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3.終わらない地獄
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前回と同じだけの大金が入った袋を受け取ると、ディーンはたまらず舌で唇を舐めた。
「自分を買い戻せるぐらいの金額になればいいのだけど……」
喜ぶディーンの顔を見ながらも、レイシャは少し心配顔だった。
誰かの物になりたくないディーンは、自分で自分を買い取るしかない。
となれば分割は出来ず、その額は莫大なものになる。それが娼館の掟だった。
「ありがとう、自由になる日が近づいたよ」
それは目前だったが、ディーンは慎重だった。
もしレイシャがディーンを騙す気であれば、自由を目前としたところで援助を打ち切るかもしれない。
男娼をいじめて楽しむ客も多いのだ。
レイシャはいつものようにただ一晩隣で眠り、空が白む前に娼館をひっそりと出ていった。
ディーンはまたすぐにでも来て欲しい気持ちを抑え込み、待っているとだけ優しく伝えた。
慎重に言葉を選ばなければ、上客を逃してしまうと恐れていた。
その数日後、ディーンは貯めてきた金の大半を失うことになった。
客を見送りに出た一瞬の間に、部屋を荒らされ、金を奪われたのだ。
見えるところに置いてあった霊薬の瓶まで割られていた。
犯人はわかっていたが、どうしようもなかった。
荒らされた部屋を見て、呆然と立ち尽くすディーンに、どこからともなく現れたアレンが囁いた。
「大変そうだな。俺はお前と違って好きでここで働いている。お前のような男を逃がさないことも俺の仕事だ。あまり良い夢をみないことだ」
自分で自分を買い戻すことが困難な理由が、ディーンはやっとわかった。
次の客が入ると知らせが入ると、ディーンはなんとか心を奮い立たせ部屋を片付けた。
身請けに頼らず自由になった娼婦や男娼の話はほとんどきかない。
身請けもまた、店にいくらか入る仕組みになっているからだ。
金払いの良いレイシャが現れ、自分を買い戻せると夢をみたが、その考えは甘かったのだ。
最後の訪れから、きっかり一カ月後、レイシャが再び娼館にやってきた。
ディーンは喜んだが、少しだけ苛立った。薬が底をつきかけ、自腹で薬を買うことになりそうだった。
しかしそれはレイシャのせいではない。
部屋を荒らされ、瓶をいくつか割られたからだ。
自由を目前に金を奪われた怒りもあり、一カ月に一度しか来てくれないレイシャに八つ当たりに近い感情を抱いてしまう。
ディーンは必死に自分の苛立ちを隠し、レイシャから大金を受け取った。
「助かるよ。本当に……」
ディーンはちらりと無邪気に笑うレイシャの顔を窺い、自分は待つことしかできない立場なのだと思い知った。
もっと頻繁に通ってもらえるように、男娼として出来ることはないかと考えた。
手も触れあわず寝台に横になると、ディーンはレイシャにさりげなく問いかけた。
「もう少し頻繁に会うことはできないのか?」
レイシャはうれしそうに微笑みながらも、首を横に振った。
「難しいと思う……。お金が足りない?」
「いや、いつも助かるほどもらっている。だけど、そうだね……自由になるには足りないし、薬も時々間に合わない時があって、自分で買ってしまった後にレイシャが来ることもある。その、いつ来るかわかっていれば少し有難い。頼り過ぎかな?」
上客の機嫌を損ねないように注意し、ディーンは穏やかな口調で語り掛けた。
「誰かに身請けされるのが嫌なら、今残っている借金額を私が立て替えるから、私に返済するということにしたらどうかしら?そうすればあなたは自由だし、私に少しずつお金を返してくれたらいいのだから」
「そんなにお金があるのか?」
少し躊躇ってからレイシャは小さな声で告白した。
「私のもらっている額なんて、夫の手に入れる額に比べたら微々たるものよ」
人妻だったのかとディーンは驚いた。
そうかもしれないと考えたこともあったが、レイシャは若すぎて、むしろ裕福な家の娘が結婚前に遊びに来ているのかもしれないと考えていた。
「望まない結婚だった?それでここに?」
立ち入ったことだとわかっていたが、ディーンはさぐるように問いかけた。
