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37.結ばれた二人
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ディーンとレイシャは、王と王妃の前で王国と仕事のための契約を交わした。
それは自由を束縛するようなものではなく、家族が顔を合わせるためのものだった。
ディーンはその際に移動する場所を決め、レイシャの部屋の位置を指輪に記録した。
魔力の大半を失っても、フェスターの指輪を使えば馬車に乗る必要がないのだと知り、レイシャは喜んだ。
「馬車はお尻が痛くなるから嫌いだったの。眠っている途中で壁に頭がぶつかって起こされるし、朝も夜もカーテンが閉まっていて囚人になった気分」
呪器として不吉な黒い馬車に閉じ込められ、物のように運ばれてきたのに、レイシャの物言いは明るく、悲壮感がない。
ディーンは苦笑し、レイシャを抱き寄せその額に唇を押し当てた。
「早く戻って、正式な結婚の宣誓をしよう」
ディーンがレイシャに惹かれ始めてからここまでの道のりは苦難の連続だった。
やっと求婚まで終わったが、また何か事件が起きる前に結婚まで済ませてしまいたかった。
「そうね!教会でいいのかな?」
うれしそうに声を弾ませるレイシャを、王妃が慌てて呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待って!これから結婚するの?準備もなしに?」
王妃は急いで走っていくと、クローゼットから豪華な白いドレスを引っ張り出した。
それは婚礼衣装ではなかったが、十分華やかで美しいものだった。
王妃はドレスに合わせて宝石を選び、レイシャに押し付けた。
「次に訪ねてきてくれたら、お披露目しましょう。あなたの弟にも伝えておくから」
弟という聞きなれない言葉に、レイシャは眉間に皺を寄せたが、とりあえずうなずいた。
デノン王が部屋を出て行き、しばらくして走って戻ってきた。
その手には縁に金の刺繍を施した純白のマントがあった。
「これは花婿のためのマントだ。幸運のまじない付きだ」
レイシャとディーンは押し付けられた衣装を抱えると、二人に軽く頭を下げた。
次に来る日は契約書に書かれている。
ディーンが風を呼び、二人の姿はあっという間に消え去った。
寝室に残された王と王妃は黙り込み、しばらくの間、動かなかった。
王妃には娘を奪われた恨みが残っているし、王も苦い後悔を抱えている。
互いにわだかまりがあったが、道を見出す必要があった。
若い夫婦は結ばれ、未来に向かって歩き出した。
デノン王は膝を付いた。
「レフリア、長いこと君を苦しめたこと申し訳なかった。時間を取り戻せない以上、君から娘との時間を奪ったことは一生謝罪していくしかないと思う。俺はそれを忘れない。もう一度やり直してくれないだろうか」
レフリアも諦めたように微笑んだ。恨みや憎しみは未来に何も生みだせない。
「深く考えず流されてきた私の責任でもあります。レイシャみたいに、私も自分の心に向き合い、周りと戦う勇気があれば、もっと早く取り戻せていたかもしれない。私も弱かったの……」
「レフリア……一緒にやりなおそう」
デノンは妻の手を大切に捧げ持ち、その手の甲に唇を押し付けた。
――
隠れ魔法使いロナの住む森は、常に温かな春の日差しに包まれている。
爽やかな風が木立の間を吹き抜け、小鳥たちが祝福の歌をさえずっていた。
その明るい木漏れ日の下に、純白のドレスを身に着けたレイシャの姿があった。
黙っていれば、気品ある王妃にそっくりで、王女に見えなくもない。
ディーンも立派なマントをまとい、貴公子のようだった。
とはいえ、やはりまだ少しやせすぎだった。
「魔力は半分ぐらい体に残るようにしておけば十分だろう。魂まですり減らすようなことにはならない」
