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四話

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 仕事中は忘れていたものの、終業時刻になったら、彼氏に浮気されてフラれたショックを一気に思い出してしまった。
 もう目の腫れは引いているが、心の傷はそう簡単には癒えそうにない。
「はあ……」
 溜息をついて、デスク周りを片付ける。
 このあとはひとり暮らしのアパートに帰って、彼氏と知らない女が使った自分のベッドにかけていたシーツや布団を洗濯して、彼氏が置いていた荷物を引き渡して、その代わりに渡していた合い鍵を返してもらい……。
 憂鬱な作業ばかりで気が滅入る。
 そんなとき、落ち込んでいる紗英の神経に爪を立てるかのような、甲高い声が耳に届いた。
「桐島課長、これから飲みに行きません?」
 さらさらしたストレートロングを揺らした木村だった。
 親しげに悠司の腕に、自らの腕を絡みつけて、胸を押しつけている。
 胸の谷間が見えるような際どいインナーは、わざとだろう。男性なら、ついそこに目がいってしまうのではないだろうか。
 だが無表情の悠司は木村から顔を背けている。
 絡みついている彼女の腕をさりげなくほどくと、彼はこう言った。
「俺はこれから、飲みの予定がある。木村さんはほかの人と行きたまえ」
 途端に木村から不平の声が上がった。
「え~? どんな飲み会ですか?」
 彼女の問いを無視して、悠司はこちらへやってきた。
 帰ろうとしてバッグを手にしていた紗英は思わず硬直する。
 え、まさか……私じゃないよね?
 悠司と飲みに行く予定など立てているはずがない。
 それなのに、まっすぐに紗英の前へ来た悠司は、爽やかな笑みを浮かべて言った。
「それじゃあ、海東さん。約束通り、ふたりで飲みに行こうか」
「は……い……?」
 いつ約束したというのか。まったく記憶にない。
 悠司の後ろを追いかけてきた木村が、縋りつくように声を上げた。
「海東さんと、ふたりきりで飲むんですか⁉ わたしもご一緒していいですよね。ねえ、海東さん」
「ええと……」
 その前に、悠司とふたりきりで飲む約束などしていないのだが。
 紗英が戸惑っている間に、悠司は木村へ向かって軽く手を上げた。
「仕事の話だ。木村さん、今日は遠慮してくれ」
 そう言われた木村は、ふて腐れたように唇を尖らせつつも、身を引いた。
 どうやら仕事の話があるようだ。
 今日起こった顧客トラブルのことか、もしくは契約件数についてだろうか。
 どちらにしろ、苦手な上司と酒を飲むなんて、楽しいわけがない。
 けれど断るわけにもいかなかった。
「では、行こうか。海東さん」
「はい……」
 悠司に促され、囚人の気分で紗英は彼についていった。

 タクシーに乗って辿り着いたのは、ラグジュアリーホテルだった。
 会社員の飲み会といえば居酒屋が定番なので、紗英は目を丸くする。
「あの、ここでいいんですか?」
「そうだよ。最上階のバーが俺のお気に入りでね。その前にレストランで食事しよう」
 壮麗な玄関前の車寄せにタクシーが停車すると、ホテルのドアマンが慇懃な礼をした。
 悠司が料金を支払うと、音もなくドアが開いたので、紗英は車から降りた。タクシーの料金は経費で落とすだろうから、紗英が財布を出さなくても問題ないだろう。
 悠司は車を降りると、紗英の手を取った。
 彼の手の熱さに、どきりと鼓動が跳ねる。
「海東さんが回転ドアを通れないと困るからね」
 冗談めかして言った彼はお辞儀するドアマンの脇を通り抜け、慣れた態度で回転ドアをくぐる。
 悠司に手を引かれた紗英も慌てて歩調を合わせ、回転ドアを通った。
 高級ホテルのロビーに入ると、そこには夢の城のような豪奢な空間が広がっていた。
 高い天井に煌めくシャンデリアが吊り下げられ、滝に似せた水が流れるオブジェが鎮座している。それらが磨き上げられた床に反射して、キラキラと輝きを放っていた。
 ゆったりとしたピアノ演奏が流れるロビーには、着飾った人々が瀟洒なソファに座っていた。
 豪勢な空間に圧倒されていると、悠司はロビーの奥にあるコンシェルジュデスクへ向かった。
 ホテルコンシェルジュとやり取りを済ませると、すぐに彼は遠くからピアノ演奏を眺めていた紗英のもとへ戻ってくる。
「レストランは六階だ。エレベーターを使おう」
「はい。あの……桐島課長」
 ピアノの音に紛れて、先ほどのことを訊ねようとしたが、軽く手を上げた悠司に制される。
「外では名前で呼んでほしい。俺の身分や会社のことは漏らしたくないのでね」
「わかりました。では……悠司さん」
「いいね。俺も、紗英と呼ぶから」
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