レイシャのことを知ることができれば、どんな言葉が金を引き出すために有効か見えてくる。
「そうね……。私に優しい言葉をくれるのはディーンだけよ。笑いかけてくれるのも。お客だから当然かもしれないけど、でも、うれしいの」
不幸な結婚という現実を抱え、レイシャも娼館に夢を見に来ているのだとディーンは納得した。
金持ちの政略結婚で、心に空いた小さな隙間を埋めるために、男娼から優しい言葉を買う。
男娼と手も繋がないということは、少しは夫に関心があるのだ。
夫を好きだが、夫には愛人がいる。そういうことではないかとディーンは考えた。
夫に見向きもされない寂しい妻、頼めばどんどん金を吐きだしてくるところをみると、恐らく虐げられ、自分は無価値な存在だと思わせられているのだ。
となれば、思いっきり頼って見せれば、全力で応えようとするかもしれない。
今まで客に散々騙されてきたが、レイシャが約束を破ったことはまだ一度もない。
しばらく考えていたディーンは、覚悟を決めた。
「娼館ギルドに直接払って欲しい。身請けを頼むよ。でも、返済は君にさせてくれ。俺は誰のものにもなりたくない」
ディーンは自分の男娼雇用契約書を持ってくると、レイシャに託した。
それを手にしたレイシャは、どこか寂しそうに微笑んだ。
「すぐに手続きに行くわ。安心して」
「一括で払えない時は、君も負債を追うことになる……俺は外に出ることを許されないから分割で払えない」
レイシャが払いきれず逃げる可能性を考え、ディーンは優しい言葉を付け足した。
「もし、支払う段階で君の夫が不愉快な顔をしたなら止めて欲しい。今まで通り、ここに通ってくれるだけで俺は十分幸せなのだから」
そう言っておけば、レイシャが本気でディーンを助けるつもりがなかったとしても、夫に反対されて出来なかったと、ディーンに言い訳がしやすい。
今まで通り通ってくれさえすれば、今度こそ金をうまく隠し、いつか自分を買い戻す。
ディーンはそこまで考えた。
その日、レイシャは少し早めに帰って行った。
そして、それからひと月も経たないうちに、ディーンにまとわりついてきた借金が消えたと通知がきた。
レイシャは約束を守ったのだ。
その通知を手にした瞬間、喜びよりも先に驚きがきた。
男娼として働き、客に騙され裏切られたことはあったが、最後まで約束を守った客は一人もいなかった。
借金による雇用契約書が目の前で破られ、ディーンの胸にじわじわと喜びが込み上げた。
やっと外に出られるとディーンが叫びかけたとき、娼館の店主が新たな契約書を出してきた。
それは契約年数に関わる書類だった。
「借金はなくなったようだが、契約年数は残っている。買い取るか?」
売れている男娼を逃がさないための仕組みが次々に現れるのだ。
落胆し、肩を落としたディーンだったが、希望を失うことはなかった。
レイシャならまた助けてくれるはずだ。
一度娼館に売られたら、そこから抜け出すことは難しい。
しかし、ディーンはその現実をひっくり返すほどの金の卵を握っている。
それはレイシャだ。
ディーンは全力でレイシャに頼ることに決めた。
――
コト町郊外にある、黒の館にレイシャは居た。
ディーンの借金返済の手続きに娼館ギルドを訪ね、その手続きを終えた時、レイシャはついにディーンから贈られる優しい言葉や笑顔を手放す決意をした。
人妻でありながら、娼館通いを続けてきた罪悪感は常にレイシャにつきまとっていた。
それなのに、レイシャはディーンにもう一度会いに行くための理由を考えずにはいられなかった。
やがて、ディーンが本当に自由になったのか確認に行くべきだと、レイシャはその理由を思いついた。
憂鬱な気分が幾分晴れて、レイシャはほっとした。
夫の家は全てが黒く、そこに住んでいるだけで憂鬱な気分になった。
黒い絨毯に黒い壁、家具も何もかも黒く、日中でさえ薄暗かった。
さらに、その家で最も狭く、粗末な部屋がレイシャに与えられた部屋であり、そこは三角屋根の先っぽにある尖塔の中だった。
粗末な寝台が一台置かれた天井の低い部屋で、棚もなく、荷物は寝台下の二つの木箱に押し込まれている。
そんな不安定な場所に外付けされた、揺れる尖塔内で、レイシャは王都に行くための荷造りをしていた。
どんなにディーンに会いたくても、次に娼館に行けるのは一カ月後だった。
