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分岐点
10. 見えるようになった糸を消す
しおりを挟む治安の良い町であっても、護衛に支障のない距離として許されたのはほんのわずかだったが、ロッソ家の馬車に乗っていたのが俺であると、より大勢に注目してもらえればそれでよかった。こういう時に目立つ髪色だと便利だな。
お喋りの話題は、我が家の天使についての自慢話だ。ほどよい人通りの道は、俺達の声が雑音に埋もれず、いい感じに響いてくれた。時間にもよるだろうが、このあたりもエルメリンダの読みは絶妙だった。
その店はなかなかに洒落た外観で、価格は平民の基準では高め、貴族の基準では安い。
昔の俺なら絶対に近寄らなかったであろう店だ。そもそもあの頃は値段なんて気にせずに、高級店にポンと入っては店内のあそこからここまで買い占めとか、平気でやっていたっけな……。
「皆、私のことは気にせず買い物を続けてくれ。―――すまんな店主。継母と義弟への贈り物に、菓子を添えたいのだが」
「は、はあ……で、でも、庶民向けの菓子をお貴族様になんて……」
びびる店主。まあそうだろうな。無理やり売らせといて、「なんだあのくそまずい菓子は!」と後から難癖つける奴もいるし。
なので俺は、ひとつ購入した焼き菓子を目の前で試食してやった。
これには店主だけでなく、遠巻きに見ていた客も目を丸くしていた。購入したものをその場で、しかも立ったまま食べるなんて庶民のやることだからだ。
が、俺はかつて不衛生な地下牢獄の中で、石のごときパンと異臭のするスープを犬のように這いつくばって完食した男だぞ。立ち食いに抵抗感など無い。
「ん、これは美味いな! さくさくでほんのり甘い」
褒めちぎったら店主の顔色がぱああ、と明るくなった。
俄然イキイキとし始めた店主に人気の菓子を教えてもらい、少し悩んで、ドライフルーツ入りの菓子を土産用に、甘味だけでなく塩気もあるという木の実入りを自分用に購入した。もちろん合間にうちの天使の自慢話を差し挟むのも忘れない。
「すっげぇ緊張した…」
「噂と違う…」
店を出る直前、背後から囁き合うのが聴こえ、にんまりと笑いそうになった。
その調子で大いに盛り上がり、今日の出来事をどんどん広め、最近の新しい噂とやらを塗り替えてもらいたい。
―――俺が、継母と連れ子を虐げているという噂を。
まったく、今回の俺は何もしていないっていうのに、誰だそんな大嘘を広めた奴は。
なんてな。
……蜘蛛野郎が。
この国の法律では、女性は執事になれないとブルーノから聞いた。とても残念だ。
後日、領主の御子息様からお褒めの言葉を賜ったパン屋は客が増えたらしい。評判になったのは焼き菓子だが、併せてパンの売り上げも伸びたとかで、ロッソ家のメイドが買い物に行けば必ずオマケをつけてくれるそうな。
それを目にした人々からさらに話が伝わり、じわじわと、俺の予想以上の速度で着実に広まっているという。
「なんだかんだ言っても、自分達の若様ですもの。ご近所同士で暗い顔を突き合わせて、『あれが当主になったら将来どうなるんだ~』みたいに不満漏らし合うより、『うちらの若様は実はこんな良いところがあるんだ!』って自慢できるほうが、みんな楽しいし気持ちよく暮らせるじゃないですか」
「まあ、そうだろうな」
ほんのあのぐらいの接触だけで、領民にとっては大ニュースだったのだ。
加えて、俺の評判は地にめり込んでおり、ささやかな善行が印象に残りやすくなる効果もあった。雨の日に子猫を拾う不良がいたらキュンとくるあれだ。
ポイントは人知れず行うのではなく、さりげなく人の耳目に入るよう行うこと。善行は誰かがどこかで気付いてくれると期待してはいけない。
口の中でサックリほどける焼き菓子は、イレーネとジルベルトに大いに喜ばれた。本来貴族が利用する店ではなかったが、料理長の作る激甘菓子より断然美味い。
今は砂糖の価格が下がり始め、庶民の口にも入るようになった過渡期だが、古い料理人ほど菓子は砂糖を大量に入れればいいと頭が凝り固まっている。
ふんだんに砂糖を使える、イコール財力があるという意味で、パーティー客に砂糖菓子を見せつけられる家は話題になるのが少し前の時代だった。
うちの料理長は、そこらへんのアップデートができていない。つうかプライドが高過ぎて、あえてしないタイプの料理人だ。一回目の人生の時に、わざとかってぐらい俺の苦手な食材を苦手な調理法で出してくるもんで、呼び出して別のを出せと言ったら、去りざまにボソリと「女子供に料理の味なんぞわかるものかよ」って吐き捨てやがったんだよな。
つまりわざとだった。
フェランドに言いつけたら、涙ながらに「滅相もございません!」なんて否定し、俺の虚言ってことになった。マジむかつくおっさんだったぜ。
最終的に、自分の行いが自分に還って追放されることになる。まだ何年も先の話だが、楽しみにしておこう。
ところで、イレーネもジルベルトもドライフルーツ入りの菓子より、俺用に購入した菓子のほうに夢中になったのは想定外だった。
