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分岐点
7. 新たな家族 -sideイレーネ
しおりを挟む自慢ではないけれど、わたくしは人より美しい容姿を持って生まれた。物心つく頃から子持ちになった今でも、大抵の人々はわたくしの美しさを褒め称えてくれる。
そんなわたくしがいわゆる鼻持ちならない女に育たずに済んだのは、ひとえにお母様の薫陶のおかげだった。
『いい気になって傲慢にふるまっても、良いことなど何もないのですよ。身の丈に合った幸福が一番なのです』
わたくしの顔はお母様似だ。お母様自身、その美貌で大層苦労なさってきたらしく、わたくしは常にその教えを守ってきた。
口さがない方々は、お母様と並んだお父様を「顔も能力も十人並みの平凡男」とバカにするけれど、お父様とお母様はとても仲睦まじくて、わたくしはお二人が大好きだった。
両親がわたくしに用意してくれた嫁ぎ先にも不満はなかった。同じ子爵家で、夫は穏やかで誠実で、わたくしを大切にしてくださる方だった。
とても幸せだった。
ジルベルトが生まれ、ますます幸せになった。
ところが、平穏で幸福な日々はあっという間に崩れ去る。
夫が騙されて、借金を背負わされたのだ。
使用人が一人、また一人と辞めていき、そのたびに家の中のものが減っていった。借金返済に使われたのか、使用人の退職金なのかは判然としなかった。
食費を切りつめ、服も一部を除いて手放した。不幸は立て続けに訪れ、わたくしの両親が馬車の事故でいっぺんに亡くなってしまい、夫の実家からは絶縁され、どこからの援助も期待できなくなった。
暮らしはさらに貧しくなり、わたくしは慣れない家事に四苦八苦。いつもお腹をすかせている幼い息子ばかりを気にして、金策に駆けずり回る夫の異変に気付くのが遅れてしまった。
夫は無理が祟って倒れてしまった。
ジルベルトには、「お父様はお風邪が重くなってしまったの」と説明したけれど、本当は違う。
涙が涸れ果てるほど泣き尽くし、顔を上げれば、何ら改善されていない現実が容赦なく目の前にあった。
泣こうが喚こうが、わたくしは幼い息子と、夫の遺した負債を抱え、どうにか生きていかねばならないのだ。
この国の法では、男子のみが継承権を持ち、成人年齢である十六歳の誕生日を迎えるまで、正式に爵位を継ぐことはできなかった。
亡き夫の子爵位が宙に浮いた状態で、その場合にどうするのが最善なのか、どうしなければいけないのか、わたくしにはまったく知識がなかった。
そういえば領地はどうなっているのだろう。執事が辞めてしまう前にちゃんと訊いておけばよかった。
わたくしは女主人として役立たずこの上なかった。
去っていった人々と入れ替わりに、ハイエナが寄ってくる。
弱った獲物に、資産家の男が援助の話を持ちかけてきた。
ギラついた欲望を隠さない男で、援助をしてやる代わりに、わたくしに愛人になれと要求してきた。
最初は断っていたけれど、次第に心が揺らいでいった。
そのうち落ちるだろうと確信している、あの厭らしいニヤニヤ笑いをひっぱたいてやりたかったけれど、この窮状を抜け出すすべがない。
お腹がすいてつらいでしょうに、一度も文句を言わない我が子。
健気に笑って、わたくしを励ましてくれる。
この子を守りたいのに。そのためには、あの下劣な男に縋るしかないの……?
悩みに悩み抜いていたある日、とんでもない人物からの使いが訪れた。
フェランド=ロッソ―――ロッソ伯爵。ご婦人達の間で絶大な人気を誇る若き伯爵。亡き夫も「少し言葉を交わしたことがあるけれど素晴らしい人物だよ」と憧れをこめて語っていた。
そのような御方が、わたくしに話があるという。
委縮するわたくしを、使いの人物は立派な馬車のもとまで案内してくれた。
黒で統一されて装飾も最低限だけれど、貴族の乗り物とひと目でわかる馬車だ。
その馬車の中にいる人物こそ、ロッソ伯爵だった。
噂に違わぬ、いかにも優雅で、物語の王子様のような殿方に、わたくしはますます委縮した。
そんなわたくしに、伯爵はふわりと緊張をほぐすような笑みを浮かべ、亡き夫との関わりを話してくれた。
聞けば、なんとロッソ伯爵は学生時代、夫の後輩だったらしい。
卒業してから交流はなかったものの、我が家に降りかかった不幸を気にかけてくれていたそうだ。
「私の息子も、母親を亡くしてね。どうだろう、その子の母親になってもらえないか? もちろん、ジルベルト君も正式に養子として迎えよう」
……夢だろうか?
