16 / 40
16.食事会前夜
しおりを挟む
ダレル隊長が率いる第三騎士団をもてなすための準備期間は五日間しかなかった。
初日に、ルドガーは館までの道の整備を始めた。枯草をむしり、ごろごろした石を道から見えない場所まで運び、穴だらけの地面を平らにした。
一日がかりで行っても、王墓の入り口から館の屋根が見えるところぐらいまでしかきれいにならず、絶望的な気持ちで夜を迎えたが、朝になるとルドガーのやっていた作業を誰かが引き継いだかのように館までの道はほとんどきれいになっていた。
ルドガーはローレンスやソフィの愛人たちが手伝ったのだろうと簡単に考えた。
二日目は館から見える庭を整えた。日照不足で花はきれいに咲かず、やせ細って萎れてしまう。
町に出て新しい花や石畳、柵を買い込み運んできた。
さすがに道沿いの柵を全て新しくすることは難しいため、ほとんどの柵は取り除いてしまった。
正面玄関から見える部分だけ新しい柵を建て、花壇を華やかに飾り付けた。
玄関前に石畳を数枚置いたところでその日も時間切れとなり、ルドガーは館に戻った。
翌日、玄関前の地面にはタイルがきれいに埋め込まれ、厩舎からの道にも頑丈な石畳が敷かれていた。
真夜中にソフィの愛人たちがまた押しかけたのだろうかと思ったが、ルドガーはやはり深くは考えなかった。
その日は玄関広間の大掃除を行ったが、天井の隅にある蜘蛛の巣の除去や、窓ふきまでは終わらなかった。
しかし翌日になると、蜘蛛の巣もなければ、窓も磨く必要がないぐらいぴかぴかだった。
これまた深く考えず、ルドガーは四日目に客人を招待する食堂の大改造にとりかかった。
ルドガーはまず、部屋を両断している長テーブルを半分に切ってしまった。
切り口にやすりをかけ、端を丸くしてテーブルクロスをかけてしまうと、テーブルは最初からその形だったかのように二本になった。
それからカーテンも黒から水色に変え、窓も拭いた。
さらに壁の色も塗り始めた。
そしてついに食事会前日になり、頼みの綱であるイーゼンが到着した。
呪われた王墓の地に、一人でやってきたイーゼンは、ルドガーに案内されて厨房に入ると、その状況に震えあがった。
肝心の食事会の食事の部分に関しては、イーゼン任せで、ルドガーは一切手を付けていなかったのだ。
イーゼンは厨房の食器の数を見て卒倒しかけた。
「なんで、こんな直前に呼んだ?!数日前に呼んでくれ。買い出しだって事前に頼まれた分じゃ絶対に足りないぞ?」
「客を招いたことがないからわからなかった」
貴族ではあったが、ルドガーは早くに母親を亡くし、継母ともうまくいっていなかった。
家はさっさと出たし、家に客人を招くパーティーなどしたことがない。
さらにルドガーは、これから玄関広間の壁を青く塗る必要があると言い出した。
「壁なんてどうでもいいだろう!食べるものがなかったらどうするつもりだ!」
イーゼンは叫んだが、壁は既に一部が青く塗られており、中途半端な状態で終わらせるわけにもいかなかった。
あまりの絶望的な状況に、放心しかけたイーゼンは、そんな暇もないことに気が付いた。
とりあえず買ってきた芋の袋を開けると、イーゼンは一人で芋の皮を剥きだした。
だいたいの料理は町の総菜屋のものになるだろうが、全ての料理を外注するわけにはいかない。
気が遠くなるような膨大な仕事を残し、芋をひたすらむいていたイーゼンの耳に、子供の声が飛び込んできた。
「おじさん、手伝う?」
イーゼンは悲鳴をあげたが、突然現れた謎の子供に、恐怖を抱いている暇さえない。
「芋の皮はむけるのか?」
イーゼンは少年にただそれだけを質問した。
少年は、少し高すぎる椅子に飛び乗り、器用に芋を回して皮をむき始めた。
それを見届けると、イーゼンは大急ぎで町に買出しに出た。
午後になってようやくルドガーが厨房にやってきた。
山積みの食材や食器を見て、こんなに必要なのかと首をひねったが、イーゼンが提供する食事内容や、それに合わせた皿の種類、フォークやナイフ、グラスの配置などを書いて示すと、顔を引きつらせ、一言「間に合うのか?」と問いかけた。