フェスターはディーンの指に嵌めた指輪をいじりながら魔力量の調整をしていた。
そこに、ようやく巨大な石板を抱えたロナが戻ってきた。
白い埃を被っているが、不思議な魔力が込められている。
「これを使えば結婚の宣誓が出来る。最後に使ったのはいつだったかね。二百年前だった気がするね」
二百年も生きているかのようなロナの発言に、ぎょっとしたレイシャとディーンだったが、女性に年齢のことを聞くべきではないだろうと沈黙を守った。
「コト町の俺の使っていた屋敷をお前たちの新居として届け出を出しておいた。まぁ俺の研究室もあるからしばらくは一緒に住むことになるだろう。そこを拠点にして二人の家を探せばいい」
フェスターの言葉に、レイシャとディーンは結婚後の住まいを何も考えていなかったことに気が付いた。
家なしで仕事もなかったのに、結婚する気だったことをディーンは恥じて赤くなった。
「こんな不甲斐ない夫ですまない……」
レイシャも複雑な心境だった。
夫がいる身で男娼のディーンに恋して、結婚するに至ったのだ。
普通であれば夫の怒りを買い、無一文で追い出されても仕方がない。
「人妻で恋をするとこうなるのね。フェスター様が偉大な魔法使いでもなく、私に執着するような夫だったら、私は怒られて無一文で追い出され、娼館から帰る夫を宿屋で待つ妻になっていたのかしら。それこそ私も同じ娼館で働いていたかも……」
それは止めてほしいなと、ディーンは小さく呟いた。
男娼をしていた身では強くは言えない言葉だった。
フェスターは、元妻がディーンと結婚することに関して、幸いなことに何とも思っていなかった。
レイシャは復讐の道具でありながら、思い通りにならなかったやっかいな女であり、ディーンはまだまだ手がかかりそうな弟子だった。
複雑な三角関係に思えたが、そこに問題があったわけではなかった。
宣誓台の準備を終え、ロナがレイシャとディーンを呼び寄せた。
「宣誓の言葉を復唱せよ」
重々しくロナが古代語で宣誓の言葉を唱えると、ディーンが続き、レイシャもそれをなんとか真似て声を出した。
全ての言葉を言い終えると同時にまばゆい光が溢れ、レイシャとディーンを包み込んだ。
二人は見つめ合い、自然に唇を重ねていた。
フェスターは相変わらずの黒い衣装に身を包み、宣誓台から少し離れた場所から二人の様子を眺めていた。
ロナが二人は今より夫婦となったと宣言すると、二人の頭上から色鮮やかな花弁がひらひらと降ってきた。
レイシャが喜びの声をあげ、ディーンはすぐにフェスターを振り返った。
フェスターは、指先で宙に弧を描いているところだった。
その指の向いている空に、大きな虹がかかった。
「きゃああ!すごい!」
レイシャは大喜びで、舞い踊る花びら越しに美しい虹を眺めたが、ディーンの目はフェスターの表情に釘付けだった。
常に感情を隠してきたその面には、穏やかな眼差しと温かな微笑みがあったのだ。
魔力をもたないレイシャだが、冷酷なフェスターにこんな顔をさせることが出来るのであれば、それは大した魔法ではないかと、ディーンは密かに思った。
新婚の二人はフェスターの提案通り、黒の館で夫婦生活を始めることになった。
フェスターはロナのところでしばらくゆっくりすると決め、一緒に館には戻らなかった。
新婚の二人に遠慮したのかもしれないとディーンは言ったが、レイシャは懐疑的だった。
「フェスター様が誰かに遠慮するなんて、正直考えられない」
老婆ロナのところには大量の古代魔力で書かれた本があったのだ。
それを全部読むつもりではないかとレイシャは考えた。
となれば、レイシャにはフェスター不在の間にやりたいことがあった。
コト町に戻ってきたレイシャは、黒の館を見上げ、ディーンに宣言した。
「ねえ、ディーン。新生活はまず、この家を黒以外の色にすることから始めるわ」
