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32.仲直り
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「これは……なかなかの光景だな……」
書斎の窓の前にソフィと並んで立ったイーゼンが、呻くように言った。
パールがイーゼンの腕の中に鼻を入れ、甘えるように顔を押し付けている。
二人の前には青白い顔をした女が首にロープをまいてベランダの上からぶら下がっていた。女は白い目を剥きだしにして、とにかく口汚く罵っている。
『あの、女の生んだ子を呪い殺してやる!あんな卑劣な女に息子の財産を渡してなるものか!殺してやる!殺してやる!その子供を呪い殺してやる!あの子供は夫の子じゃない!嘘つきのあばずれ女め!息子のためにあの女の子供を呪い殺してやる!それを伝えずにはここを去るわけにはいかない!』
その声は死者の声であり、通常の人間には聞こえない。
ソフィは首を傾け、問いかけるようにイーゼンに視線を向ける。
「証言してくれる?この人、ちゃんとルドガーのことを愛していたのよ」
多少強引なこじつけだったが、愛と言えなくもない。イーゼンはそこは否定せず、どうしたものかと腕組みをした。
「この光景をルドガーも見ることは出来るのか?」
ここはルドガーの生家の書斎で、ソフィは玄関に入るや否や、ルドガーに父親の部屋にいて欲しいと告げ、イーゼンの手を引いて一緒にこの部屋にやってきた。
最初、少し暗い部屋だと思ったイーゼンだったが、ソフィに触れられた途端、この首吊り死体がぼんやりと見えだし、それはどんどん鮮明になりついに声まで聞こえるようになった。
「可能だけど……」
ソフィは首をつっている女の姿を改めて見上げた。
女の首は縄の所からちぎれ、胴体はその下にある。両足を床に付けて腕を振り回して怒っている。壮絶な光景だ。
これが実母の最後の姿かと思うと、とてもルドガーに見せる気にはなれない。
「この家で起きている不思議な現象は、お父様の罪悪感とこの霊が周囲の死にきれない魂を集めてしまっているからなの。だから、お母様はここにいるし、お父様を殺そうとしているのは別の人なの」
ソフィは困ったようにイーゼンの袖を引っ張った。
「どう思う?」
「どう思うって……」
悪鬼の形相で呪いの言葉を吐き続ける女は、とにかく夫が外に子供を作ったことが許せないらしく、生まれた子供は殺してなかったことにしろととんでもないことを叫んでいる。
しかしその呪いには意味がなく、ただただこの館に不気味な現象を引き起こしている。
「そうだなぁ……。とにかく母親がルドガーを愛していたことは確かだ。それから財産も愛していた……」
「夫を許しているとは言えないでしょう?嘘もつきたくないし」
イーゼンはさらに難解な顔になった。
しばらく二人は話し合い、ルドガーの父親が寝ている寝室に向かった。
扉を開けた途端、ソフィがイーゼンの腕を掴んだ。
その瞬間、またもやイーゼンの目に、ソフィの見ている光景が飛び込んできた。
部屋に一歩足を踏み入れたばかりだったイーゼンは、その足を後ろに戻し、顔を引きつらせた。
その部屋は足の踏み場もないほど幽霊だらけだった。
父親の寝ている寝台の上には顔が百個ほどあるし、その後ろにも周りにも人がひしめき合っている。
不思議なことに、ルドガーの周りだけ半歩程度空間があり、そこからはじき出されたらしい幽霊たちが押し合いながらわめいていた。
「これは……」
「どうした?入らないのか?」
ルドガーが立ち上がり、二人を迎え出ようとするが、イーゼンは両手を突き出し、首を横に振った。
「ルドガー、そこを動くなよ。パール!」