今更の発言に、文句の一つでも言ってやりたい心境ではあったが、そんな時間さえ惜しい状況だ。
「とにかく、やるしかない」
珍しくイーゼンが先頭に立ち、二人は力を合わせて食事会の準備にとりかかった。
ソフィがその日の食事を作りにきたが、男二人は今は忙しいとソフィを厨房から追い出した。
夕刻近くなり、飲まず食わずで働いていた男達はついに食堂に皿を運び始めた。
黒く塗りつぶされていた食器棚は白く塗られ、金色の蔓模様が描き込まれている。
それを見上げ、ルドガーは一瞬首を傾けた。白くは塗ったが、金色の蔓模様は描いた覚えがない。
「金色の塗料なんて買った覚えはないが……」
「そんなことはどうでもいいだろう!それより台車がないぞ!」
イーゼンが厨房から走ってきてルドガーに訴えた。
「厨房から食堂まで鍋を乗せていくものがない!」
その時、廊下からがらがらと音がして、二人は部屋を飛び出した。
薄暗い通路に、いつの間にか古めかしい台車が置かれている。
イーゼンは真っ青になったが、ルドガーは大声で叫んだ。
「ソフィ!ありがとう!」
館には男二人とソフィしかいない。
とすれば、台車を用意したのもソフィということになるのだろうが、二人ともそれを確認しようとは思いもしなかった。
二人の男は忙しく働き、外が真っ暗になるとやっと自分たちの食事の準備にとりかかった。
少し遅い夕食になったが、厨房の片隅に置かれた小さなテーブルに、三人が顔を合わせた。
ルドガーが芋の煮物を口にほおばりながら、話し出した。
「ソフィ、ピンクのショールはやはりだめか?明日、出迎えの時だけでも身に着けてくれたら少し華やかな雰囲気になる。イーゼン、お前からも言ってくれ。ソフィはピンクが似合うと思わないか?」
黙って煮込みを食べていたイーゼンは、面倒そうに顔を上げた。
ルドガーが問いかける。
「ピンクは禁じられている色ではないはずだろう?」
イーゼンも王墓の守り人の決まりごとが書かれた本を読んでいる。
「黒いドレスを着ろとは書かれていなかったが……。死を連想させる色が望ましいとはあったな」
ルドガーが反論した。
「死後の世界が黒だと誰が決めた?誰かが見に行ったのか?ピンクかもしれないし、青かもしれない。真っ白ということもあり得る。死を連想させる色が黒だと誰が決められる?」
突拍子もない発言に、ソフィは難解な表情になった。
ソフィの不機嫌な顔にも慣れてきたイーゼンは、気にする様子もなく、焼き立てのパンに舌鼓をうった。
「パンだけはうまいな」
パンだけはソフィが焼いたものだった。明日の用意があるからと厨房を追い出されていたソフィは、生地だけ外で作ってかまどで焼いたのだ。
イーゼンの言葉を耳にしたソフィが、ほんの一瞬、うれしそうに微笑んだ。
その瞬間をたまたま目にした男達は、同時に動きを止め、目を丸くしながら互いに「今のを見たか?」と問いかけるように視線を交わした。
男達の無言の驚きに気づいた様子もなく、ソフィはまたすぐに不機嫌な顔に戻ってしまった。
がっくりと肩を落としたのはルドガーだった。ソフィの笑顔を目にしたのは初めてだったのだ。
「だいたい、騎士団で習うのは食べられる料理だ。美味しい料理じゃない。俺の料理が下手だとしても、それは騎士団の教育のせいだな」
何事もなかったかのようにイーゼンが会話を再開させた。
明日の料理のほとんどは町から調達する予定だったが、手の込んだ盛り付けは自分たちでやるしかないし、貴族社会でしか食べられないようなものはこの館で作らなければならない。
その下ごしらえは終わっていたが、それにしたって不安ばかりだった。
「食器棚を開けて腰を抜かしそうになった。二人分の食器が四枚しかなかった。これから数十人分どうやって調達したらいいのか頭が真っ白になった」
イーゼンはその時の恐怖を思い出し、身震いした。
見えない幽霊より、今は上司や先輩達が押しかける食事会の方が恐ろしい。
「そうだな。届く食材も基本的に一人分だ。俺がいる間は町で買ってきている。足して二人分だな。金は足りただろう?」
