聖なる衣

丸井竹

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8.女の母親

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「奥さんが病気なら仕方がないね」

店番をしていた従業員のボーラは、息を切らしてやってきた息子に、男が来られない事情を聞くと息子の頭を優しく撫でた。
息子は複雑な表情だった。父親が看病している女は息子の母親だが、奥さんと呼ばれる立場の女性かどうかはわからない。
しかし、男は外ではそうした関係だと話していた。

長く騎獣屋で働いているボーラは、座っていた椅子を立ちあがった。
杖を取り上げ、息子の持ってきたメモに目を通す。

足の悪いボーラのために、店頭にはいつも椅子が置かれている。
それは男の心遣いであり、ボーラも無理をして自分を雇ってくれた男に感謝していた。

ボーラの夫は体を壊し、長い間、寝たきりなのだ。
幸い子供達が手伝ってくれているが、病人が出れば日常は突然崩れてしまう。
足が悪いことを隠して仕事を探し始めたボーラに、男は仕事をくれ、さらに椅子まで置いてくれた。
その恩を返せることをボーラはうれしく思った。

「大事にならないといいね。うちの旦那も無理がたたってね。休めない仕事はだめだよ。命を縮めてしまうからね。ここで雇ってもらえてよかった。まだ息子が独立していないからね。あと一年もすれば楽になる」

父親が倒れたら、それこそ居場所を失ってしまうと考え、少年は不安になった。
産みの母親が少年の世話をしてくれるとは思えない。

世話をしてくれなくても生きていける気もするが、女は息子を家から追い出してしまうだろう。
墓の家は嫌いだったが、他に何処に行っていいのかわからない。
何よりも父親が消えてしまえば心の拠り所を失ってしまう。

「父さんを大事にすることだ。長生きしてくれるようにね」

ボーラはもう一度息子の頭を撫でて、メモを折り畳んでポケットに入れた。

「奥さんは、いろいろ物が足りていなかったようだね。昼前は暇な時間だ。揃えてきてあげるよ」

杖をつき、ボーラが歩き出す。

「もう少ししたら、ウィルが来るからね。それまで店番を頼むよ」

息子は張り切って頷いた。



 春先のひんやりとした風の中に、初々しい草の香りが混ざり込む。
夕刻近くなったころ、息子は鼻先を赤くしながら墓地への道を急いでいた。
息子の背中には、ボーラにもたされた大きなリュックがあり、肩掛け鞄にも差し入れにもらった甘い菓子パンが入っている。

坂道を走っていると、その先に教会に向かう訪問客の背中が見えてきた。
空を見上げればもうじき夕暮れで、弔いの鐘の音も聞こえない。
不思議な時間に墓地に来る客がいるものだと息子は考えた。

するりと教会へ向かうその背中を追い抜いた。
直後、後ろから声をかけられた。

「坊や、ねぇ、ここにエリンっていう女が住んでいるでしょう?棺桶屋にいるかしら?それとも教会のほう?」

驚いて振り返ると、派手な化粧を施した中年の女が、なんとなく怖いような笑顔で少年に話しかけてきていた。
マントの内側に見える濃い紫色のドレスも息子には馴染みのないものだった。

息子は、自分を産んだ女の名前を知っていた。
父親が女のことをそう呼んでいるところを見たことがあるからだ。
息子は、いまだに母親のことをなんと呼んだらいいのかわからなかった。

母親だと思うが、母とは呼べない。

「母さん」と呼んだ直後に食事をぶちまけられたことはまだ覚えている。

「あんた、なんか似てるわね。まさか……ね。家はどこ?」

ねっとりと糸を引くような嫌な声の響きに、息子は警戒し、背中を向けて走り出した。
教会に続く道を逸れ、墓地の間を抜けて、まっすぐに暗い作業小屋を通り過ぎる。

灯りのついている家の扉を叩くと、すぐに男が顔を出した。

「ルカ、おかえり。すまなかった。今日は一日店に顔を出せなかったな」

息子は荷物を抱えて家に飛び込み、急いで男の後ろに回り込んで、その太い腰に抱き着いた。

「どうした?」

「誰かが来る。あの人を探しているみたい」

薄闇の中、ざくざくと土を踏む音が近づいてくる。
息子を中に入れ、男は外に出ると扉を閉めた。

墓地を抜けて、作業小屋の前で足を止めた何者かが、中を覗き込んでいる。
ほっそりとした体の線で、それが女だとわかる。

「誰だ?何の用だ」

暗がりの中で訪問客が男の方を向き、数歩進んだ。

「エリンに会いに来たの。母親が来たと伝えてよ。顔ぐらい出してくれるでしょう?」

母親だというが、その声の響きは冷たく乾いていて、愛情を感じさせないものだった。

神官長のロベルの話を思い出し、男は躊躇った。
棺桶職人と少しの間一緒に暮らした母親は、町に男が出来てエリンを連れて墓を去った。
その後、エリンは一人で戻ってきたのだ。

