聖なる衣

丸井竹

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2.結婚と離縁、そして出戻り

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 教会の敷地内にある女の家で、男は子供と三人で暮らしていた。
子供は男の幼少時代にそっくりな顔立ちに成長した。

亡き最愛の女性との間に子供は出来なかった。
それなのに、悲しみに流され女に子供を産ませた男は、なんとなく墓に眠る恋人に申し訳ない気持ちにを抱いていた。

それ故、いつもなんとなく不機嫌であり、男は女と関係を深めようとはしなかった。
愛もなく勝手に子供を産んだ女に腹を立てていたし、さらに女が子供に無関心なことも許せなかった。
男が仕事から帰ると、子供はいつもつまらなそうな顔でぽつんと待っていた。
女が最低限の世話しかしないのは、自分を愛していないからだと男は考えた。

普通の両親に愛されて育った男は、この冷え切った関係に我慢できなくなり、ついに子供を連れて実家に帰った。

女はただその現実を受け入れ、一人の生活に戻った。
遺体が運ばれて来れば、棺桶を用意し、その蓋に彫刻を施した。

まるで時間が止まっているかのように、墓地では同じ事が繰り返された。
運ばれてくる遺体と、弔いの鐘、黒い服に身を包んだ人々、陰気な顔の墓掘り達、そうしたものに囲まれ、女は仕事に打ち込んだ。

男は定期的に墓を訪れ、恋人の墓に花を供えた。

子供が寄宿学校に入った頃、男は女にそれを知らせにきた。
ところがその日、女は作業小屋にいなかった。
隣の住まいに向かうと、扉は開いたままだった。

寝室の寒々とした床の上に、女は一人倒れていた。
高熱を出し、意識も無い女を見て、男は疫病の遺体にでも触れたのかと考えた。

女をそのままにし、男は町から嫌がる治癒師を引きずるように連れてくると、女をみて欲しいと訴えた。
治癒師は簡単に診察し、小さな薬瓶をテーブルに置いた。

「これで治らなければ諦めてください」

男は寝室を温め、女に薬を与えた。
翌朝、寝台の傍らに椅子を置いて寝ていた男が目覚めると、女は寝台から消えていた。
弔いの鐘が聞こえ、男は作業小屋に駆け付けた。

女は棺桶を組み立てていた。
その頬は赤く、熱で目元は潤んでいる。
時折ふらつきながら、必死に棺桶にしがみつく。

病人とは思えない集中力で、女は熱心に棺桶を作り続けた。
男はその姿を見届け、黙って町に帰った。

定期的に、男は墓地を訪れ、恋人の墓に花を供えると女のいる作業小屋に顔を出した。
男が扉を叩いても女が出てくることはなく、話しかけても無言だった。
女は作業の手を休めることなく、常に棺桶に向き合い続けた。

ある時、作業小屋に顔を出した男は、ふと自分がしたことを振り返った。

恋人を亡くし、悲しみに囚われていた時、男はこの墓地で暮らし始め、流されるままに女を抱いた。
お互い同意だったと思ったが、襲ったのは男だった。
女はただ、拒まなかっただけだ。

望んだわけでもないのに男に子供を孕まされ、そのまま産んで一年育てた。
そんな子供をある日、外の人間に突然奪われた。
そこに、自分を孕ませた男がやってきて、子供を取り返してきて、五年育ててまた連れ去ったのだ。

母親の同意も得ず子供を取り上げた行為が正しかったのかわからず、男はここにきてやっと女に問いかけた。

「なぜ……俺の子供を産んだ?」

愛もなく、名前も知らない男の子供だ。
それは男にとっても、肉欲と悲しみを紛らわせるためだけの交わりだった。
子供を初めて目にした時は、出来ればおろしてほしかったとさえ思った。

