡らしながら、男は沈黙を守り動かなかった。
朝の光が差し込んできた時、血に染まったレイフが戻ってきた。
通路にいたユーリと目を合わせ、頷き合うと、一人で女のいる寝室に入った。
入れ替わるようにロベルが寝室から出てきて扉が閉まった。
ユーリが居間の暖炉に火をつけた。
明るく温かな炎の前で、残った人々は冷え切った体を温めた。
女のいる寝室にも朝の淡い光が差し込んでいた。
冬であっても太陽の日差しは容赦なくあたりを照らし出す。
昨夜は闇に紛れていた暴力の痕跡は、色鮮やかに女の体に浮かび上がっていた。
力まかせに掴まれた男達の手の跡まで痣になり、殴られた箇所は青紫色に腫れあがっている。
「エリン」
レイフは仰向けに横たわる女の手を取り、覆いかぶさるようにその目を覗き込んだ。
無気力に見えるその虚ろな瞳の奥に、強い輝きが宿っている。
それは生まれ持った女の強さだった。
ぼんやりとしていた女の目が突然、覚醒したように大きく開いた。
「レイフ様?怪我を?」
返り血を浴びているレイフも酷いいでたちだった。
王国騎士として身だしなみに気を使ってきたレイフは、騎士本来の姿に戻り、国を守るために命がけで戦ってきたのだ。
「敵の血だ。安心して良い。昨日この教会に押し入った連中は、誰一人生きていない」
女の身に起こったことを知っているのは、レイフとその忠実な部下達、それからロベルとヴィーナ、息子とその父親だ。
「ルカは無事?」
ふっと柔らかく微笑み、レイフは頷いた。
「もちろん。あまり、うれしくはないかもしれないが、君は俺の母親に似ている。王城内の離宮で、俺の母親は突然襲われた。母親は咄嗟に俺を衣装棚に隠した。
俺を守るために、母親はどんな拷問にも屈しなかった。王にまで愛された体は痛めつけられ、男達に辱められた。息子を生んだばかりに、母は命を落とした。
俺は、助け出されるまで母の無残な死体を物陰から見ていた。震えて、泣いているばかりだった。君には……生き延びて欲しい」
女の目から涙があふれ目尻を伝い落ちると、シーツに丸い染みができた。
「ロベル様から君の過去の話しも全部聞いた。俺なら、君の最初の子供を殺させはしなかった」
もう今更どうしようもない過去のことだったが、それは女が渇望してきた救いの言葉だった。
誰かに子供の存在を認めてもらいたかった。守ってもらいたかった。
それなのに、自分以外に子供を守ろうとした人は誰もいなかったのだ。
悪魔の子供だから殺すべきだとロベルとラバータに諭され、女は嫌だと訴えた。
その直後、食事に薬を盛られ、子供を死なせてしまった。
ロベルとラバータが愛情からそれをしたのだとわかっていたが、それでも許せない想いが長い間女を苦しめ続けた。
子供は、悪魔の子と呼ばれて殺されたのだ。
教会に祈りに行けなくなり、ただひたすら孤独に死なせてしまった子供に謝り続けた。
もしあの時、レイフが傍にいてくれたら、味方になってくれたかもしれない。
そんな想いが女の心に広がった。
血に濡れたレイフは、女にさらに近づき、濡れた女の目をまっすぐに見つめた。
「君の気持を尊重する。もし子供が出来ていたら、君はやはり同じ選択を?」
女は首を横に振った。
「いいえ……産んであげられても……育てるのは無理。私に母親にはなれない。息子も娘も手放した。私には愛せないの。死なせてしまった子にも、愛してあげられなかった息子にも、手放してしまった娘にも申し訳なくて、どうしていいかわからない」
傷ついた心は時を止め、女は同じ場所から動けない。
レイフは痛ましいその体を抱きしめた。
「誰にだって過ちはある。ルカは君を慕っている。もう君の愛を疑ってはいないだろう。君の娘のこともちゃんと調べた。幸せに暮らしている。天界にいるリースも、君が最近笑うようになってきてほっとしているはずだ。
君の幸せを願わない者がいるだろうか。
力も味方もなく、孤独で辛い時代、君は精一杯生きて最善の選択をした。苦しみながら子供の幸せだって考えた。前に進むべきだ。君に……俺は、俺の子供を産んでもらいたい」
驚く女の唇にレイフの唇が重なった。傷を労わるように優しく舐め、そっと顔を離す。
「エリン、君を抱きたい。体が痛むと思うが、少し我慢して欲しい。俺の種が混ざれば誰も何も言えなくなる。もし子供が宿っていれば、生まれてくる子供は俺の子供かもしれない。
君だって安心して産めるし、子育てを手伝う人は十分にいる。俺も必ず守ると約束する」
そっと毛布をとり、レイフは羽に触れるように慎重に女の足を持ち上げた。
女は痛みに顔を引きつらせたが、その視線はレイフから離れなかった。
「必ず君の傍にいる。約束しよう」
少し強引で、残忍なやり方だったかもしれないが、レイフはこの機会を逃さなかった。
一人で悩ませる前に、レイフは女の重荷を全て引き受けた。
優しく腰を動かし、深く体を沈めると、尊い血の混ざるその子種を流し込んだ。
「俺の子供だ。だから、安心して良い。何も考えずに大事にしてくれ。全ては俺が面倒をみる。出来るだけ早く結婚しよう」
子供が出来ていたら産めばいいのだ。あとは全てレイフが考えて動いてくれる。
誰かに何もかも委ねるやり方を女は知らなかった。
不思議そうな女に微笑みかけ、レイフは痛めつけられた秘芯を優しく指で撫でた。
「君の全てが大切だ」
助けられなかった母親のかわりなのかもしれない。
それが確かな愛なのか、誰にもわからない。
しかし決めた道を迷う男ではなかった。
「妻になってくれないか?」
レイフの言葉に全てをゆだね、女はかすかに頷いた。
夫の権利を得たレイフは、女の額にもう一度口づけした。
「休んでいてくれ。すぐに治癒師が来る。それから、ロベル様とも話をする。食事の心配もしなくていい。ルカのこともこちらで全部面倒をみる」
レイフが出ていくと、女は驚くほど心が楽になっていることに気が付いた。
ルカは無事だし、父親が守っている。娘も幸せに暮らしている。リースのお墓はそこにあり、笑っている子供の姿を思い浮かべることも出来るようになってきた。作品にも名が刻まれ、その名が忘れ去られる日はもう来ない。
過ちは消えないし、後悔も一生続くだろう。それは忘れたくない。
それも全て愛ゆえの想いだからだ。
その全てを抱えて、これからを生きることが出来るのかもしれない。
女は初めて、そんな風に考えた。
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