「あれだけあれば足りるが、その金で人を雇えないのが本当に残念だ」
イーゼンは思い出したように、ソフィの足元に座る黒い子犬に目を向けた。
影のようにふらりと現れるこの子犬はイーゼンの目にはまた奇妙な形で映っている。
ひどく不細工な犬で、口が少し犬より大きいし、牙もかなり大きいように見える。
耳の形も尖っているし、前足の先から覗く爪も猫のように鋭い。
ルドガーは犬だと言い張るが、イーゼンの目からはもっと禍々しいものに見える。
「忙しすぎて質問するのを忘れていたが……。あの……ルドガー、お前が子犬と呼ぶあれだが……」
「パールだ。まだ小さいから飽きっぽく、気が向いた時しか命令をきかないが、可愛いだろう?墓地に入ったあたりで俺が拾った。女の子だし、ソフィの友達になれる」
突然名前を呼ばれ、ソフィが一瞬動きを止めた。
パールが赤い目を上げ、じっとイーゼンを見返している。
背中の毛が逆立つような殺気を感じ、イーゼンは少し椅子を後ろに引いた。
「子犬というより、俺には魔獣の子に見えるが?本当に犬なのか?」
不思議なことに、ルドガーには子犬に見えるのだ。
ルドガーは失礼なと怒って席を立ち、逃げようとするパールを簡単に捕まえた。
口元に火を湛えた子犬はソフィの目からは魔犬に見えている。
イーゼンには討伐すべき魔獣の子だ。
そんなパールをルドガーは腕に抱き、無理やり仰向けにするとお腹をくすぐった。
パールはもう諦めたようにルドガーの腕の中で大人しくしている。
「ほら、女の子だ」
ルドガーが子犬を両脇から支え、持ち上げる。
股間を晒され、パールが唸り声をあげ暴れ出す。
イーゼンは股間に何もついていないことを確かめたが、ルドガーの手に押さえ込まれている魔獣の牙が指一本分ぐらい伸びたように見えた。
ソフィはひどいしかめっつらで、普通の人間に押さえ込まれている地獄の魔犬を見つめている。
パールがするりとルドガーの手をすり抜け、床に飛び降りた。
すぐに食器棚の隅に隠れ、唸り出す。
ルドガーは容赦なく近づき、またもや無理矢理その小さな体を引っ張り出す。
「ルドガー……。女の子ならもっと優しくした方がいいのでは?」
魔獣とはいえさすがに気の毒になり、イーゼンが口を出すと、ルドガーはやっとパールをソフィの膝に戻した。
パールはすがりつくようにソフィのお腹に鼻を押し付ける。
仕方なく、ソフィはパールを抱き寄せ、背中を撫でてやる。
「なんというか……お前はいろいろすごいな……」
死人だらけの王墓に住んでいる友人を心配していたイーゼンは、脱力したようにそうこぼした。
その夜、ルドガーは当然ソフィと一緒の寝台で寝た。
いつものように背後からぴったり抱き着いて横になる。
ところが、そんな夫婦の寝室にイーゼンもやってきた。
寝室のソファを二人の寝台にくっつけて横になったのだ。
客間は準備されていたが、イーゼンは一人で寝るのは怖いと訴えた。
「本気か?!新婚だぞ」
ルドガーは抗議したが、ちゃっかりパールも入ってきてソフィの足元で丸くなった。
一人と一匹を追い出そうとしたルドガーを、ソフィが引き止めた。
「いてもらった方がいい。あなたも変なことはしないでしょう?」
ルドガーは毎朝、ソフィの体をまさぐってしまう。
イーゼンがいればそんな真似もできないだろうというのだ。
ルドガーはがっかりした。
「わかった。ソフィが良いなら……」
ほっとしたようにソフィは力を抜いてまた背中を向ける。
その背中をルドガーが抱きしめ、その大きなルドガーの背中を頼りにイーゼンが隣のソファーで眠った。
パールは静かだった。凶悪な牙を隠し、音もなく眠っていた。
その夜、館の中には大勢の気配があったが、それに気づいた生者は幸いなことに一人もいなかった。
初日に、ルドガーは館までの道の整備を始めた。枯草をむしり、ごろごろした石を道から見えない場所まで運び、穴だらけの地面を平らにした。
