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反撃の準備

28. 生まれ変わりの日 -sideニコラ

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 僕には優しい両親と、可愛い五人の弟妹がいる。生活は大変だけれど、みんな仲が良い。
 弟妹が将来困らないぐらいの収入が欲しいと思った時、王立図書館の司書は天職だと思った。
 僕は要領が悪くて、ほかの仕事はうまくできるイメージが全然湧かない。
 だから高等部の三年になったら、学生向けの官吏登用試験を受けて、王立図書館の仕事を希望したいと目標にしてきた。

 ある日、家に伯爵家の使いが来た。

「あの……どなたかと、お間違えでは……?」
「ヴェルデ子爵令息のニコラ様ですよね?」
「は、はい。僕がそうですけれど」
「では、人違いではありません」

 ええ……どういうこと?
 両親も僕も目を白黒させていた。
 伯爵家、それもロッソ家なんて雲の上の家だ。今まで一度だって関わったことなんてないのに、僕がその家の若様の側近に?

 なんでだろうと思っても、伯爵家からのお話をこちらから断るなんてできない。僕は指定された日時に、ロッソ伯爵邸を訪れた。
 僕らの住んでいる借家が何個も入りそうな立派なお館に怯みつつ、案内の人に連れられて応接室に向かった。
 うちの収入では一生かかっても買えないようなソファで小さくなり、温かいお茶を飲みながら震えそうになるのを我慢した。
 案内の人も、お茶を淹れてくれたメイドさんもすごく洗練されていて、僕よりよっぽど貴族みたいだった。

 そうして現われた若様は―――なんと言ったらいいんだろう。
 その人が立った瞬間、さあっと室内の色がすべて変わった。
 錯覚とは思えないぐらいはっきりとした感覚があって、視覚も聴覚も、五感のすべてがその人に吸い寄せられて離れられなくなった。

 鮮烈。ただその一言だけが頭を占め、ほかの言葉が思い浮かばなくなる。
 地平に接する瞬間、すべてを焼き尽くす太陽の色。生命の色。
 僕よりもずっと背が低くてほっそりとして、すごく綺麗で優雅なのに、僕なんかよりもずっとずっと強い人だと直感した。

 この御方は十二歳らしい。本当なんだろうか。確かにお顔立ちだけはそのぐらいの歳に見えるけれど、一般的な赤毛の人物へのイメージに反して、その人がたたえているのは凪いだ海のような静けさだった。

 落ち着いた声音、真っすぐな視線が、僕は怖かった。高級な家具に傷をつけてしまわないかビクビクしていた時よりも、遥かに緊張して舌を噛みそうになった。
 どうせお会いしたら、期待外れだったと言われるに違いない。そう思っていたのに……僕はこの人に、「おまえは要らない」と言われるのが恐ろしくなった。



   ■  ■  ■ 



 僕はロッソ伯爵家の御嫡男、オルフェオ様の側近になれた。
 絶対ダメだと思っていたのに、「採用」と言われた時はポカンとした。
 しかも提示されたお給料は、目が飛び出そうな額だった。
 これ、ケタが違っているんじゃないの?
 戦慄せんりつしていると、執事が僕の立場を説明してくれて、どこか納得した。僕はロッソ家の使用人ではなく、オルフェオ様……若様個人に雇われる立場になる。

「今後、あなたが最優先すべきは若君のご命令です。くれぐれもそのことをお忘れなきよう」

 訳あり、なのかな……。
 ちょっと怖かったけれど、どうせ断れない。
 このお給金なら、弟妹にお腹いっぱい食べさせてあげられるから、断る自由があったとしても選ばなかったと思うけど。

 これからますます忙しくなるな―――と覚悟していたら、家に執事とメイドと管財人が派遣されてきた。
 管財人が父様と話し合い、激怒していた。なんと、僕の家がもらうはずだったお金を、父様は昔のご主人様に全部あげてしまっていたというんだ。
 しかも、母様もそのことはご存知だったらしい。
 昔のご主人様は僕の生まれる前から爵位を失っていて、国の要職についているわけでもなく、うちとは何の関係もなくなっているのに。

