白熊皇帝と伝説の妃

沖田弥子

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婚姻の報せ 3

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 些末なことなのだ。純血の白熊種という絶対的な血族の絆の前には、ただの人間をつまみ食いしたという程度に、種族の格差は大きいことを思い知る。
 あれほど混雑していた控え室は人々が去ると、しんと静まり返る。
 レオニートはこちらに足をむけた。ユリアンに話をするのだと思われたが、レオニートは結羽の眼前に立ち、まっすぐに向き合う。
 
 思わず彼の顔を見上げてしまう。久しぶりに直視した紺碧の瞳は、希望の光に煌めいていた。
 その輝きにずきりと心臓が痛みを訴える。目を逸らしたい。けれどそれは、おめでとうございますと祝いの言葉を述べたあとだ。そう、ほんの少しの、我慢だ。

「聞いてのとおりだ。ルスラーン国王が信書に目を通すまでの、もう少しの間だけ待っていてほしい。すべて私に任せてくれ」

 自信に満ちたその態度に、結羽はレオニートが発した暗黙の了解を察知した。
 あの一夜のことは、アナスタシヤには黙っていてほしい。そういうことなのだ。
 レオニートは彼女の夫となるのだから、いずれ状況が落ち着いたら、自分から話すということなのだろう。今は大事な時期なのに、間男である結羽が動いて掻き乱していいわけがない。

「そうですね、レオニートに、お任せします」

 鸚鵡返しのような機械的な返答に、レオニートはわずかに双眸を眇めたが、それ以上なにも言わなかった。
 あの夜のことは生涯、結羽の胸に秘めなくてはならない。決して誰かに知られてはならないのだ。
 災いの素を口走ったりしないよう、礼をして素早く部屋を出る。ユリアンは皆が気になる婚姻の日について質問しているのを背中で聞いた。
 
 廊下を小走りで駆けながら、痛む心臓に手のひらを宛てて押さえる。
 おめでとうございます、と言えなかった。
 けれどいずれは口にしなければならない。
 言えるだろうか。今も、こんなにも心が乱れて、涙が溢れそうになっているというのに。
 
 自室に戻った結羽は扉を閉めて厳重に鍵をかけた。
 そこでもう、涙腺は決壊した。
 あとからあとから、滂沱の涙は流れ落ちる。
 僕は……愛する人の幸せを喜べないんだ……。
 レオニートがあんなにも幸福に満ち溢れているというのに、それを祝福することができない。
 自分はこんなにも狭量な人間だったのだ。情けなくて哀しくて、また涙は溢れてしまう。
 本当は、レオニートに結婚してほしくなかった。結羽だけを愛していると言ってほしい。もし白熊種に生まれていたならば、レオニートの妃になれるかもしれないという希望を持てたのに。
 心の奥から湧き上がる本心を、結羽は流れる涙と共に、今だけは解放した。
 
 好きだ、好きだ。
 深い紺碧の瞳、銀色に輝く髪、互いの手は氷上で固く繋がれていた。雄々しい唇に口づけられ、暖炉の灯りが照らす中で、ふたりの身体を繫いだ。
 今も滔々と放たれたレオニートの精が、身体の奥に残っているような気がする。
 結羽は扉に背をつけて蹲った。
 でも、分かっている。
 結ばれるはずなんてないと。
 始めから分かっているのだ。
 異世界からやってきた人間で平民の男。
 皇帝の妃になる対象であるはずがない。
 ただユリアンの恩人なので城に置いてもらっただけに過ぎない。レオニートが好意を見せてくれたのもきっと、恩人だからという理由なのだ。
 アナスタシヤこそが、レオニートの妃となって然るべきだ。

「僕が、伝説の妃のわけない……」

 もしかしたらと思った。異世界からやってきた自分は、皇国の危機を救うという伝説の妃の資格があるのではないかと。
 氷の花があれば、レオニートの妃になれるかもしれないと。
 ほんの少しだけ、心の片隅で期待した。
 現実として、そんなことがあるわけはないのだけれど。 
 別荘での夜、結羽はレオニートを心から愛し、彼に抱かれることを望んだ。レオニートも結羽に孤独を打ち明けてくれた。彼に情熱的に抱かれて、至上の悦びを味わった。
 けれどあの愛は、氷上の軌跡のようなものだったのだ。
 美しい軌跡は雪が降り、風に晒され、時間が経過すれば消えてしまう。
 
 そのような形の愛もあるのだ……。
 これから結羽にできることは、ふたりの婚姻を祝福することだけだ。そしてレオニートに抱かれた一夜を、永久に胸に秘めておくこと。
 状況は分かっているのに、感情を納得させることができず、嗚咽が込み上げる。
 結羽は初めての恋を封印する術を持たず、長い時間、ひとりで慟哭した。
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