イーゼンに呼ばれ、パールが後ろから顔を覗かせる。
「食べていいぞ」
許可を得て、パールが巨大な口を開けてぱくぱくと部屋にいた悪霊たちを食べ始める。
逃げ出す亡霊もいたが、部屋の外には出られず凄まじい絶叫を残し、パールの口に飲まれていく。
「おお!」
突然、野太い声が部屋に響いた。
それは寝台に寝たきりだった男のもので、死に瀕していたとは思えない軽快な動きで体を起こし、床に両足を下ろした。
「すごい。体が軽い!」
妻に許されたと叫びながら顔を輝かせたその男に、ソフィは残念そうに告げた。
「奥様はその、もう安らかに眠られましたが……。伝えたいことがあったようです。新しい奥様のお子様がこの家に相応しくないと言っていました。でも、確かめたわけではなく、奥様がそう思いたかっただけかもしれません。私は死者の声を聴くことしかできませんから……」
怒り狂っていたことは伏せ、確かな情報をぼやかし、ソフィは最後に真実を告げた。
「ルドガー、お母様はこの家の血を引くあなたがこの家の財産を正しく相続できるのか、それを心配して残っていたみたい」
証拠がある話ではなかったが、ルドガーは拍子抜けしたような顔で、椅子にふんぞり返った。
イーゼンはもっともらしい沈痛な表情で黙っていた。
「まぁ、そうだろうと思った。妹は俺にも父にも似ていない」
ソフィは少し表情を曇らせた。
「でも、もう死者はいない。だから死者に遠慮して判断を変える必要はない。生きている人が決めるべき問題よ。あなたはお母様に愛されていた」
そこが一番大切なところであり、残りの事は些細な問題だ。
ルドガーは立ち上がった。
「後のことは父上にお任せします。ご自身で体験した通り、彼女はフィリス家に相応しい能力を持った女性で、俺は彼女の家に婿入りしましたから、この家のことは好きにしてください」
ソフィはまだフィリス家の養女の扱いだ。
身分で言えばフィリス家の方がルドガーの家より格上になる。
異国の孤児だという意識の抜けないソフィは少し戸惑ったように目を伏せ、軽くお辞儀をした。
「ソフィと結婚出来たことには感謝しております。父上、お元気で」
ルドガーはソフィの腰を抱いて寝室を出た。
「ルドガー!」
追いかけようとしたランス・ボードレは、振り返りもせず遠ざかる息子の背中を見て、伸ばした手をゆっくりと下ろした。
押し付けられた運命をその手で乗り越え、自ら人生を築き始めたルドガーに父親が出来ることはもう何もない。
ランスは下ろした両手を見おろしていたが、きびきびとした声で家令を呼んだ。
白髪の忠実な召使が駆け付ける。
「仕事を始める。いろいろ調べなければならないことが出来た」
ルドガーは子としての最後の務めを果たした。
次に会う時は男として息子と対等に立たなければならない。
気力を取り戻したランス・ボードレは、颯爽と書斎に向かい歩き出した。
――
王墓に戻る途中で立ち寄った町の食堂で、ルドガーが馬を預けに行っている間、ソフィはイーゼンと二人きりになった。
賑わう食堂の窓際に座ったソフィはちらちらと周囲に視線を走らせ、最後には目を伏せてしまった。
「あんなものがいつも見えているのか?」
突然のイーゼンの問いかけに、ソフィは顔を上げずに小さく頷いた。
ソフィには食堂に集まった霊達の姿が見えている。
「昔は見えているばかりだったの。生前の記憶が見えて、話も出来たけど、どうしていいのかよくわからなかった。
呪いの川の黒い霧もいろいろ試してやっと、小さくは出来たけど払うことはできなかった。失敗すると何日も苦しくて眠れなくなった。
でもフィリス家のウーゴ様に引き取られ、力の使い方を学んだの。これで目的を達成できると思ったけど、王墓の中には、見たことも無いような恐ろしいものがたくさんいて、足がすくんで動けなかった。