だから、一度は逃げ出したのだ。
深く考えずにやってしまった自分の行為に対し、責任をとりたくなかった。

男の質問に女は答えなかった。
手元で彫っていた棺桶は、子供用のものだった。
開いた絵本の挿絵をまねて、器用に小刀で絵を描く。

美しい装飾を施しても、棺桶は一日で土の中に埋められてしまう。
さらに病で死んだ者の棺桶は、遺体をおさめた途端焼かれてしまうのだ。

そんな仕事を引き受けたい職人はいないが、もし死者のために美しい棺桶が欲しいなら、やはりこの女に頼むしかない。

教会の敷地の外れにある、棺桶職人の女の住まいに人は寄り付かない。
ただただ木を削る音だけが、寂れた墓地に響き渡る。

結局、何度男が問いかけても、女が答えることはなかった。
そして、子供がどうしているのか、女が男に問いかけることもなかった。

男は帰ったが、時折、墓地を訪れ女の様子をうかがった。
いつの間にか、男の墓地を訪れる目的は、亡き恋人の墓に花を供えることから、女の様子を確認することに変わっていた。

名前も知らない男の来訪を、女は喜ぶことも、拒絶することもなかった。
自宅や作業小屋に男が入って来ても、女は男に対し無関心な態度を貫いた。

ある夜、男は女の寝ているところに忍び込んだ。
寝台に滑り込み、抱いたことのあるその体に触れた。
柔らかく、温かい女性らしい体だった。

清潔な石鹸の香りが、思いがけず性欲を刺激した。
薄闇の中、仰向けで寝ていた女はうっすら目を開け、男を見上げた。
初めて、男は女の顔を正面に見て、小さな唇に触れた。

肉欲かもしれない。
愛ではないのだから。

男は心のままに、無抵抗の女を抱いた。
体に与えられる衝撃に、ただただ耐えるばかりの女の息遣いを聞きながら、男は孤独な女を抱きしめた。

女の体を抱きながら、男は性欲を満たすだけならこの体でなくても良いはずだと考えた。
となれば、浅ましい欲望だけでこの女を抱きたいと思ったわけでもない。

愛でも肉欲でもないのならば、この交わりはなんだろう。
自分の息子を産んだ体が愛しいのかもしれないと考えたが、男には明確な答えが出せなかった。

肉を打ち合う音と、それに呼応する息遣い。
自身のこぼれる声と、床と寝台の軋む音。
薄闇に揺れる陰に、冷え切った空気に立ち昇る白い息。
窓明かりの下、森にうごめく獣のように体を重ね、男は亡き恋人のことを考えた。

温かな日差しの下、微笑む恋人の幸福な姿。
病床で手を繋ぎ、感謝を告げる愛しい口元。
別れの近い恋人たちを周囲の人々は温かく見守り、葬儀には大勢の人々が駆け付けた。
抱き合い、慰め合い、そして誰もいなくなった。

実際に手を差し伸べ、男の悲しみを癒してくれたのは、この物言わない棺桶職人の女だけだった。

男にとって女は単なる逃げ道に過ぎなかった。
明るい未来から顔を背け、悲しみにしがみつき、簡単に手に入る女の体に慰めを求めた。

その結果、息子が産まれ、中途半端に責任を取ることになった。
不幸は生まなかったが、幸せも生まれない。
虚しく、どこまでも単調な交わりだけが出口のない闇の中で行われている。