黒一色の衣服を詰め込み、鞄の口を閉じると、もう一つの肩掛け鞄に財布を入れた。
最後に漆黒のローブを被る。
そのフードの縁には危険を知らせる黄色い刺繍が入っており、一目で呪器だとわかるようになっていた。
荷物を手に一階に下りると、広い玄関広間に漆黒の外套に身を包んだレイシャの夫が待っていた。
氷のように冷たい目をした夫は、レイシャの顎を掴み顔を上げさせた。
レイシャの目が怯えたように揺れるのを確認し、冷やかな声を発する。
「一応私の妻だからな。身なりには気を使ってもらわなければ」
夫がレイシャのフードを脱がすと、きれいに結い上げられた金色の髪が現れた。
そこに漆黒鳥を模した髪飾りを挿す。
「お前が呪われた存在だとよくわかるようにしておけ」
玄関を出ていく夫をレイシャも急いで追いかけた。
外には真っ黒な大型の馬車が待っていた。
死体を乗せるための馬車と同じデザインで、真っ黒な影が四方に立っている。
まるで地獄の底にでも行きそうな不吉な馬車に、レイシャは夫に続いて乗り込んだ。
――
コト町の溺れる魚亭では、朝から窓閉めが始まっていた。
少し蒸し暑くなるこの時期は、早朝の風がもっとも気持ちが良く、窓は開けておくものだったが、この日は特別だった。
町に不吉な馬車の訪れを知らせる、警鐘が鳴り響いていたのだ。
解呪師の黒塗りの馬車を見たりしないように、全ての窓を閉め、さらに向こうからも見えないようにカーテンも閉めなければならない。
もし家に逃げ帰ることが出来なければ、路地裏に逃げ込むか、どこかの店の扉を叩いて中に避難させてもらう必要がある。
警鐘の鳴り響く中、がらがらといった車輪の音がはっきりと聞こえてきた。
ディーンはその音に耳を澄ませ、固く閉めきった窓の下に座っていた。
ついさっき、契約年数をお金に換算し、有り金のほとんどで支払ってきたばかりだった。
手の中にはあとわずかな金額しか残っていない。
所持金を隠し、買い取り金額の交渉をして契約年数を、残り一年まで減らすことに成功したのだ。
しかし、あと一年は買い取れなかった。
これからディーンを逃がさないように、店側はまたしても汚い手を使ってくることだろう。
ディーンは折りたたまれた手紙を取り出し、慎重に開いた。
『ディーンへ 密かな愛を込めて。どこにいても私の心はあなたのもの アンナ』
溢れそうな涙を堪え、ディーンはそっと手紙を畳むと私物の入っている箱に戻した。
馬車の音が遠ざかると、窓を開けろと店員の声が聞こえてきた。
ディーンは立ちあがり、部屋の二つの窓を開けた。
気持のよい風が窓から吹き込み、もう一つの窓を抜けて出て行った。
ふと視線を下げると、通りの向こうから一台の馬車が近づいてくるのが見えた。
それは娼館前で止まり、中から巨大な肉塊が現れた。
常連客の一人だとみて、ディーンは急いで勃起薬の隠し場所へ向かった。
あの客はひたすらディーンに奉仕を要求するのだ。
吐き気のする長時間労働で、すっかり気分も悪くなったところで、勃起させて入れろと命じられる。
うまくいかなければ鞭で殴られ罰金だった。
その後の地獄のような交わりを思いだし、ディーンは吐き気を必死に堪えた。
罰金がかさめばまた借金が出来てしまう。
レイシャが訪ねてきたら、また相談してみようと考え、ディーンはレイシャがもう来ない可能性があることに気が付いた。
レイシャは、ディーンの借金が全て返済されたと思っている。
となれば、ディーンはもう娼館にいないと思っているかもしれない。
もしレイシャが来なくなれば……と頭に過り、ディーンはその不安を必死でかき消した。
可哀そうな話に弱いレイシャのことだ。
きっと金持ちの道楽で、また自分を頼ってくれそうな男娼を探しにくるだろう。
その時に、一番に声をかければいい。
それまでに、アレンが嫌がらせ目的の客ばかりを送りこんでくれば、高価な勃起薬が底をつき、客からクレームが入ることになる。
不安に汗ばんできた両手を握りしめ、必死に心を落ち着けようとしていたディーンは、来客を告げるベルの音に身震いした。
勃起薬をひと舐めし、急いで棚の奥に片付けると、扉の前で跪いて頭を下げた。
「いらっしゃいませ。ドロレア様」
巨大な肉を引きずって現れたドロレアは、ディーンの不安そうな顔を見おろし、べろりと舌を出した。