私だけだったら、あの奥には絶対に行けなかった。
私のためじゃなかったのはわかっているけど、イーゼン……ルドガーと一緒に王墓の中に来てくれてありがとう」
薄気味悪い王墓に入ったのは親友のルドガーのためだ。
危険だとわかっているところに親友一人行かせるわけにはいかない。
「確かに、ルドガーのためだったが……俺にも埋められない穴がある」
気味の悪い女だと思うが、ルドガーはソフィを心から愛している。
ソフィを失えば、ルドガーの心に埋められない穴が出来ることはわかっていた。
お前のためじゃないと強調するようにソフィに強い視線を向けたイーゼンは、口をぽかんとさせた。
ぎこちなく微笑むソフィの顔が正面にあり、輝く紫の瞳がイーゼンをまっすぐに見つめていた。
心を開く練習を始めたばかりのソフィの微笑みは、その健気な心を映したように純粋で、イーゼンはその表情に魅せられたように釘付けになった。
その視線にソフィは恥ずかしそうに顔を赤く染め、すぐに下を向いてしまう。
強引に幽霊を使って体まで重ねてきた悪女だというのに、男と手も繋いだことがないような初々しい仕草に、イーゼンの心臓が大きな音を立てて鳴りだした。
これまでのソフィの刺々しい態度は、誰にも信じてもらえない痛みや、理解されない恐怖を抱え、必死に自分の心を守ってきた結果だったのだとイーゼンはあらためて思った。
少し気味が悪いものが見えるところを除けば、ソフィは普通の女の子だ。
二人の微妙な空気を払いのけるように、男の声が割り込んだ。
「馬を預けてきた。お前の言った通り、パールは馬だと言い張って金を多めに渡したら厩舎に置かせてもらえたぞ。本当に馬を食べたりしないんだろうな?」
戻ってきたルドガーが、ソフィの隣に座りながらイーゼンに確かめる。
ルドガーが拾った子犬のことなのに、パールはイーゼンの方になついてしまった。
「まだ食べたことはないな。俺の知る限り」
怪訝な顔をするルドガーをソフィが安心させた。
「大丈夫よ。この宿、悪霊がすごく多いから。そっちを食べると思う」
そんな宿に泊る方が心配ではないのかと、イーゼンは顔を引きつらせたが、ルドガーはほっとしたように笑った。
「そうか、ならば安心だ」
うれしそうにソフィとルドガーは目を合わせて微笑み合う。
確かに二人はお似合いなのだ。
イーゼンはわずかな寂しさを感じながら店員を捕まえると酒を追加で注文した。
その夜、かなり酔っぱらったイーゼンは、隣り合った宿の部屋に入る前に、ソフィに何の気なしに問いかけた。
「ソフィ、俺には何か見えないのか?」
きょとんとしたソフィは、一瞬考え込んだ後、小さな声でイーゼンに教えた。
「くるくるした赤毛の丸い顔のおばあさんが、イーゼンのことを大好きみたい。ずっとしゃべっているし、お嫁さんを探していろんな人に声をかけている。茶色い目でにこにこしている」
良い具合に酔っぱらっていたイーゼンの目がばっちりと開いた。
「え?!ハイゼばあちゃんが?!」
それはイーゼンの亡き祖母で、顔を合わせるたびにお嫁さんを紹介してやるとうるさかったのだ。死んだ後まで世話をやこうとしているのかと、イーゼンは真っ青になった。
「幸せそうだから、そのままで大丈夫よ」
「いやいや、ソフィ、出来るんだろう?天に導いてやってくれよ。俺の周りにいる必要はないだろう」
ソフィに縋り付こうとしたイーゼンの前に、部屋の鍵を開けたルドガーが割り込んだ。
「イーゼン、ソフィに絡むのはよせ。水でも飲んで少し酔いを醒ましたらどうだ?」
すっかり酔いの覚めたイーゼンは反論しようとしたが、ルドガーはソフィを部屋に押し込み、警告するようにイーゼンと目を合わせると、階下を指さし、邪魔をするなと口の動きだけで伝えた。