木の実入りも味見をしてみたいというので分けてやったら、甘味の中に含まれるほんのり塩気に手が止まらなくなったそうで……。
言われてみれば、塩キャラメル、塩飴、塩バタークリームと、ほんのり塩味がたまらない菓子はあちらの世界にたくさんあった。菓子は甘いものという世界で、あの店の店主は画期的なレシピを考案した人物と言えるかもしれない。
本については、意外にも冒険譚が好きだったイレーネも強く興味を示し、ジルベルトの同意のもと、二人へのプレゼントということになった。
フェランドには秘密の、終始なごやかな母子三人のお茶会の後は、当然のごとくジルベルトにねだられて読み聞かせの時間になった。
ソファに座り、俺の膝の間にジルベルトがちょこんと座って、一緒にページをめくりながら読んでやる。金色のふわふわが顎をくすぐって落ち着かないが、別のソファで別の本を読んでいるイレーネが、ほっこりしながらこちらに聞き耳を立てているのが、もっと居心地悪くて読みづらかった。
あと猫よ、わざわざ人の読んでいるページのど真ん中でくつろぐのはやめよ。文字が見えん。「うみゃ?」じゃねえよ。あっち行けっての。
さらに後日、エルメリンダから報告があった。
「ブルーノさんから聞きました。やっぱり旦那様だったそうです」
やっぱりか。
……俺に関する嘘八百を領民に吹き込んでいるのは、フェランドだと確定した。
情報をもたらしたのはフェランドの従者である。彼はフェランドが視察先の町長や村長に、いつもの調子でぼやくのを、とてつもない違和感とともに聞いた。
『オルフェにも困ったものだ。己より下の相手と見るや、高圧的に支配的にふるまう。注意しても口ごたえばかりで、何ひとつ改善をしない。可哀想に、あれがいるとイレーネもジルベルトも心休まらないだろう。家庭教師にも我が儘ばかりで、成績もいまひとつのようだし、どうしたものかな……』
そんな坊ちゃんがいて大変ですなあと同情の目を向けられ、主人の手前では否定もできず、従者は鉛を呑まされたような心地を味わったそうだ。
フェランドの語る『オルフェ』は実態と乖離している。あの日以降、俺から暴言を浴びせられた者は一人としていないし、継母と連れ子が虐げられている事実もない。それは本邸の使用人すべての知るところであり、彼はフェランドの言動に恐怖すら覚え、ブルーノへ相談した。
そもそも貴族という人種は、家の恥をおおっぴらにしないものだ。身内に問題があればまず隠し、内々に処分しようとする。
なのに、非のない長男の悪行を自ら捏造してまで広めるなど、フェランドの行動は理解不能のひとことでは済まない。従者が不安に駆られたのも無理はなかろう。
「やり方を何も変えてこなかったということは、多少私が予想外の反応を見せたところで、無力な子供ごときに覆せはしないと慢心したかな?」
その後も俺は時々外出するようになり、領民の噂はまっぷたつに分かれた。
お坊ちゃまの悪評はデマに過ぎない派と、デマではない派だ。
悪評の出どころが領主のフェランド本人であるせいで、悪童説が根強い状況だが、使用人がこぞって「旦那様は若君を誤解なさっているんだよ」という方向で家族や知人に流してくれており、徐々に「そこまで嫌な御方じゃないのかも」と口にする者が増えているようだ。
ロッソ伯爵領は豊かで、ほとんどの民は暮らしに困っていない。もし悪徳領主がわかりやすく領民を苦しめていれば、民のために動く跡取り息子へ同情や期待が集まったろうが、現実はそうではなかった。
領民は山も谷もない日々を、ご立派な領主様のおかげと感謝している。だからそれを真っ向から否定はせず、誤解という方向へ誘導する。
俺は頃合いを見計らって外出をやめた。フェランドに目をつけられそうな予感がしてきたからだ。
ブルーノやエルメリンダが「あとはお任せください」と請け合ってくれたので、後の心配はしていない。
キザな言い方をすれば、種は蒔いたってとこだな。
「こんな人材が身近にいたのに、見向きもしなかったとは。前の私はなんて勿体ない真似をしたんだ」
人材といえば、ブルーノの息子だ。
アレッシオ=ブルーノ。
入浴後の腹筋チラ見せの立ち絵が好み過ぎて、『俺』を沼に落としかけたキャラ。
あの男を雇えないだろうか? だって今なら、嫌われてはいない。
この頃は何をしているのだろう。使用人の名前を覚えるためにもらったリストには、とうに知っているブルーノのプロフィールはなかった。
家族構成を尋ねるまでは、普通にできると思う。
ただ、いざアレッシオの近況を聞けるとなったら、俺、変なテンションになりそうなんだよな。
悪役坊ちゃん時代、俺はプロのお姉さんを買って遊んだりもしていた。あの頃は間違いなく異性愛者だったのである。
それが今はとても怪しい。
アレッシオと顔を合わせた時、平静でいられる自信がない。
訊くに訊けないまま月日が経ち、ちょっとした事件が起きた。
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