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第5章 皇帝編

第177話 混迷する中東(1) ~エルサレム陥落~

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 中東のアイユーブ朝は、スルターンが亡くなる度に兄弟相続により分割され、その後の兄弟同士の覇権争いにより弱体化することを繰り返していた。

 第5回十字軍によるダミエッタ包囲戦のさなか、アル=アーディルがカイロで没し、アル=カーミルがスターンを相続したときも彼の息子たちが領土を分割して相続し、アル=カーミルがエジプト、アル=ムアッザムがダマスカス、アル=アシュラフがメソポタミアを支配した。
 そしてホムス、ハマー、イエメンにはアーディル一族以外のアイユーブ家の人間が割拠していた

 そして時は過ぎ、コルテヌオーヴァの戦いの翌年、アイユーブ朝のアル=カーミルが没し、この際も、息子のアッ=サーリフとアル=アーディルⅡ世の兄弟によって国土が分割された。
 ヒスン・カイファーのサーリフはカイロでスルターンを称した弟のアーディルとエジプトの支配を巡って争った。

 その年の12月にサーリフはダマスカスを占領するが、翌年9月にダマスカスはアル=アシュラフの弟アッ=サーリフ・イスマーイールに奪回され、アーディルの逮捕を阻もうとするカラクのムアッザムの跡を継いだアル=ナースィル・ダーウードによって拘束される。

 また、翌年11月にダーウードはエルサレムに奇襲をかけ、町をイスラム勢力の手に回復する。

    ◆

 アル=カーミルのフィクサーを務めていた黒衣卿こと夜の魔女リリスは、彼の死後しばらく様子見をしていたが、スルターンを称したアーディルⅡ世の専横ぶりは目に余るものがあった。
 これにはエジプトの軍事司令官アミールたちも呆れていた。

 リリスは、サーリフを招聘しょうへいするよう軍事司令官アミールたちに助言するといったんエジプトを離れ、ナンツィヒのフリードリヒのもとに避難してきた。

 リリスはフリードリヒに愚痴ぐちをこぼした。
「まったくアイユーブ朝の奴らときたら兄弟や親戚どうして争いごとばかり…これでは国力を弱めるばかりで、全く頼りにならないわ。オゴディのもとで拡大を続けたモンゴルを見習って欲しいものね」
「兄弟相続ということをやるとどうしてもそういうことになってしまうものだ。それに代を重ねていくと一族としての意識も薄れていくからな…なかなか一枚岩という訳にはいかない。
 モンゴルもチンギス・ハーンの子供の代でこそ統一性を保っていたが、代を重ねれば難しくなっていくだろう。すでにその兆候も見えてきているしな…」

「ともかくアル=アーディルはダメね。もともと母親を通じてサーリフが王座を狙っているとカーミルに讒言ざんげんさせて承継権を剥奪はくだつさせるようなやからだから。軍事司令官アミールたちにも全く信頼されていないわ」

「サーミルはアイユーブ家の諸侯の間の様々な駆け引きに翻弄ほんろうされているようだが、彼が最終的にスルターンになると読んでいるのか?」
「彼は、勇敢かつ不屈の男よ。矜持きょうじと野望に結びついた極度な厳格さのために恐れられてもいるけれど、礼儀正しく品が良く、淫蕩いんとうや大言壮語とは無縁で、下品な言葉や冗談を好まない。アル=アーディルよりもよほどよくできた男よ」

「君がそこまで買っているならば、おそらくそうなるのだろうな…」

    ◆

 交渉の末、翌年にダーウードから解放されたサーリフは彼と同盟を結んだ。
 同時期にアーディルが軍事司令官アミールたちのクーデターにより廃位され、招聘しょうへいを受けたサーリフはエジプトへ乗り込みこれを掌握し、スルターンとして即位した。

 そして即位のごたごたが終わった頃、サーリフの私室を怪しい黒衣の人物が訪ねてきた。

 サーリフが誰何する。
「誰だ!?」
「黒衣卿といえばわかるかな」

「父上に仕えていたというあの黒衣卿か?」
「そうだ」

「それが今頃のこのこと現れて何の用だ?」
「あなたの父同様に力になってやろう」

「にわかには信用できないな。そのあかしはあるのか?」
「少なくともエジプトの軍事司令官アミールたちにあなたを招聘しょうへいするよう助言したのは私だ」

「なるほど。あのクーデターはそういうことだったか。ならば私の幕僚の1人に加えることとしよう」
「承知した」

    ◆

 スルターン即位後、サーリフはかつてのアーディルの支持者に報復を行い、ダマスカスのイスマーイールとの関係を改善したダーウードと対立した。
 これを受けて、サーリフ、イスマーイールらは、ライバルに対抗するため十字軍勢力との同盟を計画する。

 これに対抗して、ダーウードも他の競争者と同様に十字軍勢力に同盟を持ちかけ、同盟の条件としてエルサレムを十字軍に返還し、町からイスラムの宗教家を引き上げさせた。

    ◆

 翌年、サーリフはシリアに逃れたホラズム・シャー朝の遺民と連合して、エルサレムを攻略することを計画した。

 黒衣卿こと夜の魔女リリスは、サーリフに助言した。
「エルサレムはかつてアル=カーミルがそうしたように、キリスト教勢力との共同統治とし、ヨーロッパ諸国と敵対することを避けるべきだ。
 モンゴルの脅威が迫っている今、モンゴルとヨーロッパ諸国の2正面作戦となっては国が持たない」
「モンゴルが来るまでまだ猶予はある。その前に片付ければ済む話だ」

