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13.二人分の食事
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冬の間に遊べる友達を見つけたルカは、毎日パトに乗って出かけるようになった。
手伝いを疎かにするようになったことに、男は良い顔をしなかったが、子供らしい時間を持つことも必要だと考えた。
毎朝、男は郊外の厩舎の様子を確認するように息子に頼み、必ず付け加えた。
「あまり遅くならないようにしろよ。夕方の餌やりはお前の仕事だぞ」
「わかった!」
雪解けの始まった泥道を巧みな手綱さばきで、緑トカゲに乗ってかけて行くルカを見送り、男は作業小屋に立ち寄った。
棺を黙々と削る女に近づき、男は隣に座ると、そっと手を出し作業を中断させて頬に口づけをした。
「エリン、根を詰めないようにしてくれ。なるべく早く帰りたいが、少し遅くなるかもしれない」
相変らず、にこりともしない女は男を拒むこともしなかった。
次に子供が出来た時は、必ず立ち会おうと男は決めていた。
もう二度と逃げるような真似はしまいと心に誓っていた。
男は時々、娘がもらわれていった屋敷に足を運び、通り過ぎるふりをしながら門の中を覗き見た。
その姿を見ることは出来なかったが、立派な制服の門番や庭師、それから召使たちの姿を見かけるたびに、その家に問題がないことを知り安堵した。
ある日、男は郊外の閉鎖中の厩舎に様子を見に行き、息子の仕事ぶりを確かめた。
泥だらけの道の上に、緑トカゲの足跡がさらに西に向かって続いているのを見つけ、男はそれをたどって、息子の姿を探した。
息子は葉を落とした木立の並ぶ、丘の上に友人らしき少年と並んで座っていた。
その友人の装いを確かめ、男は渋い顔をした。
立派な鞍を付けた馬が緑トカゲの隣に繋がれている。
下級騎士とはいえ騎士であるのだから、平民の息子とは大きく身分が異なる。
男は息子の友人に頭を下げて、息子を連れて帰るべきか考えた。
と、丘に座っていた息子が隣の少年と肩を組んで笑い出した。
その笑顔は確かにまだ子供のものであり、引き離す理由は見当たらないようにも思えた。
友人と楽しいひと時を過ごす息子の姿を少しの間眺めていた男は、そっと足を後ろに引き、道を戻っていった。
雪解け水が伝い落ちる窓越しに雪がちらつき、灰色の雲の向こうにうっすらとした青空が覗き始めた。
弱々しい日差しに温められた空気は日中の寒さをやわらげ、地中に眠る草木が少しずつ頭をもたげ始める。
まるで扉をノックされたかのように枝先に膨らんだつぼみも顔を出し始めた。
人の気配のなかった通りにも再び活気が戻り始める。
春先の風を感じながら、男は店番をしているウィルに声をかけた。
「雪もそろそろ終わりだな」
寝ぼけ眼のウィルは大きく欠伸をして、店主を迎えると立ち上がって腰を伸ばした。
従業員を減らしたため、夜の番はなくなったが、その分、朝が早くなった。
男は息子を教会に送り出し、それから作業小屋の女の様子を確認してから家を出るため、朝市の前に店を開けることが出来ない。
「二コラ、さすがに人を雇わないと手が足りないぞ。ルカの学校は続けさせるのか?」
大抵の子供は読み書きを覚えたらそれで十分なのだ。
国に雇ってもらうのであれば、どうしても国営の学校に行く必要がある。
神学校でさえ、礼儀作法や言葉遣い、多くの決まり事を覚えなければならないし、国の信頼を得ている誰かから推薦を受ける必要もある。
「クーガなどの聖獣も扱える調教師になりたいのなら、どこかに弟子入りさせる必要がある」
王族も使用する聖獣は高価で買えないし、当然自分で狩りにいくのも無理だ。
飼育や調教を覚えるなら聖獣を扱う王都にある専門の学校に入る必要がある。
息子が教会の書庫から何冊も本を借りて読んでいることを知っている男は迷っていた。