「しっかり励まないとお仕置きだよ」
その手には黒い鞭が握られていた。
「自分を買い戻せるぐらいの金額になればいいのだけど……」
喜ぶディーンの顔を見ながらも、レイシャは少し心配顔だった。
誰かの物になりたくないディーンは、自分で自分を買い取るしかない。
となれば分割は出来ず、その額は莫大なものになる。それが娼館の掟だった。
「ありがとう、自由になる日が近づいたよ」
それは目前だったが、ディーンは慎重だった。
もしレイシャがディーンを騙す気であれば、自由を目前としたところで援助を打ち切るかもしれない。
男娼をいじめて楽しむ客も多いのだ。
レイシャはいつものようにただ一晩隣で眠り、空が白む前に娼館をひっそりと出ていった。
ディーンはまたすぐにでも来て欲しい気持ちを抑え込み、待っているとだけ優しく伝えた。
慎重に言葉を選ばなければ、上客を逃してしまうと恐れていた。
その数日後、ディーンは貯めてきた金の大半を失うことになった。
客を見送りに出た一瞬の間に、部屋を荒らされ、金を奪われたのだ。
見えるところに置いてあった霊薬の瓶まで割られていた。
犯人はわかっていたが、どうしようもなかった。
荒らされた部屋を見て、呆然と立ち尽くすディーンに、どこからともなく現れたアレンが囁いた。
「大変そうだな。俺はお前と違って好きでここで働いている。お前のような男を逃がさないことも俺の仕事だ。あまり良い夢をみないことだ」
自分で自分を買い戻すことが困難な理由が、ディーンはやっとわかった。
次の客が入ると知らせが入ると、ディーンはなんとか心を奮い立たせ部屋を片付けた。
身請けに頼らず自由になった娼婦や男娼の話はほとんどきかない。
身請けもまた、店にいくらか入る仕組みになっているからだ。
金払いの良いレイシャが現れ、自分を買い戻せると夢をみたが、その考えは甘かったのだ。
最後の訪れから、きっかり一カ月後、レイシャが再び娼館にやってきた。
ディーンは喜んだが、少しだけ苛立った。薬が底をつきかけ、自腹で薬を買うことになりそうだった。
しかしそれはレイシャのせいではない。
部屋を荒らされ、瓶をいくつか割られたからだ。
自由を目前に金を奪われた怒りもあり、一カ月に一度しか来てくれないレイシャに八つ当たりに近い感情を抱いてしまう。
ディーンは必死に自分の苛立ちを隠し、レイシャから大金を受け取った。
「助かるよ。本当に……」
ディーンはちらりと無邪気に笑うレイシャの顔を窺い、自分は待つことしかできない立場なのだと思い知った。
もっと頻繁に通ってもらえるように、男娼として出来ることはないかと考えた。
手も触れあわず寝台に横になると、ディーンはレイシャにさりげなく問いかけた。
「もう少し頻繁に会うことはできないのか?」
レイシャはうれしそうに微笑みながらも、首を横に振った。
「難しいと思う……。お金が足りない?」
「いや、いつも助かるほどもらっている。だけど、そうだね……自由になるには足りないし、薬も時々間に合わない時があって、自分で買ってしまった後にレイシャが来ることもある。その、いつ来るかわかっていれば少し有難い。頼り過ぎかな?」
上客の機嫌を損ねないように注意し、ディーンは穏やかな口調で語り掛けた。
「誰かに身請けされるのが嫌なら、今残っている借金額を私が立て替えるから、私に返済するということにしたらどうかしら?そうすればあなたは自由だし、私に少しずつお金を返してくれたらいいのだから」
「そんなにお金があるのか?」
少し躊躇ってからレイシャは小さな声で告白した。
「私のもらっている額なんて、夫の手に入れる額に比べたら微々たるものよ」
人妻だったのかとディーンは驚いた。
そうかもしれないと考えたこともあったが、レイシャは若すぎて、むしろ裕福な家の娘が結婚前に遊びに来ているのかもしれないと考えていた。
「望まない結婚だった?それでここに?」
立ち入ったことだとわかっていたが、ディーンはさぐるように問いかけた。
レイシャのことを知ることができれば、どんな言葉が金を引き出すために有効か見えてくる。
「そうね……。私に優しい言葉をくれるのはディーンだけよ。笑いかけてくれるのも。お客だから当然かもしれないけど、でも、うれしいの」