 高慢なところがあるサーリフは、結局リリスの助言を持つ耳をもたなかった。

 計画は実行に移され、エルサレムは包囲され、都市はあっけなく陥落の後、ホラズム遺民はエルサレムを完全に破壊し、キリスト教徒やイスラム教徒が利用できない廃墟にしたまま去った。

 このエルサレム攻囲戦は、キリスト教国とイスラム教国の間で大きな警鐘を鳴らす結果となった。

 エジプトのイスラム教国に対して防御を固めるため、アイユーブ朝から離反したホムスの総督アル・マンスール・イブラヒムとカラク城を統治するナースィル・ダーウードは、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団、聖ラザロ騎士団及びエルサレム王国の残存兵力と同盟した。

 2つの軍は、ラ・フォルビーの地で会合した。 同盟軍側では、アル・マンスールが2,000の騎兵隊とダマスカスからの分遣隊を指揮する立場に着いた。
 エルサレム総主教のナントのロバートやティルス領主でエルサレム王国の将校でもあったモンフォールのフィリップらもいたが、全てのキリスト教騎士団の指揮はヤッファとアスカロン伯国のブリエンヌ伯ゴーティエⅣ世に与えられた。

 キリスト教軍は1,000の騎兵隊と6,000の歩兵隊で構成されていた。
 トランスヨルダン人の軍はサンクール・アル・ザハリとアル・ワジリの指揮下に約2,000騎のベドウィン騎兵で構成された。

 一方、兵力でわずかに劣っていたエジプト軍は、マムルーク朝の将校バイバルスによって指揮された。

 アル・マンスールは主張した。
「同盟軍に彼らの陣の防備を固めて守勢をとり、不利な状況に置かれたホラズム軍が規律を乱して分散し、エジプト軍から去るのを待つべきだ」と薦めた。
 しかし、全体の指揮を執っていたゴーティエⅣ世は「十字軍国家ウトラメールにとっては珍しく兵力で優位に立っているという状況で、戦いを避ける必要はない」とこれを退けた。

 同盟軍の配置は、キリスト教軍が海岸沿いの右翼、ホムス総督とダマスカスの軍が中央、ベドウィンの軍が左翼へと布陣した。

    ◆

 戦闘初日は、朝に始まり、キリスト教騎士団が繰り返しエジプト軍を襲い、戦線を押し下げるべく奮戦した。エジプト軍は、陣地を死守した。

 翌日朝、バイバルスは戦闘を再開し、同盟軍の中央のダマスカス軍に対してホラズム傭兵を投入した。彼らの凄まじい攻撃によって戦線中央は崩壊し、次に彼らは同盟軍左翼へと転身し、ベドウィン軍をバラバラに切り刻んだ。
 総督隷下の騎兵は頑として戦線を保ったもののほとんどが全滅した。アル・マンスールは、わずかに生き残った全軍280人の生存者と、戦場から離脱した。

 正面のエジプト軍に加えて脇腹をホラズム傭兵に脅かされた状態に陥り、十字軍側は正面に向き合っているマムルーク軍を攻撃して最初は成功して戦線を押し戻し、バイバルスにわずかな不安をもたらした。

 ホラズム傭兵が組織されていない歩兵で守られたキリスト教軍の背面および側面に攻撃を仕掛けたことにより、彼らの強襲は徐々に勢いを失った。それでも充分に武装した騎士団は頑強に戦い続け、彼らの抵抗が衰えるにはなお数時間を要した。

 結局、5,000人以上の十字軍騎士が死亡した。ゴーティエⅣ世、聖ヨハネ騎士団の隊長だったシャトー・ヌフのウィリアム、トリポリの城主を含む800人の捕虜が連行された。
 騎士団の兵のうち、わずか33人のテンプル騎士団員、27人の聖ヨハネ騎士団員、3人のドイツ騎士団員だけが生き残った。
 モンフォールのフィリップとエルサレム総主教ナントのロバートもアシュケロンに逃げた。
 しかし、テンプル騎士団の総長アルマン・ド・ペリゴール、テンプル騎士団の元帥、ティルスの大司教、ロードとラムラの司教、バトラウンの領主でボエモンの息子ジョンとウィリアムらは全員死亡した。

 ラ・フォルビーの戦いは、十字軍国家ウトラメールでのキリスト教戦力の崩壊を真に決定付けることとなった。

 これにより、サーリフはエルサレムを再び支配下に置いた。

    ◆

 第1リヨン公会議で教皇インノケンティウスⅣ世は新たな第7回十字軍を召集したが、これに対する西欧の反応は、過去の陥落と比べて遥かに少なかった。

 神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒは、スエズ運河の利権の確保や黒衣卿との同盟もあり、アイユーブ朝との関係を悪化させたくなかった。

 イングランド王ヘンリーⅢ世もシモン・ド・モンフォールらの第二次バロンの乱の対応で忙しく、十字軍には関心を示さなかった。

 そもそも西欧は、第1回十字軍のころと比べて格段に豊かになっており、命や財産を失う危険を払ってまで聖地を取り戻そうとする宗教的情熱は人々の間から失われつつあった。

 しかし、後に列聖されるほど信心深かったフランス国王ルイⅨ世は、フランス単独での十字軍を起こすことを決めた。
「私はキリスト教の聖地が奪われた看過することはできない。これは教徒としての義務だ」

 母のブランシュはこれに反対する。
「何もフランスが単独で身を切る必要はないでしょう。これで国力を弱めたら、またイングランドの侵攻を許しかねません」

 重臣もブランシュに賛同する。
「ブランシュ様の言うとおりです。フランスが貧乏くじを引くことは目に見えています」
「それはちん矜持きょうじが許さない。誰が何と言おうと十字軍は決行する」

 そしてそれが更に中東の混迷を深刻にすることとなる。
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