あっさり閉まった扉を前に、イーゼンは理解されないとはこういうことなのかと、その苦しさの一端を味わった。
それから宙を見回し、ぶるっと体を震わせると、水ではなく酒を注文するために一階に引き返していった。
書斎の窓の前にソフィと並んで立ったイーゼンが、呻くように言った。
パールがイーゼンの腕の中に鼻を入れ、甘えるように顔を押し付けている。
二人の前には青白い顔をした女が首にロープをまいてベランダの上からぶら下がっていた。女は白い目を剥きだしにして、とにかく口汚く罵っている。
『あの、女の生んだ子を呪い殺してやる!あんな卑劣な女に息子の財産を渡してなるものか!殺してやる!殺してやる!その子供を呪い殺してやる!あの子供は夫の子じゃない!嘘つきのあばずれ女め!息子のためにあの女の子供を呪い殺してやる!それを伝えずにはここを去るわけにはいかない!』
その声は死者の声であり、通常の人間には聞こえない。
ソフィは首を傾け、問いかけるようにイーゼンに視線を向ける。
「証言してくれる?この人、ちゃんとルドガーのことを愛していたのよ」
多少強引なこじつけだったが、愛と言えなくもない。イーゼンはそこは否定せず、どうしたものかと腕組みをした。
「この光景をルドガーも見ることは出来るのか?」
ここはルドガーの生家の書斎で、ソフィは玄関に入るや否や、ルドガーに父親の部屋にいて欲しいと告げ、イーゼンの手を引いて一緒にこの部屋にやってきた。
最初、少し暗い部屋だと思ったイーゼンだったが、ソフィに触れられた途端、この首吊り死体がぼんやりと見えだし、それはどんどん鮮明になりついに声まで聞こえるようになった。
「可能だけど……」
ソフィは首をつっている女の姿を改めて見上げた。
女の首は縄の所からちぎれ、胴体はその下にある。両足を床に付けて腕を振り回して怒っている。壮絶な光景だ。
これが実母の最後の姿かと思うと、とてもルドガーに見せる気にはなれない。
「この家で起きている不思議な現象は、お父様の罪悪感とこの霊が周囲の死にきれない魂を集めてしまっているからなの。だから、お母様はここにいるし、お父様を殺そうとしているのは別の人なの」
ソフィは困ったようにイーゼンの袖を引っ張った。
「どう思う?」
「どう思うって……」
悪鬼の形相で呪いの言葉を吐き続ける女は、とにかく夫が外に子供を作ったことが許せないらしく、生まれた子供は殺してなかったことにしろととんでもないことを叫んでいる。
しかしその呪いには意味がなく、ただただこの館に不気味な現象を引き起こしている。
「そうだなぁ……。とにかく母親がルドガーを愛していたことは確かだ。それから財産も愛していた……」
「夫を許しているとは言えないでしょう?嘘もつきたくないし」
イーゼンはさらに難解な顔になった。
しばらく二人は話し合い、ルドガーの父親が寝ている寝室に向かった。
扉を開けた途端、ソフィがイーゼンの腕を掴んだ。
その瞬間、またもやイーゼンの目に、ソフィの見ている光景が飛び込んできた。
部屋に一歩足を踏み入れたばかりだったイーゼンは、その足を後ろに戻し、顔を引きつらせた。
その部屋は足の踏み場もないほど幽霊だらけだった。
父親の寝ている寝台の上には顔が百個ほどあるし、その後ろにも周りにも人がひしめき合っている。
不思議なことに、ルドガーの周りだけ半歩程度空間があり、そこからはじき出されたらしい幽霊たちが押し合いながらわめいていた。
「これは……」
「どうした?入らないのか?」
ルドガーが立ち上がり、二人を迎え出ようとするが、イーゼンは両手を突き出し、首を横に振った。
「ルドガー、そこを動くなよ。パール!」
イーゼンに呼ばれ、パールが後ろから顔を覗かせる。
