聖なる衣

丸井竹

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3.抱けなかった娘

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 早朝、作業小屋から棺桶を作る音が聞こえてくる。
男は粗末な食事を息子と分け合い、二人で家を出る。
息子は学校に行き、男は仕事に向かう。

三人で暮らし始めた様子を教会の神官長が見ていた。
棺桶職人の家に運ばれる食料はさりげなく三人分に増やされた。

女の生活は変わらなかった。

一日中、棺桶を作り、粗末な食事を朝と夕に作る。
裏の井戸で体を洗い、洗濯をする。
家の前の小さな空き地を掃除し、木切れを拾い、落ち葉を掃く。

息子はすぐに墓での生活が嫌になり、学校の寮に戻った。
男は仕事に通い、女の傍にいた。

離縁し間男に家をとられた男には、他に行く場所もなく、女の傍にいれば衣食住に困ることはなかった。
棺桶職人の給料は微々たるものだったが、食料は教会の寄付であり、水も井戸が使える。
外にも出ない女は金を使わない。

無造作に棚に並べられた金の入った紙の包みを見て、男はそれを子供の養育に使ってもいいかと問いかけた。
女は好きにしていいと答えた。
女の許可を得て、棚から金を集めていた男は、少し多めの金額が入った白い袋を見つけた。

「これは?」

金持ちの葬儀で作った棺桶代だろうかと男は考えた。
袋には金糸の刺繍で縫い込まれた教会の印が入っていた。
さらに口を縛るリボンは光沢のある高級品だった。

なんとなく気になり、男はその袋を教会に持って行った。

「これはどういったお金だったのですか?」

女が手にするお金は全て教会が支払うものだ。
長い白髪を後ろできっちり編み込んだ神官長のロベルが出てきて、男を祭壇に招いた。
大小さまざまなろうそくの置かれた祭壇には、寄付を募るための金属で出来た皿がいくつか並べられている。

その脇の赤いロープで仕切られた通路の向こうへ神官長は男を連れて行った。
回廊は別棟に繋がっており、扉を二枚抜けると、左右に小部屋の並ぶ通路に出た。

そのどこかの部屋から小さな子供の声が聞こえてくる。

「望まぬ妊娠をした女性が生んだ子供を、裕福な家庭にお渡しする場所です。そのお金は一年前、彼女が産んだ娘を引き渡した時に受け取ったものです」

男は二年間、女のもとに戻らなかった。
別れる直前に、体を重ねたことを覚えていた。
愛もなく体を重ねた責任を感じ、男は一緒になるかと問いかけ、女は好きにしても良いと答えた。
責任をとらなくてもいいのだと気が楽になり、男は町に帰った。

その間に女は男の子供を産み、養子に出したのだ。

いつの間にか手放されていた娘の存在を知った男は驚き、声を詰まらせた。
沸き上がる感情が怒りなのか、悲しみなのかわからず、男は両手に抱くはずだった娘を想った。

神官長は通路沿いの一室に男を案内した。

「ここで出産しました。難産でしたが、なんとか無事に生まれ、そのまま引き取られていきました」

鉄製の粗末な寝台に、白いシーツが畳まれ置かれている。
余分なものは一切ない。
新しくもない建物の黒く変色した床板は、歩くたびに嫌な音を立てて軋み、窓辺の枠は腐りかけて木切れがかけている。

命が生まれる喜ばしい場所なのに、たった一つの小さな窓には鉄格子が嵌められている。

男は別れた妻の出産した状況を思い出した。
二年前、妻が間男の子供を身ごもっているとは知らなかった男は、妻の手を握り出産に立ち会った。
部屋を暖かくして、治癒師と助産師を呼び、必死に妻の助けになろうと心を尽くした。

痛みを訴える妻の背中をさすり、水を運び、愛していると囁き、子供が産まれた時には感謝を告げた。
妊娠中だって、妻を働かせることなく面倒をみていた。

男が間男の子供をみごもった妻の世話をしている間に、墓に残された女は一人で子供を産んだのだ。
誰にも世話をされず、誰にも頼らず、教会のこの一室を利用して命がけの出産をし、裕福な家庭に娘を託した。