無責任なことをした罪悪感と、まともな人間だと見せかけるための偽善行為かもしれない。

「一緒に暮らさないか?」

欲望を吐き出し、男は罪悪感とわずかな責任感から女にそう問いかけた。
女は目を閉ざし、横を向いた。

「帰る場所があるなら、帰っていいよ。私のことは忘れていい」

それが女の本心かどうかわからなかったが、男はほっとした。
もう何も言わず、男は眠りについた。

女は早朝、粗末な食事を男のために用意し、小屋を出ていった。

男は一人寝台に横たわり、隣から聞こえてきた棺桶を作成する音に耳を澄ませた。

亡き恋人とは、夜を過ごせば必ず翌朝には甘い語らいがあり、もう一度体を重ねることさえあった。
女との逢瀬は何もかもが違っている。

もし、女の方から歩み寄るような態度をとってくれたのなら、少しは考えなければと思っていたが、そんなことにはならなかった。

帰っても良いと言われたことで、男は女のいない未来を思い描いた。
もう一度、日の当たる場所に戻れるだろうか。

男は作業小屋に立ち寄ることなく、再び女のもとを去った。


 二年後、男は息子の手を引き、墓に戻ってきた。

恋人の墓に花を供えるのも二年ぶりだった。
それから、息子を連れて作業小屋に向かった。

相変らず石造りの平屋から棺桶を磨く音が聞こえてくる。
扉を開けると、女が黙々と棺桶に向き合っていた。
大きな棺桶の蓋を熱心に磨き上げている。
傍らに、これから棺桶に刻まれる予定の絵が置かれている。

名前を呼ぼうとして、男は女の名前を知らないことに気が付いた。
歩み寄ろうとしてくれない女に苛立ち、意地になって不機嫌を貫いてきた過去を思い出し、男は苦い顔をした。

「この人、誰?」

息子は母親をよく覚えていなかった。
多少記憶はあっても、微笑みかけられたこともないのだ。
男が覚えている限り、二人に会話もなかった。

母親だと教えていいのかもわからず、男は息子の手を引き、女の住まいの方へ移動した。
夜になり、作業小屋から女が戻ってきた。

男は息子を別室で待たせ、女に戻ってきた事情を説明した。

墓を去った男は、普通の暮らしを始めていた。
恋人を失った痛みを忘れ、日の当たる場所で生きようと意欲的に仕事をした。
普通に別の女性と出会い、交際も始まり、子供が出来たと言われて結婚までした。

ところが、幸福な夫婦生活は訪れなかった。
妻は世話をしたくないと、男の息子を拒絶し、寄宿学校から息子が帰ってこられなくなった。
さらに、妻が生んだ子供は男の姿に似ておらず、それでも一年育てたが、ついに浮気相手の子であることが発覚した。

それで離縁し、息子と家を出てきたと男は女に告白した。
女は黙って聞いていた。

「二人で暮らすことも考えたが、君の息子でもある」

息子がいなければ、自由に生きていけるかもしれない。
男は間男に妻と一年育てた子を奪われたが、血の繋がりのない子供を引き取ることにはならなかった。

背負わなければならないものはない。

さらに息子には棺桶職人の母親がいる。
それが幸運なことなのかわからないが、少なくとも息子は女のところに身を寄せることができる。
食事と寝床といった最低限のものはここに揃っている。

「一緒に暮らすか、あるいは君が引き取るのか、どうしたい?」

男は女の決断を待った。

暗く沈んだ目を女は窓の外に向けた。
日の落ちた墓地は真っ暗で、何も見えない。

遠い目をして窓越しに闇を見ていた女は、やがて口を開いた。

「あの日、雨の中であなたは新しいお墓の前にいた。あなたの恋人のために、私は聖花の絵を棺桶に刻んだ。暗い地面の下には花が咲き、故人が愛した時間や景色がある。
棺桶が穴に下ろされていくたびに、私は地面の下にそんな景色を思い描く」

男は女が刻んできた棺桶の美しい装飾を思い出した。
冷たく何もない暗い地面の下には、女が描いてきた世界が広がっている。
そんな光景が頭に浮かんだ。

寂れた墓地の下に埋められた瞬間、棺桶に描かれた絵は命を得たように輝きだし、死者を迎える世界になる。

「それが、君が棺桶を作り続ける理由か?」

男の問いかけに、女は何も答えなかった。
結局、話し合いにはならなかった。
男は息子だけを置いていくこともできず、再び何の取り決めもなく三人の暮らしが始まった。
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