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25.不幸なはずの人妻
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黒の館の地下室では、ディーンが不運な犠牲者たちを前に呪文を試していた。
不意に、まだ何もしていないというのに、吊り下げられていた囚人が泡を吐きながら苦しみだした。
見上げると、黒い霧が地上に通じる窓から流れ込んできている。
黒い霧に混ざり、風も吹き込んだ。
ディーンは急いで後ろに下がり、膝をつく。
さきほどまでディーンがいた場所にフェスターが立っていた。
ディーンは少し気まずい思いで目を伏せた。人妻のレイシャと想いを告白し合ってきたばかりだ。
「学んでいるか?」
フェスターは絶命した囚人達には目もくれず歩きだす。
ディーンはその背中を追いかける。
「はい。しかし、あまりにも範囲が広く、私には魔力が足りません」
「そうだろうな。通常は何十年もかけて習得するものだ。あるいは生まれつきそうした才能を持つ者が技を磨くのだ。書物や資料だけでは、仕組みを理解するのみだ。実戦においては使い物にならないだろうな」
望みのないフェスターの言葉に、ディーンは歯をくいしばった。
諦めてなるものかとその目は燃えている。
最奥部の部屋に入ると、フェスターは本棚の裏に手を入れた。
壁の中からごとごとと音が鳴りだした。
やがて、本棚の隣の壁が横に移動し、そこに黒い穴が現れた。
新たな入り口の登場に、ディーンは緊張し、フェスターの言葉を待つ。
フェスタ―は冷やかにディーンを振り返った。
「万に一つも望みはないと話したことを覚えているな?」
ディーンの目には不屈の魂が宿っている。
これは不思議な現象だと、フェスターは初めて考えた。
フェスターがディーンを弟子にしたのは、気紛れであり、退屈しのぎの遊びのようなものだった。
すぐに死ぬかと思ったが、なかなかしぶとく生き残っている。
フェスターはディーンの漆黒に染まった目を覗き込んだ。
魔力を湛え、ずいぶん人間らしさを失っている。
その奥底に、確かにフェスターが予期しなかった物が芽生えている。
かつて、そうした不可解な現象を研究していたフェスターにとって、それはとても興味深いことだった。
魔力は人の想いや信念に宿り、その姿を変える。
フェスタ―は、ディーンがまだ生きている要因に心当たりがあった。
「レイシャに思いを告げたのか?」
黙り込むディーンを、フェスターは興味深そうに眺める。
重苦しい沈黙が続き、ディーンはついに目を固く閉じて、頭を下げた。
「何も……何もしていません。本当です」
フェスタ―の目はやはり欺けない。
「申し訳ありません。ただ、幸せになって欲しいと望んでいるだけです。私がレイシャに相応しくないことはわかっています。フェスター様のものであることもわかっています」
「レイシャは俺の呪器だ。俺の呪いと死を受け入れるのがレイシャの役目だ」
「しかし、もし呪器をやめることが出来たら、フェスター様にとってレイシャはいらない存在になりませんか?そうなれば彼女は自由だ。幸せになれる。そうですよね?」
ディーンの身代わりに死の呪いを受けたレイシャをここに運んできた時、フェスターは助けることを条件に、ディーンに囚人を殺させた。その時は意味がわからなかったが、今はわかっている。
フェスタ―はディーンにレイシャの正体を明かし、刻印の意味を教えた。
刻印を消せば、レイシャは自由になれる。そう知ったディーンはその方法を教えて欲しいと懇願した。
フェスタ―はディーンを弟子にした。
万に一つも望みはないが、方法は教えてやるとフェスターは約束したのだ。
呪器について学び、解呪師というものを知った。そうしているうちに、多くの疑問にぶつかった。
その問いはまだ解けていない。フェスタ―には別の目的があるのかもしれない。
「なぜお前を弟子にしたと思う?彼女を自由にし、幸せにするためだと思うか?俺がそんなことをすると?」
呪器を不幸にすることがフェスターの狙いだとしたら。
ディーンが弟子になった意味はどこにあるのか。
