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喚び招く
60. その頃、カリタス邸では
しおりを挟む(何事もなく穏やかに過ごしたい。それだけなのだがなぁ……)
当代カリタス伯、ロベールは午後のお茶を飲みながら、本日何度目かもわからない溜め息をついた。
妻のニネットは少し風邪気味で、今は眠っている。ここ最近はミシェルをずっと心配していたから、その気疲れが出たのかもしれない。
心優しい妻と、可愛らしいけれど少しばかり後ろ向きな息子。その息子がある日を境に活発になり、何もかもが良い方向へ転がっていった。
ずっとこんな日々が続いて行けばいいと思っていたのに、近頃は何やら、心のざわつく出来事が増えた。
せっかく明るくなっていたはずのミシェルが、また何もかもうまくいかなくなったと、落ち込むことが増えた。ロベールもニネットも励ましたが、二人の言葉はミシェルの繊細な心には届かなかった。
そしてミシェルは、すっかり元通りになってしまったようだ。
王子殿下の側近候補の一人として、他の候補達とも積極的に交流を持つようになり、びっくりするほど活動的になっていたのに……また部屋に籠もることが増えた。
頻繁にお茶会に出かけていたのに、それもない。招待される回数が徐々に減っているのだ。
心配しつつ、ある日参加したパーティーでその理由が知れた。
身体の調子の思わしくない妻は休ませ、ロベールは一人で出席していた。すると今までもちょくちょく親しげに声をかけてきた貴族が、奥方はどうされたのかと尋ねてくる。
とても言葉がたくみで、気付けばロベールは「息子が最近落ち込みがちで…」ということまで打ち明けていた。
『なるほど、それはご心配ですね。あの方なら事情をご存知かもしれませんよ』
その人物に誘われ、離れの棟の休憩室でのんびり休んでいたという格上の貴族に紹介された。
上流階級において顔と名前を知らぬ者はないほどの有名人だったので、内心「ひええ」と恐れ慄いた。いかにも厳格そうな白髪の老人に顔を向けられた瞬間、怯んで後退りそうになったが、意外にもその口調は優しく、気遣いに満ちていた。
そしてミシェルが、また以前のようになってしまった原因についても話してくれた。
『まだ正式な発表はないのだが、ご子息は殿下の側近から外されるであろう。それを薄々感じ取ってしまったのではないかな?』
(報われたらいいのにねえ……あの子は努力家の良い子なのだから)
胸中で独りごちると、己の言葉が恐ろしいほどに寒々しく響き、内心ロベールはぎくりとした。
焦ってカップの中身を一気に飲み干す。ゆっくり飲んでいた茶はほどよい温度になっており、心地良く喉を通った。そのはずだった。
なのに、喉奥で何かが詰まった感覚がある。
(あの子は、頑張っている良い子なのだ。明るくて)
さらに喉奥が詰まった。頭の中で考えているだけなのに、白々しさに視線がきょどきょどと動く。
執事と召使いが怪訝そうにしていたが、気にする余裕はなかった。
(あの子が明るくなったのは、勉強もできるようになったのは、とても頑張ったからだ。そうだ、ミシェルも言っていたじゃないか、皆に心配をかけてしまったのが心苦しい、今までの自分を反省したのだと)
急に意識不明になり、同じぐらい急に目覚めたあと、ミシェル自身がそう言ったのだ。
(そうだ、ミシェル自身が言ったのだよ。あの子が言ったのだ。だからあの子は何にでも一生懸命に取り組んだ。その成果が出たんだ)
これからは今までの遅れを取り戻すために頑張りたい。
そう宣言した時点で、既に別人のように朗らかで明るい子になっていたのは―――きっとそれも同じ理由だ。小さな胸でいろんなことを決意したのが、表情や声に出ていただけだろう。そうに違いない。
上手においしく淹れられるようになっていたお茶が、どこかの日から急に渋くなったのは、体調を崩して鼻と舌が変になっていただけだ。