それとも、罠?
わたくしは差し出された手を取った。
これを逃せば、次はもうないわ……!
あの下劣な男は決してジルベルトを大切にはしないでしょうし、わたくしだって飽きたらポイに決まっているもの。
もちろん飛びつくなんて不作法な真似はしなかった。そんながっついた態度を前面に出したら、撤回されてしまうではないの。
貞淑な女らしく、きちんと悩んだ姿を見せた上でお受けした。
そうして、わたくしの再教育が始まった。
子爵家と伯爵家では受けてきた教育がまるで違うし、わたくしはここ何年か平民に近い暮らしをしていたから、短期間でさまざまなことを詰め込まねばならない授業はとても厳しいものになった。
けれどわたくしは表向き優雅に、内心では死ぬ気で食らいついた。その甲斐あって先生方には、割とすんなり褒めていただけた。
「生来のものかしら。気品がおありですし、呑み込みも早いですわね」
伯爵は教師だけでなく、生活費や使用人も手配してくださり、わたくし達の生活は以前より―――夫が借金を作る前よりも向上した。
だからといって亡き夫への愛情を忘れたわけではない。どんなに転落しても、あの人は最期まで優しかったし、お酒に溺れたりもしなかった。
ロッソ伯爵の妻になり、ジルベルトの養子縁組が終われば、浮いていた子爵位と領地は国へお返しし、わたくしは法的にあの人との縁が切れることになる。その後、元夫側の血縁に該当者がいれば、その方が子爵位を継ぎ、いなければ別の方に与えられるのでしょう。
けれど、わたくしはあの人が大切で、あの人との間に生まれた息子を心から愛している。
同時に、大変な時に手を差し伸べてくださった伯爵にとても感謝しているの。
どれもわたくしにとって大切な想いであり、誰に対しても恥じることなどないわ。
第一、いつまでも感傷に浸っていたって、お腹はふくれないのよ!
……とは思ったものの、やっぱり早まったかしら……。
まるでお城のようなロッソ伯爵邸を前に、ゴクリと喉を鳴らしていた。
この道を進むしかないと思い切って来たけれど、こんなに大きなお城の女主人なんて、わたくしにつとまるの?
それに、跡継ぎ息子の、オルフェオ様。
ロッソ伯爵……旦那様は「少々我が儘に育ってしまってね」と苦笑しておられたけれど、どんな方なのかしら……?
わたくしもジルベルトも、行儀作法にお勉強にと忙しくて、あまりお話を聞けなかったのよね。
ジルベルトには何度か「お兄様が出来るのよ。いつかお母様と一緒にご挨拶しましょうね」とだけ言ってあるけれど、同年代の子供達と触れ合う機会があまりにもなかったこの子は、果たして兄弟というものをどこまで理解できているのかしら?
オルフェオ様は、歓迎してくださるかしら?
この子と仲良くなってくださるかしら?
わたくしは伯爵夫人としてきちんとやっていけるかしら?
この後は皆で朝食を、と言われているけれど、食べ物が喉を通らないかもしれないわ……。
そんな不安と緊張を、オルフェオ様との出会いは一気に吹き飛ばした。
初めてお会いしたオルフェオ様は、艶やかでサラリと真っすぐな赤毛に赤い瞳の、ルビーのように印象的な容姿のお子様だった。
亜麻色の髪に青灰色の瞳の旦那様とは、ご容姿の系統が全く異なる。
鮮烈な赤は、気性の激しさ、きつい性格をイメージさせ、だから一瞬、旦那様が仰っていた通りの我が儘少年なのかしらと、身構えそうになったのだけれど……。
「どうした、オルフェ? 挨拶をしなさい」
「……申し訳ありません、父上。まさか自分に、新しい母と、弟ができるなんて……今初めて、聞きましたので……」
「それがどうかしたか?」
は?
