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精霊と鏡の中
2. ミシェルの『精霊様』
しおりを挟む一向に眠気が差さないまま日付が何度も変わり、とてつもなく長い時間が目の前に横たわっているのを知った。
どうになかなりそうなのを紛らわすために、なるべくこの状況を楽しもうと強引に切り替えれば、ようやくこの空間への興味が湧いてくる。
部屋の中を探ってみて、いろいろなことがわかった。まず、この空間は本来のミシェルの部屋の完全なコピーを左右反転させており、家具も燭台も机もペンも書物も、左右が逆なだけでまったく同じものがある。
あちらで蝋燭が灯されればこちらの世界でも灯り、何をどうしても消せない。紙を近付けても燃えはせず、恐る恐る触れてみれば、熱くもなければ火傷もしなかった。加えて、暑さや肌寒さを感じることもない。
魔法を使えるか試してみれば、驚くことに使えた。自分がミシェルだと思い込んでいた頃と同じ、ごく初歩的な魔法ではあったけれど、ミシェルが寝静まる時間帯に自分で灯りを用意できるのはありがたかった。
「でもなんか、人魂みたいだな……」
人差し指サイズの炎がふよふよと揺れるたび、光源の外の闇の濃さに何かが蠢いているようでぞくりと震える。―――呼吸をしたり喋ったり肌が粟立ったりするのに、睡眠も飲み食いも一切必要がないなんて、自分は一体どうなってしまったんだろう。
自分自身の変化に生理的な恐怖を覚え、突き詰めて考えそうになる頭から無理やり追い払った。そもそも、考えてどうにかなるものとも思えない。
幸い、ミシェルの寝室には書斎が繋がっていた。
この世界では悠真の知る限り、プライベートルーム内を区切るドアが少ない。そして富裕層の男性の部屋には大抵書斎がくっついている。
自己評価の低いミシェルは内にこもりがちで、勉学も得意ではなく、書斎に置かれているのは物語がほとんどだった。悠真がミシェルとして暮らし始めてからは勉強の必要性を感じ、学問書もそれなりに増やしている。暇潰しにはもってこいだった。
「あれっ? うそ、全然読めない!?」
タイトルからして謎の言語がずらりと並んでいた。もしやミシェルから追い出された影響で、言葉が理解できなくなったのか?
「あ、そうか。鏡文字なんだ。びっくりした」
からくりが判明し、ホッと胸を撫でおろす。タイトルだけでなく、中身もすべて鏡文字になっていた。
ものすごく読みにくい。けれど読み慣れていた本でも、別の本のように楽しめていいかもしれない。
紙とペンとインクもあり、同時に書き取りもしてみる。四苦八苦しながら、だんだん面白くなって何冊か目を通すうちに、ミシェルが幼い頃に読んでいた童話集が目に入った。
タイトルに『童話』とは書かれていない。この国には基本的に、子供向けとして書かれた本はない。冒険譚や英雄譚、ラブストーリーのような娯楽本も、年齢ではなく読み書きや知識レベルの高さが前提になっている。
この『童話集』に関しては、いかにも童話の短編集仕立てになっていて、幼いミシェルが好んで読んでいたことから、悠真が勝手にそう思っただけだ。
こういうのを読むと、懐かしくなるのは何故だろう。久しぶりに穏やかな気持ちになりながら目を通していくと、ある項目で視線が止まった。
「『願いを叶える精霊譚』……もしかしてミシェルが言っていた精霊様って、これのこと?」
この世界には精霊信仰がある。精霊には善きものや悪しきものがあり、万物を司る世界の化身を善き精霊と呼び、人の心が悪しき精霊に転じたものなどを悪魔と呼んだ。どちらもそうそう実物にお目にかかれるものではなく、精霊と交信できる人物は一国につき二~三人、たいてい国のお抱えになると聞いたことがあった。
ちなみに契約精霊や魔物、あるいはその眷属を喚び出して力を振るう者を召喚士といい、カリタス家はまれに優れた召喚士を輩出する家柄だった。ミシェルとやや歳の離れた兄がこの召喚士であり、しかも精霊から特別に寵愛されている『愛し子』なのだそうで、十年以上も前に魔導伯という地位を与えられ、カリタス家とは別の家として独立している。
この兄がまた天才の呼び名高く、それゆえに傲慢で人嫌いと有名だった。穏やかな気性のカリタス夫妻とは合わず、ミシェルもごくたまに会った時は冷ややかに叱責され、委縮するばかりだったようだ。
「でも、最後に会ったのは何年も前なんだよな。なんで叱られてたんだっけ? 暴力振るわれたわけでもないし、顔もうっすらボンヤリとしか思い出せないのに、そこまで怖がる必要ってあったのかな? 実際どんな人なんだろ」
今は切り離されてしまったとはいえ、そこそこ長い期間を同期していたからか、ミシェルの記憶は悠真の中から消えていない。逆に、悠真の記憶がミシェルに移っていることはなさそうだった。これは本来の肉体の有無が関係しているのかもしれない。
味のある色のページをめくっていけば、懐かしい挿絵や見覚えのない文章が広がった。ミシェルの興味の差による記憶の偏りだろう、難しそうな文面はことごとく記憶にない。まぁこれを読んでいた時は子供だったんだしな……と、少し呆れつつページを進めていく途中、悠真の手がぴたりと止まった。
(『確実に願いに応えてくれる〝鏡の精霊〟』……)
悠真は食い入るようにそのストーリーを追った。
気弱な男が毎夜、決まった時間に鏡と向かい合い、誰にも内緒で己の姿に願いを唱え続けたら、ある日精霊がそれに応えてくれた。
男の中に精霊の眷属が宿ると、彼は見違えるほど活発になって何もかもがうまく行き始め、周りの人々をも幸福にした。
そして役目を果たした眷属は、再び鏡に戻っていった。
ミシェルの状況とかなり似ているのではないか。
ただし、その後には物語の解説文が続いている。この本にはさまざまな精霊が登場し、その精霊にまつわる代表的な物語が書かれ、その後に詳しい解説が付く構成になっていたのだが、ミシェルの頭には後半部分の記憶がまるっとなかった。とっつきやすい物語の箇所にしか目を通していなかったのだ。
鏡の精霊についての説明は、この一文から始まっている。
「『上記の男は偶然に成功した一例であり、応える精霊の性質が明確になっていないため、禁術の第一種に指定されている』……」
悠真は目次に立ち戻って目を瞠った。目次には『魔導塔より資格なき者の交信を禁じられている精霊』とあり、その中に『鏡の精霊』があった。
「めっちゃヤバいやつじゃん!? なにやってんだよミシェル!」
魔導塔はこの国の魔法使いの頂点が集まる機関の名称であり、建物のことを指しているのではない。魔導塔が禁術指定をすれば同時に法でも禁止され、第一種なら貴族であっても相当重い罰をくらう。
執筆されたのはおよそ三十年前。魔法や精霊に関しては百年以上前の書物が現役の教材として活躍するこの世界において、ほぼ最新情報と言っていい。
「あいつ、『精霊様が聞き届けて僕のためにきみを遣わしてくださった』って言ってたよな。僕は精霊の眷属なんかじゃないし、何かから命じられた覚えだってない。だけど、あいつ自身は何かと話したのかな?」
ミシェルはこの記述に一切目を通していないか、見たとしても記憶していない。『確実に願いに応えてくれる』部分だけを拾って、『お祈り』とやらを試した可能性は高かった。
もしやこの空間のどこかに、ミシェルと『交信』した何かがいるのだろうか……。
ぞぞぞっと震えあがり、いつもより夜が怖くなった。
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