せっかく上昇していた成績が、同じ頃から急降下し始めたのも、全部全部、ただの偶然だ。
今までが一生懸命過ぎたのだ。だってもともと、ミシェルは頑張り過ぎると疲れてしまう子なのだから。
(とても繊細で弱い子だから、無理が出てしまったのだ。だからそんなに頑張らなくてもいいよと言ってあげているのに……)
胸の中でミシェルを労るほどに、ザワザワと落ち着かない気分が増す。
……ロベールは知っていた。『精霊の悪戯』と呼ばれる現象のことを。
上の子のオスカーとそっくりな、厳格で無情で恐ろしい父親が、嫌がるロベールに無理やり叩き込もうとした知識の中にそれはあった。
……例えばミシェルが意識不明になったのは、何かの精霊がどういうわけか入り込んでしまったのが原因で。
『明るく朗らかで頑張り屋のミシェル』は、実はその精霊の性格で。
その精霊が出て行ったから、性格も成績も元のミシェルに戻った、のだとしたら……。
(まさかだろう。それはないよ。あの子はミシェルだ。ずっとミシェルだった。だって、父親の私がそう言うのだから間違いはないよ)
それに、仮に万が一そうであったとしても、ミシェルが元に戻っただけではないか。いちいち気にするほどのことでは―――
「きゃあああぁッ!!」
悲鳴が聞こえ、ロベールは目をパチリと瞬かせた。
召使いが何か粗相でもしたのだろうか。それとも気持ちの悪い虫でも出たかな?
気分を直すために茶のお代わりを淹れさせようとすると、執事が「あの」と困惑しながら言った。
「先ほどの悲鳴、坊ちゃまのお声では?」
「……は?」
何を言っているのだろう。若い娘の甲高い声にしか聞こえなかったが。
それにミシェルの悲鳴は「うわぁッ」だろう。お茶を淹れる練習の時、熱々のポットにうっかり指で触れ、そんな悲鳴をあげたのを聞いたことがある。
「…………」
立ち上がり、ロベールはやや早足でミシェルの部屋に急いだ。
ミシェルの部屋の前に人だかりを認め、背筋がひやりとする。
「何事だい?」
「それが、坊ちゃまはお泣きになるばかりで、なんとも……」
本当にあの子の声だったのか。あの、娘のような悲鳴が。
人だかりがサッと脇によけてロベールに道を作った。部屋の中で彼の可愛い息子がうずくまり、ぐすぐす泣きじゃくっているのが見えた。
「ミシェル! どうしたんだい!?」
「……お父様! ひぐっ、うっ、うわああん……怖いよお……!」
「怖い?」
「かがみが、かがみが……うう……」
―――鏡。
嫌な予感が胃の腑をギリリと引っかくのを感じた。
ミシェルを落ち着かせるからと言い訳をして人払いをし、ロベールは細い息子の背を撫でながら、詳しい話を促した。
「ミシェルや。鏡が、どうしたんだい?」
「ひぐっ、……あの、あのね」
幼児のごとき舌足らずな口調で言うには、「お話をしていたら急に寝室の鏡が割れた」とのことだった。
「寝室でお話? 話し相手は『誰』がつとめたんだい?」
「…………」
ミシェルが口ごもり、視線をそらした。ごにょごにょと言いづらそうにしているので、まずは実際に見るのが早いかと、寝室に足を運んだ。
ロベールはそこで見たものに目を見開いた。起きてすぐに身だしなみを整えられるよう、端に置かれている全身鏡。その鏡面に大きな亀裂が走っている。
「何かをぶつけたのかい?」
「ちがうの……急に、ドン! ってなったの……」
急に?
皮膚という皮膚がザワリと粟立つ感覚に、ロベールは息を呑んだ。これも確か、教わったことがある。
おそるおそる全身鏡に近付き、亀裂の部分をよく見てみた。……自然にこのような割れ方をするはずがない。
亀裂は大きく放射状に、それも二箇所から広がっている。
ミシェルは本当は、自分で両の拳を打ち付けたのではないか? この子の身長で拳を当てたら、ちょうどこのぐらいの高さになるだろう。
しかし涙をぬぐうミシェルの両手には、かすり傷ひとつ見あたらなかった。
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