少し心配そうな顔をしたディーンだったが、レイシャはに逆らおうとはしなかった。
それはレイシャにとって、最高に楽しい仕事の始まりだった。
いつもうんざりしていた陰鬱な空間を色彩豊かな家具や絨毯、カーテンで飾り付け、花瓶に花まで活けたのだ。
ディーンはフェスターが弟子と認めたほどの魔法使いだったから、その作業は難しいものではなかった。
それでも地下室から書物を持ち出し、物質に色を与える魔法や薬の混ぜ方などを確認する必要があった。
魔力のないレイシャは、魔法書も読めなければ、壁の色塗りもディーン任せだった。
「死の花から魔力を得ていたのなら、それが消滅したら魔力はなくなってしまうの?」
ペンキや刷毛も使わず、寝室の壁を水色に塗っているディーンにレイシャは話しかけた。
「いや、魔力は大気中に溢れているものだからね。死の花はもともと魔物とか魔獣の仲間なんだ。強力な魔力を持つけれど決して聖なる存在にはならない。
魔物を作り上げるように人も作り替える。フェスター様が研究していたのはそうしたことで、悪意で力を増幅させる死の花は結局は消滅させるしかなかったのだと思う」
レイシャはそれを聞くと、少しだけ心配そうな顔をした。
「じゃあディーンは魔物になってしまったの?」
ディーンは穏やかに笑った。
「魔力だけを抽出して体内に留めただけだ。その仕組みや、原理はすこし説明が難しいけど、フェスター様がうまく調整してくださった。
あの方の性格はともかく、素晴らしい魔法使いであることは間違いないよ」
性格はともかくのところはおおいに同意だった。
レイシャは壁の色塗りをディーンにまかせ、食事の準備をするために厨房に向かった。
裏口を回ると、ルー神官が運んできた食材が、庭先に大量に詰まれていた。
その大半が腐敗している。
がっくりしたレイシャがディーンの所に戻り、買い物に行くと告げると、ディーンは後で一緒に行こうと提案した。
黒い館の壁がきれいに塗り終えられると、ディーンは心配そうに言った。
「怒られないかな……」
天井は黒から白に変わり、壁は草原色になっていた。
「嫌なら、フェスター様がまた黒く塗り替えると思う」
レイシャは簡単に答えた。
玄関には色鮮やかな花まで飾られている。
「フェスター様は優しい方ではないから少し心配だよ」
レイシャはその時は二人で謝ればいいと楽観的だった。
鞭で殴られたこともあるのに、レイシャはフェスターの怒りを恐れていないのだ。
逞しいレイシャの発言に、ディーンもいざとなったら一緒に謝ろうと覚悟を決めた。
町に出た二人は、夫婦として堂々と手を繋いで歩けることに感動し、賑わう市場を歩き、公園のベンチに肩を並べて座り、それから屋台で買い物をし、二人の時間を楽しんだ。
恋人気分を満喫しているうちにあっという間に夕刻になった。
表通りの店は次々に閉まり、大通りから裏通りへ人波が移っていく。
娼館のある通りから赤やピンクの灯りがこぼれてきて、表通りの白い光に混ざり込んだ。
その華やかな灯りを大通りの端から眺め、ディーンは少しだけ寂しそうな顔をした。
「娼館に戻りたいの?」
レイシャは控えめに問いかけた。
好きで男娼になったわけではなくても、気に入りの女客ぐらいはいたはずだ。
レイシャもディーンの客の一人だったのだから。
「世話になった人のことを少し考えていた。今思えば体さえ売っていれば良いような簡単な仕事ではなかった。新しい仕事を王国から頂いたが、初めての仕事だ。やはり簡単にはいかないだろう。フェスター様が教えて下さるといいのだけれど……」
男娼以外の仕事をしたことがない不安そうなディーンの手を、レイシャが力強く握った。
「魔力はないけど、いつだってあなたの味方よ」
何があっても一緒にいるのだと、その輝く瞳が雄弁に語っている。
頼もしい妻の姿に、ディーンも力強く頷いた。
どこの世界でも生きていくのは大変だ。
でもきっと二人でなら乗り越えて行ける。