「ここでは最低限のことしかできません。出産を終え、娘を引き渡して仕事に戻って行きました」

「なぜ、彼女はそんなことを?」

神官長はそんなことも聞かなければわからないのかと言わんばかりの表情で、男を見上げた。

「手助けしてくれる人も無しに育てられますか?それに、ここには未来がない」

成長した息子は寂れた墓地に住むのを嫌がり、寮の方がましだと学校に戻って行った。
母親が棺桶職人であることは友人に話せないだろう。
子供まで出来たのに、男が結婚に踏み切らなかったのも、女が墓に住む棺桶職人だったからだ。

墓は不吉な場所であり、妻が墓で棺桶を作っていると言えば、客商売にも影響する。

生まれた子供がどんな風に育つのかもわかっている。
死人に囲まれ、冷たい地面の下に棺桶を沈める様子を毎日目にし、弔いの鐘を聞いて育つ。
母親が板に刻む絵は死後の世界ばかりだ。

男は神官長に頼み込み、遠くから見るだけだからと、娘がもらわれていった家の場所を聞いた。

貴族ばかりが住む高級住宅街の一角に、その屋敷があった。
立派な門の向こうで、子供を抱くには少し歳をとりすぎている中年の女が幸せそうに娘をあやしていた。
その傍らには白髪交じりの男がやはり、優しい眼差しで娘を見ている。

幸福な家族の光景に、男は涙ぐみ、奥歯を噛みしめた。
これが、今まで自分が手放してきたものだろうかと男は考えた。

もし、女の傍に留まり、逃げずに暮らし続けていたなら、家族で暮らす幸福な未来があったのかもしれない。
息子はもう母親を覚えていない。
乳をもらい、下の世話をしてもらった記憶だってない。

数年一緒にいたが、陰気な墓地で育てられる息子が不憫で実家に連れて行き、母親から引き離した。
女が最低限の世話しかしなかったからだ。
微笑みかけ、抱きしめ、語り掛けるといった母親らしいことは何もしなかった。

男も女に理想を押し付けるばかりで、自分が女の分まで子供を愛してやろうとは考えなかった。
寄宿学校に入れたのは、最低限の責任感からだった。

養父母に愛されている娘の幸福そうな姿を見届け、男は墓地に戻った。
作業小屋からは相変わらず棺桶を作る音が聞こえている。

遺体の腐敗する匂いも強烈だ。

久しぶりに男は死んだ恋人の墓に向かった。
白い墓標の前に座った男は、花を持ってきていないことに気が付いた。

ふと、女の言葉が蘇った。

『あなたの恋人のために、私は白い花の絵を棺桶に刻んだ。暗い地面の下には花が咲き、故人が愛した時間や景色がある』

地上に花はなくても、地面の下の恋人の周りには白い花が咲き乱れている。
優しく微笑む生前の恋人の姿を思い出し、男は泣きながら両手で顔を覆った。
もう何年も泣いていない気がしていた。

それから男は教会に通うようになった。
仕事に行き、戻って来れば教会に寄って祈りをささげた。
今更のことだったが、男は悲しみに囚われていた自分に向き合い、心を整理し始めた。

この世を離れ、天に登る恋人の傍には白い花が寄り添っている。
女が棺桶に刻んだその花は枯れることがない、地上で愛された者の証なのだ。

男は今の自分の現状を受け入れ、そこに根を張って生きることに決めた。
愛も家族の絆もなかったが、女に自分の子供を二人も産ませたのだ。
出来る限りの責任はとらなければならないと考えた。

同居しているだけの女との生活は空虚で、相変わらず寒々しいものだった。
体を求めれば拒まないことはわかっている。
だからといって手を繋ぎたい欲求もない。

夕食時、食卓を挟み座っても、互いに顔を見合わせることもしないのだ。

ただ食べて、寝るだけの生活だった。
女は早朝には作業に出て、日が暮れてから帰ってくる。
町に仕事に行く男は、休日には一日中女の棺桶を削る音を聞いている。

三か月が過ぎ、寄宿学校を一時帰宅させられた息子が戻ってきた。

「まだお墓なの?町に住みたい」

男に連れられて墓地の端にある家に入ると、息子は不満を口にした。
つまらなそうな表情で、夕食時には大人用の椅子に座り、ぶらぶらと足先を揺らしながら、自分の部屋が欲しいと訴えた。

女は終始黙っていた。

「こんなところ嫌だ!」

町の家には別れた妻と、浮気相手の男とその子供が住んでいる。
寄宿学校と町の家しか知らない息子は陰気な墓地の家を嫌がった。
一時期、男の実家にいたが、一年ぐらいしか滞在しなかった。