緑トカゲを使うのは平民だけだ。
とはいえ、獣の調教師は危険な仕事であり、怪我をしてしまえばたちまち仕事を失うこともあり得るのだ。
王都で怪我をしても、すぐに助けにはいけないし、身分の低い息子は他の調教師の失敗を押し付けられて殺されることもあり得る。もちろん金額的な問題もある。
「さすがに、墓の仕事は継がせたくないだろう?」
声を落としたウィルの言葉に男はどきりとした。
エリンと結婚をする覚悟を固めた時に、付き合いの長いウィルには話していたが、やはり公にしない方がいいと忠告を受けた。
人生をかけてエリンが続けている仕事ではあるが、息子に引き継がせたい仕事ではない。
死に関わる仕事をしているというだけで、迷信深い人々は付き合いを控えようとするものだ。
「軍学校には行かせないのか?」
「この仕事より危険じゃないか。だったらまだ」
墓の仕事の方がましだと口に出しかけ、男は急いで言い換えた。
「俺の息子に務まるわけがないじゃないか。生まれつき勇敢な人たちの仕事だ」
ちょうど門を騎士達が入ってくるところだった。
身分の高い人間に逆らえば、平民の命など簡単に捨てられてしまう。
表情を強張らせ、頭を下げた男に、通りに入ってきた騎士の一人が近づいた。
「近いうちに馬を仕入れる必要がある。何頭用意できる?」
馬を買うのは裕福な客だ。
数頭を所持している男はその頭数を告げた。
「馬の産地であるコール地方は地元ですから、声をかければもっと集めることは出来ますが、高価なものですので、大抵は毎年決まった顧客におろしています」
春先は新兵のために若い馬を集める傾向があり、それは大きな取引になった。
町の人々の足として緑トカゲを貸し出してもそれはわずかな利益にしかならない。
冬の間に投資した分も取り戻せない額だ。
国が取引相手であればその額は跳ね上がる。
思いがけない大きな取引になり、男は緊張の面持ちになった。
「ありがとうございます。調達出来次第お届けにあがります」
契約書類を騎士に手渡し、男は丁寧に頭を下げた。
その後ろでウィルも恭しく頭を下げながら、小さく拳を握り、胸の前でぐっと引いてみせた。
騎士は男の所持する馬を全て買い上げた。
その日の夜、男はその喜びを家族に語った。
さらに、追加注文を受けたことを告げると、息子は身を乗り出して、自分も手伝いたいと声をあげた。
「地元の仲間達に声をかける。白毛馬と炎馬を特に高く買い取ってもらえそうだ。魔獣の血が入っているが、丈夫で勇敢だ。それから」
食事を終えた女がいつものように無言で席を立った。
男は会話を止め、無表情で食器を片付ける女を目で追った。
くしゃくしゃの髪を後ろで束ね、シャツとズボンといった代わり映えのない姿で、台所に遠ざかる。
父親のその様子を見て、息子は不満そうに口を引き結んだ。
「あの人は、自分のことしか興味がない。僕たちのことなんてどうでもいいんだよ」
男は息子の発言をたしなめるように顔をしかめると、大きな手で息子の頭を撫でた。
「お前を生んでくれた人だ。たった一人で痛みに耐えてお前を生んで、一年以上育てていた。どこにもやらなかったし……」
言いかけて男は黙った。なぜ娘は手放したのか、仕方がなかったとはいえ、女の心は見えないままだ。
「すべての責任は俺にある」
父親を非難出来ない息子は、不満そうな顔で食事を再開する。
後片付けを終え、息子が寝室に引き上げたのを見届けると、男は女の待つ寝室へ向かった。
寝台の片側に寄って横たわるその背中を窓越しの薄明りの中に確かめ、扉を閉める。
「エリン、数日ここを離れることになる」
男は寝台に滑り込み、馴染んできたその体を後ろから引き寄せて、抱きしめた。
華奢で頼りない体は、少しだけ丸みを帯びたようで、男はほっとした。
「行き先は両親の住んでいたコール地方の田舎だ。生まれ育った村がある。家や牧場の処分で世話になった友人たちも多いし、実は牧場を売った時に預かってもらっている馬もいる。少し時間はかかるが必ず戻る。だから、エリン、もし……俺がいない間に……」