赤焼けた空を次第に紺色のベールが覆っていく。
地面に伸びる影を追いながら、二人は肩を並べて帰途についた。
それは自由を束縛するようなものではなく、家族が顔を合わせるためのものだった。
ディーンはその際に移動する場所を決め、レイシャの部屋の位置を指輪に記録した。
魔力の大半を失っても、フェスターの指輪を使えば馬車に乗る必要がないのだと知り、レイシャは喜んだ。
「馬車はお尻が痛くなるから嫌いだったの。眠っている途中で壁に頭がぶつかって起こされるし、朝も夜もカーテンが閉まっていて囚人になった気分」
呪器として不吉な黒い馬車に閉じ込められ、物のように運ばれてきたのに、レイシャの物言いは明るく、悲壮感がない。
ディーンは苦笑し、レイシャを抱き寄せその額に唇を押し当てた。
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ディーンがレイシャに惹かれ始めてからここまでの道のりは苦難の連続だった。
やっと求婚まで終わったが、また何か事件が起きる前に結婚まで済ませてしまいたかった。
「そうね!教会でいいのかな?」
うれしそうに声を弾ませるレイシャを、王妃が慌てて呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待って!これから結婚するの?準備もなしに?」
王妃は急いで走っていくと、クローゼットから豪華な白いドレスを引っ張り出した。
それは婚礼衣装ではなかったが、十分華やかで美しいものだった。
王妃はドレスに合わせて宝石を選び、レイシャに押し付けた。
「次に訪ねてきてくれたら、お披露目しましょう。あなたの弟にも伝えておくから」
弟という聞きなれない言葉に、レイシャは眉間に皺を寄せたが、とりあえずうなずいた。
デノン王が部屋を出て行き、しばらくして走って戻ってきた。
その手には縁に金の刺繍を施した純白のマントがあった。
「これは花婿のためのマントだ。幸運のまじない付きだ」
レイシャとディーンは押し付けられた衣装を抱えると、二人に軽く頭を下げた。
次に来る日は契約書に書かれている。
ディーンが風を呼び、二人の姿はあっという間に消え去った。
寝室に残された王と王妃は黙り込み、しばらくの間、動かなかった。
王妃には娘を奪われた恨みが残っているし、王も苦い後悔を抱えている。
互いにわだかまりがあったが、道を見出す必要があった。
若い夫婦は結ばれ、未来に向かって歩き出した。
デノン王は膝を付いた。
「レフリア、長いこと君を苦しめたこと申し訳なかった。時間を取り戻せない以上、君から娘との時間を奪ったことは一生謝罪していくしかないと思う。俺はそれを忘れない。もう一度やり直してくれないだろうか」
レフリアも諦めたように微笑んだ。恨みや憎しみは未来に何も生みだせない。
「深く考えず流されてきた私の責任でもあります。レイシャみたいに、私も自分の心に向き合い、周りと戦う勇気があれば、もっと早く取り戻せていたかもしれない。私も弱かったの……」
「レフリア……一緒にやりなおそう」
デノンは妻の手を大切に捧げ持ち、その手の甲に唇を押し付けた。
――
隠れ魔法使いロナの住む森は、常に温かな春の日差しに包まれている。
爽やかな風が木立の間を吹き抜け、小鳥たちが祝福の歌をさえずっていた。
その明るい木漏れ日の下に、純白のドレスを身に着けたレイシャの姿があった。
黙っていれば、気品ある王妃にそっくりで、王女に見えなくもない。
ディーンも立派なマントをまとい、貴公子のようだった。
とはいえ、やはりまだ少しやせすぎだった。
「魔力は半分ぐらい体に残るようにしておけば十分だろう。魂まですり減らすようなことにはならない」
フェスターはディーンの指に嵌めた指輪をいじりながら魔力量の調整をしていた。
そこに、ようやく巨大な石板を抱えたロナが戻ってきた。