「彼女は……体調を崩して休んでいる。用件はなんだ?」

「あんたこそ誰よ。娘に会いに来るのに理由が必要?じゃあ、あの男でもいいわ。
いるんでしょう?棺桶ばっかり作っている、あのつまらない男よ。ヴィーナが来たって伝えてよ」

「ラバータのことか?彼なら死んだ」

ヴィーナはふらりと揺れながら、男に近づいた。
窓からこぼれる灯り越しに、中年の女の顔が浮かび上がる。
派手な化粧はひび割れ、強烈な香水の匂いが鼻腔を刺激する。

「ラバータにしては大きな体だと思ったわ。若い顔ね。そこをどいてよ。この家はラバータの物でしょう?
死んだのなら、今は娘のエリンの物じゃないの。血は繋がっていないけど、養女のようなものだったのだから、もうあの子のものでしょう?だったら母親にだってその権利があるわ」

「彼女は娘ではなかったと聞いた」

「あら、そうなの。やっぱりね。そうだと思ったわ。人の男をすぐに寝取るのよ。あの売女は」

突然、敵意をむき出しにした強い口調に変わり、ヴィーナは男の横をすり抜け、扉を開けた。

「待て!」

追いかけた男がその手首を掴む。途端に、ヴィーナが大声をあげた。

「痛い!痛いわ!放しなさいよ!暴力男!」

ヴィーナの大きな声に怯え、通路側に飛んで逃げた息子の顔を見て、力まかせにヴィーナを引きずり出そうとしていた男は咄嗟に力を抜いた。

ヴィーナは家に飛び込み、奥に繋がる通路に向かった。
逃げようとしていた息子は、震えながらもヴィーナを家にいれまいと、通路の前で踏みとどまった。
女が甲高い声で笑いだした。ぞっとして固まった二人の前で、女は声高に語り出した。

「信じられない。エリンの息子に、夫?幸せそうな家族じゃないの。最悪ね。母親の男を寝取っておきながら、自分はまともな結婚生活を送っているわけ?
どうせ、ラバータともやっていたのよ。だから血の繋がりもないくせにここを手に入れることが出来たのよ。
知っている?坊や、お前の母親はね、私の男を寝取ったの。若いだけのあの体で、股を開いて」

「よせ!」

男は息子の前に飛びだし、ヴィーナの体を抱え上げて外に押し出そうとした。
ヴィーナはがむしゃらに暴れ、男に噛みついた。

「放しなさいよ!お前だって、あの女の色仕掛けに引っかかったんでしょう!あの売女に騙されているのよ!あの女はね、私の男に色目を使って簡単に寝取るのよ。
全部、あの子のせいよ!お前のせいで私は不幸になったんだ!金をよこせ!何もかも差し出しなさいよ!子供に夫なんてまともなもの、お前にもてるわけがない!あばずれの、糞女!殺してやる!」

思いつく限りの悪態をつくヴィーナを捕まえ、男は引きずりながら息子を振り返った。

「奥に行け!出てくるな」

どこかエリンに似ていると思ったヴィーナの顔は、まるで化粧をした化け物のように歪んでいる。
男はヴィーナを追い出し、扉を閉めた。
すぐに扉を叩く大きな音が室内に響き渡った。

「開けなさいよ!エリンを出しな!私の男を寝取ったあの恥知らずの娘よ!お前も気を付けた方がいいわ。大人しそうな顔をして、あいつはすぐに男と寝るのよ!
あんただって、誘われて寝たんでしょう?エリン!出てきなさいよ!お前のせいで男が出ていったのよ!若いだけの体で誘惑したくせに!慰謝料払いなさいよ!」

凄まじい声が響き渡り、男は窓に走ってカーテンを閉めた。
いつの間にか息子の姿が消えている。
台所脇から通路を進むと、エリンの寝ている寝室の前に息子が座り込んでいた。