念のためにと男は考えた。
「子供が出来ていたら、大事にしてほしい。今度こそ、一緒に育てよう」
女の背中がびくりと震えた。
小刻みに揺れる肩を抱きしめ、男は後ろから伸びあがって女の頬に唇を押し当てた。
唇に塩辛さを感じ、子供を手放した罪の重さを女も感じているのかもしれないと考えた。
死者と教会の人間しか訪ねてこないような、こんな寂しい場所で子供を育てて生きていけるわけがないと思ったこともあったが、息子は明るくのびのびと育っているし、教会の人々も毎日死んだような顔をして弔いばかり出しているわけではない。
世間話をして笑うこともあるし、祈りにきた町の人達と話し込んでお茶をするときもある。
門番たちと墓掘り達も飲みに行くことがあるようだし、男もまた厩舎を増やしウィルが手伝いにきたこともある。
教会や墓地に無縁の人々は不気味な場所だと思うだろうが、町の暮らしもここでの暮らしもさして変わらない。
土地がある分、多少うるさくしても気にならないし、教会の敷地内であるから門番もいるし壁もあり、何かあっても助けも呼べる。
「エリン、俺達は今度こそ一緒にいよう」
無言の女の体を抱いて、男は優しく囁いた。
それから数日も経たないうちに、男は仕事で家を出ることになった。
乗合馬車の貸し出しも始まり、整備に忙しくしていたウィルの悲鳴に応え人も雇った。
息子も行きたいと主張したが、家畜の世話があり、やはり連れていくことは出来なかった。
「お前以上に信頼できる人間がいなくなった。お前が仕事をよく手伝ってくれたおかげだ。
以前働いてくれていた人もいるが、慣れない仕事では事故が起きることもある。
それから、預かっていた卵から生まれた個体は檻から出すなよ。そのままにしておけ。それから……」
止まらない男の指示を息子は急いで紙にかきとめた。
冬の間にだいぶ仕事を覚えた息子は、一緒に行けないことを残念がったが、仕事を任せてもらえたことに誇らしい気持ちも抱いていた。
「わからなければウィルに聞けよ」
男は言い聞かせた。
それから、少し緊張した面持ちで男はサーラを迎えに行った。
雪が解けて、故郷に戻れることになったのだ。
途中の村まで男が乗せていく約束になっていた。
旅支度を終えたサーラが教会を出てくると、サーラは見送りにきた男の息子を抱きしめた。
「ルカ、寂しくなるわね。会いに行けなくなってしまってごめんなさい。あまり仲良くなり過ぎてはいけないとは思っていたのだけど、あなたが本当にかわいくてつい余計なことをしてしまったわ」
「そんなことないよ!うれしかった。僕……」
サーラがお母さんだったらよかったのにと言いかけたが、父親が見ていることを考え、息子は言葉を飲み込んだ。
男はあまり良い顔をしなかった。
サーラが馬車に乗り込むと、足台を折り畳み、荷台を閉じた。
「ルカ……エリンを頼む。何かあればロベルに相談してくれ」
御者席に乗り込む前に、男は家の方へ視線を向け、女が見送りに来ていないか探したが、やはりその姿を見つけることはできなかった。
「あの人は来ないよ……」
小さな息子の非難じみた声に、男はまた咎めるような視線を向け、頭を撫でた。
「彼女は尊敬できる人だ。別れなら昨夜済ませた」
寂しさを隠し、男は笑ってみせた。
馬車が動き出し、サーラが荷台から息子に手を振った。
その後ろにはお世話になった教会の人達も並んでいる。
サーラはその人達にも視線を向け、丁寧に頭を下げた。
馬車が見えなくなると、ロベルが息子に近づいた。
「ルカ、今日からお前がお父さんの代わりだ。エリンと仲良くできなくても、ちゃんと守らなくてはいけない。お父さんの大切な人なのだから」
息子と母親がうまくいっていないことは、教会の敷地内で働く誰もが知っている。
二人が一緒にいる姿を見た者はいない。
男が二人の関係を改善させようと一生懸命にやっていることはわかっていたが、それはあまりにも果てしない道のりに見えた。