「俺があなたを超える解呪師になれば、もう呪器はいらなくなるとおっしゃいました。だから俺は、彼女を自由にするために」
乾いたフェスターの笑い声がディーンの言葉を遮った。
「レイシャがお前に惚れていることはわかっていた。糞真面目なあの女は教会での宣誓を頑なに守り、俺を夫と信じ、良い妻であろうと努力することに決めたようだが、俺は夫になったつもりもあれを妻にした覚えもない。
あれは呪器だ。不幸であればあるほど呪器は高い効果を発揮する。
お前達が想いを通じ合わせ、幸せな約束をしたところでお前が死ねば、レイシャはより不幸になる。
ところが、お前は俺が水瓶に入れた死の呪いを飲んでも死ななかった。レイシャが助けてしまったからだ。
しかしまだ機会はある。
お前がどうあがいてもレイシャを呪器であることから救うことは出来ないと気づいたら、お前はここから逃げ出し、レイシャは取り残される。
あるいは、お前がその前に力尽きるかもしれない。お前達が心を通わせ愛し合うようになるのを俺は待っていた。レイシャにより不幸になってもらうために」
本当にそれがフェスターの目的だとしたら、希望を与えられ、ぎりぎりのところで取り上げられる。
絶望に駆られ、ディーンは低く呻いた。
「だ、だましたのか。私を、私達の心を……欺いたのか……」
「不幸であることは良い呪器を育てる」
さらりと言って、フェスターは積み上げられている書物に触れた。
「ここにあるものは解呪師の為の書物ではない」
「知っています。呪術師、解呪師、霊薬師、治癒師、精霊師など魔力を使う者達のための書物であり、それぞれに特性があり、全てを一度に習得することは不可能です」
「俺はもともと解呪師ではなかった。何十年もかけて築いてきた私の研究も学問も全て禁じられたのだ。この書物の一つも手に取って読むことは出来ない。
お前がこれを学び終えたら、国はお前を殺しにくるだろう。
ディーン、お前は生まれつき魔力を宿さない普通の人間だ。実は何度も死んでいる。
その身代わりになっていたのがあそこに吊り下げられた囚人たちだ。
もし、お前が生き延び、レイシャの刻印を解くことが出来たら、レイシャをお前にやろう。
この国を出て幸せとやらを探したらいい」
理解しがたい言葉に、ディーンはぱっと顔を上げた。
フェスターの言葉は矛盾している。
レイシャを不幸にしたいのか、それともレイシャの解放を望んでいるのか。
「もし、お前が失敗して死んだら、レイシャはさらなる不幸に落ち、俺の良い呪器として成長するだろう」
「失敗しなかったら?俺にレイシャを本気でくれると?」
怪しむディーンに、フェスターは冷やかに笑った。
「その力を手に入れたなら、俺がお前を騙そうとしたところでお前は痛くも痒くもないだろう。俺を殺すことさえ出来る。俺にやり返し、力でレイシャを奪うことさえ出来る。そこまで強くなれなければ話にならない」
ぴたりと笑みを消し、フェスターは暗い眼差しで虚空を見据えた。
「お前がどこまで出来るようになるか楽しみだな。学ぶ間に不可能だと気づき逃げ出すのが落ちだろうが、それまでは協力してやろう。その間、レイシャは俺のものだ。呪器として存分に使ってやる」
風が吹き込み、また一瞬でフェスターの姿が消えた。
一人残されたディーンは、壁に開いた穴に近づいた。
もし、フェスターよりも強い力を手に入れることが出来たならば、レイシャを確実に守ることが出来る。
確かにそれならば望みはある。
ランプを取り上げ、真っ暗な穴の中を覗き込む。
迷いなく、ディーンはそこに足を踏み入れた。
――
尖塔の小部屋では、レイシャが王都に行くための荷づくりを始めていた。
死の呪いを受け入れる、憂鬱な仕事の始まりだった。
さらに今回はもっと憂鬱なことがある。
フェスタ―との馬車旅だ。
いつものことではあるが、ディーンに想いを告白してしまったことで、多少の気まずさを感じている。
フェスターとの馬車旅が楽しかったことは一度もないが、夫婦として過ごす貴重な時間なのだから、大切にしようと、その絆を深めるために努力をしてきた。
しかし今回ばかりはそんな気持ちにはなれない。
夫婦でいることにも抵抗がある。
これは不倫だろうかとレイシャは考えた。
夫がいるのに、ディーンに惹かれている。