不幸な結婚という現実を抱え、レイシャも娼館に夢を見に来ているのだとディーンは納得した。
金持ちの政略結婚で、心に空いた小さな隙間を埋めるために、男娼から優しい言葉を買う。
男娼と手も繋がないということは、少しは夫に関心があるのだ。
夫を好きだが、夫には愛人がいる。そういうことではないかとディーンは考えた。
夫に見向きもされない寂しい妻、頼めばどんどん金を吐きだしてくるところをみると、恐らく虐げられ、自分は無価値な存在だと思わせられているのだ。
となれば、思いっきり頼って見せれば、全力で応えようとするかもしれない。
今まで客に散々騙されてきたが、レイシャが約束を破ったことはまだ一度もない。
しばらく考えていたディーンは、覚悟を決めた。
「娼館ギルドに直接払って欲しい。身請けを頼むよ。でも、返済は君にさせてくれ。俺は誰のものにもなりたくない」
ディーンは自分の男娼雇用契約書を持ってくると、レイシャに託した。
それを手にしたレイシャは、どこか寂しそうに微笑んだ。
「すぐに手続きに行くわ。安心して」
「一括で払えない時は、君も負債を追うことになる……俺は外に出ることを許されないから分割で払えない」
レイシャが払いきれず逃げる可能性を考え、ディーンは優しい言葉を付け足した。
「もし、支払う段階で君の夫が不愉快な顔をしたなら止めて欲しい。今まで通り、ここに通ってくれるだけで俺は十分幸せなのだから」
そう言っておけば、レイシャが本気でディーンを助けるつもりがなかったとしても、夫に反対されて出来なかったと、ディーンに言い訳がしやすい。
今まで通り通ってくれさえすれば、今度こそ金をうまく隠し、いつか自分を買い戻す。
ディーンはそこまで考えた。
その日、レイシャは少し早めに帰って行った。
そして、それからひと月も経たないうちに、ディーンにまとわりついてきた借金が消えたと通知がきた。
レイシャは約束を守ったのだ。
その通知を手にした瞬間、喜びよりも先に驚きがきた。
男娼として働き、客に騙され裏切られたことはあったが、最後まで約束を守った客は一人もいなかった。
借金による雇用契約書が目の前で破られ、ディーンの胸にじわじわと喜びが込み上げた。
やっと外に出られるとディーンが叫びかけたとき、娼館の店主が新たな契約書を出してきた。
それは契約年数に関わる書類だった。
「借金はなくなったようだが、契約年数は残っている。買い取るか?」
売れている男娼を逃がさないための仕組みが次々に現れるのだ。
落胆し、肩を落としたディーンだったが、希望を失うことはなかった。
レイシャならまた助けてくれるはずだ。
一度娼館に売られたら、そこから抜け出すことは難しい。
しかし、ディーンはその現実をひっくり返すほどの金の卵を握っている。
それはレイシャだ。
ディーンは全力でレイシャに頼ることに決めた。
――
コト町郊外にある、黒の館にレイシャは居た。
ディーンの借金返済の手続きに娼館ギルドを訪ね、その手続きを終えた時、レイシャはついにディーンから贈られる優しい言葉や笑顔を手放す決意をした。
人妻でありながら、娼館通いを続けてきた罪悪感は常にレイシャにつきまとっていた。
それなのに、レイシャはディーンにもう一度会いに行くための理由を考えずにはいられなかった。
やがて、ディーンが本当に自由になったのか確認に行くべきだと、レイシャはその理由を思いついた。
憂鬱な気分が幾分晴れて、レイシャはほっとした。
夫の家は全てが黒く、そこに住んでいるだけで憂鬱な気分になった。
黒い絨毯に黒い壁、家具も何もかも黒く、日中でさえ薄暗かった。
さらに、その家で最も狭く、粗末な部屋がレイシャに与えられた部屋であり、そこは三角屋根の先っぽにある尖塔の中だった。
粗末な寝台が一台置かれた天井の低い部屋で、棚もなく、荷物は寝台下の二つの木箱に押し込まれている。
そんな不安定な場所に外付けされた、揺れる尖塔内で、レイシャは王都に行くための荷造りをしていた。
どんなにディーンに会いたくても、次に娼館に行けるのは一カ月後だった。
黒一色の衣服を詰め込み、鞄の口を閉じると、もう一つの肩掛け鞄に財布を入れた。
最後に漆黒のローブを被る。
そのフードの縁には危険を知らせる黄色い刺繍が入っており、一目で呪器だとわかるようになっていた。