諦めない男の気持ちを応援しながらも、教会の人々は余計な口を出さず、三人を見守り続けていた。
しかし息子はもう母親がいなくても十分、生きていける年齢だった。
「仕事に行ってくる」
教会の学校で教えることは全て学び終えた息子は、書庫で自習を始めていたが、最近は外の仕事や遊びに夢中で、勉強から遠ざかっていた。
しかし平民の子であれば、仕事をする時期でもあった。
「気を付けて、ルカ。遅くならないように戻りなさい」
ロベルの言葉に、息子は不承不承頷いた。
今日からしばらく、母親と二人きりで夕食を食べなければいけない。
息子にとっては憂鬱なことだったが、どうせ会話もないのだから、黙って食べて自分の部屋に逃げればいいと考えた。
その日、仕事を終えた息子は、西の丘で下級騎士の子であるレオと遅くまで遊び、星空が出てから墓の家に戻ってきた。
門のところでロベルが待っており、息子はパトから飛び下り、気まずそうに頭を下げた。
「パトを厩舎に入れたらすぐに家に入りなさい。明日はもう少し早く帰ってくれることを願っているよ」
少し厳しい口調で言われ、息子は逃げるようにパトに乗って家に帰った。
それでも厩舎でだらだらとパトの世話をして、家に入る時間を先延ばしにした。
家に入り、夕食の支度は誰がするのだろうと、息子がテーブルを見ると、意外なことにそこには既に食事の用意が出来ていた。
以前、女に用意した食事を台無しにされたことを思い出し、息子は嫌な顔をした。
女が用意したものは食べずに、台所に行き、自分の分を別に用意した。
女は息子が用意されていたものを食べないことに関して何も言わなかった。
いつも通りさっさと食事を終えると、食器を台所に下げに行く。
二人分の食事を前に、固くなったパンをかじりながら、息子は早く父親が帰ってこないだろうかと考えた。
翌朝、女が用意した昨夜の食事はそのまま残されていたが、その日の夕方にはなくなっていた。
食事は各自でとることに決まったようで、女の姿も見えなかった。
息子は一人で食事をとり、一人で眠りについた。
手伝いを疎かにするようになったことに、男は良い顔をしなかったが、子供らしい時間を持つことも必要だと考えた。
毎朝、男は郊外の厩舎の様子を確認するように息子に頼み、必ず付け加えた。
「あまり遅くならないようにしろよ。夕方の餌やりはお前の仕事だぞ」
「わかった!」
雪解けの始まった泥道を巧みな手綱さばきで、緑トカゲに乗ってかけて行くルカを見送り、男は作業小屋に立ち寄った。
棺を黙々と削る女に近づき、男は隣に座ると、そっと手を出し作業を中断させて頬に口づけをした。
「エリン、根を詰めないようにしてくれ。なるべく早く帰りたいが、少し遅くなるかもしれない」
相変らず、にこりともしない女は男を拒むこともしなかった。
次に子供が出来た時は、必ず立ち会おうと男は決めていた。
もう二度と逃げるような真似はしまいと心に誓っていた。
男は時々、娘がもらわれていった屋敷に足を運び、通り過ぎるふりをしながら門の中を覗き見た。
その姿を見ることは出来なかったが、立派な制服の門番や庭師、それから召使たちの姿を見かけるたびに、その家に問題がないことを知り安堵した。
ある日、男は郊外の閉鎖中の厩舎に様子を見に行き、息子の仕事ぶりを確かめた。
泥だらけの道の上に、緑トカゲの足跡がさらに西に向かって続いているのを見つけ、男はそれをたどって、息子の姿を探した。
息子は葉を落とした木立の並ぶ、丘の上に友人らしき少年と並んで座っていた。
その友人の装いを確かめ、男は渋い顔をした。
立派な鞍を付けた馬が緑トカゲの隣に繋がれている。
下級騎士とはいえ騎士であるのだから、平民の息子とは大きく身分が異なる。
男は息子の友人に頭を下げて、息子を連れて帰るべきか考えた。
と、丘に座っていた息子が隣の少年と肩を組んで笑い出した。