「食べていいぞ」
許可を得て、パールが巨大な口を開けてぱくぱくと部屋にいた悪霊たちを食べ始める。
逃げ出す亡霊もいたが、部屋の外には出られず凄まじい絶叫を残し、パールの口に飲まれていく。
「おお!」
突然、野太い声が部屋に響いた。
それは寝台に寝たきりだった男のもので、死に瀕していたとは思えない軽快な動きで体を起こし、床に両足を下ろした。
「すごい。体が軽い!」
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怒り狂っていたことは伏せ、確かな情報をぼやかし、ソフィは最後に真実を告げた。
「ルドガー、お母様はこの家の血を引くあなたがこの家の財産を正しく相続できるのか、それを心配して残っていたみたい」
証拠がある話ではなかったが、ルドガーは拍子抜けしたような顔で、椅子にふんぞり返った。
イーゼンはもっともらしい沈痛な表情で黙っていた。
「まぁ、そうだろうと思った。妹は俺にも父にも似ていない」
ソフィは少し表情を曇らせた。
「でも、もう死者はいない。だから死者に遠慮して判断を変える必要はない。生きている人が決めるべき問題よ。あなたはお母様に愛されていた」
そこが一番大切なところであり、残りの事は些細な問題だ。
ルドガーは立ち上がった。
「後のことは父上にお任せします。ご自身で体験した通り、彼女はフィリス家に相応しい能力を持った女性で、俺は彼女の家に婿入りしましたから、この家のことは好きにしてください」
ソフィはまだフィリス家の養女の扱いだ。
身分で言えばフィリス家の方がルドガーの家より格上になる。
異国の孤児だという意識の抜けないソフィは少し戸惑ったように目を伏せ、軽くお辞儀をした。
「ソフィと結婚出来たことには感謝しております。父上、お元気で」
ルドガーはソフィの腰を抱いて寝室を出た。
「ルドガー!」
追いかけようとしたランス・ボードレは、振り返りもせず遠ざかる息子の背中を見て、伸ばした手をゆっくりと下ろした。
押し付けられた運命をその手で乗り越え、自ら人生を築き始めたルドガーに父親が出来ることはもう何もない。
ランスは下ろした両手を見おろしていたが、きびきびとした声で家令を呼んだ。
白髪の忠実な召使が駆け付ける。
「仕事を始める。いろいろ調べなければならないことが出来た」
ルドガーは子としての最後の務めを果たした。
次に会う時は男として息子と対等に立たなければならない。
気力を取り戻したランス・ボードレは、颯爽と書斎に向かい歩き出した。
――
王墓に戻る途中で立ち寄った町の食堂で、ルドガーが馬を預けに行っている間、ソフィはイーゼンと二人きりになった。
賑わう食堂の窓際に座ったソフィはちらちらと周囲に視線を走らせ、最後には目を伏せてしまった。
「あんなものがいつも見えているのか?」
突然のイーゼンの問いかけに、ソフィは顔を上げずに小さく頷いた。
ソフィには食堂に集まった霊達の姿が見えている。
「昔は見えているばかりだったの。生前の記憶が見えて、話も出来たけど、どうしていいのかよくわからなかった。
呪いの川の黒い霧もいろいろ試してやっと、小さくは出来たけど払うことはできなかった。失敗すると何日も苦しくて眠れなくなった。
でもフィリス家のウーゴ様に引き取られ、力の使い方を学んだの。これで目的を達成できると思ったけど、王墓の中には、見たことも無いような恐ろしいものがたくさんいて、足がすくんで動けなかった。
私だけだったら、あの奥には絶対に行けなかった。
私のためじゃなかったのはわかっているけど、イーゼン……ルドガーと一緒に王墓の中に来てくれてありがとう」
薄気味悪い王墓に入ったのは親友のルドガーのためだ。