「ルカ、裏口から教会に行け。俺が迎えに行くまで戻って来るな」

すぐに息子は立ち上がり、裏口に向かって走り出した。
男は食堂の棚にいき、財布からいくらか取り出すと拳に握り込んだ。

うるさく鳴り響く扉を開けると、ヴィーナが怒りの形相で飛び込んできた。

「あばずれ女をさっさと出せ!」

男は女の手に金を押し付けた。
すぐに目の色を変え、ヴィーナは押し付けられた金を確認した。
開いた手からこぼれ落ちた硬貨を慌てて拾い始める。

「もう来ないでくれ。言ったはずだ。彼女は体調を崩して寝ている」

「だから何よ。私なんて、もっと大変よ!ねぇ、あんた、私と寝なさいよ!」

金を拾っていたヴィーナは、突然立ち上がると男に抱き着き、その股間に手を当てた。
ぞっとして男はヴィーナの手を跳ねのけた。

「私の男を寝取ったのだもの。私だって、あの子の男と寝なきゃ不公平よ」

女の母親を暴力で追い出すわけにもいかず、男は体を傷つけないように押さえ込むと外に出そうとした。

「彼女がそんなことをするわけがない!」

男は叫んだが、ヴィーナは甲高い笑い声をあげ、飛び上がるようにして男の体に抱き着いた。
驚き、よろめいた男の上によじのぼり、ヴィーナは男のシャツに手をかけた。

「証拠があるわ。あの子はね!私の男の前で裸になっていたのよ!」

たまらず膝をついた男の上にさらにヴィーナがのしかかる。
少し本気を出し、男はヴィーナを引き離した。

大袈裟に悲鳴を上げ、ヴィーナは「痛い、痛い」と騒ぎ立てる。

と、その時、二人の頭上から固い小石のようなものが降り注いだ。
それらはちゃりんちゃりんと音を立て、床に転がり落ちて行く。

途端にヴィーナは男から離れ、降ってきた小銭を拾い始めた。
そんなヴィーナの頭上から、またもや小銭が叩きつけられた。

ヴィーナは高笑いをしながら顔を上げた。

「エリン!一生、お前からむしってやる!お前のせいだ!全部お前のせいだ!」

そこには熱で顔を赤くした女が立っていた。
女はふらふらしながら棚に積み上げられていた小銭を掴み、再び母親に投げつけた。
三度、小銭を叩きつけた女は、一言も無く床に倒れた。

男が駆け付けるより早く、玄関扉が開き、神官長のロベルが飛び込んできた。
その後ろから他の神官たちが入って来て、ヴィーナを男から引き剥がす。

「ヴィーナ、今更何をしに来た!教会の敷地に入ることを今日から禁じる。もう二度と戻って来るな」

聞いたこともないような恐ろしい声音でロベルがきっぱりと告げた。
ヴィーナはショックを受けたように目を見開き、悔しそうに唇を噛みしめた。

「私は地獄に落ちろっていうこと?教会は罪人だって受け入れるのに、私のことを拒絶するの?知らなかったわ。うちの娘が神官長までたらしこむことができるなんてね」

男は立ち上がり、倒れた女を抱き上げて耳を塞いだ。

「ヴィーナ、全てはお前がラバータを裏切ったことが原因だ。彼は良い男だった。お前さえ出ていかなければ穏やかな日常を送れたはずだ」

「都会の暮らしを知っていなければね……。退屈で、面白味のない男よ。エリンはうまくとりいったみたいね。最悪よ。不幸になったらいい」

「彼女はここで良い仕事をしてくれている」

教会の男達に引きずられるようにヴィーナは外に出され、敷地の外に運ばれていった。
ロベルは男を振り返った。

「今夜はルカを預かろう。明日、迎えに来なさい」

男は感謝を告げ、頭を下げた。
小屋にふたりきりになると、男は腕に抱いた女を見おろした。
ぐったりとして、瞼も閉ざされている。
燃えるように熱い体を抱き上げ寝室に運ぶと、男はグラスを口に押し当てなんとか女に水を飲ませた。

寝台に寝かせ、枕元の灯りを落とすと、静寂が訪れた。
窓から差し込む薄明りに、女の顔がかすかに浮かびあがる。

男はロベルから聞いたエリンの話を思い出していた。
棺桶職人のラバータを捨て、ヴィーナはエリンを連れて町におりた。
ところが、エリンは一人で戻ってきた。
血の繋がりのないラバータを頼ってやってきて、エリンは弟子にしてほしいと頼んだのだ。

母親の男に襲われたのかもしれないと男は考えた。
血の繋がりのある母親のもとには、帰れなかったのだ。

重いため息をつきながら、男は眠る女の手を取った。
固くなり、血のにじむ荒れた手は、男の片手にすっぽりおさまるほど小さかった。
もとは傷一つないきれいな手だったのだろうと思うと、ここに至るまでのエリンの人生の過酷さを考えさせられた。

家族も、母親も、そんなものはエリンの人生に存在しなかったのかもしれない。
血のつながらないラバータだけが、エリンに技術を伝え、生きていく術を教えた。
それで、頑なに棺を作り続けるのだろうか。

エリンが語らなければ、その答はわからない。
その夜、男は一晩中、女の傍にいた。
朝方目を覚ました女に薬を飲ませ、朝食を運び、それから息子を迎えにいった。
教会から息子を連れて戻った時、作業小屋に灯りはなかった。

女はその日、一日だけ休みをとった。

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