それはいけないことかもしれないが、夫に夫婦関係を改善する気が微塵もないと知ってしまった。
嫌われ者同士、二人で生きていくしかないのだと思い、情ぐらい抱ける関係になろうと必死で努力を続けてきたというのに、その全てをフェスターは呪器を不幸にするための計画に利用してきたのだ。
フェスタ―の行動はいつも残酷で心がない。
そう思うのに、フェスターのことは嫌いではなかった。
口づけだけは優しいし、結婚によって生活は豊かになった。
小さいが自分の部屋はあるし、寝台もある。給料も出るし、娼館通いだって出来た。
妻としてフェスターのことを好きになろうと努力もしてきた。
答を出せない自分の心にもやもやしながら荷物をまとめると、レイシャはがたがた揺れる階段を下りた。
開いている玄関扉の向こうに、二人が乗り込む馬車が見えた。
明るい日差しの下、騎士達も待っている。
レイシャは足を止め、このまま流されてしまっていいのだろうかと考えた。
何日もフェスターと馬車の中で過ごすことになる。
ディーンへの気持ちを抱え、貞淑な妻のふりが出来るだろうか。
馬車の傍に立っていたフェスターがレイシャに近づいてくる。
レイシャはびくりと足を止めた。
フェスターが手元から何かを取り出し、レイシャの前にぶら下げて見せる。
それは羽を広げた鳥の髪飾りだった。
真っ黒だが、光沢があり、美しく磨かれている。
フェスターは皮肉めいた笑みを口元に湛え、その髪飾りをレイシャの頭に挿した。
レイシャは片手を頭に伸ばして、その髪飾りに触れた。
呪器である証であることはわかっているが、夫に髪を飾られ、レイシャは罪悪感に耐えきれなくなった。
ディーンに惹かれている自分には相応しくない品だ。
「フェスター様……私と離縁してください」
ぎょっとした顔をしたのは、二人を迎えにきた騎士達だった。
フェスタ―は鼻で笑っただけだった。
「私は本気です!」
むきになるレイシャを、フェスターは冷たい表情で間近から見下ろした。
「離縁してどうする?お前には死の呪いを集める刻印が刻まれている。
体に入った呪いは解呪師に抱かれなければ消し去ることはできない。妻ではなくなったお前は、俺に抱かれる理由をどう見つけるつもりだ?
お前は妻であり道具だが、離縁すれば、ただの道具だ。呪いを体に溜め込むたびに、名も知らない解呪師に犯してほしいとすがることになるぞ」
酷い言葉に、騎士たちは目を伏せ、聞いていないふりをした。
「妻なんて言葉ばかりじゃないですか。離縁してもしなくても私が体で受けることなんてかわらない。どうせ私は嫌われている存在なのに、今更誰にどうみられようと気にしません。
娼婦だろうとゴミ箱だろうと、どっちでもいいです。嫌われ者同士、少しでも良い夫婦になれるように頑張ろうと思っていたのに!フェスター様にそんな気が全くないなんて、あんまりです!でも、もう私は……」
強い力がレイシャの腰を掴み、強く引き寄せられる。
柔らかな感触がレイシャの唇を覆う。
「んっ!」
フェスターは、レイシャの唇を甘く舐め、ゆっくり顔を離した。
「俺がお前を妻として優しく扱うと約束すればどうするつもりだ?あの男娼のことは忘れて俺と夫婦をやり直すか?今度はあの男娼と結婚して、夫がいながら、呪いを溜めこむたびに夫でもない俺に抱いてくれとすがるのか?」
かっとしてレイシャはフェスターの手を払いのけた。
「私、呪器を止めます!」
周囲を唖然とさせる一言を発すると、レイシャは背中を向けて屋敷の中に逃げ出した。
それは困ると、騎士団長がフェスターに近づいた。
「時間がありません。王都に来てもらわなければ……」
レイシャには気の毒だが、王国の平和のために必要な呪器だ。
どうしても馬車に乗ってもらわなければならない。
団長はフェスターの顔を見て、ぎょっとした。
「ハハハ……ハハハハハ……」
豪快な笑い声が響き渡る。
笑っているが、その目や表情には戦慄するような怒りがあった。
フェスターの、常軌を逸したような表情に、騎士達は恐怖し硬直した。
「全く、あの女を不幸にしておくのは骨が折れるな」
ぴたりと笑い止み、フェスターは殺意を秘めた声で呟いた。
レイシャを追いかけていくフェスターの背中を呆然と見送っていた団長は、その姿が見えなくなると、やっと大きく息を吐き出し部下達を振り返った。