一日がかりで行っても、王墓の入り口から館の屋根が見えるところぐらいまでしかきれいにならず、絶望的な気持ちで夜を迎えたが、朝になるとルドガーのやっていた作業を誰かが引き継いだかのように館までの道はほとんどきれいになっていた。
ルドガーはローレンスやソフィの愛人たちが手伝ったのだろうと簡単に考えた。
二日目は館から見える庭を整えた。日照不足で花はきれいに咲かず、やせ細って萎れてしまう。
町に出て新しい花や石畳、柵を買い込み運んできた。
さすがに道沿いの柵を全て新しくすることは難しいため、ほとんどの柵は取り除いてしまった。
正面玄関から見える部分だけ新しい柵を建て、花壇を華やかに飾り付けた。
玄関前に石畳を数枚置いたところでその日も時間切れとなり、ルドガーは館に戻った。
翌日、玄関前の地面にはタイルがきれいに埋め込まれ、厩舎からの道にも頑丈な石畳が敷かれていた。
真夜中にソフィの愛人たちがまた押しかけたのだろうかと思ったが、ルドガーはやはり深くは考えなかった。
その日は玄関広間の大掃除を行ったが、天井の隅にある蜘蛛の巣の除去や、窓ふきまでは終わらなかった。
しかし翌日になると、蜘蛛の巣もなければ、窓も磨く必要がないぐらいぴかぴかだった。
これまた深く考えず、ルドガーは四日目に客人を招待する食堂の大改造にとりかかった。
ルドガーはまず、部屋を両断している長テーブルを半分に切ってしまった。
切り口にやすりをかけ、端を丸くしてテーブルクロスをかけてしまうと、テーブルは最初からその形だったかのように二本になった。
それからカーテンも黒から水色に変え、窓も拭いた。
さらに壁の色も塗り始めた。
そしてついに食事会前日になり、頼みの綱であるイーゼンが到着した。
呪われた王墓の地に、一人でやってきたイーゼンは、ルドガーに案内されて厨房に入ると、その状況に震えあがった。
肝心の食事会の食事の部分に関しては、イーゼン任せで、ルドガーは一切手を付けていなかったのだ。
イーゼンは厨房の食器の数を見て卒倒しかけた。
「なんで、こんな直前に呼んだ?!数日前に呼んでくれ。買い出しだって事前に頼まれた分じゃ絶対に足りないぞ?」
「客を招いたことがないからわからなかった」
貴族ではあったが、ルドガーは早くに母親を亡くし、継母ともうまくいっていなかった。
家はさっさと出たし、家に客人を招くパーティーなどしたことがない。
さらにルドガーは、これから玄関広間の壁を青く塗る必要があると言い出した。
「壁なんてどうでもいいだろう!食べるものがなかったらどうするつもりだ!」
イーゼンは叫んだが、壁は既に一部が青く塗られており、中途半端な状態で終わらせるわけにもいかなかった。
あまりの絶望的な状況に、放心しかけたイーゼンは、そんな暇もないことに気が付いた。
とりあえず買ってきた芋の袋を開けると、イーゼンは一人で芋の皮を剥きだした。
だいたいの料理は町の総菜屋のものになるだろうが、全ての料理を外注するわけにはいかない。
気が遠くなるような膨大な仕事を残し、芋をひたすらむいていたイーゼンの耳に、子供の声が飛び込んできた。
「おじさん、手伝う?」
イーゼンは悲鳴をあげたが、突然現れた謎の子供に、恐怖を抱いている暇さえない。
「芋の皮はむけるのか?」
イーゼンは少年にただそれだけを質問した。
少年は、少し高すぎる椅子に飛び乗り、器用に芋を回して皮をむき始めた。
それを見届けると、イーゼンは大急ぎで町に買出しに出た。
午後になってようやくルドガーが厨房にやってきた。
山積みの食材や食器を見て、こんなに必要なのかと首をひねったが、イーゼンが提供する食事内容や、それに合わせた皿の種類、フォークやナイフ、グラスの配置などを書いて示すと、顔を引きつらせ、一言「間に合うのか?」と問いかけた。
今更の発言に、文句の一つでも言ってやりたい心境ではあったが、そんな時間さえ惜しい状況だ。
「とにかく、やるしかない」
珍しくイーゼンが先頭に立ち、二人は力を合わせて食事会の準備にとりかかった。
ソフィがその日の食事を作りにきたが、男二人は今は忙しいとソフィを厨房から追い出した。
夕刻近くなり、飲まず食わずで働いていた男達はついに食堂に皿を運び始めた。