……旦那様?
今、なんと仰ったの?
オルフェオ様のお顔から、どんどん血の気が引いていった。
え?
―――えええええ!?
わたくし達のこと、今の今まで、まるでご存知なかったの!?
ご冗談でしょう!?
「幼いおまえには母親が必要と思ったのでな」
ちょ、っっっとお待ちになって旦那様!?
オルフェオ様のお顔色がどんどん悪化してますわよ!?
「子の母親になって欲しい」は、お子様連れの殿方の定番口説き文句と承知しておりますけれど、お子様本人にそれを仰るのは微妙ではありませんこと!?
「オルフェ。挨拶をしなさいと言ったろう? いくら身内になる女性でも、礼儀はきちんと示さないか」
「……失礼しました。イレーネ様」
「そのような他人行儀な呼び方をせず、義母上と呼びなさい、オルフェ」
「あ、あの、旦那様、わたくしはよいのです! オルフェ様、とお呼びしていいかしら?」
あ、つい愛称でお呼びしてしまったわ。
おまけに夫の言葉を遮るなんて、本来ならしてはいけないのだけれど……!
「混乱なさるのは無理もないと思いますの。どうか、あなた様の呼びやすいように呼んでくださいましね」
「まったく……すまないイレーネ。この子は人見知りではなかったはずなのだが」
……完璧な笑顔を心掛けていたのに、顔が引きつりそうになってしまったわ。
なんてこと。なんてことなの。
この方って――こんな方だったの?
お子様に手を焼きつつも、大切に想っていらっしゃるお優しいお父様なのだとばかり……だって噂ではそう聞いていたし、先生方だって……だけど、これは―――。
オルフェオ様は朝食を辞退された。当然よね。わたくしもこの方のお立場だったら、全力で遠慮させていただくもの。
なのに旦那様は、ほんの少し不機嫌そうに、オルフェオ様の『我が儘』を咎めた。
オルフェオ様の握りしめた拳が、かすかに震えている。
……まだ十歳にも満たないお子様に、こんな表情をさせてしまうなんて。
旦那様だけではない。これはわたくしの咎でもあるわ……。
なのにオルフェオ様は、いきなり湧いた継母なんかにお優しい言葉をかけ、ぎこちないけれど、わたくしの天使にも微笑みかけてくださった。
恥ずかしそうにわたくしのドレスに隠れるジルベルトの、可愛らしいことといったら。
この子がこんなに嬉しそうなのはいつぶりかしら?
使用人達も、あまりの愛らしさについ笑みがこぼれているわ。
「体調が思わしくないなら部屋に戻って休みなさい。ブルーノ、オルフェの家庭教師にキャンセルの連絡を。では行こうか、イレーネ」
「……はい、旦那様。オルフェ様、お大事になさってね」
「はい。ありがとうございます」
きっと頑張って笑顔を見せてくださったであろうご子息様に、もう旦那様の視線は向いていない。
それどころか、先ほどのやりとりなど何もなかったかのように、わたくしにのみ甘い笑顔を向けてこられて、逆に胸の内側がすう、と冷めるのを感じた。
前の奥様の喪中に逢瀬を繰り返すなんて外聞が悪いから、わたくし達の間にはほんの数回、短い時間しか交流がなかった。
その程度で、殿方の本性なんて読み切れはしないということね……。
王子様から見初められる夢に、心をときめかせるお嬢さんはきっと多いのでしょう。けれどわたくしは、どんなに言葉を飾っても世間的には子連れの未亡人であり、伯爵夫人として恥ずかしくない最低限の教養を身につけねばならない現実がまず先に見えていたから、ロマンスに胸を高鳴らせる余裕などなかった。
それよりもただ感謝の気持ちばかり強く、ともに過ごす内にいずれ夫婦としての愛情が芽生えるのかしら、ぐらいには思っていたけれど。
余裕がなかったおかげでその程度に留まり、妙な期待を拗らせずに済んだのは幸いだったわね。
感謝いたしますわ、旦那様。
わたくしあなた様のおかげで、浮つくことなく、完璧な伯爵夫人を目指せそうです。
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