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26.謎の老婆

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 谷底に吸い込まれていくロープに、イーゼンは慌てて飛びついた。
それはルドガーの命綱であり、ロープの長さが谷の深さを上回っていれば、そのまま谷底に落ちて流されるか、あるいは尖った岩にでもぶつかれば、即死することもあり得るのだ。

「ロープが!」

掴んだロープを手繰り寄せたイーゼンが悲鳴を上げた。
ルドガーがぶら下がっているはずなのに、引っ張ったロープは驚くほど手ごたえがなかった。
となれば、ルドガーはロープから切り離され、谷底に落ちてしまったのかもしれない。

「ルドガー!」

暗闇に向かってイーゼンが叫ぶ。
ソフィの兄も急いでそのロープに手をかける。
手ごたえの無いロープを二人で必死にに引っ張っていると、ロープは途中で思わぬ力で引っ張り返された。

「引っ張るな!もう地面に足はついている」

「え?!」

突然黒い霧の中からルドガーの頭が飛び出した。

「そ、そんなに浅いのか?!橋もいらないじゃないか!」

驚きのあまり、イーゼンの声が裏返った。
底知れぬ暗闇に見えていたが、まさかの深さだった。
ルドガーは黒い霧の中から頭を上げ、イーゼンを見た。

「このまま歩いていけそうだ。ロープは解く。ちょっと奥を見に行ってみる」

ルドガーの周りだけ黒い霧が少し晴れ、その固い地面までがうっすら見えている。

「ま、待て!俺も行く!」

黒い霧は呪いの川であり、死の病の巣窟だ。
しかしそんな霧の中をルドガーはずんずん進んでいく。
イーゼンは震えている男を振り返る。

「おい、ソフィの、いやセシリーの兄、名前は?」

「ネッドです……」

「ネッド、ここを見張っていてくれ。戻ってこなかったら気にしなくて良いぞ。俺達の選択だ。気を楽に、明るいことでも考えていろ!」

せっかくソフィの伝言でネッドの胸にまとわりついていた黒い霧が消えたのだ。
また罪悪感でも抱かれて復活しては困る。
イーゼンは叫ぶと、黒い霧の川に飛び込み、すぐに頭をその霧から突き出してルドガーを追いかけ走りだした。



 谷底と思われたつり橋の下は、川でもなかった。
固い地面の感触が足裏に伝わり、それはどこまでも平らだった。
ルドガーは腰のランタンに灯りを入れたが、周囲の黒い霧が晴れるわけもなく、足元は全くみえなかった。

「待てって!」

背後の声にルドガーは足を止め、イーゼンが追いつくのを待った。

「真っ暗だし、なんだか闇が深いところとそうでもないところがあるな」

息を切らせ、両腕で霧を払いながらイーゼンがルドガーに近づき辺りを見回す。

「本当か?俺にはただの霧にしか見えない」

周囲の景色はイーゼンの目にはまた少し異なって映っていた。

「そうだな。俺の目から見ると、お前の周りだけぼんやりと明るい。足元も見えるし、くっきりではないが全く見えないわけではないな」

「そうか?じゃあ何か危ないものが見えたら教えてくれ」

ルドガーはまた背を向け奥に向かって歩き出す。

「お前の向かっていく方向は少し闇が濃い。吸い込まない方がいいのかな?」

今更だが、イーゼンは鼻と口元を袖で覆った。

「ソフィが一人で歩いた道だ。その時の彼女に会うことが出来たなら、俺が一緒に歩いてやれたのに」

そこでようやくイーゼンはルドガーが怒っているのだとわかった。
何の罪もなく村を追われ、兄にまで捨てられた。
ソフィはどれほど悔しい想いをしただろう。
ルドガーの拳は震え、その背中は怒りに耐えている。

イーゼンは黙ってぼんやりと明るく見えるルドガーの足を追いかけた。
少し振り返ると、つり橋はもう見えなかった。
しかし道は平らで一向に底知れない谷というものは現れない。

「霧が晴れたら普通に浅い川の跡だな」

地面も固く水の気配もない。

「何か見える」

突然、歩いていたルドガーが走り出した。

「何だって!」

イーゼンも追いかける。
霧が晴れ、視界の通る丸い空間が現れた。
黒い霧はその空間を避け、壁のようになっている。

その霧の入ってこない丸い空間の中央に、尖った黒い岩があった。
ルドガーが近づき、よく見ようと腰を屈めると、イーゼンが後ろから引っ張った。

「駄目だ!それは黒い。とにかく黒い。周りの霧より黒く見える。何かわからないがとにかく恐ろしい気配だ」

ルドガーは首を傾けた。

「そうか?俺にはただのミイラに見える」

「ミイラだって?!」

イーゼンにはどんなに目を凝らしてもそれは真っ黒な岩のような塊にしか見えない。

「そうだ。性別はよくわからないが、ぼろぼろの布を着ている。長い年月を経ているように見えるが、骨と皮の状態で白骨とまではいっていないようだ」

イーゼンに引っ張られながら、ルドガーは強引に身を屈め、黒い塊を調べ始める。

「ソフィには何か別なものが見えたのだろうな。こいつがこの霧の発生源なのか?」

「それはわからないが、この死体、おかしいな。指がない。しかもきれいに切り取られている」

ぞっとする言葉に、イーゼンは身を震わせた。
途端に、少し明るかった周辺が暗くなった。
気持に比例して闇が深まるのだ。

イーゼンはぼんやりと明るいルドガーの背中に張り付いた。

「気色悪い。離れろ」

ルドガーは背中に張り付くイーゼンを払いのけようと、体をゆすったが、イーゼンは離れようとしなかった。

「早くここを出よう。こいつが元凶に違いない」

「そうだな……。ソフィはこれが老婆に見えたのかもしれない。しかし、こんなところでこんな風に死んだということは、動けなくなったか、あるいはあえてここで飢え死にしたのか、どちらにしても、死体の状況からみたら自殺だな。外傷は一切見当たらない」

