獣人王と番の寵妃

沖田弥子

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天妃 2

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 天が牢獄にいたとき、灯籠流しが行われた川辺では様々なことが起こっていたのだ。
 白綸子に秋草が描かれた打掛に、金の刺繍が施された繻子の帯を締められる。纏め上げた髪には、宝玉と幾つもの金鎖が付いた歩揺が飾られた。
 大きな鏡台に映る華麗な姿は自分ではないようだ。瞬きを繰り返す天の傍に傅いたルカスは小さな盆を捧げた。天鵞絨の布が張られた盆は装身具を乗せるためのもので、そこには翡翠の欠片が千切れた革紐を纏わせながら置かれていた。

「あ……これは……」
「昨夜、お預かりいたしました。天妃さまにお返しするようにとの命にございます」

 刑務庭の上官に革紐を千切られてしまったが、宝玉自体は無事だ。エドが取り返して保管してくれたのだ。

「ありがとうございました。大事なものなので、いつも身につけているんです」

 天は翡翠の欠片をそっと両手で掬い上げると、胸元に大切に仕舞った。
 なぜあのとき、翡翠が光を放ったのだろうか。まるで天の危機を察知してくれたようだ。幼い頃に会った獣人は、困ったときには呼べと言っていた。
 翡翠にそのような力があるなんて未だに信じられないが、あの獣人は、もしかしたら……。
 そのとき戸口に現れた人物に目をむけた黎とルカスが、瞬時に膝を着いた。

「エド!」

 天の声が輝く。
 天と同じ白綸子の長袍という颯爽とした装いをしたエドは、笑顔の天を眼に映して微笑んだ。

「具合は良さそうだな。昨夜医師に診せたときも心配ないという所見だったが、安心した」

 エドは色々と天のために配慮してくれたのだ。喜びのまま礼を述べようとしたが、とあることが頭を過ぎる。
 天は、獣人王の寵妃に封じられた。
 寵妃は妃の位のなかでも、正妃に次ぐ高位だ。そして未だひとりの妃も娶らない獣人王の、唯一の妃となる。
 つまり、川辺で人目を忍んで会っていた状況と、なんら変わっていないのだ。エドと友人として堂々と接して良いものだろうか。
 戸惑いを見せた天に、エドは掌を差し伸べる。その仕草は気品に溢れていた。

「少し庭を散策しよう。体調が優れなければすぐに戻る」

 礼儀として彼の掌を取れば、すぐさま背を支えてくれた。同時にエドは、ルカスに向かって軽く頷く。供はいらないという合図だ。命令することに慣れた所作からは威厳と品位が感じられた。狼型の獣人でもある彼は、王族に名を連ねているのかもしれない。
 初めて見る妃のための宮殿は内部も素晴らしい装飾が施されていたが、庭園も落ち着いた趣のある並木道が造られていた。
 木漏れ日の射す路の狭間から、小鳥のさえずりが響く。近くに小川が流れているらしく、ささやかな水の音色が耳に届いた。

「……エド。あなたが、僕を寵妃に推してくださったのですか?」

 宴で無礼を働いた天を妃に指名するなんて、エドの後押しがなければ考えられないことだ。
エドは美しく着飾った天に目を細めながら頷いた。

「封号を得れば、王の許可無く刑罰を与えることはできなくなる。私はこれまで、ふたりだけの秘密を共有することを楽しむばかりで、天の置かれた立場を考えてやれなかった。そのために悲劇を招いてしまい、とてもすまないと思っている。二度とあのような怖い思いはさせないから安心してくれ」

 天は首を横に振る。助けてくれたことは本当に嬉しい。罪を赦されたばかりか、妃の位を賜ったこともとてつもない僥倖だ。
 けれど、エドの立場が心配だった。天には朝廷や軍のことなどなにも分からないが、獣人の官位争いも熾烈だと耳にする。

「でも、エドは大丈夫なのですか? 僕のことで、あなたの立場は悪くなりませんか」
「案ずるな。私のほうは問題ない。昨日は意識を失ったからとても心配した。天がもっと自分の身を慮れば、私の憂慮もひとつ減るのだが?」

 悪戯めいた瞳をむけられて、天の胸は甘く切なく引き絞られる。
 湯船に入れてくれたことは、夢ではなかったのだ。そして彼は確かに、天のうなじを噛みたいと望んでくれた。
 けれど、ふたりが運命の番になることは決してない。
 エドは獣人王バシリオの忠実な側近なのだ。王の妃を奪うことは、彼にとって失脚を意味する。
 寵妃の官位を得た喜びは湧いてこなかった。それどころか、王の妃になればよりエドが遠くなってしまうと、ひどく心が重くなる。
 皆が憧れる妃に冊封されたというのに、自分はなんという贅沢者だろうか。
 俯いた天の髪に挿した歩揺が、しゃらりと涼やかな音色を奏でた。エドは指先で金の鎖を掻き分け、黒鳶色の瞳を覗き込む。

「また思い悩んでいるな。天の悩みは私の憂慮だ。おまえを悩ませているものはなんだ? 寵妃の位では不満足だったか?」
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