「フェスター様が戻られたら、直ちに出発する!」
朝靄は既に去り、強い日差しが乾いた地面を照らしていた。
不意に、まだ何もしていないというのに、吊り下げられていた囚人が泡を吐きながら苦しみだした。
見上げると、黒い霧が地上に通じる窓から流れ込んできている。
黒い霧に混ざり、風も吹き込んだ。
ディーンは急いで後ろに下がり、膝をつく。
さきほどまでディーンがいた場所にフェスターが立っていた。
ディーンは少し気まずい思いで目を伏せた。人妻のレイシャと想いを告白し合ってきたばかりだ。
「学んでいるか?」
フェスターは絶命した囚人達には目もくれず歩きだす。
ディーンはその背中を追いかける。
「はい。しかし、あまりにも範囲が広く、私には魔力が足りません」
「そうだろうな。通常は何十年もかけて習得するものだ。あるいは生まれつきそうした才能を持つ者が技を磨くのだ。書物や資料だけでは、仕組みを理解するのみだ。実戦においては使い物にならないだろうな」
望みのないフェスターの言葉に、ディーンは歯をくいしばった。
諦めてなるものかとその目は燃えている。
最奥部の部屋に入ると、フェスターは本棚の裏に手を入れた。
壁の中からごとごとと音が鳴りだした。
やがて、本棚の隣の壁が横に移動し、そこに黒い穴が現れた。
新たな入り口の登場に、ディーンは緊張し、フェスターの言葉を待つ。
フェスタ―は冷やかにディーンを振り返った。
「万に一つも望みはないと話したことを覚えているな?」
ディーンの目には不屈の魂が宿っている。
これは不思議な現象だと、フェスターは初めて考えた。
フェスターがディーンを弟子にしたのは、気紛れであり、退屈しのぎの遊びのようなものだった。
すぐに死ぬかと思ったが、なかなかしぶとく生き残っている。
フェスターはディーンの漆黒に染まった目を覗き込んだ。
魔力を湛え、ずいぶん人間らしさを失っている。
その奥底に、確かにフェスターが予期しなかった物が芽生えている。
かつて、そうした不可解な現象を研究していたフェスターにとって、それはとても興味深いことだった。
魔力は人の想いや信念に宿り、その姿を変える。
フェスタ―は、ディーンがまだ生きている要因に心当たりがあった。
「レイシャに思いを告げたのか?」
黙り込むディーンを、フェスターは興味深そうに眺める。
重苦しい沈黙が続き、ディーンはついに目を固く閉じて、頭を下げた。
「何も……何もしていません。本当です」
フェスタ―の目はやはり欺けない。
「申し訳ありません。ただ、幸せになって欲しいと望んでいるだけです。私がレイシャに相応しくないことはわかっています。フェスター様のものであることもわかっています」
「レイシャは俺の呪器だ。俺の呪いと死を受け入れるのがレイシャの役目だ」
「しかし、もし呪器をやめることが出来たら、フェスター様にとってレイシャはいらない存在になりませんか?そうなれば彼女は自由だ。幸せになれる。そうですよね?」
ディーンの身代わりに死の呪いを受けたレイシャをここに運んできた時、フェスターは助けることを条件に、ディーンに囚人を殺させた。その時は意味がわからなかったが、今はわかっている。
フェスタ―はディーンにレイシャの正体を明かし、刻印の意味を教えた。
刻印を消せば、レイシャは自由になれる。そう知ったディーンはその方法を教えて欲しいと懇願した。
フェスタ―はディーンを弟子にした。
万に一つも望みはないが、方法は教えてやるとフェスターは約束したのだ。
呪器について学び、解呪師というものを知った。そうしているうちに、多くの疑問にぶつかった。
その問いはまだ解けていない。フェスタ―には別の目的があるのかもしれない。
「なぜお前を弟子にしたと思う?彼女を自由にし、幸せにするためだと思うか?俺がそんなことをすると?」
呪器を不幸にすることがフェスターの狙いだとしたら。
ディーンが弟子になった意味はどこにあるのか。
「俺があなたを超える解呪師になれば、もう呪器はいらなくなるとおっしゃいました。だから俺は、彼女を自由にするために」
乾いたフェスターの笑い声がディーンの言葉を遮った。