そこまで調べたのかと、イーゼンは呆れ果てた。

「よくそんなもの、触ろうと思うな」

「ただの死体だ。不思議な現象だとは思うが、どうにもできないことを騒いでも仕方がない。これがどういうものなのか、ソフィに聞いてみるしかないだろうな」

ようやくルドガーは立ち上がり、後ろを振り返った。

「帰るか」

待っていましたとばかりにイーゼンが歩き出す。

「だったら急ごう。一秒でも早くここを出た方が良い」

ルドガーの低い笑い声が黒い霧を少し吹き飛ばした。

「しかし、ここは宝物を隠すのに最適だな。誰も近づかないし、視界も通らない。俺が山賊になったらここを隠れ家とするだろう」

その突拍子もない発想に、イーゼンは思わずそんな光景を想像し、噴き出した。

「ハハハ!それは名案だ。しかしまず宝物とやらを調達する方法について考えるべきだ。山賊のお宝となれば、山の幸だな」

二人の男が笑うと、黒い霧がまるでそこを避けるようにふわりと離れた。
それをつり橋から見ていたネッドは、戻ってくる男達の足元が確かに固い地面であることを知り、肩を震わせ涙を落とした。

妹の言葉は正しかったのだ。

「ネッド、見張ってくれてありがとう。妹のことはまかせておけ」

夫でもないイーゼンが軽い口調で請け負い、浅い谷底から這い上がる。
ソフィの兄の名前を知ったルドガーも黒い霧の中から出てきて、手を差し出した。

「ネッド、セシリーのことは心配いらない。俺が面倒をみる」

黒い霧から出てきたばかりの男の手をネッドはじっと見つめた。
ネッドが呪いを恐れているのだと察し、ルドガーは気にした様子もなく手を引っ込めようとした。
その手にネッドは飛びついた。

「あ、あなたの名前は?」

「俺の名前はルドガー。お前の妹はソフィという名前に変わり、俺の国に住んでいる。これからも俺は彼女を幸せにする」

ネッドは何度も小さく頷いた。その頬に涙が幾筋も伝い落ちる。

「ありがとうございます。ルドガーさん、妹を……よろしくお願いします」

ネッドは地べたに座り、再び深く頭を下げた。
それを助け起こそうとはせず、ルドガーは来た道を戻り始める。
イーゼンがそれを追いかけながら、ちらちらとつり橋を振り返ったが、
ネッドは最後まで頭を下げたままだった。


 短い洞窟を抜け、岩の亀裂をくぐり、魔獣だらけの森を無言で走り抜けた二人は、少しましな場所に出てやっと一息ついた。

「この場所を国に教えるか?」

「いや、このまま教えたら呪いの病とやらをもらってくるかもしれない。ソフィに話しを聞いてからにしよう」

ルドガーの言葉に迷いはない。力強く歩き出したルドガーの背中をイーゼンが追いかける。

「しかし、収穫は指の無い死体か。なんというか、死とか呪いばかりに囲まれていると、自分が生きている実感が湧かなくなるな。半分死者の国に入りこんでしまったみたいだ」

何気ないイーゼンの言葉だったが、ルドガーはソフィのことを思い出した。
生きている人間に相手にされなかったソフィにとって、死人の方がよっぽど身近な存在だったに違いない。

自分らしく生きられる場所がなかったソフィは、自分の居場所は死の世界なのだと思ったのかもしれない。

「ソフィは、不思議な力を持っていたかもしれないが、黒い霧の川に入るのを怖がっていたと兄が言っていたな。
イーゼン、力はあっても、王墓に入るのが怖くないわけがない。
彼女は一人ぼっちで、自分を信じてくれる人も、助けてくれる人もいないと思っている。
愛される自信がなくて、誰かを信じ裏切られることを恐れている。おれは、ソフィの安心できる居場所になりたい」

親友の独り言のような決意表明を、イーゼンは半ばあきらめたように聞いていた。

「なるほど。あまり女に執着しない男が、執着し始めるとこういうことになるのだな。決めたらしつこそうだな」

二人の前方にやっと開けた場所が現れた。
明るかった空はいつの間にか夕闇に染まっている。
ひんやりとした風は夜気を含み、一番星が輝きだす。

「しかし、ソフィとは顔も合わせず結婚したのだろう?ソフィの好みは確認したのか?彼女の好みがローレンスみたいな男だったらどうする?」

どう考えても貴公子風のローレンスの方がルドガーより容姿的には勝っている。

「この頼みごとが終わったら、俺とのことを考えると言っていた。それに、きっとソフィはもう俺が好きだ。
ただ怖がっているだけだ。誰にも信じてもらえず、たった一人の兄にさえ裏切られてきたから、俺を信じることを恐れている」

足を止めず、憮然とした表情でルドガーは断言した。
しかしイーゼンは聞いていなかった。
前方を食い入るように見ながら走り出す。

「ルドガー!馬だ!逃げていなかった!」

かなり前方の雑木林の間から、馬の尻尾が見えている。
一頭だけでもありがたい。イーゼンの後ろを今度はルドガーが全速力で追いかけた。



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