危険だとわかっているところに親友一人行かせるわけにはいかない。
「確かに、ルドガーのためだったが……俺にも埋められない穴がある」
気味の悪い女だと思うが、ルドガーはソフィを心から愛している。
ソフィを失えば、ルドガーの心に埋められない穴が出来ることはわかっていた。
お前のためじゃないと強調するようにソフィに強い視線を向けたイーゼンは、口をぽかんとさせた。
ぎこちなく微笑むソフィの顔が正面にあり、輝く紫の瞳がイーゼンをまっすぐに見つめていた。
心を開く練習を始めたばかりのソフィの微笑みは、その健気な心を映したように純粋で、イーゼンはその表情に魅せられたように釘付けになった。
その視線にソフィは恥ずかしそうに顔を赤く染め、すぐに下を向いてしまう。
強引に幽霊を使って体まで重ねてきた悪女だというのに、男と手も繋いだことがないような初々しい仕草に、イーゼンの心臓が大きな音を立てて鳴りだした。
これまでのソフィの刺々しい態度は、誰にも信じてもらえない痛みや、理解されない恐怖を抱え、必死に自分の心を守ってきた結果だったのだとイーゼンはあらためて思った。
少し気味が悪いものが見えるところを除けば、ソフィは普通の女の子だ。
二人の微妙な空気を払いのけるように、男の声が割り込んだ。
「馬を預けてきた。お前の言った通り、パールは馬だと言い張って金を多めに渡したら厩舎に置かせてもらえたぞ。本当に馬を食べたりしないんだろうな?」
戻ってきたルドガーが、ソフィの隣に座りながらイーゼンに確かめる。
ルドガーが拾った子犬のことなのに、パールはイーゼンの方になついてしまった。
「まだ食べたことはないな。俺の知る限り」
怪訝な顔をするルドガーをソフィが安心させた。
「大丈夫よ。この宿、悪霊がすごく多いから。そっちを食べると思う」
そんな宿に泊る方が心配ではないのかと、イーゼンは顔を引きつらせたが、ルドガーはほっとしたように笑った。
「そうか、ならば安心だ」
うれしそうにソフィとルドガーは目を合わせて微笑み合う。
確かに二人はお似合いなのだ。
イーゼンはわずかな寂しさを感じながら店員を捕まえると酒を追加で注文した。
その夜、かなり酔っぱらったイーゼンは、隣り合った宿の部屋に入る前に、ソフィに何の気なしに問いかけた。
「ソフィ、俺には何か見えないのか?」
きょとんとしたソフィは、一瞬考え込んだ後、小さな声でイーゼンに教えた。
「くるくるした赤毛の丸い顔のおばあさんが、イーゼンのことを大好きみたい。ずっとしゃべっているし、お嫁さんを探していろんな人に声をかけている。茶色い目でにこにこしている」
良い具合に酔っぱらっていたイーゼンの目がばっちりと開いた。
「え?!ハイゼばあちゃんが?!」
それはイーゼンの亡き祖母で、顔を合わせるたびにお嫁さんを紹介してやるとうるさかったのだ。死んだ後まで世話をやこうとしているのかと、イーゼンは真っ青になった。
「幸せそうだから、そのままで大丈夫よ」
「いやいや、ソフィ、出来るんだろう?天に導いてやってくれよ。俺の周りにいる必要はないだろう」
ソフィに縋り付こうとしたイーゼンの前に、部屋の鍵を開けたルドガーが割り込んだ。
「イーゼン、ソフィに絡むのはよせ。水でも飲んで少し酔いを醒ましたらどうだ?」
すっかり酔いの覚めたイーゼンは反論しようとしたが、ルドガーはソフィを部屋に押し込み、警告するようにイーゼンと目を合わせると、階下を指さし、邪魔をするなと口の動きだけで伝えた。
あっさり閉まった扉を前に、イーゼンは理解されないとはこういうことなのかと、その苦しさの一端を味わった。
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