「そんな連中にこだわるのはおやめなさいと言っているでしょう!」
「しかし、元は主人であった方を」
「あまりに非人情ではないのかしら…」

 怒り狂う管財人と、渋る父様と母様を見て、僕はひたすら困惑していた。
 あんなに、毎日毎日、仕事をして……それは確かに、職員補佐なんて学生向けの単純なお仕事しかなかったけれど……学園が休みの日も働いて、家族みんなのためにって、お金を稼いでいたのに。
 貴族年金って、なに?

「爵位に応じていくらか出るお金ですよ。坊ちゃまにお教えしてなかったので?」

 管財人さんが父様と母様を睨みつけ、二人はやっぱり渋い顔をしている。

「金、金と、さもしい考え方をこの子に植え付けないでくれ」
「ええ、本当に。お金の問題ではないでしょう」
「何を仰るか! 国への貢献を期待し、貴族として最低限の生活と体面を保てるようにと国が出す、言うなれば貴族にとっての必要経費ですぞ! 平民に貴族ごっこをさせるための遊興費ではないのです!」
「なんということを。その言い方はいくらなんでも」
「そうですよ。もう少し言い方を……」
「父様……母様も、何を言っているの?」
「ニコラ?」
「お金の問題じゃないって、何を言っているの? ……お金の問題だよね?」

 管財人さんの見せてくれた額に、手が震えた。そこには、父様の収入の軽く十倍以上の金額が書かれていた。
 これを全部、よその人にあげていたの?
 それで僕はいつも学園で「貧乏な平民がいる」って嗤われて、弟や妹はいつもお腹をすかせてたの?



 僕は若様にお仕えするにあたり、まず貴族の従者としての行儀作法をしっかり叩き込まれることになった。
 学園では初等部からマナーの選択授業がある。これを取らないのは、家で専門の教師を雇う余裕のある生徒だけだ。
 ほとんどの下位身分の子弟は、入学時に必ずと言っていいほど取る。優れた教師に恵まれにくい者にとって、学園の行儀作法の授業はありがたいんだ。
 ただし特別授業の扱いで、これを取ると一日の授業時間が一時間増える。しかも休日には普段できないシチュエーションでの実践授業が入ることも多い。
 単位に影響がなく、サボっても成績には響かないけれど、まじめに続けている生徒とはどんどん差がついてくる。

 僕は、家事と弟妹の世話と図書館の仕事を優先し、ろくに受けられていない。
 だから初等部の頃からほとんど進歩していなくて、いつも「これでいいのかな」っていう不安が拭えなかった。
 ロッソ家の執事やメイド長いわく、僕のマナーは『平民が多少マシになった程度』なんだそうだ。―――貴族としては、最低レベルってこと。
 彼らにちゃんと教えてもらえるとあって、僕は感謝した。

 家事は新しく来たメイドがやってくれる。弟妹の勉強は執事が見てくれることになった。図書館の仕事も辞めた。
 毎日ビシバシ鍛えてもらって、勉強もして、たまに若様のご用を言いつかって……そうして、気付いてしまった。

 それでも好きな本を読めるぐらい、余裕がある。
 一日って、こんなに長かったのか。
 僕には、こんなにたくさんの時間があったのか。

 ずっと目を逸らしていた。
 ―――あの息も付けない日々が、僕はずっと、つらかったんだっていうことを。
 でも父様や母様の笑顔を曇らせたくなくて、言えなかったってことを。



 とうとう我慢できずに言ってしまった。
 管財人は悪いことなんて何も勧めていない。この人達が来てくれたおかげで、僕らの生活がどんなに助かっているか。
 そして僕が今まで、どれだけ大変な思いをしながら学園に通っていたのか―――。