黒く塗りつぶされていた食器棚は白く塗られ、金色の蔓模様が描き込まれている。
それを見上げ、ルドガーは一瞬首を傾けた。白くは塗ったが、金色の蔓模様は描いた覚えがない。
「金色の塗料なんて買った覚えはないが……」
「そんなことはどうでもいいだろう!それより台車がないぞ!」
イーゼンが厨房から走ってきてルドガーに訴えた。
「厨房から食堂まで鍋を乗せていくものがない!」
その時、廊下からがらがらと音がして、二人は部屋を飛び出した。
薄暗い通路に、いつの間にか古めかしい台車が置かれている。
イーゼンは真っ青になったが、ルドガーは大声で叫んだ。
「ソフィ!ありがとう!」
館には男二人とソフィしかいない。
とすれば、台車を用意したのもソフィということになるのだろうが、二人ともそれを確認しようとは思いもしなかった。
二人の男は忙しく働き、外が真っ暗になるとやっと自分たちの食事の準備にとりかかった。
少し遅い夕食になったが、厨房の片隅に置かれた小さなテーブルに、三人が顔を合わせた。
ルドガーが芋の煮物を口にほおばりながら、話し出した。
「ソフィ、ピンクのショールはやはりだめか?明日、出迎えの時だけでも身に着けてくれたら少し華やかな雰囲気になる。イーゼン、お前からも言ってくれ。ソフィはピンクが似合うと思わないか?」
黙って煮込みを食べていたイーゼンは、面倒そうに顔を上げた。
ルドガーが問いかける。
「ピンクは禁じられている色ではないはずだろう?」
イーゼンも王墓の守り人の決まりごとが書かれた本を読んでいる。
「黒いドレスを着ろとは書かれていなかったが……。死を連想させる色が望ましいとはあったな」
ルドガーが反論した。
「死後の世界が黒だと誰が決めた?誰かが見に行ったのか?ピンクかもしれないし、青かもしれない。真っ白ということもあり得る。死を連想させる色が黒だと誰が決められる?」
突拍子もない発言に、ソフィは難解な表情になった。
ソフィの不機嫌な顔にも慣れてきたイーゼンは、気にする様子もなく、焼き立てのパンに舌鼓をうった。
「パンだけはうまいな」
パンだけはソフィが焼いたものだった。明日の用意があるからと厨房を追い出されていたソフィは、生地だけ外で作ってかまどで焼いたのだ。
イーゼンの言葉を耳にしたソフィが、ほんの一瞬、うれしそうに微笑んだ。
その瞬間をたまたま目にした男達は、同時に動きを止め、目を丸くしながら互いに「今のを見たか?」と問いかけるように視線を交わした。
男達の無言の驚きに気づいた様子もなく、ソフィはまたすぐに不機嫌な顔に戻ってしまった。
がっくりと肩を落としたのはルドガーだった。ソフィの笑顔を目にしたのは初めてだったのだ。
「だいたい、騎士団で習うのは食べられる料理だ。美味しい料理じゃない。俺の料理が下手だとしても、それは騎士団の教育のせいだな」
何事もなかったかのようにイーゼンが会話を再開させた。
明日の料理のほとんどは町から調達する予定だったが、手の込んだ盛り付けは自分たちでやるしかないし、貴族社会でしか食べられないようなものはこの館で作らなければならない。
その下ごしらえは終わっていたが、それにしたって不安ばかりだった。
「食器棚を開けて腰を抜かしそうになった。二人分の食器が四枚しかなかった。これから数十人分どうやって調達したらいいのか頭が真っ白になった」
イーゼンはその時の恐怖を思い出し、身震いした。
見えない幽霊より、今は上司や先輩達が押しかける食事会の方が恐ろしい。
「そうだな。届く食材も基本的に一人分だ。俺がいる間は町で買ってきている。足して二人分だな。金は足りただろう?」
「あれだけあれば足りるが、その金で人を雇えないのが本当に残念だ」
イーゼンは思い出したように、ソフィの足元に座る黒い子犬に目を向けた。
影のようにふらりと現れるこの子犬はイーゼンの目にはまた奇妙な形で映っている。
ひどく不細工な犬で、口が少し犬より大きいし、牙もかなり大きいように見える。
耳の形も尖っているし、前足の先から覗く爪も猫のように鋭い。
