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三十二話

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 やがて夏が過ぎ、秋の気配を感じる頃に、伊豆の施設は完成した。入居日が決まる頃には、物件は完売していた。
 ひとまずの落着を迎えると、紗英の心の奥底にしまい込んでいたものが顔を出す。
 これまでの人生で、なぜ甘えられなかったのか。どうしてクズ男に母親のように尽くしてしまうのか。
 記憶の中に、その根源はあった。
 へとへとになって仕事を終え、アパートの部屋に帰ると、ふと思い出す。
 あれは紗英が幼稚園の頃からすでに始まっていた。
 母親はとにかく紗英に手を貸さず、「なんでも自分でやりなさい」という躾け方をした。紗英が困っているときでも、悩んでいるときでも、母親は無視、または無言を貫いた。今思うと、それはネグレクトに近いのではないだろうか。
 紗英の周りの大人たちも、助けてくれる人はいなかった。紗英は必死で自分の問題を自分で解決し続けた。
 そのため成長すると、『なんでも自分でやる』という母親の理想通りの大人になった。誰も助けてくれないのだから、当然である。
 ところが、そんな紗英に近寄ってくるのは、自分ではなにもしないクズ男ばかり。
 なんでも面倒を見てくれる紗英に甘えてばかりで、なにもしてくれない男しか寄ってこないのは、当然の結果と言えるのかもしれない。
「なんでこうなったかな……」
 紗英は夕食の支度をしながら溜息をつく。
 問題は、『なんでも自分でやる』というスタンスを紗英自身が望んだわけではないというところだ。母親の方針だったので、そうならざるを得なかっただけである。
 ではなにもしなければいいのではとも思うが、子どもの頃から染みついた癖や、押さえつけられて形成された人格は、そう簡単に修正できない。
 再び溜息をついてタマネギを刻んでいると、電話が鳴った。
 もしかして悠司かもしれないと思い、スマホに飛びつく。
 だが、表示を確認すると、がっかりしてタップした。
「もしもし、お母さん? なに?」
 電話をかけてきたのは紗英の母親だった。
 母親は実家で父とふたり暮らしをしているが、紗英は滅多に実家へ行かないし、連絡も取らない。それというのも、子どもの頃は放任だった母親が、紗英が大人になると今度はあれこれと頼りにしてくるからだ。
『ねえ、紗英。茨城のおばあちゃんが具合悪いんだって。あなた、見てきてくれない? 今度の火曜日がいいそうよ』
「は? 私は平日は会社なんだけど。お母さんは仕事してないんだから、自分が行けばいいじゃない」
『お母さんだって具合が悪いのよ。会社休めないの?』
 紗英は深い溜息をついた。
 まるでクズ男たちと一緒である。こちらの都合など考えもせず、自分の都合のいいように紗英を使い倒すくせに、お礼はいっさい言わない。
「休めるわけないでしょ。お父さんに頼んでよ」
『あの人なんかダメよ。この間だって、お母さんがちょっと言っただけで――』
 母親の文句はしばらく続いた。ほかに愚痴を言う相手がいないのだろう。子どもの頃からこの調子なので、紗英はこの夫婦はどうして結婚したのだろうと不思議に思っている。娘である紗英に父親の悪口を言うなんて、教育上よくないとは考えないのだろうか。
 母親の文句が一段落すると、紗英は唐突に聞いた。
「お母さん、どうして私が子どもの頃になにもしてくれなかったの? 困ってるときとか、助けてほしかったのに」
 すると母親は、おもしろくなさそうな声で答えた。
『それは、強い子に育てたかったから……』
 確かに、紗英は強い子に育ったのだろう。甘え下手で、クズ男の面倒ばかり見て、なんでも自分で解決する強い子だ。
「じゃあ、なんで今頃になって、私にあれこれ頼むのよ。お母さんはなにもしてくれなかったくせに」
『だって、あなたがいると便利なんだもの』
 便利――。
 その言葉に、紗英は衝撃を受けた。
 物扱いなのだ。よくて、無料の家政婦といったところだろう。
 きっと母親のように、今までのクズ男たちも同じように思っていたに違いない。
 恋人なんかではない。彼らにとって紗英は、便利な道具だったのだ。
 道具だから、礼を言う必要なんてないし、壊れるまで使い倒して当然だと思っている。そして使えなくなったら、新しい道具に乗り換える。元カレの雅憲のやり方が、まさにそれだ。
 彼らの視点を知って、紗英は目が醒めた気がした。
 紗英は手にしていたスマホをゆっくり下ろした。
 スマホからは母親の『ねえ、それで、茨城には行けるの?』という声が聞こえてくる。
 呆然とした紗英は、キッチンへ向かう。
 夕食の用意をしている最中だったことを思い出した。
 私が悠司さんと恋人になったとしても、やっぱり彼をクズ男にしてしまうんじゃないかな……。
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