「レイシャがお前に惚れていることはわかっていた。糞真面目なあの女は教会での宣誓を頑なに守り、俺を夫と信じ、良い妻であろうと努力することに決めたようだが、俺は夫になったつもりもあれを妻にした覚えもない。
あれは呪器だ。不幸であればあるほど呪器は高い効果を発揮する。
お前達が想いを通じ合わせ、幸せな約束をしたところでお前が死ねば、レイシャはより不幸になる。
ところが、お前は俺が水瓶に入れた死の呪いを飲んでも死ななかった。レイシャが助けてしまったからだ。
しかしまだ機会はある。
お前がどうあがいてもレイシャを呪器であることから救うことは出来ないと気づいたら、お前はここから逃げ出し、レイシャは取り残される。
あるいは、お前がその前に力尽きるかもしれない。お前達が心を通わせ愛し合うようになるのを俺は待っていた。レイシャにより不幸になってもらうために」
本当にそれがフェスターの目的だとしたら、希望を与えられ、ぎりぎりのところで取り上げられる。
絶望に駆られ、ディーンは低く呻いた。
「だ、だましたのか。私を、私達の心を……欺いたのか……」
「不幸であることは良い呪器を育てる」
さらりと言って、フェスターは積み上げられている書物に触れた。
「ここにあるものは解呪師の為の書物ではない」
「知っています。呪術師、解呪師、霊薬師、治癒師、精霊師など魔力を使う者達のための書物であり、それぞれに特性があり、全てを一度に習得することは不可能です」
「俺はもともと解呪師ではなかった。何十年もかけて築いてきた私の研究も学問も全て禁じられたのだ。この書物の一つも手に取って読むことは出来ない。
お前がこれを学び終えたら、国はお前を殺しにくるだろう。
ディーン、お前は生まれつき魔力を宿さない普通の人間だ。実は何度も死んでいる。
その身代わりになっていたのがあそこに吊り下げられた囚人たちだ。
もし、お前が生き延び、レイシャの刻印を解くことが出来たら、レイシャをお前にやろう。
この国を出て幸せとやらを探したらいい」
理解しがたい言葉に、ディーンはぱっと顔を上げた。
フェスターの言葉は矛盾している。
レイシャを不幸にしたいのか、それともレイシャの解放を望んでいるのか。
「もし、お前が失敗して死んだら、レイシャはさらなる不幸に落ち、俺の良い呪器として成長するだろう」
「失敗しなかったら?俺にレイシャを本気でくれると?」
怪しむディーンに、フェスターは冷やかに笑った。
「その力を手に入れたなら、俺がお前を騙そうとしたところでお前は痛くも痒くもないだろう。俺を殺すことさえ出来る。俺にやり返し、力でレイシャを奪うことさえ出来る。そこまで強くなれなければ話にならない」
ぴたりと笑みを消し、フェスターは暗い眼差しで虚空を見据えた。
「お前がどこまで出来るようになるか楽しみだな。学ぶ間に不可能だと気づき逃げ出すのが落ちだろうが、それまでは協力してやろう。その間、レイシャは俺のものだ。呪器として存分に使ってやる」
風が吹き込み、また一瞬でフェスターの姿が消えた。
一人残されたディーンは、壁に開いた穴に近づいた。
もし、フェスターよりも強い力を手に入れることが出来たならば、レイシャを確実に守ることが出来る。
確かにそれならば望みはある。
ランプを取り上げ、真っ暗な穴の中を覗き込む。
迷いなく、ディーンはそこに足を踏み入れた。
――
尖塔の小部屋では、レイシャが王都に行くための荷づくりを始めていた。
死の呪いを受け入れる、憂鬱な仕事の始まりだった。
さらに今回はもっと憂鬱なことがある。
フェスタ―との馬車旅だ。
いつものことではあるが、ディーンに想いを告白してしまったことで、多少の気まずさを感じている。
フェスターとの馬車旅が楽しかったことは一度もないが、夫婦として過ごす貴重な時間なのだから、大切にしようと、その絆を深めるために努力をしてきた。
しかし今回ばかりはそんな気持ちにはなれない。
夫婦でいることにも抵抗がある。
これは不倫だろうかとレイシャは考えた。
夫がいるのに、ディーンに惹かれている。
それはいけないことかもしれないが、夫に夫婦関係を改善する気が微塵もないと知ってしまった。
嫌われ者同士、二人で生きていくしかないのだと思い、情ぐらい抱ける関係になろうと必死で努力を続けてきたというのに、その全てをフェスターは呪器を不幸にするための計画に利用してきたのだ。