 ついに、言ってしまった。
 子供がこんなことを考えていたなんて知ったら、きっと悲しませてしまうのに。

 けれどそこには、僕の恐れていた表情はなかった。
 二人はきょとんとして。

「何故それを今になって言うんだ?」
「そうよ。あなた、今までそんなこと一度も言わなかったじゃないの」
「―――」

 言葉も感情も全てが抜け落ちた。
 何も言えず席を立ち、びっくりした両親に呼び止められるのも聞かず、ふらふらと家を出た。玄関をくぐる直前、執事にどこへ行くのかを問われ、「ロッソ邸へ」と口から出ていた。

 気が付いたら本当にロッソ邸の門前にいて、よほど顔色が悪かったんだろう、いつも冷静な門番さんにいたく心配されてしまった。
 すぐに応接室に通され、若様が来てくれた。こんなことでご迷惑をって思うのに、頭がぼんやりして……。
 どうかしたのかと訊かれ、僕はさっきの出来事を、頭に浮かぶまま話し始めた。

 僕が本当は、あの生活をとてもきついと感じながら、でも家族のために言えなかったこと。
 大切な家族のためだからって、そんな風に苦しい気持ちに蓋をしているのを、言わなくてもきっとわかってくれると信じていたこと。
 でもそれを両親に初めて伝えたら―――

「『つらいならどうしてそう言わなかったんだ』とでも言われたか?」
「……!」

 近いことを言い当てられて、目をみはった。
 若様は苦笑いしながら肩をすくめた。

「残念ながらこの世は、ハッキリ言ってやらなければ理解できない人間のほうが多い。その上で……おまえの日々の環境は、言われずとも彼らが気付かねばならないことだった。『この子は何も言わないから大丈夫』と軽く決めつけたそいつらを、おまえは怒っていい」
「え……」
「頭を整理して、もう一度きっちり伝えてこい。これまでの鬱憤うっぷんをぶちまけて、もし七人もいる家族の誰一人おまえの言葉に耳を傾ける気がないようであれば、このロッソ邸におまえの部屋を作ってやる」

 呆然とする僕に、唇の端を少し上げて、「行ってこい」と若様は笑った。



   ■  ■  ■ 



 若様に言われた通り、頭の中をまとめ直して、改めて両親に話した。
 二人は今度は難しい顔で、しっかり考えてくれていた。
 そうか。ちゃんと話せば、聞いてはくれたんだな。どこか拍子抜けした気分で部屋を出たら、すぐ下の弟がいた。
 目が少し潤んでいる。ほかの子はもう眠っているようだ。

「……ごめんね。嫌な話が聞こえてしまったかな」
「ううん、よかったよ。兄様が、言いたいことを言えて。だって兄様はずっと、僕らのために犠牲になっているんじゃないかって、心配だったから。だから、よかった」
「―――……」

 僕は弟を抱きしめた。僕にはちゃんと、僕を見て思いやってくれる家族がいた。

 なのに―――僕はなんて、薄情な兄なんだろうか。
 少し残念だな、なんて感じているんだから。

 若様がロッソ邸に部屋を作ってやると言ってくれた時、素敵だなと思ってしまったんだ。
 怒っていいと言ってくれた若様に、あのお館でずっと仕えられるなんて、もうそれでいいんじゃないかって夢想してしまった。

 僕の献身がすべて空回りの一方通行で、あの『きょとん』に集約されていると理解した瞬間、『家族』は僕の中の一番から転落した。

 家族全員がそうじゃないのだろう。ただ、今までのように『家族みんな公平に好き』とはならない。僕のために泣いてくれたこの弟を筆頭に、僕の中では明確な順位が出来上がってしまった。
 そしてきっとこの先、その内容がこの子に泣いて止められることであったとしても、僕は若様のご命令を優先する。
 人として兄として、それはきっと酷いことだ。

 なのに、どうしてだろう。
 僕は今、こんなにも、息が楽だ。


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