ルドガーは犬だと言い張るが、イーゼンの目からはもっと禍々しいものに見える。
「忙しすぎて質問するのを忘れていたが……。あの……ルドガー、お前が子犬と呼ぶあれだが……」
「パールだ。まだ小さいから飽きっぽく、気が向いた時しか命令をきかないが、可愛いだろう?墓地に入ったあたりで俺が拾った。女の子だし、ソフィの友達になれる」
突然名前を呼ばれ、ソフィが一瞬動きを止めた。
パールが赤い目を上げ、じっとイーゼンを見返している。
背中の毛が逆立つような殺気を感じ、イーゼンは少し椅子を後ろに引いた。
「子犬というより、俺には魔獣の子に見えるが?本当に犬なのか?」
不思議なことに、ルドガーには子犬に見えるのだ。
ルドガーは失礼なと怒って席を立ち、逃げようとするパールを簡単に捕まえた。
口元に火を湛えた子犬はソフィの目からは魔犬に見えている。
イーゼンには討伐すべき魔獣の子だ。
そんなパールをルドガーは腕に抱き、無理やり仰向けにするとお腹をくすぐった。
パールはもう諦めたようにルドガーの腕の中で大人しくしている。
「ほら、女の子だ」
ルドガーが子犬を両脇から支え、持ち上げる。
股間を晒され、パールが唸り声をあげ暴れ出す。
イーゼンは股間に何もついていないことを確かめたが、ルドガーの手に押さえ込まれている魔獣の牙が指一本分ぐらい伸びたように見えた。
ソフィはひどいしかめっつらで、普通の人間に押さえ込まれている地獄の魔犬を見つめている。
パールがするりとルドガーの手をすり抜け、床に飛び降りた。
すぐに食器棚の隅に隠れ、唸り出す。
ルドガーは容赦なく近づき、またもや無理矢理その小さな体を引っ張り出す。
「ルドガー……。女の子ならもっと優しくした方がいいのでは?」
魔獣とはいえさすがに気の毒になり、イーゼンが口を出すと、ルドガーはやっとパールをソフィの膝に戻した。
パールはすがりつくようにソフィのお腹に鼻を押し付ける。
仕方なく、ソフィはパールを抱き寄せ、背中を撫でてやる。
「なんというか……お前はいろいろすごいな……」
死人だらけの王墓に住んでいる友人を心配していたイーゼンは、脱力したようにそうこぼした。
その夜、ルドガーは当然ソフィと一緒の寝台で寝た。
いつものように背後からぴったり抱き着いて横になる。
ところが、そんな夫婦の寝室にイーゼンもやってきた。
寝室のソファを二人の寝台にくっつけて横になったのだ。
客間は準備されていたが、イーゼンは一人で寝るのは怖いと訴えた。
「本気か?!新婚だぞ」
ルドガーは抗議したが、ちゃっかりパールも入ってきてソフィの足元で丸くなった。
一人と一匹を追い出そうとしたルドガーを、ソフィが引き止めた。
「いてもらった方がいい。あなたも変なことはしないでしょう?」
ルドガーは毎朝、ソフィの体をまさぐってしまう。
イーゼンがいればそんな真似もできないだろうというのだ。
ルドガーはがっかりした。
「わかった。ソフィが良いなら……」
ほっとしたようにソフィは力を抜いてまた背中を向ける。
その背中をルドガーが抱きしめ、その大きなルドガーの背中を頼りにイーゼンが隣のソファーで眠った。
パールは静かだった。凶悪な牙を隠し、音もなく眠っていた。
その夜、館の中には大勢の気配があったが、それに気づいた生者は幸いなことに一人もいなかった。
0
お気に入りに追加
115
あなたにおすすめの小説

紀尾井坂ノスタルジック
涼寺みすゞ
恋愛
士農工商の身分制度は、御一新により変化した。
元公家出身の堂上華族、大名家の大名華族、勲功から身分を得た新華族。
明治25年4月、英国視察を終えた官の一行が帰国した。その中には1年前、初恋を成就させる為に宮家との縁談を断った子爵家の従五位、田中光留がいた。
日本に帰ったら1番に、あの方に逢いに行くと断言していた光留の耳に入ってきた噂は、恋い焦がれた尾井坂男爵家の晃子の婚約が整ったというものだった。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる