死の花

丸井竹

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1.始まりの花

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 死の森と呼ばれる場所がある。どの国にも属さず、入れば生きては出られない危険な森だ。魔獣や魔物がはびこる魔の森でもあるが、黒い霧に阻まれそれらが頻繁に外に出てくることはない。
 
その森の縁に白い花が咲いた。

それは悪意ある者が意図的に外へ出したものだった。最初、それは害のないものだった。
とある少年がそれを見つけ、大事に家に持ち帰った。

物語はそこから始まる。


――

 雨上がりの涼やかな風の中、ウーナ国南東に位置するコトの町は夕刻を迎え、快楽街の通りは淫靡な印象をもたらす赤い灯りに包まれた。
暗くなり人通りの増えてきたその道を、身なりの良い女が歩いていた。

足を止めた場所は、通りの突き当りから手前三軒目の娼館『溺れる魚亭』の前だった。
看板を見上げながら、門をくぐり、慣れた様子で扉を開ける。

屋内に入ると、女はローブのフードを後ろに落とした。
宝石飾りを挿した結い上げられた金糸の髪と整った顔が露わになる。

正面のカウンターから店主が出てきて顔を綻ばせた。

「いつもごひいきにどうも。今ちょうど終わったところです」

店主は壁に並んだ男娼の札を見上げ、時間終了の合図であるベルを鳴らした。
札にはディーンと書かれている。

いつも同じ男娼を指名するこの女客は、とにかく金払いの良い客であり、待たせすぎて機嫌を損ねたら大変な損害だった。

焦って終了のベルをもう一度鳴らした店主の前に、女は男娼を二晩買ってもおつりがくるほどの金額を積み上げた。

「足りるかしら?」

店主は満面の笑みで十分ですと答えた。
二階から扉が開く音がして、ディーンが客を見送る甘い声が聞こえてきた。

その声に、女は待っていられず階段を上がり始めた。
店主がごゆっくりと背後から声をかける。

階段を少し上がったところで、女は足を止めた。
帰り客と思われる剛毛の大男が近づいてくる。

男娼に満足した様子で、鼻歌まで歌っている。
女はぶつからないように体を横にして、その大男をやり過ごした。

すぐに階下から客を見送る店主の愛想の良い声が聞こえてきた。

「またのお越しをお待ちしております」

階段を上がり切ると、女は廊下を進み、開いている扉の中を覗いた。
ディーンが膝をついて上客の女を待っていた。

鳶色の短い髪の下から優しい面差しが持ち上がり、女に甘い微笑みを向ける。

「レイシャ様、いつもご利用ありがとうございます」

レイシャは部屋に入ると、後ろ手に扉を閉めた。

「お会いしたかった」

ディーンの優しい声に、レイシャが頬を赤くする。

「私も……」

その小さな声にディーンは満足そうに微笑み、レイシャを奥に誘った。

部屋は目の覚めるような緋色で統一されていた。
全ての壁には赤い布が貼られ、床は深紅の絨毯で覆われている。
中央に赤い寝具を置いた天蓋付きのベッドが置かれている。

ディーンは部屋の片隅からテーブルと椅子を運んできた。
レイシャが腰を下ろすと、その向かいに自分が座る。

「ひと月ぶりだね、今日もきれいだ」

いつもの口調に戻ったディーンにレイシャはほっとして微笑んだ。

「あんまり来られなくてごめんなさい。ディーンは元気だった?」

レイシャはさっそく持ってきたかごの中身をテーブルに並べ始めた。
高価な霊薬の瓶でテーブルの上が覆われると、ディーンは目をぎらつかせた。

「いつもの超強力勃起薬。副作用がないやつよ。自己回復薬もこの間少なくなったと聞いたから買ってきたわ。それから、美容液と、普通の傷薬。霊薬だから効果が出る時に少し疲れて眠くなるかも」

薬代や部屋の使用料は売り上げから差し引かれる。
外に出られないディーンは店から買うしかない。

必要経費以上を稼ぐには、客にたかるしかない。
哀れっぽく身の上話をし、同情を買うことができれば客は金を払うが、当然、男娼の言葉に乗せられてほいほい貢いでくれる客ばかりではない。

体と魂を投げうっても何も落とさない客はいくらでもいる。
しかしレイシャは違った。
ディーンの身の上話にあっさり同情し、頼めば金も薬も運んできてくれるのだ。

ディーンは感動したようにお礼を言って、瓶を丁寧に回収した。
あまりがっついて浅ましい素振りを見せれば、レイシャの機嫌を損ねるかもしれない。
テーブルが空くと、ディーンはさらに期待に胸を膨らませた。

次に出てくるものはわかっていた。

レイシャがかごを漁り、革袋を取り出して空いたテーブルの真ん中に置いた。
それはじゃらんと重そうな音を立て山の形に立った。
ディーンは唇をぺろりと舐めた。

「買い取りさせてもらえない?」

ひと月に一度訪ねてくるレイシャは、霊薬の瓶を並べたあと、大金を出して毎回同じ質問をする。
ディーンはいつものように首を横に振った。

寂しそうに、しかしどこかほっとしたように微笑み、レイシャは革袋をディーンの方に押しやった。
袋の中の金額を確認し、ディーンはすぐに部屋の奥に隠しに行った。
ディーンの口元に堪えきれない笑みが浮かぶ。