まだ子供であり、大人の事情もよくわかっていない。
ただ、男の離縁した妻が自分を嫌っていたことだけは覚えていた。

突然、息子は食卓のパンを投げつけた。
それは女の顔に当たり、床に落ちた。
皿を床に投げつけ、わずかな野菜を入れたスープがひっくり返る。

その癇癪に、女はわずかな動揺も見せず、ただ黙っていた。
男は椅子を立ちあがり、息子をたしなめようとした。

騒ぎ立てる息子と、それを押さえつけ、黙らせようとする父親の姿を無表情で眺め、女は席を立つと寝支度に入った。
それを見て、息子はますます足を踏み鳴らした。

男は息子を抱きしめ、途方にくれた。
年老いた両親にまた預けるべきかと頭に過ったが、すぐに一人で妊娠と出産を耐えきった女のことを考えた。

女に助けてくれる人はいない。
何があっても自分で生きていくしかないのだ。
産まれたばかりの子供を一人で一年育て続けた。

引き離さなければ、わずかでも絆が育っていたかもしれない。
男は息子の顔を見おろした。

「ここが、お前の家だ。彼女は……」

望まない妊娠と出産、それから子育てと、身勝手な連れ去り。
女が息子の母親になりたかったのかどうかもわからない。
しかし客観的にみたら男がしたことはそういうことだ。
女に憎まれているのかもしれないと、男はその時初めて考えた。

女のもとから奪っておきながら、身勝手な理由でまた連れて戻ってきた息子のことを、女がどう思っているのかもわからない。

「お前を産んで、育ててくれた人だ。俺が……引き離した。ここで育てたくないと思った。
だけど、俺が町で結婚し、離縁したあの女が何をしたか覚えているだろう?あの結婚は間違いだった。離縁出来ただけ良かった。俺の過ちだ。
彼女は、俺が身勝手なことをしたのに、住む家も食事も、居場所も提供してくれる。ここが最後の居場所だ」

子供には難しい話だったが、息子は墓を出ることは出来ないのだと知って、やはり不満な顔をした。
息子は休日を終えると、すぐに寮に戻った。

それを見送った男は墓に戻り、自分が使っていた寝室を息子の部屋にして、奥の物置を片付けた。
そこには埃を被った日用品が詰まっていた。

古びた服やブーツ、タオルや黄ばんだシーツ、棺桶を削る錆びついた道具といった男の一人暮らしを連想させるような物ばかりが出てきた。

手紙も、子供服も、家族の思い出に繋がるような品は見つからなかった。
出てきたガラクタを箱に詰め、夕食時に男は女に問いかけた。

「奥の物置になっていた部屋を片付けた。ルカの部屋にしようと思うのだが良いだろうか?」

具の少ないスープを無表情で食べていた女は黙って頷いた。

「もし、捨てられたくないものがあったら、取っておいて欲しい。それから……今夜から一緒に寝ないか?」

恨まれているかもしれない。憎まれているのかも。
愛も情も生まれないかもしれない。

そう思ったが、女は男の子供を二人も産んでいる。
普通であれば、その関係は夫婦であってもおかしくない。

女は曖昧に首を傾けた。
頷いたようにも見えたし、疑問を投げかける仕草のようにも思えた。
しかし寝支度を整え、男が女の寝室に行くと、女は壁際に張り付くように横になり、片側を空けていた。

手も繋がず眠りにつき、翌朝、女はさっさと起きて部屋を出ていった。
簡単な朝食を作り、鍋からスープをよそい、それから固いパンを暖炉で温め、それだけを口にして作業小屋に向かうのだ。

朝靄に閉ざされた墓地を窓越しに眺め、男も体を起こした。
そそくさと朝食をとる女の向かいに座り、男は話しかけた。

「そろそろ名前を教え合わないか?」

その時、初めて男は女の感情らしきものを見た。
驚いたように目を少しだけ大きくしたのだ。
すぐにいつもの無表情に戻ったが、少し考えるように黙り込んだ。

「エリン……」

かすかな声でそれだけ伝え、女は立ち上がると家を出て行った。
やっと自分の子供を二人も生んでくれた人の名前がわかり、男はほっとした。
女に男の名前を知りたい気持ちはないようだったが、それは構わなかった。

すぐに隣の作業小屋からいつもの棺桶を作る音が聞こえてきた。
組み立てから始めたらしく、大きな金槌の音が響きだす。

男も腰を上げると仕事に出た。


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