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反転

41. 心の栄養補給

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 遅くに帰って来たアレッシオはとどこおった仕事の山を優先順位の高いものだけ処理し、わずかな睡眠をとってから朝早くに起きている。会えなくて寂しいとか、甘えたことをほざける状況じゃない。
 彼を助けてやらねば―――と思っていたら、すぐに俺自身の余裕もなくなってしまった。

「私に書類を?」
「はい。閣下に承認をお願いしたところ、若君に処理をさせるようにと仰せでしたので、サインをいただけないでしょうか」
「待て。私はそのような権限を一切与えられていないぞ。口頭でも書面でも、何もだ。サインはできない」
「えっ? ですが閣下が」
「無理なものは無理なんだ。私がそれにサインをしたら、その書類は台無しになってしまう」
「……ですが、しかし、部分的な権限ぐらいはお持ちなのでは?」

 疑わしそうな目で食い下がるフェランドの部下に、俺は舌打ちしそうになった。

「私の年齢を知らないのか。十二歳だぞ」
「あっ。……いや、その……」

 主君の子の歳を忘れてんじゃねえよ。
 ラウルの家みたいに、あの歳の子に権限与えまくる親が変わっているんだからな。

「今からこちらの者を使って父上を探す。すまんが、直接本人からもらってくれ」

 ロッソ邸の従僕だけでは手が足りず、商会の人員も借り、あちこち移動をしているフェランドを捜索させた。見つかるまで部下も動けないだろうが、俺だって連絡待ちの間はずっと待機だ。
 ようやく発見し、不満げな顔の部下を送り出すのだが、さも俺が手間をかけさせたかのように勘違いするのはやめてほしい。
 こういうことが、連日続いた。フェランドが今まで俺に何もさせなかったことなど知っているだろうに、毎度真に受けて部下が俺の元にやってくる。

「あの人もこの人も、考える頭がないのでしょうか?」

 このセリフがなんとジルベルトの口から出た。
 毒づきたくなる気持ちがわかるだけに注意したいのに注意できない…!
 俺のところに来るフェランドの部下は、フェランドの指示通りのことしかやらないイエスマンばかりだった。
 子供が深夜まで何時間も付き合っているのに、感謝の一言もないのがほとんど。こいつらもいつか一掃してやらねぇとな……。

「ちょっと、若様、顔色悪すぎですよ!」
「若様、お休みなさったほうがいいのでは」
「毎回休んでいては出席日数に響く。こんなことで成績を下げるわけにもいかない」
「おつらくなったら言ってくださいね」
「寄りかかってくださってもいいですから」
「ああ、ありがとう……」

 疲れを押して登校すれば、友人達にもいたく心配されてしまった。
 昔よりずっと強くなったジルベルトがフェランドのところに怒鳴り込もうとするし(止めた)シルヴィアにさえ「にいたまだいじょぶ?」と紅葉もみじのおててで顔をピタピタされたぐらいだから(超癒やされた)、自分でも相当酷いと思う。

「信じられない。やっていることが子供っぽくありませんか?」
「ちょっと憧れてたこともある自分が恥ずかしいな」
「父上によれば、嘘を本気で言っている者は見抜くのが難しいそうだ。自分に絶対的な自信があって、周りの者には嘘に聴こえないと。私も、あんな風になりたいと思っていた昔の自分が恥ずかしい」

 ウソ発見器でバレないタイプの人間ってことだな。どんな嘘をついても、心拍数や呼吸が平常通りで乱れない奴。
 ただし今はその平常心が揺らいだのか、化けの皮がどんどんがれてしまっているんだが。
 もはやフェランドがどのような行動を取ろうとも、すべてが裏側に引っくり返った今、再び元に戻ることはない。

「オルフェ、今日ぐらいは医務室で寝かせてもらえ。オルフェの成績なら、一日休んだぐらいで誰も何も言わない。先生方には私から伝えておく」

 ちなみに先日の試験結果は……

 一位、ルドヴィク=ヴィオレット。
 二位、俺。
 三位、ルドヴィカ=ヴィオレット。
 四位、ラウル=アランツォーネ。

 だった。
 ラウルが主席になっちゃったらどうしようと心配したが、蓋を開ければこうなった。
 俺としては十位以内に入れたら御の字と思っていたのだが、ヴィオレット兄妹にサンドイッチされ、一位になるより目立つ結果になってしまった。

