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生きとし生ける者の世界へ

24. 夜が明けて

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 窓の向こうには何もなかった。裏側にライトのあるのっぺりとした色ガラスが、稚拙な舞台セットのように窓枠に嵌まっているだけ。
 木も草も花も土もない。風も音もない。水も氷もない。ただ炎はあった。あちら側で灯されればこちら側でも灯る。けれど近付いても熱はなく、触れても火傷はせず、実際にはそれも見た目だけを似せた別物、しょせん紛い物の世界の一部でしかなかった。

 どの窓も開かず、どのドアも開かない。どんなに強い力でぶつけても、何ひとつ破壊できない。物音も衝撃音もなく、無力感だけが際限なく積み重なってゆく。
 月も太陽もないのに、朝が来て夜が来るのは何故だろう。あちらで曇っていればこちらの窓も暗く、日没とともに完全な闇が侵食する。
 己の生み出した灯火が浮遊し、照らす光の外側にいっそう濃い闇があった。どこまでも沈んでいきそうな、果ての見えない闇が。灯りを求めるのをもうやめて、その闇に身を投げたらどうなるだろう。

 終わらせたかった。終わって欲しかった。何もかも。
 ただ眠りたかった。

 立ち上がって踏み出そうとした。けれど誰かが手首を掴んだ。動かない心臓はずっと静かなまま、ひっそりと驚いて背後を振り返った。
 姿見が輝いている。静謐せいひつな月のように。傲然と君臨する太陽のように。

 音もなく、鏡が砕け散った。




 目尻を撫でられる心地良さに、ふわりと瞼が開いた。
 自分がどこにいるのか思い出せず、ぼーっとしているうちに水の入ったグラスを差し出された。
 途端に渇きを覚え、勢いよく飲み干して「ふー…」と息を吐き、やっとそれを用意してくれた相手に意識が向かう。

「あ……オスカー」
「軽いものを用意させた。食べられそうか?」
「うん……」

 ひと口サイズのサンドイッチがサイドテーブルに用意されていた。むくりと上半身を起こすと、オスカーがトレイを掛け毛布の上に置き、背後に回って抱き込んできた。そして細いフォークでサンドイッチをぷすりと差し、悠真の口に運ぶ。
 図書棟の再現である。
 甘いフルーツサンドを頬張りながら、寝惚けていた頭が徐々にすっきりしてきた。雪が降っているけれど外はかなり明るく、太陽の高さからして、今は朝と昼の中間ぐらいだろう。
 オスカーはガウンを着ている。見れば悠真は、膝下丈の黒いチュニックのような寝間着を着せられていた。色とサイズからして、悠真のために仕立ててくれたものに違いなかった。

(……? 身体、さっぱりしてる?)

 オスカーは悠真が寝坊している間に入浴を済ませたのだろう。だた、自分の身体まで綺麗になっているのは不可解だった。

「おまえは半分寝ていたから、憶えていないのも無理はないが。私が風呂に入れた」
「エ」
「清拭では風邪を引きかねんからな」
「…………」

 なんということだ。オスカーに風呂の世話なんてさせてたまるか! が早々に潰えてしまった。
 というかよく考えずとも、一回目と二回目の翌朝、誰が綺麗にしてくれたかという話である。
 ついでにシーツも交換済み。オスカーはシーツの洗濯なんてしない。汗といろいろな液体で汚れたであろうシーツの行方なんぞ、深く考えてはならない。己の心の平安のために。

「もう分解と変換が始まっているな。そういう構造に落ち着いたようだ」

 悠真の腹に手を当ててオスカーが言った。特殊な状況で肉体を得たせいか、通常の人体とは異なるつくりで安定したらしい。

「外見は僕の記憶通りなんですけど、厳密には元の身体じゃないんですね」
「……酷なようだが、おまえの元の肉体はもう滅びているだろう」

 それはそうだ。あちらで亡くなり、ミシェルに引っ張られてから一年以上経っている。とうの昔に火葬されて墓の下だろう。
 大好きだった家族と友人を想って枕を濡らした日々が、もう何年も前の出来事のようだ。こちらの世界の家族を心配させてはいけないと、前向きに新たな人生を歩む決意をした。だというのに……。

「あの時のこと思い出すと、切ないよりも腹立ってきます。ミシェルが最初から僕の扱いをオスカーに相談してくれてたら、僕はきっとあんなに長い間、鏡の中で独りぼっちにならなくてよかったのに」
「その通りでしかないが、私に相談できる気概があれば、そもそもこのような大事にはならん。あれが己に都合の悪いことを隠し通そうとして、事態を悪化させるのは昔からだ」
「お疲れ様です……確かに、まずいことになっちゃったと思っても、怒られるの嫌さに黙ってそうですね。ほんと腹立つな」
「愚弟がすまん。必ず痛めつけてやるから安心しろ。あの夫妻が横槍を入れてこようと、なあなあで片付けさせはせん」
「頼もしいです」

 朝昼兼用の食事を済ませ、また水を飲むと、惰眠を貪っていた羞恥心がそろりと目を覚ました
 背中から抱きしめられる体勢で、さわさわと腹部を撫でる手が気になって仕方がない。