その笑顔は確かにまだ子供のものであり、引き離す理由は見当たらないようにも思えた。
友人と楽しいひと時を過ごす息子の姿を少しの間眺めていた男は、そっと足を後ろに引き、道を戻っていった。
雪解け水が伝い落ちる窓越しに雪がちらつき、灰色の雲の向こうにうっすらとした青空が覗き始めた。
弱々しい日差しに温められた空気は日中の寒さをやわらげ、地中に眠る草木が少しずつ頭をもたげ始める。
まるで扉をノックされたかのように枝先に膨らんだつぼみも顔を出し始めた。
人の気配のなかった通りにも再び活気が戻り始める。
春先の風を感じながら、男は店番をしているウィルに声をかけた。
「雪もそろそろ終わりだな」
寝ぼけ眼のウィルは大きく欠伸をして、店主を迎えると立ち上がって腰を伸ばした。
従業員を減らしたため、夜の番はなくなったが、その分、朝が早くなった。
男は息子を教会に送り出し、それから作業小屋の女の様子を確認してから家を出るため、朝市の前に店を開けることが出来ない。
「二コラ、さすがに人を雇わないと手が足りないぞ。ルカの学校は続けさせるのか?」
大抵の子供は読み書きを覚えたらそれで十分なのだ。
国に雇ってもらうのであれば、どうしても国営の学校に行く必要がある。
神学校でさえ、礼儀作法や言葉遣い、多くの決まり事を覚えなければならないし、国の信頼を得ている誰かから推薦を受ける必要もある。
「クーガなどの聖獣も扱える調教師になりたいのなら、どこかに弟子入りさせる必要がある」
王族も使用する聖獣は高価で買えないし、当然自分で狩りにいくのも無理だ。
飼育や調教を覚えるなら聖獣を扱う王都にある専門の学校に入る必要がある。
息子が教会の書庫から何冊も本を借りて読んでいることを知っている男は迷っていた。
緑トカゲを使うのは平民だけだ。
とはいえ、獣の調教師は危険な仕事であり、怪我をしてしまえばたちまち仕事を失うこともあり得るのだ。
王都で怪我をしても、すぐに助けにはいけないし、身分の低い息子は他の調教師の失敗を押し付けられて殺されることもあり得る。もちろん金額的な問題もある。
「さすがに、墓の仕事は継がせたくないだろう?」
声を落としたウィルの言葉に男はどきりとした。
エリンと結婚をする覚悟を固めた時に、付き合いの長いウィルには話していたが、やはり公にしない方がいいと忠告を受けた。
人生をかけてエリンが続けている仕事ではあるが、息子に引き継がせたい仕事ではない。
死に関わる仕事をしているというだけで、迷信深い人々は付き合いを控えようとするものだ。
「軍学校には行かせないのか?」
「この仕事より危険じゃないか。だったらまだ」
墓の仕事の方がましだと口に出しかけ、男は急いで言い換えた。
「俺の息子に務まるわけがないじゃないか。生まれつき勇敢な人たちの仕事だ」
ちょうど門を騎士達が入ってくるところだった。
身分の高い人間に逆らえば、平民の命など簡単に捨てられてしまう。
表情を強張らせ、頭を下げた男に、通りに入ってきた騎士の一人が近づいた。
「近いうちに馬を仕入れる必要がある。何頭用意できる?」
馬を買うのは裕福な客だ。
数頭を所持している男はその頭数を告げた。
「馬の産地であるコール地方は地元ですから、声をかければもっと集めることは出来ますが、高価なものですので、大抵は毎年決まった顧客におろしています」
春先は新兵のために若い馬を集める傾向があり、それは大きな取引になった。
町の人々の足として緑トカゲを貸し出してもそれはわずかな利益にしかならない。
冬の間に投資した分も取り戻せない額だ。
国が取引相手であればその額は跳ね上がる。
思いがけない大きな取引になり、男は緊張の面持ちになった。
「ありがとうございます。調達出来次第お届けにあがります」
契約書類を騎士に手渡し、男は丁寧に頭を下げた。
その後ろでウィルも恭しく頭を下げながら、小さく拳を握り、胸の前でぐっと引いてみせた。
騎士は男の所持する馬を全て買い上げた。