「医務室に参りましょう、若様。僕が付き添いをします」
「私もついていてやりたいのだが」
「お気持ちはありがたいのですが、公爵令息たるルドヴィク様に付き切りで面倒を見させたとなると、僕やラウルくんが咎められます。ラウルくんは入学したてで勝手のわからない場所もあるだろうから、僕が行くよ」
「そうですね。ニコラ先輩、お願いします」
「うん」

 ニコラに医務室まで案内され、保険医への説明も彼がしてくれた。俺はしばらくベッドで寝かせてもらえることになった。

「大丈夫ですよ、若様。―――すぐに、何もかも解決しますから」

 そうだろうか?

 回らなくなった家のフォローで急激に忙しくなったのもあるけれど、アレッシオの不在が一番響いている。
 会えないのがこんなにきついと思わなくて、自分でもびっくりしていた。
 少ない休息の時間をさらに削らせたくなくて、こっちから会いにも行けない。
 激務でヘロヘロになったアレッシオが、よろめいて荷崩れに巻き込まれたりしないか、めまいを起こして馬車の前に飛び出したりしないか、そんな嫌な想像ばかりふくらむ。
 毎日毎夜、ベッドで横になっても、頭の芯が冴えたまま、時間だけが過ぎた。



   ■  ■  ■ 



 その日、ようやく休めたのは、たぶん夜明け前。睡魔に攫われそうになるたびに肩透かしを食らう怠さと、解消されない疲労感が限界に達し、文字通り落ちる感覚とともにふつりと意識が途絶えた。
 ふと覚醒した時には、もう闇が去っている。
 ただ、薄暗くはあった。まだ陽が昇り始めた頃なのだろうか。

「おはようございます」

 窓の傍らに執事が立っていた。厚手のカーテンが紐でくくられ、紗のカーテンが陽射しをやわらかく遮っている。

 ぼんやり薄い逆光の中、どこか輪郭のはっきりしない執事が近付いてくる。
 俺はベッドにいた。目覚めた気がしたのは勘違いだったみたいだ。
 眠りの淵から浮き上がる瞬間、時々そういうことがある。
 これもきっとそうだ。俺の願望のかたまり。
 起きたらいない。上げて落とすやつ。

「アレ……シオ……」
「はい。お待たせして申し訳ございません」

 待つ? ああ、ずっと待っていたな。こちらから会いに行ったら、おまえが死んでしまいそうで怖かったんだ。
 檻の向こうから俺を見おろしてきた質素な身なりの男が、おまえだとわからなかったあの頃の自分が怖い。

「本日の予定はすべてキャンセルいたしました。水以外でご所望のものはございますか?」

 水以外で? おまえだけど。
 なんて言ったらセクハラで訴えられそうだから言わないよ。

 冗談はさておき、おやすみのキスが欲しいな。毎晩、額とこめかみにくれたやつ。もう何日もあれがなくて、つらいんだ……なんて言ったら、これはこれで変な中毒患者みたいだ。
 俺は恋愛脳じゃなかったはずなのに、どうしておまえにはこんなにウザくなってんのか、自分でもわからない。

「若君?」

 アレッシオが頬をぬぐってくれた。布がひんやり気持ちよくて、瞼を閉じた。
 ああ、幸せだな。このまま覚めたくないな。
 そうか、これは現実じゃないんだから、我慢しなくていいのか。

「……キス……ほしい……」
「っ!」

 声がうまく出ない。自分がなんとも情けなくてしょうもなくて、涙が出そうだ。
 布がピタリと止まり、低くうなる音。
 すぐに消えたけれど、何の音だろう。

 ギシリ、と寝台が沈み、頬に手が添えられた。大きな手だ。どうしてか今日はゾワゾワする。吐息が唇の近くをかすめそうになって、離れた。
 何故か深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐いている。目を閉じているから、何をしているのかよくわからない。
 それから、待ちに待ったキスが額に降りた。
 こめかみに、鼻の上に。頬にまで。
 なんて大サービスだ。幸せの供給過多で、また沈んでいきそうになる。

「ん……、……すき……」
「…………」

 このままずっと眠っていられたら、いいな……。


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