聖なる衣

丸井竹

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30.戻らない距離

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「まだ寝ないの?」

廊下から声をかけると、男は小さくため息をつき、木彫りの馬を指で撫でた。

「彼女の作品には全てにリースという名前が彫られていて、それが彼女の生まれなかった子供の名前だと以前、俺は騎士のレイフ様から聞いた。今日、彼女にそうなのかと尋ねてみた。彼女は頷いたが……俺には……」

エリンは、レイフに話したことを男には教えなかった。

テーブルには珍しく酒の瓶が置かれ、グラスは空になっていた。
男はだいぶ飲んだ様子で、顔を赤くし、重そうな頭を片手に乗せて肘で支えている。

「すまないな。酒場に寄ったが、なんとなく帰ってから飲みたくなった」

「別に良いよ。ジョージのお父さんは毎日、家で飲んでいるって」

聞き覚えの無い友達の名前が出てきて、男は少し驚いたように目を上げた。

「鍛冶屋の息子だよ。僕より早く父親に習って仕事を始めている。簡単な工具の修理なら出来るって言っていたよ。時々、一緒にお昼を食べるんだ。教会の学校で字を教えてあげたこともある」

「そうか……」

もう親だけが息子の世界ではないのだ。
男はグラスに酒を注ぎ、水のように飲みほした。グラスを置き、どこか遠くを見るような目で、彫刻の馬を眺める。

「彼女がレイフ様と話している声を聞いた。とてもきれいな声で、俺は耳を澄ませた。
俺に語り掛けられているわけでもないのに、俺は幸せな気持ちになった。
一人ぼっちだった彼女は、作品を通じて人と繋がり始めた。多くの人と出会えば、世界も広がり、選択肢も増える。それは喜ばしいことだ……。
お前も俺の知らない友人が出来て、知り合いが増え、さらにお前についてくれる客が出来る。
自ら世界と繋がり、道を切り開いていけるようになる。
彼女にもようやくその兆しが見えてきたのだと思う。だから……」

「それって良い事?」

息子は廊下の壁に寄り掛かり、父親の横顔を眺めながら問いかけた。

「ああ。良いことだ。お前がこんなに早く手を離れるとは思わなかったが、寂しさ半分、喜び半分だな。だが忘れるなよ。お前はまだまだ子供だ。一人前には程遠いぞ」

不意に男は顔を上げ、廊下に立っている息子に微笑みかけた。
いつもの頼もしい父親の顔だったが、やはり少し酔っている。
男は手を伸ばし、テーブルに置かれたランプの灯を消した。

「さあ、休もう」

立ち上がった男は少しふらつき、椅子の背もたれに手を付いた。
息子が近づき、父親を支えようと大きな手を掴んだ。

「こっちだよ。寝室まで連れていってあげる」

「ありがとう」

頼もしい息子の頭を撫で、男は重い足を持ち上げて歩き出した。
暗い通路に窓からの薄明かりが差し込んでいる。
どんなに寂しくても、男には傍に息子がいて一人ぼっちになったりしない。

墓地にいる女はいつだって一人なのだ。
そうなることがわかっていながら、男は息子と二人で墓を出てきたのだから、やはり見捨てたことになるのだろうと男は考えた。

今更、戻りたいなどと言えるわけがない。

窓越しに差し込む薄明りの中を進みながら、男は自分を支える息子の存在を確認し、支えが必要なのは自分の方ではないかと考えた。
 

 
 実際、女は息をふきかえしたように少しずつ成長を始めていた。
十年以上も自分の殻に閉じこもり、もがき苦しんできた悲しみは、守れなかった子供の名前を付けた作品が世の中に出回るようになり、少しずつ癒されていた。
きっかけはあったが、女はロベルに見守られ、一人で立ち上がり歩きだした。

棺桶を装飾する傍らで、繊細な作品を作り上げる。
生きられなかった子供を送り出すように、作品は高貴な人々のもとに運ばれる。
それが庶民の手であろうと、王族のもとであろうと、女にはどちらでもいいことだった。

この小さな墓地から出られない子供が世界を見てまわっているようで、女の心は心底慰められたのだ。
時折、それが空しく感じることもあったが、過去は戻らないのだと受け入れるための痛みになった。

同時に、自身の身に起きた忌まわしい過去もまた、遠ざかっているのだと考えることが出来た。
多くの苦しみに苛まれながら、一心不乱に女は作品を生み出し続けた。

偽物も出たが、女の作品に証明書が付属することや名前が入っていることは既に知られており、さらに本物は誰も真似が出来ないほどの精巧な作りだった。

レイフは頻繁に町に現れ、ついに西の町に住まいを移した。
王女付きの騎士団に所属していたが、王女はかなりの権限をレイフに委ねており、その行動はまるで制限されていないようだった。

その秘密を、レイフはある日こっそり女に明かした。

「実は、私は王族の血筋なのだ。権力闘争で母を殺され、私は王女に保護され生き残った。その後も、戦地に何度も派遣され、死にかけたこともある。騎士団の半分は、王女の命令で私の護衛を務めてくれていた者達だ」

壮絶な話に女は驚いた。
レイフは微笑み、女の手を取った。

「母に生き延びるように言われた。あなたを見ていると、母の気持ちがよくわかる。私が死んでいれば母も、あなたのように悲しみに囚われてしまったかもしれない。そうなれば、私もきっと悲しかった」

さりげなく、レイフは女の一方的な想いに他の道を示した。
自分の悲しみに囚われ、他との関わりを断ってきた女は、恋人を亡くした男に声をかけたように、レイフの悲しみにも惹かれていた。

同じように悲しみを持った人なら、傍にいても許されるのではないかと流されてしまいそうになる。
それなのに、誰かに頼る生き方は知らないのだ。
少し進んでは、また少し戻る。傷ついた心を癒すには時間がかかる。

それを知るロベルは、先に死んでしまうことを考え、見守ることに徹している。

棺桶の作成数は減っているが、リースの名前が入った作品はそれ以上の値段で売れている。
一人で生きられるだけの仕事を手に入れ、保護してくれる人もいるのであれば、もう過剰に心配することもない。
女を弄んだ悪魔たちも消えたのだ。
レイフと女の様子を見守りながら、ロベルはその先の未来を考えた。


 秋になり、緑に覆われていた墓地の道もすっかり枯草色に変わっていた。
寒々しい風に乗って灰色の雲が上空を通過し、ひんやりとした雨が降った。
教会から聞こえる弔いの鐘はさらに物悲しい響きを帯び、黒い外套を着た人々は背中を丸めて冷たい雨風に耐えた。

寒くなれば体調を崩す人も増え、治癒院に行くことも出来ない貧しい人々は死んでしまう。
レイフが移り住んできたことで、王都に当然あった国の救貧施設は増えたが、それらの全てが王女の保護を受けて運営されるわけでもなかった。

王女のもとに作品を運んだレイフが、作品の代金を女に渡すと、女はそのほとんどを教会と治癒院への寄付にしてほしいと返却した。

勢力争いで生き残ったレイフは一介の騎士として王女を隠れ蓑にひっそりと生き延びている。
その活動が公になっても困るのだ。
他国に嫁ぐことなく、この国で夫を得た王女はレイフの後見人を務め、後継者をレイフに指名していた。

「私には生きにくい場所だと王女もご存じなのです」

いつまでも王都に帰らないレイフはそう女に言い訳をした。
穏やかに時を重ねたが、女の悲しみが癒える日はなかなか訪れなかった。

相変らず墓に一人で住み、小さな空き地を窓から眺め、小さな彫り物に子供の名前を刻む。
棺桶の注文が入れば、死後の世界を思い浮かべ、美しい絵を描く。
そうした生活が続いていた。

 ある秋晴れの日、赤焼けた雲を見上げ、杖をついて作業小屋から隣の住宅に移動をしていた女は、近づいてくる人影に気づき足を止めた。

定期的に顔を見せるが、一言、二言しか言葉は交わさない。
そんな関係の男だった。

「エリン」

品物を入れていた空の箱を開けて見せ、男は売上金を持ってきたと告げた。

「いらないのに」

息子に使って欲しいと女は伝えていた。

「全額もらうわけにはいかない……」

息子を連れて出ていったのは男の方なのだ。

「ルカは元気だ……」

少しだけうれしそうに女は口元を緩めた。
ちょっとした表情の変化を見せるようになった女は、男に対してだけは微笑まない。

「空が赤くて……」

ふと、女は男の肩越しに流れていく赤く染まる雲を目で追った。
透明な羽を震わせて秋虫が墓地の上を飛び回っている。
後ろを振り返り、男も同じ空を見た。

「あっという間に夏が終わったな」

教会の方からかすかに工夫達の声が聞こえてくる。
裏手に新たな遺体安置所が作られることになり、冬が来る前に完成させようと、工夫達が工事を急いでいる。
女はロベルから聞かされた、その工事の理由を男に告げた。

「死体の処理中にランプの灯が引火して、遺体安置所が火事になったようなの。それで、新しく作ることになったのですって」

男は火事の原因を知っていたが、何も言わず頷いた。

「君が不在で良かった」

女は軽く頭を下げ、小屋に入っていく。
男は追いかけたが、女は扉を閉めようとした。

「エリン、箱を……」

思い出したように女は空き箱を受け取り、また頭を下げた。

「他の作品はまだできていないの」

目を伏せ、女はひっそりと告げると扉を閉めた。
何度もレイフが小屋に入っていくところを目撃したことのある男は落ち込んだ。
かつては一緒に暮らしていた場所なのに、そこに男の居場所はもうないのだ。

男は真っすぐには帰らず、教会に立ち寄った。
祈りの間に入ると、祭壇横にいたロベルが、目を合わせ、簡単に手招きをした。
ロベルの背中を追いかけ、祭壇の奥の通路を進み、白い小部屋に入る。