その日の夜、男はその喜びを家族に語った。
さらに、追加注文を受けたことを告げると、息子は身を乗り出して、自分も手伝いたいと声をあげた。
「地元の仲間達に声をかける。白毛馬と炎馬を特に高く買い取ってもらえそうだ。魔獣の血が入っているが、丈夫で勇敢だ。それから」
食事を終えた女がいつものように無言で席を立った。
男は会話を止め、無表情で食器を片付ける女を目で追った。
くしゃくしゃの髪を後ろで束ね、シャツとズボンといった代わり映えのない姿で、台所に遠ざかる。
父親のその様子を見て、息子は不満そうに口を引き結んだ。
「あの人は、自分のことしか興味がない。僕たちのことなんてどうでもいいんだよ」
男は息子の発言をたしなめるように顔をしかめると、大きな手で息子の頭を撫でた。
「お前を生んでくれた人だ。たった一人で痛みに耐えてお前を生んで、一年以上育てていた。どこにもやらなかったし……」
言いかけて男は黙った。なぜ娘は手放したのか、仕方がなかったとはいえ、女の心は見えないままだ。
「すべての責任は俺にある」
父親を非難出来ない息子は、不満そうな顔で食事を再開する。
後片付けを終え、息子が寝室に引き上げたのを見届けると、男は女の待つ寝室へ向かった。
寝台の片側に寄って横たわるその背中を窓越しの薄明りの中に確かめ、扉を閉める。
「エリン、数日ここを離れることになる」
男は寝台に滑り込み、馴染んできたその体を後ろから引き寄せて、抱きしめた。
華奢で頼りない体は、少しだけ丸みを帯びたようで、男はほっとした。
「行き先は両親の住んでいたコール地方の田舎だ。生まれ育った村がある。家や牧場の処分で世話になった友人たちも多いし、実は牧場を売った時に預かってもらっている馬もいる。少し時間はかかるが必ず戻る。だから、エリン、もし……俺がいない間に……」
念のためにと男は考えた。
「子供が出来ていたら、大事にしてほしい。今度こそ、一緒に育てよう」
女の背中がびくりと震えた。
小刻みに揺れる肩を抱きしめ、男は後ろから伸びあがって女の頬に唇を押し当てた。
唇に塩辛さを感じ、子供を手放した罪の重さを女も感じているのかもしれないと考えた。
死者と教会の人間しか訪ねてこないような、こんな寂しい場所で子供を育てて生きていけるわけがないと思ったこともあったが、息子は明るくのびのびと育っているし、教会の人々も毎日死んだような顔をして弔いばかり出しているわけではない。
世間話をして笑うこともあるし、祈りにきた町の人達と話し込んでお茶をするときもある。
門番たちと墓掘り達も飲みに行くことがあるようだし、男もまた厩舎を増やしウィルが手伝いにきたこともある。
教会や墓地に無縁の人々は不気味な場所だと思うだろうが、町の暮らしもここでの暮らしもさして変わらない。
土地がある分、多少うるさくしても気にならないし、教会の敷地内であるから門番もいるし壁もあり、何かあっても助けも呼べる。
「エリン、俺達は今度こそ一緒にいよう」
無言の女の体を抱いて、男は優しく囁いた。
それから数日も経たないうちに、男は仕事で家を出ることになった。
乗合馬車の貸し出しも始まり、整備に忙しくしていたウィルの悲鳴に応え人も雇った。
息子も行きたいと主張したが、家畜の世話があり、やはり連れていくことは出来なかった。
「お前以上に信頼できる人間がいなくなった。お前が仕事をよく手伝ってくれたおかげだ。
以前働いてくれていた人もいるが、慣れない仕事では事故が起きることもある。
それから、預かっていた卵から生まれた個体は檻から出すなよ。そのままにしておけ。それから……」
止まらない男の指示を息子は急いで紙にかきとめた。
冬の間にだいぶ仕事を覚えた息子は、一緒に行けないことを残念がったが、仕事を任せてもらえたことに誇らしい気持ちも抱いていた。
「わからなければウィルに聞けよ」
男は言い聞かせた。
それから、少し緊張した面持ちで男はサーラを迎えに行った。