フェスタ―の行動はいつも残酷で心がない。
そう思うのに、フェスターのことは嫌いではなかった。
口づけだけは優しいし、結婚によって生活は豊かになった。
小さいが自分の部屋はあるし、寝台もある。給料も出るし、娼館通いだって出来た。
妻としてフェスターのことを好きになろうと努力もしてきた。
答を出せない自分の心にもやもやしながら荷物をまとめると、レイシャはがたがた揺れる階段を下りた。
開いている玄関扉の向こうに、二人が乗り込む馬車が見えた。
明るい日差しの下、騎士達も待っている。
レイシャは足を止め、このまま流されてしまっていいのだろうかと考えた。
何日もフェスターと馬車の中で過ごすことになる。
ディーンへの気持ちを抱え、貞淑な妻のふりが出来るだろうか。
馬車の傍に立っていたフェスターがレイシャに近づいてくる。
レイシャはびくりと足を止めた。
フェスターが手元から何かを取り出し、レイシャの前にぶら下げて見せる。
それは羽を広げた鳥の髪飾りだった。
真っ黒だが、光沢があり、美しく磨かれている。
フェスターは皮肉めいた笑みを口元に湛え、その髪飾りをレイシャの頭に挿した。
レイシャは片手を頭に伸ばして、その髪飾りに触れた。
呪器である証であることはわかっているが、夫に髪を飾られ、レイシャは罪悪感に耐えきれなくなった。
ディーンに惹かれている自分には相応しくない品だ。
「フェスター様……私と離縁してください」
ぎょっとした顔をしたのは、二人を迎えにきた騎士達だった。
フェスタ―は鼻で笑っただけだった。
「私は本気です!」
むきになるレイシャを、フェスターは冷たい表情で間近から見下ろした。
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体に入った呪いは解呪師に抱かれなければ消し去ることはできない。妻ではなくなったお前は、俺に抱かれる理由をどう見つけるつもりだ?
お前は妻であり道具だが、離縁すれば、ただの道具だ。呪いを体に溜め込むたびに、名も知らない解呪師に犯してほしいとすがることになるぞ」
酷い言葉に、騎士たちは目を伏せ、聞いていないふりをした。
「妻なんて言葉ばかりじゃないですか。離縁してもしなくても私が体で受けることなんてかわらない。どうせ私は嫌われている存在なのに、今更誰にどうみられようと気にしません。
娼婦だろうとゴミ箱だろうと、どっちでもいいです。嫌われ者同士、少しでも良い夫婦になれるように頑張ろうと思っていたのに!フェスター様にそんな気が全くないなんて、あんまりです!でも、もう私は……」
強い力がレイシャの腰を掴み、強く引き寄せられる。
柔らかな感触がレイシャの唇を覆う。
「んっ!」
フェスターは、レイシャの唇を甘く舐め、ゆっくり顔を離した。
「俺がお前を妻として優しく扱うと約束すればどうするつもりだ?あの男娼のことは忘れて俺と夫婦をやり直すか?今度はあの男娼と結婚して、夫がいながら、呪いを溜めこむたびに夫でもない俺に抱いてくれとすがるのか?」
かっとしてレイシャはフェスターの手を払いのけた。
「私、呪器を止めます!」
周囲を唖然とさせる一言を発すると、レイシャは背中を向けて屋敷の中に逃げ出した。
それは困ると、騎士団長がフェスターに近づいた。
「時間がありません。王都に来てもらわなければ……」
レイシャには気の毒だが、王国の平和のために必要な呪器だ。
どうしても馬車に乗ってもらわなければならない。
団長はフェスターの顔を見て、ぎょっとした。
「ハハハ……ハハハハハ……」
豪快な笑い声が響き渡る。
笑っているが、その目や表情には戦慄するような怒りがあった。
フェスターの、常軌を逸したような表情に、騎士達は恐怖し硬直した。
「全く、あの女を不幸にしておくのは骨が折れるな」
ぴたりと笑い止み、フェスターは殺意を秘めた声で呟いた。
レイシャを追いかけていくフェスターの背中を呆然と見送っていた団長は、その姿が見えなくなると、やっと大きく息を吐き出し部下達を振り返った。
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