白い埃を被っているが、不思議な魔力が込められている。
「これを使えば結婚の宣誓が出来る。最後に使ったのはいつだったかね。二百年前だった気がするね」
二百年も生きているかのようなロナの発言に、ぎょっとしたレイシャとディーンだったが、女性に年齢のことを聞くべきではないだろうと沈黙を守った。
「コト町の俺の使っていた屋敷をお前たちの新居として届け出を出しておいた。まぁ俺の研究室もあるからしばらくは一緒に住むことになるだろう。そこを拠点にして二人の家を探せばいい」
フェスターの言葉に、レイシャとディーンは結婚後の住まいを何も考えていなかったことに気が付いた。
家なしで仕事もなかったのに、結婚する気だったことをディーンは恥じて赤くなった。
「こんな不甲斐ない夫ですまない……」
レイシャも複雑な心境だった。
夫がいる身で男娼のディーンに恋して、結婚するに至ったのだ。
普通であれば夫の怒りを買い、無一文で追い出されても仕方がない。
「人妻で恋をするとこうなるのね。フェスター様が偉大な魔法使いでもなく、私に執着するような夫だったら、私は怒られて無一文で追い出され、娼館から帰る夫を宿屋で待つ妻になっていたのかしら。それこそ私も同じ娼館で働いていたかも……」
それは止めてほしいなと、ディーンは小さく呟いた。
男娼をしていた身では強くは言えない言葉だった。
フェスターは、元妻がディーンと結婚することに関して、幸いなことに何とも思っていなかった。
レイシャは復讐の道具でありながら、思い通りにならなかったやっかいな女であり、ディーンはまだまだ手がかかりそうな弟子だった。
複雑な三角関係に思えたが、そこに問題があったわけではなかった。
宣誓台の準備を終え、ロナがレイシャとディーンを呼び寄せた。
「宣誓の言葉を復唱せよ」
重々しくロナが古代語で宣誓の言葉を唱えると、ディーンが続き、レイシャもそれをなんとか真似て声を出した。
全ての言葉を言い終えると同時にまばゆい光が溢れ、レイシャとディーンを包み込んだ。
二人は見つめ合い、自然に唇を重ねていた。
フェスターは相変わらずの黒い衣装に身を包み、宣誓台から少し離れた場所から二人の様子を眺めていた。
ロナが二人は今より夫婦となったと宣言すると、二人の頭上から色鮮やかな花弁がひらひらと降ってきた。
レイシャが喜びの声をあげ、ディーンはすぐにフェスターを振り返った。
フェスターは、指先で宙に弧を描いているところだった。
その指の向いている空に、大きな虹がかかった。
「きゃああ!すごい!」
レイシャは大喜びで、舞い踊る花びら越しに美しい虹を眺めたが、ディーンの目はフェスターの表情に釘付けだった。
常に感情を隠してきたその面には、穏やかな眼差しと温かな微笑みがあったのだ。
魔力をもたないレイシャだが、冷酷なフェスターにこんな顔をさせることが出来るのであれば、それは大した魔法ではないかと、ディーンは密かに思った。
新婚の二人はフェスターの提案通り、黒の館で夫婦生活を始めることになった。
フェスターはロナのところでしばらくゆっくりすると決め、一緒に館には戻らなかった。
新婚の二人に遠慮したのかもしれないとディーンは言ったが、レイシャは懐疑的だった。
「フェスター様が誰かに遠慮するなんて、正直考えられない」
老婆ロナのところには大量の古代魔力で書かれた本があったのだ。
それを全部読むつもりではないかとレイシャは考えた。
となれば、レイシャにはフェスター不在の間にやりたいことがあった。
コト町に戻ってきたレイシャは、黒の館を見上げ、ディーンに宣言した。
「ねえ、ディーン。新生活はまず、この家を黒以外の色にすることから始めるわ」
少し心配そうな顔をしたディーンだったが、レイシャはに逆らおうとはしなかった。
それはレイシャにとって、最高に楽しい仕事の始まりだった。