四角い部屋には、くり抜かれた小さな窓が壁に一つだけついている。
あとは小さなテーブルと椅子が二脚だけだった。

扉を閉め、男はロベルの向かいに座った。

「エリンのことだが、お前はどう考えている?」

何も言わず今の状況を見守ってきたロベルは、いつもの温厚な顔を脱ぎ捨て、厳しい目で男を見据えた。

「努力しているつもりです。傍に戻りたいと考えています」

「息子はどうだ?」

「菜園で目を合わせることがあるようです」

ロベルは思案顔で両手を組み合わせ、テーブルに置いた。

「地獄の口に入る前に、彼女を託せる人間を探してきた。まだ幼い彼女を守れなかった責任は周りの大人にある」

女との面会を許したロベルは、ある日、この場所に男を呼び出し、女の過去について改めて話をしていた。
男はその内容をヴィーナとロベルの話を盗み聞いたため、既に知っていたが、ロベルの口からきちんときけたことをうれしく思った。
エリンとの関係を認められたのだと思ったのだ。
しかし、ロベルにその後の関係については手助けするつもりはないと伝えられたのだ。

「レイフ様に彼女のことを聞かれた」

大きな衝撃を受け、男の体は震え出した。

「本気で将来を考えているのであれば、知らなければならない話だ。お前のこと、そして子供のこと、それから、まだ恋も知らないうちに男達の欲望に晒され、母になったこと。彼女が心を壊した原因を全て話した」

「そ、それで……」

「こちらに屋敷を建てられたようだ。ここを離れられない彼女の理由を理解し、寄り添っていきたいと言われた」

ぽたりとテーブルに涙が落ちた。
男は両手でそれを隠そうと顔を覆った。

「手遅れだと?俺はもう……手遅れだということですか?」

「身を引く気はあるか?」

「なぜです?彼女は俺の子供を産んでくれた。愛はなかったかもしれない。だけど惹かれていた。その気持ちはちゃんと育っていた。彼女に寄り添ったつもりです。
息子も守ろうとした。今は、心から愛したいと思っている。何が間違っていたのか、わかりません」

「だから……完全に心が離れてしまう前に何度も忠告した。少しでも傍に居続けてくれたら、彼女はお前が傍にいることに気が付いた。やっと顔を上げ、外に意識を向け始めた時、傍にいたのはレイフ様だった」

「会わせてくれなかったじゃないか!」

「時期が悪かった。いつでもお前の思い通りに状況が動いてくれるわけがないだろう。甘えたことを言うな。
ヴィーナが、昔の知り合いが訪ねてくるようになったと私に話し、金のことを聞かれた。
昔の悪魔がまた何か企んでいるのだと考え計画を立てた。お前にその計画を知らせるわけにはいかなかったから遠ざけた。
それだけだ。その前にお前が彼女とやり直す機会はいくらでもあった」

町の郊外にある家にまでロベルが足を運んできたことを男は思い出した。
同情でも憐れみでも良いから、顔を出して欲しいと訴えに来たのだ。
それを男は突っぱねた。

息子を守ろうとしただけだと言い訳しようとしたが、意地になっていた自分の気持ちにも気づいていた。
女に気持ちを拒絶されたことで少なからず男も傷ついていた。

「小さなすれ違いは、気づけば大きな溝になり、取り戻そうと思った時にはもう互いの顔も見えないほどの距離に広がっている。気持ちがあるのなら、逃げずに傍に居続けるべきだった。子供を言い訳に逃げ出したのはお前ではないのか?」

正解はだれにもわからない。
ただ、今までの積み重ねが現状を作り出していることは確かだった。

「お前の味方をするつもりはない。かといってレイフ様に託したいとも思っていない。
ただ、彼女が自分で立ち直り、歩いて行けるように見守るだけだ。
もし彼女がレイフ様を選ぶことがあれば受け入れて欲しい。息子にもそう話しておいて欲しい。
私は、心の準備が出来たら、もう一度彼女に子供を持って欲しいと思っている。
普通の女性としての幸せを諦めたくはない。彼女はまだ若く、未来がある。私は取り戻したい。あの天使のような彼女の笑顔を」

そのために悪魔に魂を売り、地獄に落ちる覚悟をした。
残りの寿命の全てをかけ、ロベルはそれを実現させるつもりなのだ。
椅子から立ち上がり、ロベルは男を見おろした。

「お前が息子を優先したように、私はエリンの気持ちを優先する。私にとって彼女はそうした存在だ」

ロベルが部屋を出ていくと、男はポケットから馬の彫刻を取り出した。
今では平民が買えないほど値上がりしている。
貴族の顧客がついて、入荷はないのかと定期的に人が訪ねてくる。
三日間の展示中に、一番高値を付けた人に売り渡される仕組みになったが、その値段は上がり続けている。

誰がどれだけの値段をつけたのか探ってこようとする者さえいる。
お金も仕事も、さらに王の騎士までついている。男がいなくてもエリンは幸せになれる。

やがて男は袖で目元を拭い、覚悟を決めて立ち上がった。
父親として息子を守り、真っすぐに生きていくしかない。

自分の人生はその次に考えるべきことだ。

外に出ると、澄んだ空気の向こうに小さな星が一つ煌めいていた。
秋晴れの涼やかな空に夕暮れもなく、夜が訪れようとしていた。

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