荷物を手に一階に下りると、広い玄関広間に漆黒の外套に身を包んだレイシャの夫が待っていた。
氷のように冷たい目をした夫は、レイシャの顎を掴み顔を上げさせた。
レイシャの目が怯えたように揺れるのを確認し、冷やかな声を発する。
「一応私の妻だからな。身なりには気を使ってもらわなければ」
夫がレイシャのフードを脱がすと、きれいに結い上げられた金色の髪が現れた。
そこに漆黒鳥を模した髪飾りを挿す。
「お前が呪われた存在だとよくわかるようにしておけ」
玄関を出ていく夫をレイシャも急いで追いかけた。
外には真っ黒な大型の馬車が待っていた。
死体を乗せるための馬車と同じデザインで、真っ黒な影が四方に立っている。
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――
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少し蒸し暑くなるこの時期は、早朝の風がもっとも気持ちが良く、窓は開けておくものだったが、この日は特別だった。
町に不吉な馬車の訪れを知らせる、警鐘が鳴り響いていたのだ。
解呪師の黒塗りの馬車を見たりしないように、全ての窓を閉め、さらに向こうからも見えないようにカーテンも閉めなければならない。
もし家に逃げ帰ることが出来なければ、路地裏に逃げ込むか、どこかの店の扉を叩いて中に避難させてもらう必要がある。
警鐘の鳴り響く中、がらがらといった車輪の音がはっきりと聞こえてきた。
ディーンはその音に耳を澄ませ、固く閉めきった窓の下に座っていた。
ついさっき、契約年数をお金に換算し、有り金のほとんどで支払ってきたばかりだった。
手の中にはあとわずかな金額しか残っていない。
所持金を隠し、買い取り金額の交渉をして契約年数を、残り一年まで減らすことに成功したのだ。
しかし、あと一年は買い取れなかった。
これからディーンを逃がさないように、店側はまたしても汚い手を使ってくることだろう。
ディーンは折りたたまれた手紙を取り出し、慎重に開いた。
『ディーンへ 密かな愛を込めて。どこにいても私の心はあなたのもの アンナ』
溢れそうな涙を堪え、ディーンはそっと手紙を畳むと私物の入っている箱に戻した。
馬車の音が遠ざかると、窓を開けろと店員の声が聞こえてきた。
ディーンは立ちあがり、部屋の二つの窓を開けた。
気持のよい風が窓から吹き込み、もう一つの窓を抜けて出て行った。
ふと視線を下げると、通りの向こうから一台の馬車が近づいてくるのが見えた。
それは娼館前で止まり、中から巨大な肉塊が現れた。
常連客の一人だとみて、ディーンは急いで勃起薬の隠し場所へ向かった。
あの客はひたすらディーンに奉仕を要求するのだ。
吐き気のする長時間労働で、すっかり気分も悪くなったところで、勃起させて入れろと命じられる。
うまくいかなければ鞭で殴られ罰金だった。
その後の地獄のような交わりを思いだし、ディーンは吐き気を必死に堪えた。
罰金がかさめばまた借金が出来てしまう。
レイシャが訪ねてきたら、また相談してみようと考え、ディーンはレイシャがもう来ない可能性があることに気が付いた。
レイシャは、ディーンの借金が全て返済されたと思っている。
となれば、ディーンはもう娼館にいないと思っているかもしれない。
もしレイシャが来なくなれば……と頭に過り、ディーンはその不安を必死でかき消した。
可哀そうな話に弱いレイシャのことだ。
きっと金持ちの道楽で、また自分を頼ってくれそうな男娼を探しにくるだろう。
その時に、一番に声をかければいい。
それまでに、アレンが嫌がらせ目的の客ばかりを送りこんでくれば、高価な勃起薬が底をつき、客からクレームが入ることになる。
不安に汗ばんできた両手を握りしめ、必死に心を落ち着けようとしていたディーンは、来客を告げるベルの音に身震いした。
勃起薬をひと舐めし、急いで棚の奥に片付けると、扉の前で跪いて頭を下げた。
「いらっしゃいませ。ドロレア様」
巨大な肉を引きずって現れたドロレアは、ディーンの不安そうな顔を見おろし、べろりと舌を出した。
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