いつもうんざりしていた陰鬱な空間を色彩豊かな家具や絨毯、カーテンで飾り付け、花瓶に花まで活けたのだ。
ディーンはフェスターが弟子と認めたほどの魔法使いだったから、その作業は難しいものではなかった。
それでも地下室から書物を持ち出し、物質に色を与える魔法や薬の混ぜ方などを確認する必要があった。
魔力のないレイシャは、魔法書も読めなければ、壁の色塗りもディーン任せだった。
「死の花から魔力を得ていたのなら、それが消滅したら魔力はなくなってしまうの?」
ペンキや刷毛も使わず、寝室の壁を水色に塗っているディーンにレイシャは話しかけた。
「いや、魔力は大気中に溢れているものだからね。死の花はもともと魔物とか魔獣の仲間なんだ。強力な魔力を持つけれど決して聖なる存在にはならない。
魔物を作り上げるように人も作り替える。フェスター様が研究していたのはそうしたことで、悪意で力を増幅させる死の花は結局は消滅させるしかなかったのだと思う」
レイシャはそれを聞くと、少しだけ心配そうな顔をした。
「じゃあディーンは魔物になってしまったの?」
ディーンは穏やかに笑った。
「魔力だけを抽出して体内に留めただけだ。その仕組みや、原理はすこし説明が難しいけど、フェスター様がうまく調整してくださった。
あの方の性格はともかく、素晴らしい魔法使いであることは間違いないよ」
性格はともかくのところはおおいに同意だった。
レイシャは壁の色塗りをディーンにまかせ、食事の準備をするために厨房に向かった。
裏口を回ると、ルー神官が運んできた食材が、庭先に大量に詰まれていた。
その大半が腐敗している。
がっくりしたレイシャがディーンの所に戻り、買い物に行くと告げると、ディーンは後で一緒に行こうと提案した。
黒い館の壁がきれいに塗り終えられると、ディーンは心配そうに言った。
「怒られないかな……」
天井は黒から白に変わり、壁は草原色になっていた。
「嫌なら、フェスター様がまた黒く塗り替えると思う」
レイシャは簡単に答えた。
玄関には色鮮やかな花まで飾られている。
「フェスター様は優しい方ではないから少し心配だよ」
レイシャはその時は二人で謝ればいいと楽観的だった。
鞭で殴られたこともあるのに、レイシャはフェスターの怒りを恐れていないのだ。
逞しいレイシャの発言に、ディーンもいざとなったら一緒に謝ろうと覚悟を決めた。
町に出た二人は、夫婦として堂々と手を繋いで歩けることに感動し、賑わう市場を歩き、公園のベンチに肩を並べて座り、それから屋台で買い物をし、二人の時間を楽しんだ。
恋人気分を満喫しているうちにあっという間に夕刻になった。
表通りの店は次々に閉まり、大通りから裏通りへ人波が移っていく。
娼館のある通りから赤やピンクの灯りがこぼれてきて、表通りの白い光に混ざり込んだ。
その華やかな灯りを大通りの端から眺め、ディーンは少しだけ寂しそうな顔をした。
「娼館に戻りたいの?」
レイシャは控えめに問いかけた。
好きで男娼になったわけではなくても、気に入りの女客ぐらいはいたはずだ。
レイシャもディーンの客の一人だったのだから。
「世話になった人のことを少し考えていた。今思えば体さえ売っていれば良いような簡単な仕事ではなかった。新しい仕事を王国から頂いたが、初めての仕事だ。やはり簡単にはいかないだろう。フェスター様が教えて下さるといいのだけれど……」
男娼以外の仕事をしたことがない不安そうなディーンの手を、レイシャが力強く握った。
「魔力はないけど、いつだってあなたの味方よ」
何があっても一緒にいるのだと、その輝く瞳が雄弁に語っている。
頼もしい妻の姿に、ディーンも力強く頷いた。
どこの世界でも生きていくのは大変だ。
でもきっと二人でなら乗り越えて行ける。
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