雪が解けて、故郷に戻れることになったのだ。
途中の村まで男が乗せていく約束になっていた。
旅支度を終えたサーラが教会を出てくると、サーラは見送りにきた男の息子を抱きしめた。
「ルカ、寂しくなるわね。会いに行けなくなってしまってごめんなさい。あまり仲良くなり過ぎてはいけないとは思っていたのだけど、あなたが本当にかわいくてつい余計なことをしてしまったわ」
「そんなことないよ!うれしかった。僕……」
サーラがお母さんだったらよかったのにと言いかけたが、父親が見ていることを考え、息子は言葉を飲み込んだ。
男はあまり良い顔をしなかった。
サーラが馬車に乗り込むと、足台を折り畳み、荷台を閉じた。
「ルカ……エリンを頼む。何かあればロベルに相談してくれ」
御者席に乗り込む前に、男は家の方へ視線を向け、女が見送りに来ていないか探したが、やはりその姿を見つけることはできなかった。
「あの人は来ないよ……」
小さな息子の非難じみた声に、男はまた咎めるような視線を向け、頭を撫でた。
「彼女は尊敬できる人だ。別れなら昨夜済ませた」
寂しさを隠し、男は笑ってみせた。
馬車が動き出し、サーラが荷台から息子に手を振った。
その後ろにはお世話になった教会の人達も並んでいる。
サーラはその人達にも視線を向け、丁寧に頭を下げた。
馬車が見えなくなると、ロベルが息子に近づいた。
「ルカ、今日からお前がお父さんの代わりだ。エリンと仲良くできなくても、ちゃんと守らなくてはいけない。お父さんの大切な人なのだから」
息子と母親がうまくいっていないことは、教会の敷地内で働く誰もが知っている。
二人が一緒にいる姿を見た者はいない。
男が二人の関係を改善させようと一生懸命にやっていることはわかっていたが、それはあまりにも果てしない道のりに見えた。
諦めない男の気持ちを応援しながらも、教会の人々は余計な口を出さず、三人を見守り続けていた。
しかし息子はもう母親がいなくても十分、生きていける年齢だった。
「仕事に行ってくる」
教会の学校で教えることは全て学び終えた息子は、書庫で自習を始めていたが、最近は外の仕事や遊びに夢中で、勉強から遠ざかっていた。
しかし平民の子であれば、仕事をする時期でもあった。
「気を付けて、ルカ。遅くならないように戻りなさい」
ロベルの言葉に、息子は不承不承頷いた。
今日からしばらく、母親と二人きりで夕食を食べなければいけない。
息子にとっては憂鬱なことだったが、どうせ会話もないのだから、黙って食べて自分の部屋に逃げればいいと考えた。
その日、仕事を終えた息子は、西の丘で下級騎士の子であるレオと遅くまで遊び、星空が出てから墓の家に戻ってきた。
門のところでロベルが待っており、息子はパトから飛び下り、気まずそうに頭を下げた。
「パトを厩舎に入れたらすぐに家に入りなさい。明日はもう少し早く帰ってくれることを願っているよ」
少し厳しい口調で言われ、息子は逃げるようにパトに乗って家に帰った。
それでも厩舎でだらだらとパトの世話をして、家に入る時間を先延ばしにした。
家に入り、夕食の支度は誰がするのだろうと、息子がテーブルを見ると、意外なことにそこには既に食事の用意が出来ていた。
以前、女に用意した食事を台無しにされたことを思い出し、息子は嫌な顔をした。
女が用意したものは食べずに、台所に行き、自分の分を別に用意した。
女は息子が用意されていたものを食べないことに関して何も言わなかった。
いつも通りさっさと食事を終えると、食器を台所に下げに行く。
二人分の食事を前に、固くなったパンをかじりながら、息子は早く父親が帰ってこないだろうかと考えた。
翌朝、女が用意した昨夜の食事はそのまま残されていたが、その日の夕方にはなくなっていた。
食事は各自でとることに決まったようで、女の姿も見えなかった。
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