「あの、僕の服は? いいかげん起きなきゃ…………っ?」

 答える代わりに身体を入れ替えられ、後頭部がポス、と枕に沈んだ。

「え?」

 唇が、重なった。悠真の唇に。
 そしてすぐに離れていった。

(あ……え? 今の、って)

 呆然と見上げる表情に嫌悪はないと見て取ったか、再び顔が下りてきた。反射的にぎゅっと瞼を閉じ、オスカーのガウンの袖を掴む。
 前髪や耳の下辺りまでを撫でるように、包むように手を添えられ、角度を少し変えてもう一度唇が重なる。
 上唇と下唇を何度か食み、わずかにできた隙間をペロリと舐めた。驚いた悠真が声を出しそうになった瞬間、その隙をついて口内に侵入する。

(うわ、これ、キスだ。キスされてる……!)

 どうしても拒否感しかなかった、口と口をくっつける行為。いいなと思った女子がいても、そこから先に発展しなかった元凶。
 なのに―――口の中を舐められているのに、鼻にかかった甘い声しか出なくてめまいがした。

(やばい、ぜんぜん気持ち悪くない!? なんで!?)

 どころか、ざわざわとした感覚が下腹部に集中する。己の身体の現金さにヘコみそうだ。
 オスカーの手が悠真の寝間着の裾をたくしあげる。そこから手の平が入り込み、脇腹を、足を、胸をまさぐる。

(どうして? だって、だってもう、術式は)

 昨夜で、完了、だったんじゃ?



   □  □  □



「鍛冶工房より、ご指示いただいた品が出来上がったとの報告がございました。また縫製ほうせい室より、ユウマ様のお召し物が一着仕上がったとのことです。明日こそは、是非、お召しになっていただきたいと針子達が張り切っているそうにございますよ」
「……そうか」

 ウィギルの嫌味を聞き流し、二、三指示を出して食事の載ったトレイを受け取る。少々ばつの悪い気持ちになりながら満面の笑顔の執事を退室させ、サイドテーブルに置いた。
 寝台では、黒髪の少年がこんこんと眠り続けている。
 無理もない。既に日没の時刻だ。
 日照時間が短いとはいえ、そういう問題ではない。

 結局あれから、一度もここから出してやらなかった。
 朝から寝室に籠もり、ようやく解放してやったのがつい先ほど。自分がこんな爛れた一日を過ごす日が来るなど想像だにしなかった。

(始末に負えんな。この感情は……)

 初めてその姿を目にした時、胸にあったのは警戒。
 次に、呆れ。それから、興味。
 ミシェルのしでかしに頭痛を覚えつつ、それ以上に子供のような好奇心が胸を沸き立たせた。
 異世界から来た魂。鏡に閉じ込められた魂。どちらか一方だけでも、多くの魔法使いが目を爛々とさせるであろう未知の存在だ。
 「ここから出る方法があれば教えて欲しい」と予想通りの望みを口にする相手に、言質を取られぬ対策をしながらどこか状況を楽しんでいたオスカーへ、続く言葉が冷や水を浴びせた。

『無理なら、消える方法でもいいです。出られないなら、僕は消えたい。消えてしまいたいんです。あなたがそれをご存知なら、どうか僕を消してくれませんか』

 そこに感情はなかった。喜びも希望も苦痛も悲しみもない。底知れない孤独だけがあった。
 リアムが言っていた通り、少年はとうに悪魔に変じていてもおかしくはなかった。彼がそうならなかったのは、それでもなお、彼の中に憎悪がなかったからだ。
 戦場で命を落としながら、恨みつらみを抱えることなく、悪魔にも邪霊にもならなかった《シーカ》のように。

 己の弟によって少年を、その不幸を面白がっていた。これでは弟の愚行を愚かと責められない。

 なのに実体化した少年を前に、懲りずに好奇心を刺激されているのだから、我ながらどうしようもなかった。
 人形が喋っているようだった鏡の中の彼と違い、実際は感情も表情も豊かなのだと知ってからは、ますます興味を掻き立てられた。
 それでも当初は、彼にとっては不本意であろう行為を、苦痛なく終わらせてやらねばと思っていた。
 それなりに身体を高めてやって、入れて、出す。それだけ。
 それだけのつもりだったのに。

「―――《ウェスペル》」

 足元の影がのそりと起き上がる。それは人間の幼児ほどある鳥の姿を形作り、羽根を広げてあるじの肩に乗った。
 サイドテーブルの引き出しから覚え書き用の紙とペンを取り出し、ざっと手紙をしたためる。


 〝来るなら明日の午後にしろ レムレス〟


 これは断じて手紙ではないよ! とプリプリ肩を怒らせながら、手土産持参で午後の門前に立つ悪友の姿が目に浮かぶ。
 適当に四つ折りにして《ウェスペル》の嘴にくわえさせ、窓を開けた。
 重さのない巨大な鳥は、降りしきる雪の夜空にすうと消え去った。


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