いつもの贈り物を全てもらい終えたディーンは、改めてレイシャの向かいに座る。

「今日こそサービスさせてくれるかい?」

レイシャは首を横に振った。
いつも通りの答えに、ディーンは困ったように微笑んだ。

大抵差し入れをしてくる客は、過剰なサービスを対価として要求してくるものだが、レイシャが望むことは一晩一緒にいることだけだった。

それも手も繋がず、抱きしめることすら許さない。
寝台に向かい合って横になり、少し話をして、まるでおままごとのような淡い恋を演出する。
退屈させないためにしゃべり続けることさえ必要なかった。
レイシャは楽な客で、最高の金蔓だった。

無理に買い取りしようとしないところも助かっていた。
せっかく娼館を出られるというのに、また誰かの物になるのはご免だった。
いつか自分で自分を買い取るのだとディーンは決めていた。

レイシャの様子から、ディーンはレイシャが自分に惚れていると確信を持っていたが、それでも心配はつきまとった。もしレイシャがディーンのもとに通うのをやめてしまえば、地獄に逆戻りだ。
レイシャの運んでくる物資も売り上げも、今ではもうなくてはならないものになっている。

「レイシャ、何かしてほしいことは?」

レイシャの心を繋ぎとめるために特別なことをするべきだと思ったが、レイシャはやはり何も望まない。

「ただ一緒にいて」

二人は並んで寝台に横たわった。
ディーンは半分起きていた。
目を開けるたびに、ディーンはレイシャの姿を確認した。
レイシャはいつも同じ姿勢だった。まるで棺桶にでも入っているかのように、膝をまげて両手を胸の前で組んでいる。
死んだように眠り、早朝目を覚まし、隣にディーンの姿を見つけて一瞬驚く。それから思いだしたようにふわりと微笑むのだ。

その日もレイシャは何も要求しないまま、夜も明けきらぬうちに娼館を出て行った。
ディーンはまた必ず来てほしいと甘い声で囁き、レイシャは恋する乙女のように頬を赤らめ、小さく頷いた。




 娼館を出て、通りを歩きだしたレイシャは暗い表情だった。
白む空の下、静かな通りにはまだ人影もなかった。

人妻であるレイシャは、たまたま娼館の前を通りかかり、ディーンの営業文句にひっかかった。

「きれいな方、遊んでいきませんか?少しお話するだけでもいいから」

その優しい言葉と微笑みに惹かれ、ほいほいついていき、通い始めてからもう一年近く経っている。
結婚したばかりの身で何をやっているのかと思いながらも、娼館通いをやめられなかった。

初回から、ディーンはレイシャの同情を買うように辛い身の上話をした。
勃起薬が高価で買えない、傷が治らず今日の仕事は大変だった。病気になって数日働けなかった。
そんな話を聞き、レイシャは出来る限りディーンを助けると約束し、ほいほい貢ぐ客になった。

最初は通うべきではないと思っていたが、ディーンに何か頼まれるたびに娼館に通う理由が出来てしまう。
優しい言葉と微笑みを向けられると、心が跳ねあがるほどうれしくなり、自分が出来ることならなんでもしてあげたくなるのだ。

ディーンがいつか稼いだお金で自由の身になりたいのだと知ると、レイシャはそれを全力で応援しようと決めた。身請けの話も何度もした。
ディーンはレイシャに買い取られたら、今度はレイシャに囚われると思っているようだが、それは違った。

レイシャは娼館通いを止めたいのだ。
ディーンが娼館からいなくなれば、きっと娼館に通う理由はなくなる。

いつか、ディーンが自由の身になったら、今度こそ娼館通いはやめようとレイシャは思っていた。



 娼館『溺れる魚亭』の二階の窓から、ディーンはまだレイシャの後姿を見送っていた。
かなりの上客であるから、狙っている男娼たちも多い。
娼館前で声をかけられ、他の男娼に乗り換えられてしまうのは困るのだ。

それは当然禁じられている行為だが、この娼館ではディーンが一番新米だった。

部屋の扉が鳴り、許可も待たず扉が開いた。

「上客だったらしいな。店主が喜んでいたぜ」

入ってきたのはいかにも男娼といった派手な身なりをした、整った顔立ちの男だった。
銀色の長い巻き毛を後ろで束ね、前開きの長い夜着をひっかけている。むき出しの肌には濃厚な夜の痕跡が花のように散っている。

淫靡な雰囲気を漂わせたこの男娼は、溺れる魚亭で一番の古株で、ディーンの大先輩だった。

「兄さんたちのご指導の賜物です」

ディーンは窓から離れ、床に座ると頭を下げた。
古株の男娼は赤い唇を不気味に歪め、ディーンを鋭く睨んだ。

「身の程をわきまえて、良い子にしていることだ」

脅すような声音に身を震わせ、ディーンはさらに頭を低くさげる。

裏庭の湯殿に火が入り、仕事を終えた娼婦や男娼たちが客を見送る声が聞こえてきた。
大先輩の男娼が去ると、ディーンは扉を閉めに走った。
鍵をかけて背を扉に押し付ける。

部屋には小さな四角い窓がある。
窓から見える空は果てしないが、ディーンが見ることのできる空は四角く切り取られたわずかな部分しかない。
雨を含んだ灰色の雲がゆったりと風で運ばれていく様子を、ディーンは冷めた目で眺めていた。
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